第127話 黒魔導書は、まだ眠っていない
学院結界の上空に、黒い頁が浮かんでいた。
夜明け前の空は、まだ青く沈んでいる。
東の端に薄い白が滲み始めているのに、学院全体を覆う結界は灰色に染まり、その上に帳簿の頁のような魔法陣が開いていた。灰色の鎖が結界へ食い込み、文字列の輪が軋むたび、学院の塔や屋根の輪郭が一瞬だけ灰色に歪む。
そのすべての上。
黒い頁が、一枚。
風に揺れていた。
だが、燃えない。
落ちない。
破れもしない。
ただ、空の高みに貼りつけられたように揺れ、黒い紙面だけが朝の光を拒んでいる。縁は古く焦げたように縮れ、表面には黒より深い墨の艶があった。
そこに、文字がある。
ノア・クロウは、その筆跡を見た瞬間、息を止めた。
「黒魔導書は、まだ眠っていない」
書かれている言葉は、それだけだった。
だが、その筆跡を、ノアの魂は知っていた。
偽物ではない。
切り貼りされた記録でもない。
魂帳局の帳簿文字でも、白花派の祈祷文字でもない。
前世の自分が、黒魔導書に触れていた時期の筆跡に似ていた。イリアス・ノクスヴェルトが、黒い魔力に侵されながら、それでもまだ自分の手で記録を残そうとしていた頃の文字。
ただし、ノアにはその一文を書いた記憶がない。
覚えていない。
それが、気持ち悪かった。
喉の奥に、黒い紙片が貼りつくような違和感が生まれる。息を吸うたび、その紙片が内側でかさりと擦れた。伴侶首輪が熱を持つ。黒い亀裂が疼き、灰色の切断痕も同時に反応した。
手の甲の照合番号が冷たく脈打つ。
白い枠の中に刻まれた「ノア・クロウ」の文字が、かすかに熱を持った。
ノアは、軽口で流そうとした。
「空から黒歴史が降ってくるの、だいぶ最悪だな」
声は出た。
だが、いつもより少し遅れた。
喉の奥に貼りついた黒い紙片のせいで、音が掠れた。
レオ・アステルレインは笑わなかった。
彼はノアの隣に立っている。
赤い糸が鋭く張っていた。先ほどまで学院結界へ食い込む灰色の鎖に向いていた警戒が、今はすべて黒い頁へ向いている。
魂帳局の鎖よりも。
転生者狩りの回収隊よりも。
レオは、その黒い頁を恐れていた。
前世で、黒魔導書にイリアスを奪われた。
黒魔導書が囁き、怒りを煽り、喪失を正義に変え、やがて災厄へ引きずり込んだ。
その本体は前世で滅んだはずだった。
それでも、頁が一枚、まだ眠らずに残っている。
レオにとって、それは許せないものだった。
頁一枚ですら、ノアに近づけたくない。
レオは低く言った。
「触れないで」
ノアは、空の黒い頁を見上げたまま答えた。
「触らなきゃ分からないだろ」
「分かる前に、君が取られる」
その言葉は、静かだった。
だが、重い。
ノアは、すぐに反論できなかった。
魂帳局の記録線とは違う。
白花派の儀礼とも違う。
これは、もっと古く、もっと近い。
自分の魂の奥に、黒い紙片が貼りつく感覚。
あの頁は記録ではない。
儀礼の証拠でもない。
黒魔導書そのものに近い。
けれど、黒魔導書本体は滅んだはずだった。前世の終わりとともに焼かれ、砕かれ、封じられ、二度と世界に残らないよう処理されたはずだった。
なら、あれは何だ。
頁だけが独立して残ったのか。
世界の記録に。
夢に。
魂に。
それとも、オルドレイス代理の深部記録の黒い空白が、眠っていない頁へ繋がっているのか。
ノアは、かすかに眉を寄せた。
「……あれ、俺の記憶じゃない」
レオが横を見る。
「覚えがないの?」
「ない。でも筆跡は、俺だ」
声に、自分でも分かるほど嫌な硬さが混じった。
「イリアスの筆跡だ。黒魔導書に触れてた頃の。けど、あの一文を書いた記憶はない」
レオの赤い糸がさらに強く張る。
「記憶を捏造している可能性がある」
「それならまだ分かる。けど、偽物にしては……近すぎる」
黒い頁が、空で揺れた。
そのたび、ノアの喉の奥で紙が擦れる。
かさり。
かさり。
音など聞こえないはずなのに、聞こえる。
ノアの魂糸が、頁へ引かれかけた。
赤い糸が現世へ固定する。
レオの声が、すぐに落ちる。
「ノア・クロウ」
伴侶首輪の熱が少しだけ落ち着いた。
ノアは息を吐く。
「助かる」
「見すぎないで」
「無理。上空の黒歴史、目立ちすぎ」
「ノア」
「分かってる」
分かっている。
見れば引かれる。
しかし、見なければ分からない。
この矛盾ばかりだ。
学院結界の下、セドリックが複写記録を持って窓際へ来た。
その隣には、黒く染まった腕輪を封じられたレギス・グレイヴが立っている。さらに研究室の扉が開き、学院長が入ってきた。長衣の裾には、結界中枢から直接来たのだろう、淡い防護光がまだまとわりついている。
学院長は上空の頁を見て、深く眉を寄せた。
「結界上に、黒魔導書系統の反応が出ている」
セドリックが短く応じる。
「深部記録の複写と一致します。黒い空白の奥にあった頁番号と同じ系統です」
レギスは薄い灰色の瞳で頁を見上げた。
彼の顔にも、はっきり警戒が出ている。
「番号があります」
ノアはレギスを見る。
「読めるのか」
「はい。魂帳局深部記録に残っていた頁番号と一致します」
レギスは、黒い頁の右下へ視線を向けた。
ノアも見る。
文字がある。
最初は黒い滲みにしか見えなかった。だが、目を凝らすと、頁の右下に小さく数字が刻まれている。
第十三頁。
その数字を認識した瞬間、ノアの手の甲が疼いた。
照合番号が冷たく脈打ち、白い枠の中の現世名が熱を持つ。首輪の黒い亀裂が、内側で細く軋んだ。
「っ……」
喉が詰まる。
レオがすぐに水を差し出した。
ノアは受け取る。
手が少し震えた。
水を飲むと、喉の黒い紙片が一瞬だけ溶けるような感覚があった。だが、消えはしない。
「空の本にまで喉やられるの、燃費悪すぎ」
レオは、ノアの声を聞いて眉を寄せた。
「君の声が一瞬止まった」
「見てたな」
「見てる」
「監視官より近い」
「彼は記録する。僕は戻す」
「その台詞、定番化してきたな」
「必要だから」
レオは黒い頁から目を離さない。
ノアも、離せない。
セドリックが複写記録を開いた。
灰色の薄膜の中央に、黒い空白とOの署名。その奥へ伸びる記録線が、いま上空に浮かぶ頁の反応と重なっている。
「黒魔導書本体は前世で処理された。だが、頁単位で残った断片があるとすれば、話が変わる」
学院長が低く言った。
「頁が独立して干渉する、と?」
「可能性はあります。黒魔導書は単なる本ではない。魔力、記録、契約、呪詛、読者の魂を連結する媒体だった。頁ごとに記録断片として残っていても不自然ではない」
レギスが続ける。
「魂帳局深部記録の黒い空白は、この第十三頁へ接続していました。局長代理Oの署名は、頁の欠落記録を通じて権限を発生させている可能性があります」
ノアは、黒い頁を睨んだ。
「つまり、存在しない上司の次は、眠ってない本の切れ端か」
セドリックが言う。
「切れ端で済めばいいがな」
「先生、そういう不吉な現実感いらないです」
「必要だ」
「返品したい」
軽口を言っている間にも、首輪は熱を持ち続けている。
黒い頁は、ノアの魂糸を呼んでいた。
開け。
読め。
触れ。
思い出せ。
そう言葉にされたわけではない。
だが、黒い紙面の沈黙そのものが、そう囁いているようだった。
レオは、その気配を感じている。
だから、ノアの横から動かない。
今すぐノアの前に立ちたいのを堪えているのが、赤い糸から伝わった。
ノアは横目で見た。
「前に出るなよ」
レオの表情が揺れる。
「出たい」
「正直でよろしい。今は横」
「……横にいる」
「よし」
そのやり取りを聞いていた学院長が、わずかに目を細めた。
何か言いたげだったが、言わない。
今は、上空の頁が先だった。
黒い頁が、ゆっくり揺れる。
灰色に染まる学院結界の上。
転生者狩りの鎖が食い込む空の下。
その頁だけが、別の黒で存在していた。
すると、頁の表面の文字が一瞬だけ濃くなった。
「黒魔導書は、まだ眠っていない」
その一文の下に、別の薄い線が浮かぶ。
すぐに消えた。
ノアは目を細める。
「今、何か出た」
セドリックが問う。
「読めたか」
「一瞬すぎた。でも……たぶん、頁番号の続きだ。第十三頁の下に、何か別の参照があった」
レギスが複写記録を確認する。
「深部記録側にも欠落があります。第十三頁に関連する前後頁が黒塗りです」
「第十三頁だけじゃないってことか」
ノアの声が低くなる。
セドリックが答えた。
「断片が複数ある可能性は高い」
レオの赤い糸が、さらに鋭く張る。
「全部、ノアを狙うのですか」
「狙う、というより、呼応するのかもしれない」
セドリックはノアを見る。
「イリアス・ノクスヴェルトが黒魔導書に触れた魂だからな」
ノアは苦く笑った。
「過去の読書履歴でここまで追われるの、だいぶ嫌だな」
その瞬間、黒い頁が結界から剥がれた。
誰も触れていない。
風に煽られたわけでもない。
頁は、上空の灰色魔法陣から一枚だけするりと外れ、ゆっくりと落ち始めた。
レオが即座にノアの前へ出かける。
ノアは袖を掴んだ。
「落下先、俺じゃない」
レオは止まった。
赤い糸が、落ちる頁を追う。
黒い頁は、ノアの真上へ来なかった。
学院の塔の方へ流れていく。
南棟の奥。
黒魔法科の古い棟。
その地下にある、禁書庫の方角。
セドリックの顔が変わった。
「まずい」
学院長が結界符を展開する。
だが、黒い頁は防護術式に触れても燃えない。止まらない。すり抜ける。物質ではなく、記録断片として結界の隙間を通っていく。
禁書庫の外部結界が、黒い頁を弾こうと光った。
しかし、頁はその光を一枚の紙のようにめくり、内側へ沈んだ。
消える。
黒魔法科禁書庫の結界の奥へ。
研究室に、重い沈黙が落ちた。
セドリックが低く言った。
「黒魔法科禁書庫へ入った」
ノアは、乾いた笑いを漏らした。
喉の奥の黒い紙片が、まだかすかに擦れる。
「招待状の次は本棚かよ」




