第129話 第十三頁、索引再開
空白の本が、呼吸していた。
黒魔法科禁書庫の奥。
封印蝋と黒鉄と古い魔力灯に囲まれた棚の中央で、題名のない本がひとりでに開いている。表紙は無色に近い灰。紙は白いはずなのに、黒い頁が挟まった瞬間から、内側へ闇が滲み始めていた。
黒い頁は、本の中央に収まっている。
右下には、第十三頁。
その中央に、文字が浮かんだ。
「第十三頁、索引再開」
文字が現れた瞬間、禁書庫全体が応えた。
棚の奥で、鎖に縛られていた禁書が一冊、音もなく開く。
封印蝋が割れたわけではない。鎖が外れたわけでもない。ただ、閉じられていたはずの本の頁だけが、封印の隙間から薄く震えた。
別の棚でも、また一冊。
さらに奥で、黒い革表紙の本がかすかに軋む。
魔力灯の青白い光が、黒く濁った。
灯りの芯に墨を落としたように、炎の中心が黒く沈む。床の封印式に影が走り、壁に刻まれた古い黒魔法陣が、眠りから起こされたように薄く光り始めた。
禁書庫に封じられた黒魔法記録が、次々と呼応している。
ただ開くのではない。
呼ばれている。
索引に。
黒魔導書第十三頁へ。
古い魔法式、禁術の断片、失敗した召喚記録、封印された呪文の前半、焼け残った契約文。ばらばらに閉じ込められていた記録が、目次を見つけた本のように、黒い頁へ向かって細い線を伸ばしていく。
ノア・クロウは、その中心に立っていた。
セドリックの黒魔法結界の内側。
レオ・アステルレインの赤い糸の隣。
それでも、魂糸が黒い頁へ引かれる。
喉が勝手に動いた。
息を吸った覚えはない。
言葉を作ろうとした覚えもない。
それなのに、舌の根元が引き攣り、喉の奥から古い音がせり上がってくる。
黒魔導書の索引用語。
ノアが今の人生で学んだ古代語ではない。
前世イリアスが黒魔導書に触れていた頃、頁と頁、呪文と呪文、記録と記録を繋ぐために刻まれていた、黒い索引の言葉。
知らない。
だが、魂が知っている。
それが、最悪だった。
「っ……」
ノアは口元を押さえた。
声にする前に止める。
けれど、喉は勝手に動く。
舌が古い音を探す。歯の裏に、黒い文字が貼りつくような感覚がある。喉の奥で紙片が擦れ、名前ではない言葉を吐き出そうとする。
伴侶首輪が熱を持った。
黒い亀裂が疼き、灰色の切断痕も反応する。手の甲の照合番号が冷たく痛み、白い枠の中に刻まれた「ノア・クロウ」の文字がかすかに赤く光った。
瞳孔が開く。
黒い頁の文字が、妙に近く見えた。
「第十三頁、索引再開」
その一文が、ノアの喉を通して続きを読ませようとしている。
レオが一歩寄った。
赤い糸が強く張る。
だが、ノアの口を塞がなかった。
声を奪わなかった。
喉を封じなかった。
その代わり、赤い糸をノアの背後へ細く回し、現世名へ支える。押し込めるのではなく、踏みとどまるための足場を作るように。
レオの声は、低く震えていた。
「ノア、君の声で止めて」
ノアは、歯を食いしばった。
レオがどれほど危ういか、赤い糸越しに分かった。
本当は封じたい。
ノアの喉から知らない言葉が漏れるくらいなら、今すぐ声を止めたい。黒い頁に読まれるくらいなら、声そのものを自分の魔力で包んで守りたい。
だが、それはしない。
ノア本人に止めさせる。
その選択を、ぎりぎりで守っている。
ノアは、喉の奥で蠢く古代語を押し返した。
黒い音が、唇の隙間まで来る。
息が詰まる。
胸の奥が重い。
魂糸が禁書庫内の記録へ引かれ、いくつもの禁書の気配がノアの内側を覗こうとする。
ノアは、低く呻いた。
「っ……俺の口を索引にするな」
声は掠れていた。
だが、拒絶だった。
空白の本が、震えた。
黒い頁の文字が一瞬だけ滲む。
しかし、完全には止まらない。
禁書棚のあちこちで、本がまた軋む。古い魔力灯の黒い濁りが濃くなり、壁の封印式が細く震えた。第十三頁は、ノアの声をまだ使おうとしている。
セドリック・バロウズが低く言った。
「索引干渉だ。第十三頁はノアの魂に残る黒魔導書の目録を呼び出そうとしている」
レギス・グレイヴの灰色の記録符も震えていた。
「禁書庫内の記録だけではありません。対象の前世記憶内にある黒魔導書記録も参照対象になっています」
ノアは、薄く笑おうとした。
笑えなかった。
喉が、また勝手に動く。
知らない古代語が、舌先に乗りかける。
黒魔導書の頁を呼ぶ言葉。
目録を開く言葉。
眠っているはずの断片を起こす言葉。
ノアは、唇を強く閉じた。
「ん……っ」
呼吸が乱れる。
瞳孔がさらに開く。
首輪の熱が上がる。
だが、重度には落ちない。
まだ、意識はここにある。
レオの赤い糸が、ノアの現世名を支えるように震えた。
「ノア・クロウ」
名前が入る。
喉に貼りついた黒い紙片が、少しだけ剥がれる。
レオは続けた。
「君の声は、君のものだ」
ノアは息を吸う。
黒い頁を見る。
空白の本を見る。
禁書棚を見る。
呼ばれた記録たちを見る。
そして、低く言った。
「俺は、読む側だ。読まれる側じゃない」
その言葉が、禁書庫の奥へ落ちた。
赤い糸が強く光る。
伴侶首輪の黒い亀裂が一瞬だけ熱を吐き、白い枠の中の「ノア・クロウ」が赤く浮かぶ。手の甲の照合番号は疼いたが、照合率は進まない。
空白の本が、大きく震えた。
第十三頁の文字が、縦に裂けるように揺れる。
「索引再開」の文字が一瞬、薄くなる。
禁書棚で開きかけていた本が、次々と止まった。
鎖に縛られた禁書の頁が閉じる。
封印蝋の下で震えていた記録が沈む。
魔力灯の黒い濁りが、少しだけ薄れた。
索引干渉は、一時的に止まった。
ノアは、深く息を吐く。
喉が焼けるように痛い。
しかし、知らない言葉は漏れていない。
レオの肩から、ほんのわずかに力が抜けた。
だが、完全には抜けない。
黒い頁はまだそこにある。
空白の本は、器として呼吸を続けている。
セドリックが結界を強めた。
「今の宣言で干渉が止まった。本人意思による読者権限の主張、か」
ノアは喉を押さえたまま、掠れた声で言った。
「読者権限って言うと急に図書館っぽくなるな」
「状況は図書館より悪い」
「でしょうね」
レギスが記録符を見つめる。
「第十三頁は索引機能を持つ頁です。単独の呪文頁ではありません。他の頁、関連手稿、封印記録を呼び戻すための中心的断片と考えられます」
学院長が低く問う。
「放置すればどうなる」
「黒魔導書が頁単位で再構成される可能性があります」
その言葉に、レオの赤い糸が鋭く張った。
ノアも、喉の痛みを忘れて黒い頁を見た。
黒魔導書本体は失われた。
そう思っていた。
だが、頁が残っている。
索引が残っている。
頁同士を呼び、記録を集め、器を選び、再び本の形を取ろうとしている。
眠っていない。
その言葉は、ただの脅しではなかった。
セドリックが手をかざし、空白の本へ封鎖陣を重ねる。
「この場で破壊はしない」
レオが即座に反応する。
「なぜですか」
「索引頁を破壊すれば、呼ばれかけた記録が散る。禁書庫中に黒魔導書断片がばらまかれる危険がある」
「封じるのですか」
「一時的にな」
ノアは、黒い頁から目を離さない。
「本棚の中で爆発するよりはマシか」
「軽く言うな」
「軽く言わないと、今度は本棚ごと燃やしたくなる」
レオが低く言う。
「燃やしたい」
「お前はもっと燃やしたい側だったな」
「君の喉を使った」
「そこは俺も腹立ってる」
レオは、ノアの喉元へ視線を落とした。
「癒す」
「後で」
「今」
「禁書庫内で治療会するな」
「喉が傷ついてる」
「知ってる。でも今は本が先」
「君が先」
「レオ」
ノアが低く呼ぶと、レオは止まった。
苦しげに。
だが止まった。
セドリックの封鎖陣が、空白の本を囲む。
黒い糸のような魔力が本の周囲を巡り、封印蝋の代わりに仮の封緘を作っていく。禁書庫の石壁に刻まれた結界も反応し、棚の周囲を閉じる。
黒い頁は、抵抗しなかった。
ただ、呼吸を続けている。
開く。
沈む。
開く。
沈む。
空白の本の表紙が、そのたびにわずかに膨らむ。
ノアの喉の奥も、同じリズムで疼いた。
レオがそれに気づき、赤い糸を少しだけ強める。
少しきつい。
ノアは横目で見る。
「きつい」
レオがすぐに緩めた。
「ごめん」
「反応はいい」
「君の喉が動いた」
「動いてない」
「動きかけた」
「そこまで見るな」
「見る」
「監視官が増えた」
レギスが、少し離れた場所から真面目に言った。
「私は現在記録を取っていません」
「そこじゃない」
セドリックの封鎖陣が完成しかけた、その時だった。
第十三頁の文字が再び浮かんだ。
今度は「索引再開」ではない。
黒い文字が、頁の中央にひとつずつ刻まれていく。
何かを呼び出すための記録名。
禁書庫の灯りが、再び黒く濁った。
ノアの喉が、ぴくりと震える。
古代語は出ない。
だが、胸の奥に嫌な重さが落ちた。
文字が完成する。
「災厄手稿、一番」
禁書庫の空気が、低く鳴った。
ノアは、その文字を見たまま、表情を消した。
声が低くなる。
「俺、そんなもの書いた覚えないぞ」




