第126話 転生者狩り、正式発動
警告文は、研究室の空中に刻まれたまま消えなかった。
灰色の文字。
魂帳局式の冷たい整列。
深部記録への接続が閉じた直後、セドリック・バロウズの研究室に浮かび上がったそれは、ただの通知ではなかった。命令だった。宣告だった。帳簿に書かれた瞬間、現実を動かす種類の文字だった。
「深部記録への不正接続を検知」
次の行が、灰色に光る。
「転生者狩り、正式発動」
空気が止まった。
ノア・クロウは椅子に座ったまま、喉を押さえた。
深部記録への接続は切れている。黒い空白にも触れていない。自分で止まった。レオに止められ、踏みとどまり、レギスに複写を任せた。
それでも、魂帳局は見逃さなかった。
机の上の複写記録が、灰色の光を放つ。
さらに文字が増えた。
「対象、ノア・クロウ」
手の甲の照合番号が疼いた。
白い枠の中に薄く刻まれた「ノア・クロウ」の文字が、熱を持つ。伴侶首輪の灰色切断痕がじくりと痛み、喉が詰まる。
続いて。
「補助対象、レオ・アステルレイン」
レオの赤い糸が鋭く張った。
青い瞳が、警告文を冷たく見る。
さらに。
「逸脱回収官、レギス・グレイヴ」
レギスの黒く染まった腕輪が、低く震えた。
ノアは、喉の痛みに耐えながら薄く笑った。
「対象多いな。俺たち、団体割引できる?」
レオが即座に言う。
「笑わないで」
「笑わないと、腹立つだろ」
声は掠れている。
疲労も残っている。
それでも、笑った。
笑わなければ、怒りで喉が塞がりそうだった。
記録。
対象。
補助対象。
逸脱回収官。
何度、荷物みたいに分類すれば気が済むのか。
ノアは机の上の灰色文字を睨んだ。
その瞬間、研究室の外で学院結界が鳴った。
低い。
重い。
鐘でも警報でもない。
学院全体を包む防護結界そのものが、外側から食い込まれた音だった。
窓の外に、灰色が広がっていく。
透明だった学院結界の端が、じわじわと帳簿紙のような色に染まり始めていた。中庭の上空に、巨大な頁のような魔法陣が開く。四角い枠。罫線。署名欄。封緘印。まるで学院そのものを一枚の記録用紙にしようとしているようだった。
そこから、灰色の鎖が降りてくる。
鎖といっても金属ではない。
文字列だった。
回収。
照合。
拘束。
対象確保。
保護回収。
例外処理。
それらの語が輪を作り、連なり、学院結界へ食い込んでいく。結界の光が軋み、灰色の鎖に絡め取られた部分から、細かな罅が走った。
セドリックが即座に研究室の防護陣を展開する。
「学院結界に外部記録術式が食い込んでいる」
レギスが窓際へ近づき、黒く染まった腕輪を押さえた。
「本来の規定では、転生者狩りの回収隊は学院結界を強制突破できません。学院は独立保護区域に指定されています。回収には学院長の同意、または三名の上級記録官による合議承認が必要です」
ノアは窓の外を見た。
「でも食い込んでる」
「例外処理が走っています」
レギスの声が低くなる。
「局長代理Oの署名です」
レオの魔力が冷えた。
白金の光が、指先に滲みかける。
レギスは続けた。
「魂帳局制度を完全に掌握しているわけではありません。通常規定をすべて消しているわけでもない。ですが、例外権限として穴を開けています」
セドリックが険しい顔で言う。
「存在しない役職の例外処理で、学院結界に穴を開けるか」
「ありえないはずです」
レギスは、黒い腕輪を見る。
「ですが、起きています」
ノアは喉の奥で低く笑った。
「実際ありえてるから困るやつ、二回目だな」
学院の外。
灰色の帳簿陣の向こうに、人影が見え始めた。
転生者狩りの回収隊。
遠目にも分かる。
灰色の外套。
白い手袋。
顔を覆う半透明の記録面。
手には武器ではなく、帳簿鎖と封緘符を持っている。殺すためではない。捕まえ、分類し、記録し、回収するための実働部隊。
その方が、よほど気味が悪かった。
ノアの魂糸が強く警戒する。
手の甲の照合番号が冷たく疼き、伴侶首輪が熱を持った。灰色の切断痕が首の内側で引き攣る。喉が詰まり、息が一瞬止まりかけた。
「っ……」
短い呻きが漏れる。
レオがすぐにノアの前へ出た。
当然の動きだった。
ノアを隠す。
灰色の鎖から。
回収隊から。
記録から。
空から開いた帳簿頁から。
全部から。
レオの背中が、ノアの視界を塞ぐ。
それを見た瞬間、ノアは立ち上がった。
足元が少し揺れる。
身体はまだ疲れている。
だが、立った。
そしてレオの横へ出た。
「隠すな。俺も対象なんだろ」
レオの顔が歪む。
「だから隠したい」
「俺を荷物にされたくないなら、俺を隠すな」
レオは息を止めた。
赤い糸が、強く震える。
ノアの言葉は、痛いところを正確に刺した。
魂帳局はノアを対象と呼ぶ。
回収対象と呼ぶ。
保護回収と呼ぶ。
荷物のように扱う。
その扱いに怒るなら、レオもノアを隠された荷物にしてはいけない。
守ることと、視界を奪うことは違う。
レオは分かっている。
分かっているから、苦しい。
青い瞳が揺れた。
それでも、レオは半歩だけ横へずれた。
ほんの半歩。
ノアの視界を塞がない位置へ。
だが、すぐ隣にいる。
触れられる距離。
戻せる距離。
守れる距離。
檻ではなく、隣。
ノアは小さく息を吐いた。
「よし」
レオは苦しげに言う。
「よくない」
「今はよし」
「怖い」
「知ってる」
「君を前に出したくない」
「俺も前線趣味はない。でも、俺の名前の話だ」
ノアは窓の外を見た。
灰色の鎖が学院結界へさらに食い込む。
転生者狩りの回収隊が、結界の裂け目を探るように近づいている。学院側の防護魔法が抵抗しているが、帳簿頁の魔法陣が次々と例外処理を上書きしていく。
対象、ノア・クロウ。
補助対象、レオ・アステルレイン。
逸脱回収官、レギス・グレイヴ。
分類される。
欄に入れられる。
項目として扱われる。
ノアは右手を握った。
白い枠の中のノア・クロウが熱を持つ。
喉は痛い。
声も掠れている。
それでも、言った。
「俺はノア・クロウだ。回収される荷物じゃない」
その声は、研究室の中で低く響いた。
叫びではない。
だが、強かった。
ノア自身が、自分の名を宣言する声。
手の甲の白い枠が、赤く光った。
伴侶首輪の二パーセントの数字が揺れ、しかし進まない。灰色の切断痕は残っている。黒い亀裂も消えていない。完全な勝利などではない。
それでも、赤い糸が強く光った。
レオの名を呼ぶ声ではない。
レオが与えた固定だけでもない。
ノア自身の現世名に、赤い糸が応えた。
研究室の窓の外。
学院結界に食い込んでいた灰色の鎖が、一瞬止まった。
ほんの一瞬。
だが、確かに止まった。
セドリックが目を見開く。
「現世名宣言で、回収鎖の処理が停止した」
レギスも息を呑む。
「対象本人の現世名主張が、回収分類に干渉している……正式記録なら、これは保護判断に加算されるはずです」
ノアは掠れた声で笑った。
「じゃあ、あっちの役所にちゃんと聞かせとけ」
レオが低く言う。
「聞かせる」
「圧がすごい」
「君の名を聞かない記録なら、壊す」
「聞かせると壊すの間にもっと段階があるだろ」
「努力する」
「今それ出るのか」
灰色の鎖は、再び動き出した。
ノアの宣言で止まったのは一瞬だけだ。
局長代理Oの例外処理が、また結界へ食い込んでいく。
だが、その一瞬で分かったことがある。
ノアの現世名は、まだ対抗できる。
荷物ではない。
対象ではない。
本人だと主張することが、回収処理に干渉する。
セドリックが窓の外へ黒魔法陣を向けた。
「学院長へ連絡。全結界を人名防護式に切り替える。分類名ではなく、本人名を優先する術式へ組み直す」
レギスが即座に言う。
「回収隊は対象分類で術式を組みます。現世名を前面に出せば、一時的に処理遅延が起きる可能性があります」
「なら使う」
セドリックの声が鋭い。
「君も手伝え、逸脱回収官」
レギスは一瞬だけ目を伏せた。
「承知しました」
その呼び名を、受け入れたようだった。
魂帳局に弾かれた回収官。
だが、今はその知識が必要だった。
レギスは黒く染まった腕輪を封じたまま、複写記録へ視線を落とす。
その時、彼の表情が変わった。
深部記録から複写した灰色の薄膜。
そこには、ノア・クロウ、イリアス・ノクスヴェルト、セラフィード・ルミナリア、同盟儀式、白花派、黒魔導書、そして黒い空白Oが繋がっている。
レギスは、その中心のさらに奥を見ていた。
「……これは」
ノアが振り返る。
「何」
レギスの声が、低くなる。
「黒い空白の奥に、頁番号があります」
セドリックが複写記録へ近づく。
「頁番号?」
「はい。魂帳局の帳簿番号ではありません。黒魔導書の頁番号です」
ノアの息が止まった。
黒魔導書。
封印庫。
父王を失った怒り。
イリアスが手を伸ばした、あの黒い本。
それが、深部記録の黒い空白の奥に繋がっている。
レオの赤い糸が鋭く張った。
「どういう意味ですか」
レギスは複写記録から目を離さない。
「次に狙われるのは、記録ではありません」
灰色の結界の外で、転生者狩りの鎖が再び鳴った。
レギスは続けた。
「黒魔導書の頁です」
研究室の空気が、冷たく沈む。
ノアは喉を押さえた。
手の甲の白い枠が疼く。
伴侶首輪の灰色切断痕が熱を持つ。
レオの赤い糸が、ノアの魂糸を強く支えた。
水差しが差し出される。
レオだった。
ノアはそれを受け取った。
手が少し震える。
水を飲む。
喉に痛みが走る。
それでも、飲んだ。
二人は並んで窓の外を見た。
灰色に染まり始めた学院結界。
食い込む鎖。
空に開いた帳簿頁。
そのさらに上。
灰色の魔法陣の裂け目に、黒い頁が一枚浮かんだ。
薄く、古く、焼け焦げたような縁を持つ頁。
そこには、前世イリアスの筆跡で文字が書かれていた。
ノアは、その筆跡を知っていた。
知りたくなくても、魂が覚えている。
黒い頁の中央に、こう記されていた。
「黒魔導書は、まだ眠っていない」




