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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第七章【黒魔導書の頁は眠らない】

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第132話 殺意の発生



 黒魔法科禁書庫の奥で、空白の本が震えていた。


 表紙のない本のような、名を持たない器。


 その中央に挟まった黒い第十三頁が、ゆっくりと文字を浮かび上がらせる。


「災厄手稿、二番。殺意の発生」


 その表題を見た瞬間、ノア・クロウの喉が詰まった。


 殺意。


 その言葉は、音になる前から重かった。


 怒りではない。


 憎しみでもない。


 もっと鋭く、もっと冷たく、もっと取り返しのつかないものだった。父王の血を見た瞬間、セラフィードの光を疑った瞬間、信じたかったものが壊れる音を聞いた瞬間、前世イリアス・ノクスヴェルトの内側に初めて明確な形を取ったもの。


 ノアは、本を睨んだ。


「読むな」


 声は低く、掠れていた。


 レオ・アステルレインが即座に言う。


「読まなくていい」


 その言葉に、赤い糸が強く重なる。


 レオの声には、いつものような柔らかさがなかった。あるのは警戒と、怒りと、恐怖だった。ノアにこれ以上読ませたくない。黒魔導書の頁に、ノアの喉も目も魂も使わせたくない。今すぐ本ごと閉じ、封じ、燃やしたい。


 だが、空白の本は閉じなかった。


 ノアが読むことを拒んでも、黒い頁は勝手に開いた。


 文字が浮かぶ。


 紙の上ではない。


 空中に。


 禁書庫の黒い灯りの中に。


 ノアの視界の真正面に。


 読もうとしなくても、目に入る。目に入った瞬間、文字はただの文字ではなくなる。黒い線がほどけ、細い虫のように動き、ノアの瞳へ、喉へ、魂糸へ流れ込もうとした。


 父王の血。


 床に広がる赤。


 白金の光。


 届かなかった叫び。


 疑いたくなかった相手の名。


 信じたかったものが、骨の中で折れる音。


 ノアは息を止めた。


 止めたはずだった。


 それなのに、黒い文字は入ってくる。


 目の奥へ。


 喉の奥へ。


 記憶ではなく、記録として。


 感情ではなく、保存された殺意として。


「が、あ゛……っ」


 喉が勝手に鳴った。


 瞳孔が開く。


 赤い瞳が血走り、焦点がずれる。視界の中で黒い文字が増殖し、父王の血の色と重なった。伴侶首輪《メイト・カラー》が焼けるように熱を持つ。黒い亀裂が一気に疼き、灰色の切断痕までもが内側から引き裂かれるように痛んだ。


 手の甲の照合番号が冷たく脈打つ。


 白い枠の中の「ノア・クロウ」が、薄く赤く震えた。


 ノアの背筋が弓なりに跳ねた。


「が、あ゛……っ、あ゛ああああああッ!! 入って、くるな……ッ!」


 絶叫が禁書庫に響いた。


 声というより、喉を内側から裂いて黒い文字を吐き返そうとする拒絶だった。


 膝が崩れる。


 レオが支えようとした瞬間、ノアの身体は大きく跳ね、床へ片手をついた。指先が硬直する。爪が禁書庫の石床を掻いた。黒い魔力が口元から霧のように漏れ、唇の端で泡混じりの息が白く滲む。


 セドリックが封鎖陣を強める。


「読ませるな。視線を切れ」


「切っています」


 レオの声が低く震える。


「でも入ってくる」


 黒い文字は、視線を閉じても流れ込もうとしていた。


 手稿二番は、読者を待つ本ではなかった。


 読まれることを拒む魂へ、自分から入り込む記録だった。


 ノアの喉がさらに痙攣する。


 舌がうまく収まらない。


 口の中で力を失い、唇の間から覗きかけた舌先が震える。言葉が濁る。息が泡を含み、黒い霧と混じって唇を濡らした。


「が、ぁ……ッ、あ゛、あ゛あ゛……!」


 吐き気が込み上げる。


 身体が折れる。


 レオが即座にノアを横向きに支えた。ノアの腹部が痙攣し、喉から苦い液が少しだけ上がる。吐瀉ではなく、魔法的な限界反応に引きずられた身体の排出だった。黒い霧と泡が混じり、口元を濡らす。


 ノアの下腹部の制御も途切れた。


 冷たい失禁の感覚が衣服の下に広がる。羞恥を認識する余裕はない。殺意の記録が魂へ流れ込もうとし、身体はその負荷を現実の反応として受け止めきれず、ただ壊れたように震えていた。


 レオの顔が、見たことのないほど歪む。


 それでも、彼はノアの声を閉じなかった。


 本当は、閉じたい。


 喉を白金の魔力で包み、黒い文字ごと封じたい。ノアの口から、もう一音たりとも黒魔導書に利用させたくない。


 だが、ノアは叫んだ。


 入ってくるな、と。


 その拒絶は、ノアの今の意思だった。


 レオが封じるべきものではない。


 支えるべきものだった。


「ノア・クロウ」


 レオは赤い糸を張る。


 声を縛るためではない。


 ノアの拒絶が、黒い文字に呑まれないように。


 今のノアの意思と、流れ込む殺意の記録を切り離すように。


「君の殺意じゃない」


 黒い文字が、ノアの瞳の奥で暴れる。


 父王の血。


 セラフィードへの疑念。


 戦争への憎悪。


 世界を正したい願い。


 殺せ。


 壊せ。


 焼け。


 そのすべてが、ノアの魂糸へ絡みつく。


 レオは、さらに低く言った。


「記録だ。君の今の意思じゃない」


 ノアの身体が大きく痙攣する。


 肩が跳ね、背中が反り、足が床を蹴る。指先は石床を掻いたまま硬直し、爪の下に黒い魔力が滲む。白目を剥きかけた赤い瞳が、どうにかレオの方へ戻ろうとした。


「ち、が……」


 音が崩れる。


 舌がうまく動かない。


 泡混じりの息が唇で弾ける。


「俺、の……過去、では……ある……っ」


 レオは、息を詰めた。


 否定できなかった。


 君の殺意じゃない。


 それは正しい。


 今のノア・クロウが望んだものではない。


 今ここで誰かを傷つけようとしているわけではない。


 だが、完全な他人のものでもない。


 前世イリアスの過去ではある。


 父を喪い、信じたかった相手を疑い、世界に怒り、黒魔導書へ触れた魂の記録ではある。


 レオは、それを消したかった。


 今すぐ、完全に。


 黒魔導書も、災厄手稿も、殺意の記録も、ノアへ入り込もうとするすべてを焼き尽くしたかった。


 けれど、それをすれば、ノアの過去ごと否定する。


 証拠も消える。


 オルドレイス代理がどうやってノアを「災厄の再発」へ誘導しようとしているのか、その核心も失う。


 守ることと、否定しないことが、矛盾する。


 レオの赤い糸が、痛いほど震えた。


「過去でも、今の君に命令する権利はない」


 ノアの瞳が揺れる。


 開ききった瞳孔の奥で、ほんの少しだけ焦点が戻る。


「ノア。君の今の意思で、拒んで」


 ノアは息を吸おうとした。


 喉が痙攣する。


 黒い文字がまだ入ってこようとする。


 殺意の記録が、父王の血の匂いを伴って魂へ流れ込む。


 けれど、赤い糸がそこに線を引いた。


 現世のノア。


 前世の記録。


 どちらも消さない。


 だが、混ぜない。


 ノアは、床を掻いていた指を震わせた。


「い、ら……な……」


 声が崩れる。


 舌がもつれる。


 泡が唇に滲む。


「いま、の……俺に……入って、くるな……ッ」


 手の甲の白い枠が強く赤く光った。


 そこに刻まれた「ノア・クロウ」が、黒い文字の侵入に抗う。伴侶首輪の黒い亀裂は熱を吐き続けているが、照合率は進まない。二パーセントの数字が揺れ、三へ進みかけるたび、レオの赤い糸が現世名へ引き戻す。


 セドリックが黒魔法陣を叩き込んだ。


「封鎖する。アステルレイン、赤い糸を一点に集めるな。広げて支えろ」


「分かっています」


「怒りで潰すな」


「……分かっています」


 レオは歯を食いしばった。


 怒りで潰したい。


 黒い頁を。


 手稿を。


 殺意を。


 だが、赤い糸を広げた。


 ノアの喉、手の甲、伴侶首輪、魂糸の根に薄く触れる。強く締めない。閉じない。支える。


 レギス・グレイヴが、震える灰色の記録符を押さえながら言った。


「黒魔導書記録が現世人格へ再注入されています。これを放置すれば、前世感情を現世意思として誤認させられる」


 ノアは、床に伏せかけたまま、かすかに笑った。


 笑いというより、壊れた息だった。


「……ほんと、頭の中まで……迷惑な本だな……」


 その軽口が出た瞬間、レオの表情がわずかに変わった。


 戻ってきている。


 完全ではない。


 身体はまだ痙攣している。


 瞳は血走り、喉は泡混じりに震え、口元から黒い霧が漏れている。


 それでも、ノアの言葉だった。


 今のノアの皮肉だった。


 セドリックの封鎖陣が、第十三頁を囲む空白の本へ重なった。


 黒い文字列が空中で引き剥がされ、災厄手稿二番へ戻されていく。父王の血の匂いが薄れ、白金の光の幻も消え、戦争への憎悪が遠ざかる。


 ノアの身体から力が抜けた。


 崩れる。


 レオが受け止めた。


 今度は強く抱き込まず、横向きに支え、喉と呼吸を確保する。ノアの口元の泡と苦い液を布で拭い、黒い霧がまた漏れないか確認する。


 禁書庫の床に膝をついたまま、レオは低く名を呼び続けた。


「ノア・クロウ」


「ノア」


「ノア・クロウ」


 ノアは、ほとんど聞こえない声で返した。


「……うる、さい……」


「必要だ」


「……知ってる……」


 それだけ言って、ノアの目が閉じかける。


 レオはすぐに頬へ触れた。


「眠らないで。まだ禁書庫だ」


「……最悪の寝床……」


「戻る」


 セドリックが封鎖陣を維持したまま、学院長へ短く指示を出す。空白の本は仮封印に入った。第十三頁は完全には沈黙していないが、これ以上この場でノアに読ませることは止められた。


 レギスが記録符を閉じる。


 黒い腕輪が低く震えたが、セドリックの封印符がそれを押さえ込む。


「移動する。治療は研究室で行う」


 セドリックの声に、レオは頷いた。


 ノアを運ぶ腕に、力が入りかける。


 入れすぎる寸前で、止める。


 壊さない。


 閉じ込めない。


 落とさない。


 その三つだけを守るように、レオはノアを抱えた。


 禁書庫から戻った後、研究室には夜明けの薄い光が差し込んでいた。


 重度反応後の処置は、静かに行われた。


 まず水。


 唇を湿らせ、飲み込める量だけを少しずつ与える。喉は腫れ、声帯には黒い文字が擦ったような魔力傷が残っていた。レオは白金の治癒魔法を細く当て、無理に塞がず、痙攣を鎮める。


 次に首輪。


 焼けるように熱を持った伴侶首輪を、冷やしすぎないよう整える。黒い亀裂の広がりを確認し、灰色の切断痕へ薄い魔力を流す。照合率は二パーセントのまま止まっていた。


 次に手の甲。


 照合番号の疼きを鎮め、白い枠の中の「ノア・クロウ」が薄れないよう現世名の反応だけを残す。黒い文字の残滓が指先に沈んでいたため、レオは一本ずつ指先を包み、黒い痺れを抜いていった。


 身体は冷えていた。


 魔法的限界反応で濡れた衣服と寝具を替え、毛布で包む。羞恥を刺激する言葉は誰も口にしなかった。それは汚れではなく、魂へ殺意の記録を流し込まれた身体が限界を超えた結果だった。


 レオは最後に、ノアの髪を梳いた。


 黒髪に櫛を通し、絡まったところで止め、丁寧に解く。


 ノアは、うっすら目を開けた。


 朝の光が、少しだけ白い。


 声はひどく掠れていた。


「殺意の読書感想文、二度と書かない」


 レオは即答した。


「読ませない」


「証拠は残す」


「……分かっている」


「燃やすなよ」


「燃やしたい」


「正直でよろしい。駄目だけど」


 ノアは目を閉じかけ、また少しだけ開いた。


「俺の過去ではある」


 レオの手が止まる。


 ノアは続けた。


「でも、今の俺に命令する権利はない」


 レオは、静かに頷いた。


「うん」


「それ、忘れるなよ」


「忘れない」


「俺も忘れない」


 重い沈黙が落ちた。


 だが、それは前より少しだけ息のできる沈黙だった。


 机の上では、セドリックが封鎖した災厄手稿二番の複写を確認している。レギスも少し離れて立ち、灰色の記録符を慎重に読み取っていた。


 その時、閉じたはずの手稿二番の最後に、別の筆跡が浮かび上がった。


 黒魔導書の文字ではない。


 前世イリアスの筆跡でもない。


 整いすぎた、冷たい帳簿文字。


「殺意は記録された。次は行動を記録する」


 レギスの顔が変わった。


 彼はその文字を見つめ、低く言った。


「魂帳局の記録文です」



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