第132話 殺意の発生
黒魔法科禁書庫の奥で、空白の本が震えていた。
表紙のない本のような、名を持たない器。
その中央に挟まった黒い第十三頁が、ゆっくりと文字を浮かび上がらせる。
「災厄手稿、二番。殺意の発生」
その表題を見た瞬間、ノア・クロウの喉が詰まった。
殺意。
その言葉は、音になる前から重かった。
怒りではない。
憎しみでもない。
もっと鋭く、もっと冷たく、もっと取り返しのつかないものだった。父王の血を見た瞬間、セラフィードの光を疑った瞬間、信じたかったものが壊れる音を聞いた瞬間、前世イリアス・ノクスヴェルトの内側に初めて明確な形を取ったもの。
ノアは、本を睨んだ。
「読むな」
声は低く、掠れていた。
レオ・アステルレインが即座に言う。
「読まなくていい」
その言葉に、赤い糸が強く重なる。
レオの声には、いつものような柔らかさがなかった。あるのは警戒と、怒りと、恐怖だった。ノアにこれ以上読ませたくない。黒魔導書の頁に、ノアの喉も目も魂も使わせたくない。今すぐ本ごと閉じ、封じ、燃やしたい。
だが、空白の本は閉じなかった。
ノアが読むことを拒んでも、黒い頁は勝手に開いた。
文字が浮かぶ。
紙の上ではない。
空中に。
禁書庫の黒い灯りの中に。
ノアの視界の真正面に。
読もうとしなくても、目に入る。目に入った瞬間、文字はただの文字ではなくなる。黒い線がほどけ、細い虫のように動き、ノアの瞳へ、喉へ、魂糸へ流れ込もうとした。
父王の血。
床に広がる赤。
白金の光。
届かなかった叫び。
疑いたくなかった相手の名。
信じたかったものが、骨の中で折れる音。
ノアは息を止めた。
止めたはずだった。
それなのに、黒い文字は入ってくる。
目の奥へ。
喉の奥へ。
記憶ではなく、記録として。
感情ではなく、保存された殺意として。
「が、あ゛……っ」
喉が勝手に鳴った。
瞳孔が開く。
赤い瞳が血走り、焦点がずれる。視界の中で黒い文字が増殖し、父王の血の色と重なった。伴侶首輪が焼けるように熱を持つ。黒い亀裂が一気に疼き、灰色の切断痕までもが内側から引き裂かれるように痛んだ。
手の甲の照合番号が冷たく脈打つ。
白い枠の中の「ノア・クロウ」が、薄く赤く震えた。
ノアの背筋が弓なりに跳ねた。
「が、あ゛……っ、あ゛ああああああッ!! 入って、くるな……ッ!」
絶叫が禁書庫に響いた。
声というより、喉を内側から裂いて黒い文字を吐き返そうとする拒絶だった。
膝が崩れる。
レオが支えようとした瞬間、ノアの身体は大きく跳ね、床へ片手をついた。指先が硬直する。爪が禁書庫の石床を掻いた。黒い魔力が口元から霧のように漏れ、唇の端で泡混じりの息が白く滲む。
セドリックが封鎖陣を強める。
「読ませるな。視線を切れ」
「切っています」
レオの声が低く震える。
「でも入ってくる」
黒い文字は、視線を閉じても流れ込もうとしていた。
手稿二番は、読者を待つ本ではなかった。
読まれることを拒む魂へ、自分から入り込む記録だった。
ノアの喉がさらに痙攣する。
舌がうまく収まらない。
口の中で力を失い、唇の間から覗きかけた舌先が震える。言葉が濁る。息が泡を含み、黒い霧と混じって唇を濡らした。
「が、ぁ……ッ、あ゛、あ゛あ゛……!」
吐き気が込み上げる。
身体が折れる。
レオが即座にノアを横向きに支えた。ノアの腹部が痙攣し、喉から苦い液が少しだけ上がる。吐瀉ではなく、魔法的な限界反応に引きずられた身体の排出だった。黒い霧と泡が混じり、口元を濡らす。
ノアの下腹部の制御も途切れた。
冷たい失禁の感覚が衣服の下に広がる。羞恥を認識する余裕はない。殺意の記録が魂へ流れ込もうとし、身体はその負荷を現実の反応として受け止めきれず、ただ壊れたように震えていた。
レオの顔が、見たことのないほど歪む。
それでも、彼はノアの声を閉じなかった。
本当は、閉じたい。
喉を白金の魔力で包み、黒い文字ごと封じたい。ノアの口から、もう一音たりとも黒魔導書に利用させたくない。
だが、ノアは叫んだ。
入ってくるな、と。
その拒絶は、ノアの今の意思だった。
レオが封じるべきものではない。
支えるべきものだった。
「ノア・クロウ」
レオは赤い糸を張る。
声を縛るためではない。
ノアの拒絶が、黒い文字に呑まれないように。
今のノアの意思と、流れ込む殺意の記録を切り離すように。
「君の殺意じゃない」
黒い文字が、ノアの瞳の奥で暴れる。
父王の血。
セラフィードへの疑念。
戦争への憎悪。
世界を正したい願い。
殺せ。
壊せ。
焼け。
そのすべてが、ノアの魂糸へ絡みつく。
レオは、さらに低く言った。
「記録だ。君の今の意思じゃない」
ノアの身体が大きく痙攣する。
肩が跳ね、背中が反り、足が床を蹴る。指先は石床を掻いたまま硬直し、爪の下に黒い魔力が滲む。白目を剥きかけた赤い瞳が、どうにかレオの方へ戻ろうとした。
「ち、が……」
音が崩れる。
舌がうまく動かない。
泡混じりの息が唇で弾ける。
「俺、の……過去、では……ある……っ」
レオは、息を詰めた。
否定できなかった。
君の殺意じゃない。
それは正しい。
今のノア・クロウが望んだものではない。
今ここで誰かを傷つけようとしているわけではない。
だが、完全な他人のものでもない。
前世イリアスの過去ではある。
父を喪い、信じたかった相手を疑い、世界に怒り、黒魔導書へ触れた魂の記録ではある。
レオは、それを消したかった。
今すぐ、完全に。
黒魔導書も、災厄手稿も、殺意の記録も、ノアへ入り込もうとするすべてを焼き尽くしたかった。
けれど、それをすれば、ノアの過去ごと否定する。
証拠も消える。
オルドレイス代理がどうやってノアを「災厄の再発」へ誘導しようとしているのか、その核心も失う。
守ることと、否定しないことが、矛盾する。
レオの赤い糸が、痛いほど震えた。
「過去でも、今の君に命令する権利はない」
ノアの瞳が揺れる。
開ききった瞳孔の奥で、ほんの少しだけ焦点が戻る。
「ノア。君の今の意思で、拒んで」
ノアは息を吸おうとした。
喉が痙攣する。
黒い文字がまだ入ってこようとする。
殺意の記録が、父王の血の匂いを伴って魂へ流れ込む。
けれど、赤い糸がそこに線を引いた。
現世のノア。
前世の記録。
どちらも消さない。
だが、混ぜない。
ノアは、床を掻いていた指を震わせた。
「い、ら……な……」
声が崩れる。
舌がもつれる。
泡が唇に滲む。
「いま、の……俺に……入って、くるな……ッ」
手の甲の白い枠が強く赤く光った。
そこに刻まれた「ノア・クロウ」が、黒い文字の侵入に抗う。伴侶首輪の黒い亀裂は熱を吐き続けているが、照合率は進まない。二パーセントの数字が揺れ、三へ進みかけるたび、レオの赤い糸が現世名へ引き戻す。
セドリックが黒魔法陣を叩き込んだ。
「封鎖する。アステルレイン、赤い糸を一点に集めるな。広げて支えろ」
「分かっています」
「怒りで潰すな」
「……分かっています」
レオは歯を食いしばった。
怒りで潰したい。
黒い頁を。
手稿を。
殺意を。
だが、赤い糸を広げた。
ノアの喉、手の甲、伴侶首輪、魂糸の根に薄く触れる。強く締めない。閉じない。支える。
レギス・グレイヴが、震える灰色の記録符を押さえながら言った。
「黒魔導書記録が現世人格へ再注入されています。これを放置すれば、前世感情を現世意思として誤認させられる」
ノアは、床に伏せかけたまま、かすかに笑った。
笑いというより、壊れた息だった。
「……ほんと、頭の中まで……迷惑な本だな……」
その軽口が出た瞬間、レオの表情がわずかに変わった。
戻ってきている。
完全ではない。
身体はまだ痙攣している。
瞳は血走り、喉は泡混じりに震え、口元から黒い霧が漏れている。
それでも、ノアの言葉だった。
今のノアの皮肉だった。
セドリックの封鎖陣が、第十三頁を囲む空白の本へ重なった。
黒い文字列が空中で引き剥がされ、災厄手稿二番へ戻されていく。父王の血の匂いが薄れ、白金の光の幻も消え、戦争への憎悪が遠ざかる。
ノアの身体から力が抜けた。
崩れる。
レオが受け止めた。
今度は強く抱き込まず、横向きに支え、喉と呼吸を確保する。ノアの口元の泡と苦い液を布で拭い、黒い霧がまた漏れないか確認する。
禁書庫の床に膝をついたまま、レオは低く名を呼び続けた。
「ノア・クロウ」
「ノア」
「ノア・クロウ」
ノアは、ほとんど聞こえない声で返した。
「……うる、さい……」
「必要だ」
「……知ってる……」
それだけ言って、ノアの目が閉じかける。
レオはすぐに頬へ触れた。
「眠らないで。まだ禁書庫だ」
「……最悪の寝床……」
「戻る」
セドリックが封鎖陣を維持したまま、学院長へ短く指示を出す。空白の本は仮封印に入った。第十三頁は完全には沈黙していないが、これ以上この場でノアに読ませることは止められた。
レギスが記録符を閉じる。
黒い腕輪が低く震えたが、セドリックの封印符がそれを押さえ込む。
「移動する。治療は研究室で行う」
セドリックの声に、レオは頷いた。
ノアを運ぶ腕に、力が入りかける。
入れすぎる寸前で、止める。
壊さない。
閉じ込めない。
落とさない。
その三つだけを守るように、レオはノアを抱えた。
禁書庫から戻った後、研究室には夜明けの薄い光が差し込んでいた。
重度反応後の処置は、静かに行われた。
まず水。
唇を湿らせ、飲み込める量だけを少しずつ与える。喉は腫れ、声帯には黒い文字が擦ったような魔力傷が残っていた。レオは白金の治癒魔法を細く当て、無理に塞がず、痙攣を鎮める。
次に首輪。
焼けるように熱を持った伴侶首輪を、冷やしすぎないよう整える。黒い亀裂の広がりを確認し、灰色の切断痕へ薄い魔力を流す。照合率は二パーセントのまま止まっていた。
次に手の甲。
照合番号の疼きを鎮め、白い枠の中の「ノア・クロウ」が薄れないよう現世名の反応だけを残す。黒い文字の残滓が指先に沈んでいたため、レオは一本ずつ指先を包み、黒い痺れを抜いていった。
身体は冷えていた。
魔法的限界反応で濡れた衣服と寝具を替え、毛布で包む。羞恥を刺激する言葉は誰も口にしなかった。それは汚れではなく、魂へ殺意の記録を流し込まれた身体が限界を超えた結果だった。
レオは最後に、ノアの髪を梳いた。
黒髪に櫛を通し、絡まったところで止め、丁寧に解く。
ノアは、うっすら目を開けた。
朝の光が、少しだけ白い。
声はひどく掠れていた。
「殺意の読書感想文、二度と書かない」
レオは即答した。
「読ませない」
「証拠は残す」
「……分かっている」
「燃やすなよ」
「燃やしたい」
「正直でよろしい。駄目だけど」
ノアは目を閉じかけ、また少しだけ開いた。
「俺の過去ではある」
レオの手が止まる。
ノアは続けた。
「でも、今の俺に命令する権利はない」
レオは、静かに頷いた。
「うん」
「それ、忘れるなよ」
「忘れない」
「俺も忘れない」
重い沈黙が落ちた。
だが、それは前より少しだけ息のできる沈黙だった。
机の上では、セドリックが封鎖した災厄手稿二番の複写を確認している。レギスも少し離れて立ち、灰色の記録符を慎重に読み取っていた。
その時、閉じたはずの手稿二番の最後に、別の筆跡が浮かび上がった。
黒魔導書の文字ではない。
前世イリアスの筆跡でもない。
整いすぎた、冷たい帳簿文字。
「殺意は記録された。次は行動を記録する」
レギスの顔が変わった。
彼はその文字を見つめ、低く言った。
「魂帳局の記録文です」




