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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第七章【黒魔導書の頁は眠らない】

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第130話 災厄手稿、一番



 黒い頁の上に、文字が浮かんでいた。


「災厄手稿、一番」


 その五文字が刻まれた瞬間、黒魔法科禁書庫の空気が冷えた。


 石壁の奥に染み込んでいた古い魔力が、一斉に息を潜める。青白かった魔力灯は黒く濁り、封印蝋の表面に細い亀裂のような影が走った。鎖で縛られていた禁書の頁が、閉じたまま小さく震える。


 空白の本は、まだ呼吸していた。


 表紙が膨らみ、沈む。


 その中央に挟まった第十三頁だけが、他のすべての本を見下ろすように黒く沈んでいる。


 ノア・クロウは、喉を押さえたまま、その文字を見ていた。


 災厄手稿。


 一番。


 嫌な響きだった。


 自分の知らないところで、自分の名を冠した何かが保管されている。その気味悪さは、魂帳局の回収予定札に似ている。だが、こちらはもっと内側へ来る。記録ではなく、喉の奥に黒い指を入れられるような不快感があった。


 ノアは、低く言った。


「俺、そんなもの書いた覚えないぞ」


 声は掠れていた。


 先ほど第十三頁に口を索引にされかけたせいで、喉がまだ疼いている。舌の奥に、知らない古代語のざらつきが残っていた。右手の甲では照合番号が冷たく脈打ち、白い枠の中の「ノア・クロウ」が熱を持っている。


 レオ・アステルレインの赤い糸が、隣で鋭く張った。


 ノアの前に出たい。


 黒い頁から隠したい。


 空白の本ごと燃やしたい。


 その全部が、赤い糸から伝わってくる。だが、レオはまだ横にいた。肩は前へ出かけているが、ノアの視界は塞いでいない。


 セドリック・バロウズが黒魔法陣を強めた。


「動くな。封筒が出る」


 その言葉通り、禁書棚の奥が軋んだ。


 黒い棚の隙間から、封筒のようなものが浮かび上がる。


 紙ではない。


 黒い革にも、薄い魔導紙にも見える。封蝋の位置には、前世イリアス・ノクスヴェルトの紋章に似た印が押されていた。黒い翼と、割れた星。そして、災厄の名に結びつけられた古い紋。


 だが、微妙に違う。


 ノアの魂が知っているイリアスの紋章よりも、線が歪んでいる。黒魔導書の文字が、その輪郭を勝手に補強しているようだった。


 ノアは顔をしかめる。


「やだな。本人確認なしで俺っぽい印を作るな」


 レギス・グレイヴが、灰色の記録符を慎重に広げた。


 彼の黒く染まった腕輪は、まだセドリックの封印符で抑えられている。魂帳局から拘束対象にされた回収官。その立場は不安定なままだが、今は深部記録の照合に必要だった。


 レギスの記録符が灰色に光る。


「魂帳局深部記録と照合します。災厄手稿……確認。黒魔導書に取り込まれた者が残す内的記録、とあります」


 ノアの眉が動いた。


「内的記録」


「本人が意識して書いた手稿ではありません」


 レギスは黒い封筒を見つめたまま続けた。


「黒魔導書が、対象者の思考、記憶、怒り、願いを頁として記録したものです。形式上は手稿ですが、本人の執筆物ではありません」


 ノアは、しばらく黙った。


 喉の奥が、またざらつく。


 頭の中を覗かれる。


 記憶を切り取られる。


 怒りを文章にされる。


 願いを、黒い頁として保存される。


 それは、魂帳局に名前を記録されるのとは違う気持ち悪さだった。


 もっと近い。


 もっと勝手だ。


 ノアは、低く言った。


「頭の中まで勝手に議事録にするな」


 その声に、レオの赤い糸が強く震えた。


 怒りだった。


 ノアの思考まで黒魔導書に記録されていた。


 前世イリアスが何を感じ、何を疑い、何を願ったのか。それを黒魔導書が勝手に拾い、整え、頁にした。


 レオにとって、それは耐えがたいことだった。


 前世で、黒魔導書はイリアスを奪った。


 そのうえ、内側まで記録していた。


 レオは低く言う。


「君の中まで」


 ノアは横目で見る。


「俺じゃなくて、前世のイリアスな」


「同じ魂だ」


「そこ、都合よく切り分けられないのは分かってるけどな」


 レオの表情が苦く歪む。


「閉じたくなる」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「俺の記憶を?」


「黒魔導書が触れた部分を」


「でも、しないんだろ」


 レオは、赤い糸を強く握りしめるように震わせた。


「しない」


 短い返事だった。


 重く、苦い。


 ノアは、小さく息を吐いた。


「よし」


「よくない」


「今は、よし」


 セドリックが黒い封筒へ手をかざした。


 直接触れない。


 封筒の周囲に黒魔法の膜を張り、内側の記録だけを浮かび上がらせる。


 封蝋に似た紋章が、ゆっくり割れた。


 中から、一枚の黒い紙が出てくる。


 手稿。


 だが、手書きではない。


 文字は浮かんでいる。


 前世イリアスの筆跡に似ているのに、線の端が黒魔導書の文字へ繋がっている。本人の感情を、誰かが別の文法で整え直したような、歪な筆跡だった。


 ノアの魂糸が引かれる。


 胸が重くなる。


 手稿一番の最初の行が、ゆっくり浮かんだ。


 父を失った。


 その文字を見た瞬間、ノアの呼吸が止まりかけた。


 同盟儀式の日。


 父王の背中。


 胸を貫いた偽装聖魔法。


 血の匂い。


 若いイリアスの手に残った温度。


 喪失が、黒い文字としてよみがえる。


 ノアの指先が黒く痺れた。


 右手の爪先から、黒いインクに浸したような感覚が広がる。実際に色が変わったわけではない。だが、魔力回路の端が黒く染まるように痺れる。


「っ……」


 短く息が詰まる。


 レオがすぐに支える。


「ノア・クロウ」


「……大丈夫」


「読まなくていい」


「読む。読まれるんじゃなくて、読む」


 ノアは、手稿を見た。


 次の行が浮かぶ。


 セラフィードの光が、父の胸に見えた。


 違うと叫んだ声は聞こえなかった。


 疑いたくなかった。


 だが、血は答えのように床へ広がった。


 レオの赤い糸が、痛いほど震えた。


 前世の疑念。


 セラフィードへの疑い。


 それが文字になっている。


 レオは動かなかった。


 ただ、ノアの横で耐えている。


 ノアは、その震えを感じながら言った。


「これ、俺の感情そのものじゃない」


 セドリックが目を細める。


「分かるのか」


「分かる。近いけど違う」


 喉が詰まる。


 手稿を読むほど、喉の奥に黒い紙片が増えていく。だが、ノアは視線を逸らさなかった。


「父を失ったのは本当だ。疑ったのも本当だ。怒ったのも本当だ。でも、文が変だ」


 次の文字が浮かぶ。


 信じたかったものほど、壊れた時に世界を壊す理由になる。


 ノアの声が低くなる。


「ほらな」


 レギスが問う。


「歪められている?」


「誘導されてる。感情を、そのまま記録してるんじゃない。怒りの出口を、黒魔導書に都合よく整えてる」


 手稿は続く。


 戦争は腐っていた。


 王たちは犠牲を数で扱った。


 子供たちは旗の色で死んだ。


 ならば、旗も、王も、神も、すべて一度壊されるべきだ。


 ノアの首輪が熱を持つ。


 黒い亀裂が疼く。


 魂糸が前世の怒りへ引かれる。


 あった。


 この怒りはあった。


 戦争への怒り。


 父を奪われた悲しみ。


 セラフィードへの疑念。


 世界を正したい願い。


 それは嘘ではない。


 だから、たちが悪い。


 黒魔導書は嘘だけで人を壊したのではない。


 本当の痛みを拾い、本当の怒りを拾い、本当の願いを拾ったうえで、それを「壊す正当性」へ組み替えた。


 ノアは、低く呟いた。


「……最悪の編集者だな」


 セドリックが言う。


「軽口の質が悪い」


「悪くもなりますよ」


 レオの声が、静かに沈む。


「これは、君を誘導するためにも使える」


 ノアは頷いた。


「現世の俺に、“前世のお前も同じことを考えていた”って見せられる。怒り方も、疑い方も、願い方も、黒魔導書が加工済みのやつをな」


 レギスの記録符が揺れる。


「オルドレイス代理がこの手稿へ接続しているなら、現世ノア・クロウを前世イリアス・ノクスヴェルトと同じ思考経路へ誘導することが可能です」


 ノアは笑わなかった。


 笑えなかった。


 手稿の文字が、また浮かぶ。


 父王の名誉を取り戻せ。


 裏切りの光を焼け。


 戦争を終わらせたいなら、世界を一度黒で塗れ。


 ノアの喉が詰まる。


 指先の黒い痺れが、手首まで上がりかける。


 重度ではない。


 だが、深い。


 魂の内側を黒い紙で擦られているようだった。


 レオが、ノアの手首へ触れる。


「やめよう」


「まだ」


「ノア」


「最後までじゃない。必要なところだけ」


「十分危険だ」


「分かってる」


 ノアは、手稿へ視線を落としたまま言う。


「でも、これを見ないと、あいつがどうやって俺を“同じ思考”に戻すつもりか分からない」


 レオは、苦しげに黙った。


 止めたい。


 だが、ノアの判断を奪わない。


 赤い糸は震えながらも、今のノアを支える位置で止まっていた。


 セドリックが言う。


「あと三行だ。それ以上は閉じる」


「了解」


 ノアは、息を整えた。


 次の行。


 黒魔導書は、怒りに名前を与える。


 その次。


 怒りに名前があれば、魂は迷わない。


 ノアは眉を寄せた。


「名前を消す奴らが、怒りには名前をつけるのかよ」


 声が低い。


 吐き捨てるような声だった。


 レギスが静かに言う。


「分類と同じです。名前を与えたものは、管理できる」


「腹立つな」


「同意します」


 ノアはレギスを一瞥した。


「今の同意、ちょっと人間っぽかった」


「状況により、記録官的表現を省きました」


「真面目か」


 そして、最後の行が浮かんだ。


 それまでの黒い文字よりも、細い。


 歪みが少ない。


 黒魔導書の文法に完全には染まりきっていない。


 前世イリアスの筆跡が、そこだけ生々しく残っていた。


 セラフィードだけは、信じたかった。


 ノアは動けなくなった。


 レオも、動けなかった。


 禁書庫の黒い灯りが、遠くなる。


 手稿の文字が、目の奥へ焼きつく。


 セラフィードだけは。


 信じたかった。


 それは、怒りでも、正当性でも、破壊の理由でもなかった。


 ただの本音だった。


 疑いたくなかった。


 信じたかった。


 裏切られたと思い込む直前まで。


 父王の血を浴び、世界が壊れる音を聞く直前まで。


 それでも、信じたかった。


 レオの赤い糸が、痛いほど震えた。


 ノアの喉は掠れ、言葉が出ない。


 黒い手稿は、その一文を最後に、静かに閉じた。




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