↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第七章【黒魔導書の頁は眠らない】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

129/134

第127話 黒魔導書は、まだ眠っていない



 学院結界の上空に、黒い頁が浮かんでいた。


 夜明け前の空は、まだ青く沈んでいる。


 東の端に薄い白が滲み始めているのに、学院全体を覆う結界は灰色に染まり、その上に帳簿の頁のような魔法陣が開いていた。灰色の鎖が結界へ食い込み、文字列の輪が軋むたび、学院の塔や屋根の輪郭が一瞬だけ灰色に歪む。


 そのすべての上。


 黒い頁が、一枚。


 風に揺れていた。


 だが、燃えない。


 落ちない。


 破れもしない。


 ただ、空の高みに貼りつけられたように揺れ、黒い紙面だけが朝の光を拒んでいる。縁は古く焦げたように縮れ、表面には黒より深い墨の艶があった。


 そこに、文字がある。


 ノア・クロウは、その筆跡を見た瞬間、息を止めた。


「黒魔導書は、まだ眠っていない」


 書かれている言葉は、それだけだった。


 だが、その筆跡を、ノアの魂は知っていた。


 偽物ではない。


 切り貼りされた記録でもない。


 魂帳局の帳簿文字でも、白花派の祈祷文字でもない。


 前世の自分が、黒魔導書に触れていた時期の筆跡に似ていた。イリアス・ノクスヴェルトが、黒い魔力に侵されながら、それでもまだ自分の手で記録を残そうとしていた頃の文字。


 ただし、ノアにはその一文を書いた記憶がない。


 覚えていない。


 それが、気持ち悪かった。


 喉の奥に、黒い紙片が貼りつくような違和感が生まれる。息を吸うたび、その紙片が内側でかさりと擦れた。伴侶首輪《メイト・カラー》が熱を持つ。黒い亀裂が疼き、灰色の切断痕も同時に反応した。


 手の甲の照合番号が冷たく脈打つ。


 白い枠の中に刻まれた「ノア・クロウ」の文字が、かすかに熱を持った。


 ノアは、軽口で流そうとした。


「空から黒歴史が降ってくるの、だいぶ最悪だな」


 声は出た。


 だが、いつもより少し遅れた。


 喉の奥に貼りついた黒い紙片のせいで、音が掠れた。


 レオ・アステルレインは笑わなかった。


 彼はノアの隣に立っている。


 赤い糸が鋭く張っていた。先ほどまで学院結界へ食い込む灰色の鎖に向いていた警戒が、今はすべて黒い頁へ向いている。


 魂帳局の鎖よりも。


 転生者狩りの回収隊よりも。


 レオは、その黒い頁を恐れていた。


 前世で、黒魔導書にイリアスを奪われた。


 黒魔導書が囁き、怒りを煽り、喪失を正義に変え、やがて災厄へ引きずり込んだ。


 その本体は前世で滅んだはずだった。


 それでも、頁が一枚、まだ眠らずに残っている。


 レオにとって、それは許せないものだった。


 頁一枚ですら、ノアに近づけたくない。


 レオは低く言った。


「触れないで」


 ノアは、空の黒い頁を見上げたまま答えた。


「触らなきゃ分からないだろ」


「分かる前に、君が取られる」


 その言葉は、静かだった。


 だが、重い。


 ノアは、すぐに反論できなかった。


 魂帳局の記録線とは違う。


 白花派の儀礼とも違う。


 これは、もっと古く、もっと近い。


 自分の魂の奥に、黒い紙片が貼りつく感覚。


 あの頁は記録ではない。


 儀礼の証拠でもない。


 黒魔導書そのものに近い。


 けれど、黒魔導書本体は滅んだはずだった。前世の終わりとともに焼かれ、砕かれ、封じられ、二度と世界に残らないよう処理されたはずだった。


 なら、あれは何だ。


 頁だけが独立して残ったのか。


 世界の記録に。


 夢に。


 魂に。


 それとも、オルドレイス代理の深部記録の黒い空白が、眠っていない頁へ繋がっているのか。


 ノアは、かすかに眉を寄せた。


「……あれ、俺の記憶じゃない」


 レオが横を見る。


「覚えがないの?」


「ない。でも筆跡は、俺だ」


 声に、自分でも分かるほど嫌な硬さが混じった。


「イリアスの筆跡だ。黒魔導書に触れてた頃の。けど、あの一文を書いた記憶はない」


 レオの赤い糸がさらに強く張る。


「記憶を捏造している可能性がある」


「それならまだ分かる。けど、偽物にしては……近すぎる」


 黒い頁が、空で揺れた。


 そのたび、ノアの喉の奥で紙が擦れる。


 かさり。


 かさり。


 音など聞こえないはずなのに、聞こえる。


 ノアの魂糸が、頁へ引かれかけた。


 赤い糸が現世へ固定する。


 レオの声が、すぐに落ちる。


「ノア・クロウ」


 伴侶首輪の熱が少しだけ落ち着いた。


 ノアは息を吐く。


「助かる」


「見すぎないで」


「無理。上空の黒歴史、目立ちすぎ」


「ノア」


「分かってる」


 分かっている。


 見れば引かれる。


 しかし、見なければ分からない。


 この矛盾ばかりだ。


 学院結界の下、セドリックが複写記録を持って窓際へ来た。


 その隣には、黒く染まった腕輪を封じられたレギス・グレイヴが立っている。さらに研究室の扉が開き、学院長が入ってきた。長衣の裾には、結界中枢から直接来たのだろう、淡い防護光がまだまとわりついている。


 学院長は上空の頁を見て、深く眉を寄せた。


「結界上に、黒魔導書系統の反応が出ている」


 セドリックが短く応じる。


「深部記録の複写と一致します。黒い空白の奥にあった頁番号と同じ系統です」


 レギスは薄い灰色の瞳で頁を見上げた。


 彼の顔にも、はっきり警戒が出ている。


「番号があります」


 ノアはレギスを見る。


「読めるのか」


「はい。魂帳局深部記録に残っていた頁番号と一致します」


 レギスは、黒い頁の右下へ視線を向けた。


 ノアも見る。


 文字がある。


 最初は黒い滲みにしか見えなかった。だが、目を凝らすと、頁の右下に小さく数字が刻まれている。


 第十三頁。


 その数字を認識した瞬間、ノアの手の甲が疼いた。


 照合番号が冷たく脈打ち、白い枠の中の現世名が熱を持つ。首輪の黒い亀裂が、内側で細く軋んだ。


「っ……」


 喉が詰まる。


 レオがすぐに水を差し出した。


 ノアは受け取る。


 手が少し震えた。


 水を飲むと、喉の黒い紙片が一瞬だけ溶けるような感覚があった。だが、消えはしない。


「空の本にまで喉やられるの、燃費悪すぎ」


 レオは、ノアの声を聞いて眉を寄せた。


「君の声が一瞬止まった」


「見てたな」


「見てる」


「監視官より近い」


「彼は記録する。僕は戻す」


「その台詞、定番化してきたな」


「必要だから」


 レオは黒い頁から目を離さない。


 ノアも、離せない。


 セドリックが複写記録を開いた。


 灰色の薄膜の中央に、黒い空白とOの署名。その奥へ伸びる記録線が、いま上空に浮かぶ頁の反応と重なっている。


「黒魔導書本体は前世で処理された。だが、頁単位で残った断片があるとすれば、話が変わる」


 学院長が低く言った。


「頁が独立して干渉する、と?」


「可能性はあります。黒魔導書は単なる本ではない。魔力、記録、契約、呪詛、読者の魂を連結する媒体だった。頁ごとに記録断片として残っていても不自然ではない」


 レギスが続ける。


「魂帳局深部記録の黒い空白は、この第十三頁へ接続していました。局長代理Oの署名は、頁の欠落記録を通じて権限を発生させている可能性があります」


 ノアは、黒い頁を睨んだ。


「つまり、存在しない上司の次は、眠ってない本の切れ端か」


 セドリックが言う。


「切れ端で済めばいいがな」


「先生、そういう不吉な現実感いらないです」


「必要だ」


「返品したい」


 軽口を言っている間にも、首輪は熱を持ち続けている。


 黒い頁は、ノアの魂糸を呼んでいた。


 開け。


 読め。


 触れ。


 思い出せ。


 そう言葉にされたわけではない。


 だが、黒い紙面の沈黙そのものが、そう囁いているようだった。


 レオは、その気配を感じている。


 だから、ノアの横から動かない。


 今すぐノアの前に立ちたいのを堪えているのが、赤い糸から伝わった。


 ノアは横目で見た。


「前に出るなよ」


 レオの表情が揺れる。


「出たい」


「正直でよろしい。今は横」


「……横にいる」


「よし」


 そのやり取りを聞いていた学院長が、わずかに目を細めた。


 何か言いたげだったが、言わない。


 今は、上空の頁が先だった。


 黒い頁が、ゆっくり揺れる。


 灰色に染まる学院結界の上。


 転生者狩りの鎖が食い込む空の下。


 その頁だけが、別の黒で存在していた。


 すると、頁の表面の文字が一瞬だけ濃くなった。


「黒魔導書は、まだ眠っていない」


 その一文の下に、別の薄い線が浮かぶ。


 すぐに消えた。


 ノアは目を細める。


「今、何か出た」


 セドリックが問う。


「読めたか」


「一瞬すぎた。でも……たぶん、頁番号の続きだ。第十三頁の下に、何か別の参照があった」


 レギスが複写記録を確認する。


「深部記録側にも欠落があります。第十三頁に関連する前後頁が黒塗りです」


「第十三頁だけじゃないってことか」


 ノアの声が低くなる。


 セドリックが答えた。


「断片が複数ある可能性は高い」


 レオの赤い糸が、さらに鋭く張る。


「全部、ノアを狙うのですか」


「狙う、というより、呼応するのかもしれない」


 セドリックはノアを見る。


「イリアス・ノクスヴェルトが黒魔導書に触れた魂だからな」


 ノアは苦く笑った。


「過去の読書履歴でここまで追われるの、だいぶ嫌だな」


 その瞬間、黒い頁が結界から剥がれた。


 誰も触れていない。


 風に煽られたわけでもない。


 頁は、上空の灰色魔法陣から一枚だけするりと外れ、ゆっくりと落ち始めた。


 レオが即座にノアの前へ出かける。


 ノアは袖を掴んだ。


「落下先、俺じゃない」


 レオは止まった。


 赤い糸が、落ちる頁を追う。


 黒い頁は、ノアの真上へ来なかった。


 学院の塔の方へ流れていく。


 南棟の奥。


 黒魔法科の古い棟。


 その地下にある、禁書庫の方角。


 セドリックの顔が変わった。


「まずい」


 学院長が結界符を展開する。


 だが、黒い頁は防護術式に触れても燃えない。止まらない。すり抜ける。物質ではなく、記録断片として結界の隙間を通っていく。


 禁書庫の外部結界が、黒い頁を弾こうと光った。


 しかし、頁はその光を一枚の紙のようにめくり、内側へ沈んだ。


 消える。


 黒魔法科禁書庫の結界の奥へ。


 研究室に、重い沈黙が落ちた。


 セドリックが低く言った。


「黒魔法科禁書庫へ入った」


 ノアは、乾いた笑いを漏らした。


 喉の奥の黒い紙片が、まだかすかに擦れる。


「招待状の次は本棚かよ」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。