第11話 声を聞いていた
測定室を出ても、白い石の匂いが喉の奥に残っていた。
ノア・クロウは廊下へ出て、ようやく大きく息を吐いた。北棟の廊下は測定室ほど明るくない。白い石壁は同じだが、窓から差し込む午後の光が少し柔らかく、魔力灯の光も弱い。遠くでは他の科の新入生たちがざわめき、測定結果について興奮した声で話している。
誰の魔力量が高かった。
誰の聖魔法が綺麗だった。
誰が水晶を揺らした。
誰の適性が予想外だった。
そして、黒魔法科の平民が水晶柱を黒く染めた。
声は小さく抑えられている。けれど、聞こえないわけではない。視線も同じだった。遠巻きにこちらを見て、目が合いそうになると逸らす。恐れているのか、興味があるのか、欲望なのか、警戒なのか。混ざりすぎていて分類するのも面倒だった。
ノアは肩をすくめた。
「いやー、人気者は大変だな。水晶柱より俺の方が観察対象になってる」
隣を歩いていたマルクが、眼鏡を押し上げた。
「君、あれだけの測定結果を出して、よくそんな軽いことを言えるね」
「重く言ったら水晶が直る?」
「直らないけど」
「じゃあ軽く言っとく。俺、報告書回避したし。勝利」
マルクは呆れたように息を吐いた。
サナは後ろで腕を組み、まだ測定室の方を睨むように見ていた。
「あんた、隠してたでしょ」
「何を?」
「あの黒魔法」
「見せたら周囲がこうなるって、今まさに実証されたからな。俺は学習能力が高いんですー」
「軽い」
「重いのは王子様担当だから」
言ってから、ノアは少しだけ口を閉じた。
自分で振った名前なのに、喉の奥がわずかに詰まる。レオ・アステルレインは、少し離れた場所で聖魔法科の生徒たちに囲まれていた。相変わらず穏やかに応じている。周囲から祝福や感嘆の言葉を向けられ、完璧な笑みで返している。
けれど、時々こちらを見る。
誰にも気づかれないほど短く。
ノアには分かる。
分かりたくないのに分かる。
その視線は、ノアの顔でも制服でも黒魔法科の印でもなく、もっと別の場所へ触れている。声の余韻。喉元。さっき、水を飲んだ時に掠れた音。セドリックへ返した言葉の温度。
思い出すな。
ノアはわざと首を回した。
「うーん、肩凝った。白い部屋って精神的に凝る」
「白い部屋で肩が凝るの?」
「白って圧があるだろ。全部見られてますって顔してる」
マルクは少し考えてから、真面目に頷いた。
「確かに、測定室は緊張する」
「真面目な子だな。黒魔法科の良心として頑張ってくれ」
「君は?」
「俺は黒魔法科の問題児枠で。役割分担、大事」
その時、背後から低い声がかかった。
「ノア・クロウ」
ノアは振り返った。
黒魔法科教師、セドリック・バロウズが立っていた。
黒いローブは測定室の白い廊下でよく目立つ。痩せた長身、鋭い目、淡々とした声。入学式や食堂にいた教師たちとは空気が違う。生徒を慰めるための柔らかさはないが、無闇に怖がらせるための威圧もない。刃物を布で包まず、そのまま机に置いているような男だった。
ノアは軽く片手を上げた。
「はい、黒魔法科の平民です。追加の報告書ですか?」
「違う」
「よかった。入学二日目で書類地獄は早すぎる」
「君の測定結果について話がある」
マルクとサナが、さっと視線を逸らした。巻き込まれたくないらしい。賢い。人間、危険な会話からは距離を取るに限る。
ノアはにこりと笑った。
「補習? 俺、入学早々そんなに愛されてる?」
「愛ではなく監督だ」
「言い方がもう怖い」
セドリックはまったく表情を変えなかった。
「君の制御力は高い。表層だけを見せて、水晶柱の深部測定を拒んだ。あれは偶然ではない」
「先生、初日から生徒の秘密を暴く趣味?」
「黒魔法科教師として当然の確認だ」
「職務熱心って便利な言葉だなー」
「便利ではない。必要だ」
ノアは廊下の壁にもたれた。
白い石が背中に冷たい。
遠くで、レオの笑う声が聞こえた。低く、穏やかで、少しだけ柔らかい。聖魔法科の誰かに答えているのだろう。ノアはそちらを見なかった。
セドリックは言葉を続けた。
「君の黒魔法式には、古代ノクスヴェルト式に似た歪みがあった」
ノアの笑みが、ほんの少しだけ止まりかけた。
止めなかった。
ノクスヴェルト。
その名前を、現世の学院教師の口から聞くと、首元に冷たいものが走る。歴史上の王国名だ。古い黒魔法体系の一つとして資料にも残っている。学院の教本にも断片的に載っているだろう。
だから、知っていても不自然ではない。
不自然ではないのに、喉の奥が少し詰まった。
「古代式? 俺、そんな高級骨董みたいな魔法使ってました?」
「似ていると言った。完全に同じではない。むしろ、古代式のさらに奥を無理に閉じたような反応だった」
「先生、言い回しが怖い。黒魔法科ってもっと明るい授業ないの?」
「ない」
「即答」
「君は、自分の魔法の深度をどこまで認識している」
ノアは笑った。
教師相手の軽口ではなく、少しだけ温度を落とした声だった。
「自分が何をしたら危ないかくらいは」
セドリックの目が、わずかに細くなった。
「なら、普段から相当抑えているな」
「平和主義なので」
「嘘をつくな」
「先生、初対面から生徒の人格を信用しなさすぎ」
「信用の問題ではない。黒魔法は、抑えれば消えるものではない。押し込めすぎれば、別の場所で歪む」
「ありがたい忠告として受け取っておきますー」
「個別指導を入れる」
ノアは片眉を上げた。
「決定事項?」
「提案だ」
「提案の顔してなかった」
「拒否はできる。ただし、拒否した場合は学院長へ報告する」
「脅迫の顔してきた」
「監督だ」
「便利だな、その言葉」
セドリックは、少しだけ息を吐いた。
呆れたのか、疲れたのか、判断しにくい息だった。
「君は茶化すことで距離を取る」
「先生、黒魔法じゃなくて心理学の授業も担当してる?」
「必要なら」
「いらないですー」
「個別指導は、週二回。放課後に黒魔法科実習室で行う。君が本当に危険なら、放置はできない」
「危険じゃなかった場合は?」
「才能の伸ばし方を考える」
「愛じゃなくて監督にしては、ちょっと親切だな」
「黒魔法科の生徒を無駄に潰す趣味はない」
ノアは、少しだけ黙った。
その言葉は、意外だった。
黒魔法科は嫌われやすい。怖がられやすい。危険視されやすい。学院に入ってもそれは変わらない。隔離と配慮の境界で扱われることには慣れている。
だが、セドリックの声には、恐怖だけではないものがあった。
監督。
警戒。
同時に、才能を捨てないための冷静さ。
ノアは目を伏せ、すぐ笑った。
「先生、そういうこと言うと、ほんの少しだけ印象よくなりますよ」
「それは困るな」
「困るんだ」
「生徒に懐かれると面倒だ」
「大丈夫。俺、猫じゃないので」
「君は猫より厄介そうだ」
「初日から評価がひどい」
セドリックは、そこでわずかに口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
ノアは少しだけ目を丸くし、すぐに笑い返した。
「補習、じゃなくて個別指導。考えときます」
「明日までに返事をしろ」
「早い。先生、せっかち」
「黒魔法の歪みは待たない」
「怖い締め方するなー」
セドリックはそれ以上言わず、廊下を去っていった。
黒いローブの背中が角を曲がるまで、ノアは白い壁にもたれたまま見送った。喉の奥に、さっきの言葉が残っている。
古代ノクスヴェルト式に似た歪み。
押し込めすぎれば、別の場所で歪む。
黒魔導書の頁の影。
まだ終わっていない、と囁く声。
ノアは息を吐いた。
「いやー、学園生活って思ってたより健康に悪いな」
軽く言った。
軽くした。
その時、遠くの視線に気づいた。
レオがこちらを見ていた。
聖魔法科の生徒たちに囲まれたまま、穏やかに微笑んでいる。周囲には何も悟らせていない。だが、その碧い目はノアから離れていなかった。
聞いていた。
全部ではなくても、少なくとも声は。
ノアがセドリックへ向けた声を。
茶化した声。
少し温度を落とした声。
古代ノクスヴェルト式の話に、ほんのわずか反応した声。
教師の言葉に、軽口を返しながらも逃げきれなかった声。
レオの指先に、白金の魔力が小さく灯った。
すぐに消える。
ノアはそれを見て、笑った。
笑うしかない。
魔法適性測定の後の一日は、やけに長かった。
黒魔法科の基礎説明、学院内の施設案内、図書館の使用規則、魔法実習時の安全規定。どれも必要なのだろうが、初日から詰め込みすぎだ。学院は新入生を育てたいのか、書類と規則で圧殺したいのか分からない。たぶん両方だ。人類、教育という名でよくここまで詰め込む。
ノアは一日中、レオの視線を感じていた。
食堂で、ノアがマルクと話した時。
サナの辛辣な一言に笑った時。
セドリックから個別指導の日程表を渡された時。
レオは遠くにいても、気づいているようだった。
見ている、というより、聞いている。
ノアの声がどこへ向かうかを。
誰に軽く返すかを。
誰へ少し低くなるかを。
誰の名前に反応して、喉が詰まりかけるかを。
気のせいだと思いたかった。
思いたいことばかり増えていく。世の中、願望で動いてくれれば楽なのに、現実はいつも無駄に勤勉だ。
夜。
三〇七号室の扉が閉まると、廊下のざわめきは遠ざかった。
部屋には魔力灯の淡い光が落ちている。窓の外では中庭の木々が夜風に揺れ、遠くの塔の時計が低い音を鳴らした。二つの机、二つの寝台、小卓の水差し。昨日と同じ部屋なのに、空気は少し違っていた。
ノアは上着を椅子へかけ、わざと明るい声で言った。
「いやー、学院って初日から人使い荒いな。平民の体力を何だと思ってるんだ」
レオは自分の机で本を閉じた。
「疲れた?」
「王子様の前で疲れたって言ったら、また水と喉チェックが出てきそうだから言わない」
「出すよ」
「言わなくても出すんじゃん」
「必要なら」
「必要判定が甘い」
レオは立ち上がり、小卓の水差しを見た。
ノアはすぐに手を上げた。
「待て。今は喉渇いてない」
「分かった」
「本当に?」
「今は」
「その今は、って語尾、寮則で禁止にしない?」
レオは少しだけ笑った。
その笑みは穏やかだった。
だが、ノアは昼間からその穏やかさの内側を感じていた。静かで、深くて、少しずつ逃げ場を測っているようなもの。怒鳴らない。問い詰めない。けれど、覚えている。
レオは何気ない調子で言った。
「今日、セドリック先生と話していたね」
来た。
ノアは心の中で、やっぱりな、と思った。
口に出したのは別の言葉だった。
「学園生活って先生と話すイベント込みじゃないの?」
「補習の話?」
「個別指導ですー。愛ではなく監督らしいですー」
「そう」
短い返事だった。
それが逆に怖い。
レオは窓辺へ移動し、夜の中庭を一度見た。外を見ているのに、声はノアへ向いている。
「君の声が、少し違った」
ノアは椅子の背にかけた上着を直すふりをした。
「声色チェック機能ついてる? 怖いな王子様」
「セドリック先生と話す時、最初は軽かった」
「俺、だいたい軽いだろ」
「途中で低くなった。古代ノクスヴェルト式の話をされた時」
ノアの指が、上着の布を軽く握った。
レオは見ていないはずだった。
それでも、気づかれている気がした。
「その後、個別指導の話で、少し真面目になった」
「教師相手だからな。俺だって一応、品行方正な新入生ですし」
「品行方正な声ではなかったよ」
「何その判定。声に成績つけるな」
「君が誰にどんな声を向けたか、僕は覚えているよ」
ノアは笑った。
笑ったまま、胸の奥が冷えた。
その言葉は、所有に近かった。
まだはっきり奪われてはいない。縛られてもいない。赤い糸も見えていない。首輪もない。けれど、レオの言葉は、ノアの声を一つずつ棚に入れていくようだった。
軽い声。
真面目な声。
低い声。
掠れた声。
誰に向けたか。
どんな時に出たか。
何に反応したか。
全部、覚える。
全部、自分のもののように。
「王子様、記憶力の使い道が怖い」
「怖い?」
「怖い。普通に怖い。せめて試験勉強に使え」
「君の声の方が大事だから」
「はい重い。今の、鞄に詰めたら底抜ける重さ」
「ノア」
「名前呼んでも軽くならないぞ」
「君が笑う声は、よく響く」
レオの声は穏やかだった。
「誰かを茶化す時の声は少し高い。嘘をつく時は軽くなる。真面目に考えている時は低くなる。喉が痛い時は、語尾が少し落ちる」
「観察記録を発表するな」
「セドリック先生に向けた声は、少し低かった」
「先生だからな」
「僕に向ける声とは違った」
「当たり前だろ。お前は先生じゃない」
「うん」
レオは微笑んだ。
「僕は先生ではない」
その言い方が、よくなかった。
ノアは軽口で返そうとした。
けれど、喉の奥に熱が触れた。
見えない糸が、ほんの少し声帯の周囲を撫でるような感覚。白金の魂糸の予兆。喉そのものではなく、声の振動に触れようとする気配だった。
ノアは顔を上げた。
「今、何かした?」
「少しだけ」
「少しだけ、が危険物の単位なんだよな、お前の場合」
「君の声が揺れたから」
「揺れたら触っていい法律、どこにある?」
「ない」
「分かってるならやめろ」
白金の気配が引いた。
けれど、喉元には糸が触れたような違和感が残った。
ノアは指で首を押さえそうになり、途中で止めた。触ったら、そこに何かがあると認めることになる気がした。
レオの目が、その手の動きを見ていた。
「嫌だった?」
「嫌だよ」
ノアの声は、少し低かった。
軽口の温度が落ちた。
「自分の声くらい、自分で出させろ」
レオは黙った。
部屋の空気が冷える。
ノアは笑い直そうとした。だが、うまくいかなかった。笑えはする。笑うだけなら得意だ。けれど今、軽くしすぎると、何かを踏み越えられる気がした。
だから、少しだけ低いまま続けた。
「レオ。声まで数えるな」
レオの表情は変わらなかった。
けれど、碧い目の奥が揺れた。
「数えているわけじゃない」
「覚えてるって言った」
「覚えてしまう」
「同じだろ」
「違うよ」
「違わない」
レオは、ゆっくり息を吐いた。
「僕は、君の声で君がどこにいるか分かる」
ノアは黙った。
「軽くして逃げている時。真面目になりかけて、すぐ戻した時。痛いのに、平気なふりをしている時。助けを求めそうになって、別の言葉に変えた時」
「……やめろ」
「やめたい」
「じゃあやめろ」
「でも、また聞き逃したら」
レオの声が、そこでほんの少しだけ薄くなった。
薄く、冷たく、古い傷のようになった。
「君が、また何も言わずに行くなら」
ノアの胸に、黒い荒野がよぎった。
白金の光。
冷えていく身体。
世界中の歓声。
最後の笑み。
言わなかった。
助けてとは言わなかった。
愛しているとも言わなかった。
それが誰の記憶なのか、まだ認めていない。認めていないのに、胸が痛む。馬鹿げている。前世の感情で現世の胸が痛むなんて、仕様として欠陥が多い。
ノアは、わざと笑った。
今度は少し掠れた。
「王子様、夜に重い話するの禁止。俺の安眠が逃げる」
「眠れる?」
「寝る。意地でも寝る。寝つきの悪さまでお前に所有されたらたまらない」
「所有」
「違うって言いたいなら、今だぞ」
レオは黙った。
ノアは額を押さえた。
「言えよ」
「言えない」
「正直で最悪」
「ごめん」
「謝罪も重い」
それでも、レオはそれ以上近づかなかった。
白金の魂糸の気配も消えていた。ノアの喉元に残った違和感だけが、しばらく熱を持っていた。
その夜、ノアは眠るまで何度も水を飲んだ。
レオは見ていた。
何も言わなかった。
言わないのに、全部聞いている気がした。
翌朝、ノアは喉の違和感で目を覚ました。
夢は見なかった。
少なくとも、はっきりとは覚えていない。
窓の外は明るく、寮の中庭に朝の光が落ちていた。鳥の声がする。魔力灯はすでに消えかけ、部屋の白い壁が柔らかく照らされている。
向かいの寝台は、もう整えられていた。
レオは机のそばに立っている。制服も髪も完璧だ。朝から完成度が高すぎる。人間として自然ではない。いや、貴族としては自然なのかもしれない。どちらにせよ腹立たしい。
「おはよう」
「……おはようございます。朝から顔がいいな。腹立つ」
「喉は?」
ノアは半眼になった。
「朝から喉チェック? 医務室より過保護」
「昨日、少し掠れていたから」
「昨日の声を今朝まで持ち越すな」
「持ち越しているのは君の喉だよ」
「正論っぽく言うな。腹立つ」
レオは水を差し出した。
ノアはそれを見た。
透明な水。
浄化の光はほんの少し。
昨夜より控えめだった。こちらが嫌がったから、加減したのだろう。その加減すら腹立たしい。嫌がったら覚える。覚えた上で、次の距離を測る。こういうところが本当に厄介だ。
ノアは杯を受け取った。
「介護二日目」
「記録する?」
「するな」
「君の声なら覚えるけど」
「朝からやめろ」
水を飲むと、喉が少し楽になった。
ノアは杯を返した。
「ありがと。はい、この話終了」
「うん」
「素直に終わられると、それはそれで怖い」
「続けてもいい?」
「終われ」
レオは微笑んだ。
その日の授業は、基礎魔法理論と学院史だった。
学院史の教師は、アルカディア魔法学院の古い結界や、創設期に失われた術式について話していた。ノアは窓の外を見ながら半分だけ聞いていた。校章、古代結界、複数時代の術式の重なり。黒魔導書の頁に浮かんだ紋章と似た線。セドリックが言った古代ノクスヴェルト式の歪み。
点が増えていく。
まだ繋げたくない。
繋げると、見たくない形になる気がした。
放課後、ノアはセドリックの個別指導の返事を先延ばしにしようとして、あっさり捕まった。教師という生き物は逃げ道の前に立つのが上手い。迷惑な才能だ。
「明日から来い」
「考える時間、短くない?」
「君は考えるふりをして逃げる」
「先生まで俺の逃げ癖に詳しくならないで」
「目立つ」
「目立ちたくて目立ってるわけじゃないんだけどなー」
廊下の向こうで、レオがこちらを見ていた。
ノアは気づかないふりをした。
気づかないふりばかり上達する。学院生活の成果がこれなら、授業料を返してほしい。払っていないけれど。
夜になった。
三〇七号室は、また静かだった。
ノアは机に向かい、黒魔法理論の教本を開いていた。文字を追っているようで、頭には入っていない。レオは向かいの机で聖魔法の術式を書いている。羽根ペンが紙を滑る音だけが、部屋に細く響いていた。
やがて、レオがペンを置いた。
「ノア」
「今度は何。俺、ちゃんと勉強してるぞ。たぶん」
「君の声を、誰に渡すかは考えて」
ノアは、ゆっくり顔を上げた。
「声、貸出制だったの?」
レオは穏やかに見返した。
「僕はそう思っている」
静かだった。
静かすぎて、ぞっとした。
冗談なら笑えた。嫉妬だと怒鳴られた方が、まだ軽かった。けれどレオは、穏やかな声で本気を言う。声を誰に渡すか考えろ、と。まるでノアの声に所有権があるように。貸し出し先を選ぶ権利が、レオにもあるように。
ノアは笑った。
少しだけ低く、掠れた笑いだった。
「王子様、発想がだいぶ危険」
「知っている」
「知ってて言うな」
「知らないふりをしたら、君は逃げる」
「知ってても逃げるけど」
「なら、知っている方がいい」
喉元に、見えない熱が走った。
白金の魂糸の予兆が、声の振動へ触れようとして、すぐに引く。レオは昨夜より慎重だった。だが、触れようとしたことは分かる。声を出すたび、喉の奥に細い糸が寄ってくるような違和感がある。
ノアは椅子の背にもたれた。
「俺の声は俺のもの」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「君のものだよ」
「だったら」
「でも、僕は聞く」
レオは静かに言った。
「君が誰に渡しても、僕は聞いている」
ノアは何も言えなかった。
重い。
怖い。
腹立たしい。
それなのに、胸の奥のどこかがその言葉を知っている気がする。
呼ばなかった。
最後まで、助けを求めなかった。
だから聞いている、と言われているような気がした。
ノアは、教本を閉じた。
「寝る。今日はもう寝る。これ以上話すと、俺の声が全部お前の帳簿に載りそう」
「帳簿にはしないよ」
「似たようなことはするんだな」
レオは否定しなかった。
ノアは寝台へ潜り込んだ。
背を向ける。
部屋の魔力灯が弱くなる。
窓の外で、夜風が中庭の木々を揺らしている。レオが立ち上がる気配。静かな足音。水差しを確認する音。机の本を閉じる音。向かいの寝台へ入る衣擦れ。
ノアは目を閉じた。
喉元の熱は、まだ残っている。
眠りは、思ったより早く来た。
そして、夢の中で声がした。
白金の光が遠い。
黒い荒野ではない。
雨上がりの戦場跡でもない。
ただ、暗い水の底のような場所で、誰かが名を呼んでいる。
セラフィードの声だった。
「イリアス」
ノアは、夢の中で息を止めた。




