第131話 信じたかった
黒い手稿の最後に、その一文だけが残っていた。
「セラフィードだけは、信じたかった」
黒魔法科禁書庫の奥で、時間が止まったようだった。
空白の本は、まだ微かに呼吸している。中央に挟まった第十三頁は黒く沈み、周囲にはセドリック・バロウズの封鎖陣が幾重にも張られていた。封印蝋、黒鉄の棚、青白く濁った魔力灯。すべてがその一文を見ているように、静まり返っていた。
ノア・クロウは、軽口を言おうとした。
いつものように。
黒歴史だとか、前世の自分は文章が重いとか、勝手に内面を保存するなとか、何か言えばいいと思った。言葉にしてしまえば、喉の奥に沈んだものを少しは遠ざけられる。
けれど、声が出なかった。
喉が動かない。
黒い紙片が貼りついているような違和感とは違う。もっと奥だ。胸の底から喉まで、見えない手で押さえられているようだった。
息だけが浅く漏れる。
伴侶首輪が熱を持つ。
黒い亀裂がじくじくと疼き、灰色の切断痕が内側から細く軋んだ。手の甲の照合番号が冷たく脈打ち、白い枠の中に刻まれた「ノア・クロウ」の文字が、消えないように赤く薄く光っている。
瞳孔が、一瞬だけ開いた。
視界の奥で、黒い手稿の文字が滲む。
セラフィードだけは、信じたかった。
それは、怒りの言葉ではなかった。
呪いでもない。
世界を壊すための理屈でもない。
黒魔導書が歪めて整えた文章の中に、そこだけ剥き出しのまま残った、前世イリアスの本音だった。
父王が倒れた瞬間。
白金の光が胸を貫いたように見えた瞬間。
血が床に広がり、同盟の場が悲鳴と魔力で崩れた瞬間。
イリアスは、セラフィードを疑った。
疑ってしまった。
だが、その前に。
疑う前に。
信じたかった。
ノアは、唇を動かした。
「……こんなの、残すなよ」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
怒りにもならない。
泣き声にもならない。
ただ、削れたような声だった。
レオ・アステルレインは、動けなかった。
ノアの隣に立ったまま、赤い糸だけが痛いほど震えている。白金の魔力は指先に滲みかけ、何度も消えた。手稿を燃やしたい。第十三頁を裂きたい。空白の本ごと消したい。
だが、動かない。
動けば、証拠を壊す。
動けば、ノアの前に立ってしまう。
動けば、今この瞬間にノアが自分で見ているものを、また奪ってしまう。
だから、動けなかった。
「ノア」
レオの声も、かすれていた。
ノアは首を横に振りかけた。
「違う。俺じゃない。前世の……」
言いかけて、止まった。
前世の。
イリアスの。
そう切り離せば楽だった。
これは自分ではない。
前世の黒い災厄が残した、黒魔導書に記録された内的手稿だ。今ここにいるノア・クロウではない。そう言えば、境界を保てる気がした。
けれど、完全には違わない。
ノアはもう、イリアスをなかったことにしないと決めた。
幼いイリアスを置いていかないと決めた。
前世の罪も、痛みも、怒りも、全部が自分ではないと言い切ることで逃げるのは、もう違う。
だが、「俺だ」と言えば沈む。
黒魔導書が記録した怒りへ。
災厄手稿へ。
イリアス・ノクスヴェルトという前世名へ。
ノア・クロウの足元が、薄く崩れていく。
違う。
同じ。
違う。
同じでは済まない。
その間で、魂糸が激しく揺れた。
赤い糸が、すぐに支える。
強く、けれど縛らない。
レオが、声を抑えた。
「ノア・クロウ」
名を呼ばれた瞬間、手の甲の白い枠が少しだけ安定する。
ノアは目を伏せた。
「……今、それ助かる」
「何度でも呼ぶ」
「呼びすぎって言っただろ」
「今は必要だ」
「……そうだな」
それを認める声も、掠れていた。
レオは、黒い手稿を見た。
セラフィードだけは、信じたかった。
その一文は、レオ自身にも刺さっていた。
前世のセラフィードは、あの日、何を言えなかったのか。
違うと叫んだ。
止めようとした。
手を伸ばした。
だが、届かなかった。
信じてほしい、と言えなかった。
信じろ、と迫ることもできなかった。
イリアスの目に浮かんだ疑念と絶望に、傷つき、焦り、そして戦った。最後には、英雄として災厄を討った。
前世で言えなかった言葉が、レオの喉まで上がってくる。
僕を信じて。
今度こそ信じて。
君を裏切らない。
君を殺さない。
君を失わない。
だが、そのまま言えば、ノアを前世へ引き戻す。
イリアスに向けた言葉を、現世のノアへ重ねてしまう。
それは、黒魔導書がしたことと同じだ。
過去の感情を、今の魂へ押しつける。
レオは、歯を食いしばった。
赤い糸が震える。
言葉を選ぶ。
選ばなければならない。
ノアは、レオの沈黙に気づいた。
「何か言いかけた?」
レオは、青い瞳をノアへ向けた。
前世のイリアスではない。
今ここにいる、喉を傷め、手の甲に現世名を刻み、軽口で怒りを支えるノア・クロウを見た。
「今の君に言う」
ノアの目が、わずかに揺れる。
「何を」
レオは、ゆっくり息を吸った。
「信じていい」
その言葉は、押しつけではなかった。
命令でもない。
誓約ですらない。
ただ、置かれた言葉だった。
信じろ、ではない。
信じてくれ、でもない。
信じていい。
選ぶのはノアだと、そう言う言葉だった。
ノアは返事をしなかった。
できなかった。
喉がまだ詰まっている。胸の圧も消えていない。手稿の一文は、目の奥に焼きついている。
セラフィードだけは、信じたかった。
その過去の本音に、今の言葉が重なる。
信じていい。
前世では届かなかった言葉。
現世で、形を変えて置かれた言葉。
ノアは何も言わない。
ただ、赤い糸が少しだけ落ち着いた。
レオは、それだけで十分だというように目を伏せた。
セドリックは、二人のやり取りを急かさなかった。
珍しく、皮肉も言わない。
黒魔法陣を維持したまま、手稿一番の状態を確認している。レギス・グレイヴもまた、記録符を閉じたまま黙っていた。今この場で記録を取ることが、どれほど無神経か理解している沈黙だった。
やがて、ノアが息を吐いた。
「……気持ち悪いな」
レオの眉がかすかに動く。
ノアは黒い手稿を見る。
「怒りだけなら、まだ分かる。世界を壊せとか、裏切りの光を焼けとか、そういう最悪編集済みのやつなら、腹立つだけで済む」
声は掠れているが、少しずつ戻ってきている。
「でも、こういうのは駄目だろ」
セラフィードだけは、信じたかった。
ノアは、その一文を睨んだ。
「こんなの残されたら、怒り方まで乱れる」
レオが静かに言った。
「黒魔導書は、それも使う」
「だろうな」
ノアは唇を歪めた。
「怒りだけじゃなくて、信じたかった本音まで保存してる。これを見せれば、俺とお前の関係は揺れる」
レギスが低く言う。
「魂帳局の照合にも悪用できます。前世イリアス・ノクスヴェルトの未完感情を、現世ノア・クロウへ提示することで、魂名照合を進める材料にできます」
ノアはレギスを見る。
「言い方が役所」
「事実です」
「腹立つほど分かりやすい」
セドリックが続けた。
「感情記録は強い。特に、口にされなかった本音はな。本人が否定しにくい」
「否定しにくいどころか、否定したら自分で自分を裏切る感じがする」
ノアは低く笑った。
笑いは乾いていた。
「最悪だな。黒魔導書、精神攻撃の趣味が悪すぎる」
レオは言った。
「君は、今の君として読んだ」
ノアは横を見る。
「そう見えた?」
「見えた」
「前世に引っ張られてなかった?」
「引っ張られていた」
「正直だな」
「でも、戻った」
レオの声は静かだった。
「君は戻った」
ノアは、少しだけ視線を落とした。
戻った。
その言葉が、思ったより深く胸に入る。
完全に平気だったわけではない。
揺れた。
今も揺れている。
それでも、沈まなかった。
前世の本音を見ても、ノア・クロウとして立っている。
それは、勝利と呼ぶには小さすぎる。
だが、敗北ではなかった。
空白の本が、また小さく震えた。
黒い手稿一番が、ゆっくり閉じようとしている。
セドリックが封鎖陣を強めた。
「閉じる前に、次の索引が動く可能性がある。注意しろ」
ノアはうんざりした顔をした。
「まだ続くのかよ」
「索引頁だからな」
「勤勉すぎる本、嫌いだ」
黒い手稿の一文が、薄れ始める。
セラフィードだけは、信じたかった。
その文字が完全に消える直前、ノアは目を逸らさなかった。
見る。
見たうえで、呑まれない。
レオも隣で、同じ一文を見ていた。
前世の傷が、赤い糸の奥で静かに痛む。
その痛みごと、二人は立っていた。
手稿一番が閉じた。
空白の本の中央で、第十三頁が再び黒く光る。
そして、新しい記録名が浮かんだ。
「災厄手稿、二番。殺意の発生」
禁書庫の空気が、一段深く冷えた。
ノアの喉が、反射的に詰まる。
レオの赤い糸が鋭く張る。
セドリックが封鎖陣を重ね、レギスの記録符が震えた。
ノアは、低く言った。
「読むな」




