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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第七章【黒魔導書の頁は眠らない】

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第131話 信じたかった



 黒い手稿の最後に、その一文だけが残っていた。


「セラフィードだけは、信じたかった」


 黒魔法科禁書庫の奥で、時間が止まったようだった。


 空白の本は、まだ微かに呼吸している。中央に挟まった第十三頁は黒く沈み、周囲にはセドリック・バロウズの封鎖陣が幾重にも張られていた。封印蝋、黒鉄の棚、青白く濁った魔力灯。すべてがその一文を見ているように、静まり返っていた。


 ノア・クロウは、軽口を言おうとした。


 いつものように。


 黒歴史だとか、前世の自分は文章が重いとか、勝手に内面を保存するなとか、何か言えばいいと思った。言葉にしてしまえば、喉の奥に沈んだものを少しは遠ざけられる。


 けれど、声が出なかった。


 喉が動かない。


 黒い紙片が貼りついているような違和感とは違う。もっと奥だ。胸の底から喉まで、見えない手で押さえられているようだった。


 息だけが浅く漏れる。


 伴侶首輪《メイト・カラー》が熱を持つ。


 黒い亀裂がじくじくと疼き、灰色の切断痕が内側から細く軋んだ。手の甲の照合番号が冷たく脈打ち、白い枠の中に刻まれた「ノア・クロウ」の文字が、消えないように赤く薄く光っている。


 瞳孔が、一瞬だけ開いた。


 視界の奥で、黒い手稿の文字が滲む。


 セラフィードだけは、信じたかった。


 それは、怒りの言葉ではなかった。


 呪いでもない。


 世界を壊すための理屈でもない。


 黒魔導書が歪めて整えた文章の中に、そこだけ剥き出しのまま残った、前世イリアスの本音だった。


 父王が倒れた瞬間。


 白金の光が胸を貫いたように見えた瞬間。


 血が床に広がり、同盟の場が悲鳴と魔力で崩れた瞬間。


 イリアスは、セラフィードを疑った。


 疑ってしまった。


 だが、その前に。


 疑う前に。


 信じたかった。


 ノアは、唇を動かした。


「……こんなの、残すなよ」


 ようやく出た声は、ひどく掠れていた。


 怒りにもならない。


 泣き声にもならない。


 ただ、削れたような声だった。


 レオ・アステルレインは、動けなかった。


 ノアの隣に立ったまま、赤い糸だけが痛いほど震えている。白金の魔力は指先に滲みかけ、何度も消えた。手稿を燃やしたい。第十三頁を裂きたい。空白の本ごと消したい。


 だが、動かない。


 動けば、証拠を壊す。


 動けば、ノアの前に立ってしまう。


 動けば、今この瞬間にノアが自分で見ているものを、また奪ってしまう。


 だから、動けなかった。


「ノア」


 レオの声も、かすれていた。


 ノアは首を横に振りかけた。


「違う。俺じゃない。前世の……」


 言いかけて、止まった。


 前世の。


 イリアスの。


 そう切り離せば楽だった。


 これは自分ではない。


 前世の黒い災厄が残した、黒魔導書に記録された内的手稿だ。今ここにいるノア・クロウではない。そう言えば、境界を保てる気がした。


 けれど、完全には違わない。


 ノアはもう、イリアスをなかったことにしないと決めた。


 幼いイリアスを置いていかないと決めた。


 前世の罪も、痛みも、怒りも、全部が自分ではないと言い切ることで逃げるのは、もう違う。


 だが、「俺だ」と言えば沈む。


 黒魔導書が記録した怒りへ。


 災厄手稿へ。


 イリアス・ノクスヴェルトという前世名へ。


 ノア・クロウの足元が、薄く崩れていく。


 違う。


 同じ。


 違う。


 同じでは済まない。


 その間で、魂糸が激しく揺れた。


 赤い糸が、すぐに支える。


 強く、けれど縛らない。


 レオが、声を抑えた。


「ノア・クロウ」


 名を呼ばれた瞬間、手の甲の白い枠が少しだけ安定する。


 ノアは目を伏せた。


「……今、それ助かる」


「何度でも呼ぶ」


「呼びすぎって言っただろ」


「今は必要だ」


「……そうだな」


 それを認める声も、掠れていた。


 レオは、黒い手稿を見た。


 セラフィードだけは、信じたかった。


 その一文は、レオ自身にも刺さっていた。


 前世のセラフィードは、あの日、何を言えなかったのか。


 違うと叫んだ。


 止めようとした。


 手を伸ばした。


 だが、届かなかった。


 信じてほしい、と言えなかった。


 信じろ、と迫ることもできなかった。


 イリアスの目に浮かんだ疑念と絶望に、傷つき、焦り、そして戦った。最後には、英雄として災厄を討った。


 前世で言えなかった言葉が、レオの喉まで上がってくる。


 僕を信じて。


 今度こそ信じて。


 君を裏切らない。


 君を殺さない。


 君を失わない。


 だが、そのまま言えば、ノアを前世へ引き戻す。


 イリアスに向けた言葉を、現世のノアへ重ねてしまう。


 それは、黒魔導書がしたことと同じだ。


 過去の感情を、今の魂へ押しつける。


 レオは、歯を食いしばった。


 赤い糸が震える。


 言葉を選ぶ。


 選ばなければならない。


 ノアは、レオの沈黙に気づいた。


「何か言いかけた?」


 レオは、青い瞳をノアへ向けた。


 前世のイリアスではない。


 今ここにいる、喉を傷め、手の甲に現世名を刻み、軽口で怒りを支えるノア・クロウを見た。


「今の君に言う」


 ノアの目が、わずかに揺れる。


「何を」


 レオは、ゆっくり息を吸った。


「信じていい」


 その言葉は、押しつけではなかった。


 命令でもない。


 誓約ですらない。


 ただ、置かれた言葉だった。


 信じろ、ではない。


 信じてくれ、でもない。


 信じていい。


 選ぶのはノアだと、そう言う言葉だった。


 ノアは返事をしなかった。


 できなかった。


 喉がまだ詰まっている。胸の圧も消えていない。手稿の一文は、目の奥に焼きついている。


 セラフィードだけは、信じたかった。


 その過去の本音に、今の言葉が重なる。


 信じていい。


 前世では届かなかった言葉。


 現世で、形を変えて置かれた言葉。


 ノアは何も言わない。


 ただ、赤い糸が少しだけ落ち着いた。


 レオは、それだけで十分だというように目を伏せた。


 セドリックは、二人のやり取りを急かさなかった。


 珍しく、皮肉も言わない。


 黒魔法陣を維持したまま、手稿一番の状態を確認している。レギス・グレイヴもまた、記録符を閉じたまま黙っていた。今この場で記録を取ることが、どれほど無神経か理解している沈黙だった。


 やがて、ノアが息を吐いた。


「……気持ち悪いな」


 レオの眉がかすかに動く。


 ノアは黒い手稿を見る。


「怒りだけなら、まだ分かる。世界を壊せとか、裏切りの光を焼けとか、そういう最悪編集済みのやつなら、腹立つだけで済む」


 声は掠れているが、少しずつ戻ってきている。


「でも、こういうのは駄目だろ」


 セラフィードだけは、信じたかった。


 ノアは、その一文を睨んだ。


「こんなの残されたら、怒り方まで乱れる」


 レオが静かに言った。


「黒魔導書は、それも使う」


「だろうな」


 ノアは唇を歪めた。


「怒りだけじゃなくて、信じたかった本音まで保存してる。これを見せれば、俺とお前の関係は揺れる」


 レギスが低く言う。


「魂帳局の照合にも悪用できます。前世イリアス・ノクスヴェルトの未完感情を、現世ノア・クロウへ提示することで、魂名照合を進める材料にできます」


 ノアはレギスを見る。


「言い方が役所」


「事実です」


「腹立つほど分かりやすい」


 セドリックが続けた。


「感情記録は強い。特に、口にされなかった本音はな。本人が否定しにくい」


「否定しにくいどころか、否定したら自分で自分を裏切る感じがする」


 ノアは低く笑った。


 笑いは乾いていた。


「最悪だな。黒魔導書、精神攻撃の趣味が悪すぎる」


 レオは言った。


「君は、今の君として読んだ」


 ノアは横を見る。


「そう見えた?」


「見えた」


「前世に引っ張られてなかった?」


「引っ張られていた」


「正直だな」


「でも、戻った」


 レオの声は静かだった。


「君は戻った」


 ノアは、少しだけ視線を落とした。


 戻った。


 その言葉が、思ったより深く胸に入る。


 完全に平気だったわけではない。


 揺れた。


 今も揺れている。


 それでも、沈まなかった。


 前世の本音を見ても、ノア・クロウとして立っている。


 それは、勝利と呼ぶには小さすぎる。


 だが、敗北ではなかった。


 空白の本が、また小さく震えた。


 黒い手稿一番が、ゆっくり閉じようとしている。


 セドリックが封鎖陣を強めた。


「閉じる前に、次の索引が動く可能性がある。注意しろ」


 ノアはうんざりした顔をした。


「まだ続くのかよ」


「索引頁だからな」


「勤勉すぎる本、嫌いだ」


 黒い手稿の一文が、薄れ始める。


 セラフィードだけは、信じたかった。


 その文字が完全に消える直前、ノアは目を逸らさなかった。


 見る。


 見たうえで、呑まれない。


 レオも隣で、同じ一文を見ていた。


 前世の傷が、赤い糸の奥で静かに痛む。


 その痛みごと、二人は立っていた。


 手稿一番が閉じた。


 空白の本の中央で、第十三頁が再び黒く光る。


 そして、新しい記録名が浮かんだ。


「災厄手稿、二番。殺意の発生」


 禁書庫の空気が、一段深く冷えた。


 ノアの喉が、反射的に詰まる。


 レオの赤い糸が鋭く張る。


 セドリックが封鎖陣を重ね、レギスの記録符が震えた。


 ノアは、低く言った。


「読むな」


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