第130話 災厄手稿、一番
黒い頁の上に、文字が浮かんでいた。
「災厄手稿、一番」
その五文字が刻まれた瞬間、黒魔法科禁書庫の空気が冷えた。
石壁の奥に染み込んでいた古い魔力が、一斉に息を潜める。青白かった魔力灯は黒く濁り、封印蝋の表面に細い亀裂のような影が走った。鎖で縛られていた禁書の頁が、閉じたまま小さく震える。
空白の本は、まだ呼吸していた。
表紙が膨らみ、沈む。
その中央に挟まった第十三頁だけが、他のすべての本を見下ろすように黒く沈んでいる。
ノア・クロウは、喉を押さえたまま、その文字を見ていた。
災厄手稿。
一番。
嫌な響きだった。
自分の知らないところで、自分の名を冠した何かが保管されている。その気味悪さは、魂帳局の回収予定札に似ている。だが、こちらはもっと内側へ来る。記録ではなく、喉の奥に黒い指を入れられるような不快感があった。
ノアは、低く言った。
「俺、そんなもの書いた覚えないぞ」
声は掠れていた。
先ほど第十三頁に口を索引にされかけたせいで、喉がまだ疼いている。舌の奥に、知らない古代語のざらつきが残っていた。右手の甲では照合番号が冷たく脈打ち、白い枠の中の「ノア・クロウ」が熱を持っている。
レオ・アステルレインの赤い糸が、隣で鋭く張った。
ノアの前に出たい。
黒い頁から隠したい。
空白の本ごと燃やしたい。
その全部が、赤い糸から伝わってくる。だが、レオはまだ横にいた。肩は前へ出かけているが、ノアの視界は塞いでいない。
セドリック・バロウズが黒魔法陣を強めた。
「動くな。封筒が出る」
その言葉通り、禁書棚の奥が軋んだ。
黒い棚の隙間から、封筒のようなものが浮かび上がる。
紙ではない。
黒い革にも、薄い魔導紙にも見える。封蝋の位置には、前世イリアス・ノクスヴェルトの紋章に似た印が押されていた。黒い翼と、割れた星。そして、災厄の名に結びつけられた古い紋。
だが、微妙に違う。
ノアの魂が知っているイリアスの紋章よりも、線が歪んでいる。黒魔導書の文字が、その輪郭を勝手に補強しているようだった。
ノアは顔をしかめる。
「やだな。本人確認なしで俺っぽい印を作るな」
レギス・グレイヴが、灰色の記録符を慎重に広げた。
彼の黒く染まった腕輪は、まだセドリックの封印符で抑えられている。魂帳局から拘束対象にされた回収官。その立場は不安定なままだが、今は深部記録の照合に必要だった。
レギスの記録符が灰色に光る。
「魂帳局深部記録と照合します。災厄手稿……確認。黒魔導書に取り込まれた者が残す内的記録、とあります」
ノアの眉が動いた。
「内的記録」
「本人が意識して書いた手稿ではありません」
レギスは黒い封筒を見つめたまま続けた。
「黒魔導書が、対象者の思考、記憶、怒り、願いを頁として記録したものです。形式上は手稿ですが、本人の執筆物ではありません」
ノアは、しばらく黙った。
喉の奥が、またざらつく。
頭の中を覗かれる。
記憶を切り取られる。
怒りを文章にされる。
願いを、黒い頁として保存される。
それは、魂帳局に名前を記録されるのとは違う気持ち悪さだった。
もっと近い。
もっと勝手だ。
ノアは、低く言った。
「頭の中まで勝手に議事録にするな」
その声に、レオの赤い糸が強く震えた。
怒りだった。
ノアの思考まで黒魔導書に記録されていた。
前世イリアスが何を感じ、何を疑い、何を願ったのか。それを黒魔導書が勝手に拾い、整え、頁にした。
レオにとって、それは耐えがたいことだった。
前世で、黒魔導書はイリアスを奪った。
そのうえ、内側まで記録していた。
レオは低く言う。
「君の中まで」
ノアは横目で見る。
「俺じゃなくて、前世のイリアスな」
「同じ魂だ」
「そこ、都合よく切り分けられないのは分かってるけどな」
レオの表情が苦く歪む。
「閉じたくなる」
ノアは少しだけ目を細めた。
「俺の記憶を?」
「黒魔導書が触れた部分を」
「でも、しないんだろ」
レオは、赤い糸を強く握りしめるように震わせた。
「しない」
短い返事だった。
重く、苦い。
ノアは、小さく息を吐いた。
「よし」
「よくない」
「今は、よし」
セドリックが黒い封筒へ手をかざした。
直接触れない。
封筒の周囲に黒魔法の膜を張り、内側の記録だけを浮かび上がらせる。
封蝋に似た紋章が、ゆっくり割れた。
中から、一枚の黒い紙が出てくる。
手稿。
だが、手書きではない。
文字は浮かんでいる。
前世イリアスの筆跡に似ているのに、線の端が黒魔導書の文字へ繋がっている。本人の感情を、誰かが別の文法で整え直したような、歪な筆跡だった。
ノアの魂糸が引かれる。
胸が重くなる。
手稿一番の最初の行が、ゆっくり浮かんだ。
父を失った。
その文字を見た瞬間、ノアの呼吸が止まりかけた。
同盟儀式の日。
父王の背中。
胸を貫いた偽装聖魔法。
血の匂い。
若いイリアスの手に残った温度。
喪失が、黒い文字としてよみがえる。
ノアの指先が黒く痺れた。
右手の爪先から、黒いインクに浸したような感覚が広がる。実際に色が変わったわけではない。だが、魔力回路の端が黒く染まるように痺れる。
「っ……」
短く息が詰まる。
レオがすぐに支える。
「ノア・クロウ」
「……大丈夫」
「読まなくていい」
「読む。読まれるんじゃなくて、読む」
ノアは、手稿を見た。
次の行が浮かぶ。
セラフィードの光が、父の胸に見えた。
違うと叫んだ声は聞こえなかった。
疑いたくなかった。
だが、血は答えのように床へ広がった。
レオの赤い糸が、痛いほど震えた。
前世の疑念。
セラフィードへの疑い。
それが文字になっている。
レオは動かなかった。
ただ、ノアの横で耐えている。
ノアは、その震えを感じながら言った。
「これ、俺の感情そのものじゃない」
セドリックが目を細める。
「分かるのか」
「分かる。近いけど違う」
喉が詰まる。
手稿を読むほど、喉の奥に黒い紙片が増えていく。だが、ノアは視線を逸らさなかった。
「父を失ったのは本当だ。疑ったのも本当だ。怒ったのも本当だ。でも、文が変だ」
次の文字が浮かぶ。
信じたかったものほど、壊れた時に世界を壊す理由になる。
ノアの声が低くなる。
「ほらな」
レギスが問う。
「歪められている?」
「誘導されてる。感情を、そのまま記録してるんじゃない。怒りの出口を、黒魔導書に都合よく整えてる」
手稿は続く。
戦争は腐っていた。
王たちは犠牲を数で扱った。
子供たちは旗の色で死んだ。
ならば、旗も、王も、神も、すべて一度壊されるべきだ。
ノアの首輪が熱を持つ。
黒い亀裂が疼く。
魂糸が前世の怒りへ引かれる。
あった。
この怒りはあった。
戦争への怒り。
父を奪われた悲しみ。
セラフィードへの疑念。
世界を正したい願い。
それは嘘ではない。
だから、たちが悪い。
黒魔導書は嘘だけで人を壊したのではない。
本当の痛みを拾い、本当の怒りを拾い、本当の願いを拾ったうえで、それを「壊す正当性」へ組み替えた。
ノアは、低く呟いた。
「……最悪の編集者だな」
セドリックが言う。
「軽口の質が悪い」
「悪くもなりますよ」
レオの声が、静かに沈む。
「これは、君を誘導するためにも使える」
ノアは頷いた。
「現世の俺に、“前世のお前も同じことを考えていた”って見せられる。怒り方も、疑い方も、願い方も、黒魔導書が加工済みのやつをな」
レギスの記録符が揺れる。
「オルドレイス代理がこの手稿へ接続しているなら、現世ノア・クロウを前世イリアス・ノクスヴェルトと同じ思考経路へ誘導することが可能です」
ノアは笑わなかった。
笑えなかった。
手稿の文字が、また浮かぶ。
父王の名誉を取り戻せ。
裏切りの光を焼け。
戦争を終わらせたいなら、世界を一度黒で塗れ。
ノアの喉が詰まる。
指先の黒い痺れが、手首まで上がりかける。
重度ではない。
だが、深い。
魂の内側を黒い紙で擦られているようだった。
レオが、ノアの手首へ触れる。
「やめよう」
「まだ」
「ノア」
「最後までじゃない。必要なところだけ」
「十分危険だ」
「分かってる」
ノアは、手稿へ視線を落としたまま言う。
「でも、これを見ないと、あいつがどうやって俺を“同じ思考”に戻すつもりか分からない」
レオは、苦しげに黙った。
止めたい。
だが、ノアの判断を奪わない。
赤い糸は震えながらも、今のノアを支える位置で止まっていた。
セドリックが言う。
「あと三行だ。それ以上は閉じる」
「了解」
ノアは、息を整えた。
次の行。
黒魔導書は、怒りに名前を与える。
その次。
怒りに名前があれば、魂は迷わない。
ノアは眉を寄せた。
「名前を消す奴らが、怒りには名前をつけるのかよ」
声が低い。
吐き捨てるような声だった。
レギスが静かに言う。
「分類と同じです。名前を与えたものは、管理できる」
「腹立つな」
「同意します」
ノアはレギスを一瞥した。
「今の同意、ちょっと人間っぽかった」
「状況により、記録官的表現を省きました」
「真面目か」
そして、最後の行が浮かんだ。
それまでの黒い文字よりも、細い。
歪みが少ない。
黒魔導書の文法に完全には染まりきっていない。
前世イリアスの筆跡が、そこだけ生々しく残っていた。
セラフィードだけは、信じたかった。
ノアは動けなくなった。
レオも、動けなかった。
禁書庫の黒い灯りが、遠くなる。
手稿の文字が、目の奥へ焼きつく。
セラフィードだけは。
信じたかった。
それは、怒りでも、正当性でも、破壊の理由でもなかった。
ただの本音だった。
疑いたくなかった。
信じたかった。
裏切られたと思い込む直前まで。
父王の血を浴び、世界が壊れる音を聞く直前まで。
それでも、信じたかった。
レオの赤い糸が、痛いほど震えた。
ノアの喉は掠れ、言葉が出ない。
黒い手稿は、その一文を最後に、静かに閉じた。




