第125話 深部記録へ接続
セドリック・バロウズの研究室の机に、灰色の記録陣が描かれていた。
円ではない。
帳簿の頁を何枚も重ねたような四角い陣だった。縦横に走る罫線、余白、署名欄、封緘印の位置。魔法陣というより、巨大な記録用紙そのものに近い。
その中央に、いくつものものが置かれている。
レギス・グレイヴの認証符。
ノア・クロウの手の甲から写し取った照合番号の記録片。
赤い糸の切断痕から採取した灰色の残滓。
黒い花、灰色の帳簿印、白花派紋が重なった三つの紋の記録片。
どれも、単体で扱うには危険なものばかりだった。
それを一つの陣に並べる。
どう見ても、魂に悪い。
ノアは椅子に座ったまま、机上の灰色陣を見下ろした。
右手の甲には、照合番号の横に白い枠が残っている。その内側には、薄く「ノア・クロウ」と刻まれていた。昨夜、空白名札の侵食に抗って、自分で刻んだ現世名。
まだ消えていない。
だが、薄い。
深部記録へ接続するとなれば、また反応するだろう。
伴侶首輪も不安定だった。灰色の切断痕は、今朝から何度も熱を持っている。黒い亀裂も疼き、照合率二パーセントの数字は沈みきらない。
ノアは喉を押さえ、掠れた声で言った。
「机の上、嫌なもの詰め合わせすぎない?」
セドリックは、陣の端へ黒魔法の補助線を入れながら答えた。
「嫌なものを繋がなければ、嫌な場所へは届かない」
「理屈が嫌」
「事実だ」
「今日の先生、嫌の押し売りがすごい」
「君の状況に合わせている」
「返品したい」
レオ・アステルレインは、ノアのすぐ隣に立っていた。
立ち位置は、いつもより少しだけ横に近い。
以前なら、完全にノアの前に立っていただろう。灰色の記録陣も、レギスも、机も、深部記録も、すべてからノアを遮ろうとしていたはずだ。
だが今は、横だった。
完全には納得していない。
それどころか、青い瞳はずっと危険を見ている。
けれど、レオはノアの前を塞がなかった。
赤い糸は強く張っているが、ノアの魂糸を包み込みすぎない位置で留まっている。支える。引かない。縛らない。だが、いつでも戻せるようにしている。
過保護の微調整。
苦手なまま、続けている。
レギスは机の反対側に立っていた。
灰色の制服。
黒く染まった腕輪。
その腕輪には、まだ拘束対象の命令痕が残っている。セドリックが一時的に封じているが、完全に消えたわけではない。魂帳局から見れば、彼はすでに任務逸脱者だった。
レギスは自分の認証符を見下ろし、静かに言った。
「一度接続すれば、魂帳局本庁はこの場所を検知します。転生者狩りが正式発動する可能性が高い」
ノアは薄く笑った。
「じゃあ急いで覗いて、急いで逃げる。最悪の図書館利用だな」
レオが即座に言う。
「逃げる前提にしないで」
「捕まる前提よりマシ」
「捕まらない」
「頼もしい。怖いけど」
レオは答えなかった。
答えない代わりに、赤い糸が少しだけ強くなった。
ノアは横目で見た。
「今、包み込みすぎ一歩手前」
レオの眉が動く。
「……抑える」
「よろしい」
セドリックが最後の補助線を描き終えた。
研究室の窓には、幾重もの遮断符が貼られている。学院結界へ余波が出ないように、壁にも床にも黒魔法の固定陣が敷かれていた。だが、それでも完全な遮断はできない。
これは魂帳局本庁の深部記録へ触れる術式だ。
向こうが気づかない保証はない。
むしろ、気づく前提で動くしかない。
セドリックはノアへ視線を向けた。
「異常があれば即座に接続を切る。喉、首輪、手の甲、照合率。どれかが強く反応した時点で撤退だ」
「了解」
「軽い」
「重くすると本当に怖いので」
「怖がれ」
「怖いです」
今回は、ノアの声も軽くはなかった。
セドリックはそれ以上言わなかった。
レオがノアの手を取る。
「触れていい?」
「今さらだけど、いい」
「手の甲には触れない。手首を支える」
「うん」
「赤い糸は強くしすぎない」
「うん」
「でも、引かれたら戻す」
「そこは頼む」
レオの表情が、少しだけ変わった。
頼む。
ノアがそう言ったからだ。
レオは低く答えた。
「戻す」
セドリックが陣を起動した。
灰色の記録陣が、机の上でゆっくり回転し始める。
紙ではないのに、頁がめくられる音がした。かさり、かさり、と乾いた音が研究室に満ちる。認証符が灰色に光り、照合番号の記録片が冷たく瞬いた。赤い糸の切断痕から取った灰色の残滓が細い煙のように立ち上り、三つの紋の記録片が黒く、白く、灰色に明滅する。
ノアの手の甲が疼いた。
「っ……」
短い息が漏れる。
中度にも届かない。
だが、痛みはある。
白い枠の中の「ノア・クロウ」が、薄く光った。伴侶首輪が熱を持ち、灰色の切断痕がじくりと疼く。喉が少し詰まる。
レオがすぐに呼びかける。
「ノア・クロウ」
首輪の熱が少し落ち着く。
ノアは目だけで頷いた。
灰色の記録陣がさらに回る。
研究室の壁が薄れていく。
代わりに、無数の帳簿棚が幻のように現れた。
白灰色の空間。
天井まで続く棚。
閉じられた帳簿。
空中を走る記録線。
羽ペンの音。
だが、今まで見た魂帳局の受付空間とは違った。
ここは、もっと深い。
窓口も番号札もない。
ただ、記録だけがある。
誰かに見せるためではなく、隠すために積まれた記録。
深部記録。
ノアの魂糸が、その空間に触れた。
同時に、無数の記録線が一斉に反応する。
ノア・クロウ。
イリアス・ノクスヴェルト。
セラフィード・ルミナリア。
同盟儀式。
父王殺害。
白花派。
黒魔導書。
災厄再臨儀礼。
伴侶契約。
赤い糸。
それらが、別々の帳簿に散らばっているはずなのに、深部では一本の黒い構造へ繋がっていた。
ノアは息を呑む。
思っていたより、深い。
自分一人の記録ではない。
イリアスの記録だけでもない。
レオの前世、セラフィードの記録も繋がっている。前世の同盟儀式、白花派の祈祷、黒魔導書の封印庫、そのすべてが同じ中心へ向かっていた。
中心にあるのは、黒い空白だった。
黒い頁ではない。
黒い穴でもない。
そこだけ、記録が欠落している。
存在しない欄。
塗り潰された署名。
削られた注釈。
誰も書いていないはずの場所。
その空白の中央に、一文字だけが浮かんでいた。
O。
古代文字の「O」。
円環のように始まり、尾を引く、あの署名。
ノアの喉が低く鳴った。
「……いた」
レオの赤い糸が強く張る。
「触れないで」
ノアは黒い空白を見つめた。
手の甲が疼く。
白い枠が熱を持つ。
伴侶首輪の照合率が内側で揺れた。
二。
三へ進む前の、嫌な揺れ。
まだ止まっている。
だが、黒い空白へ近づけば進む。
それは分かった。
ノアは、ゆっくり手を伸ばしかけた。
レオの声が鋭くなる。
「触れないで」
「触らないと分からない」
「分かる前に奪われる」
ノアの指が止まる。
黒い空白は、目の前にある。
そこへ触れれば、何かが分かる。
オルドレイス代理の正体。
同盟儀式の本当の欠落。
黒魔導書へ手を伸ばす前の封印庫の影。
白花派と魂帳局を繋いだ古い線。
名前のない子供の空白名札。
自分の回収予定。
すべての中心へ、触れられるかもしれない。
けれど、触れたら奪われる。
それも分かる。
黒い空白は、記録の欠落ではない。
欠落の形をした口だ。
近づく魂糸を飲み込み、名前を削り、空白にして、そこへ署名を刻むもの。
ノアの手の甲の白い枠が、熱く疼いた。
レオはノアの手首を支えていた。
止めたい。
無理やり引き戻したい。
だが、まだそうしていない。
レオは、ノアが止まることを待っていた。
ノアは、それに気づいた。
呼吸が少しだけ乱れる。
喉が痛い。
胸の奥が重い。
それでも、指を戻した。
「……触らない」
レオの赤い糸が、大きく震えた。
安堵ではなく、張りつめていたものが少しだけ緩む震え。
セドリックの声が響く。
「正しい判断だ」
ノアは苦く笑った。
「褒められると、逆に怖い」
「無茶をしなかったからな」
「俺、そこまで普段信用ない?」
レオが即答する。
「ない」
「即答すんな」
黒い空白が、わずかに揺れた。
触れないと分かったからか。
それとも、ノアの現世名が空白に呑まれなかったからか。
Oの署名が、黒い中心でゆっくり回る。
レギスが認証符へ手をかざした。
「複写を行います」
セドリックが警告する。
「深く取るな。表層の接続構造だけだ」
「承知しています」
レギスの灰色の認証符が光る。
彼の腕輪は黒く染まったままだが、凍結前に残った回収官認証が、深部記録の表層へ届いた。
灰色の記録糸が伸びる。
黒い空白には触れない。
その周囲を巡る記録線だけを、薄い膜のように写し取っていく。
ノア・クロウ。
イリアス・ノクスヴェルト。
セラフィード・ルミナリア。
同盟儀式。
白花派。
黒魔導書。
そして、空白中心に浮かぶO。
レギスの額に、わずかに汗が滲んだ。
彼も危険な接続をしているのだ。
セドリックは黒魔法陣を維持し、複写の逃げ道を作る。
レオはノアの手首を支え続ける。
ノアは、黒い空白を見たまま動かない。
触れない。
触れないことが、こんなに難しいとは思わなかった。
だが、今回は止まった。
レオが止めたからだけではない。
自分で止まった。
その選択を、赤い糸が静かに支えていた。
接続が閉じ始める。
帳簿棚が遠ざかる。
黒い空白が、深部の奥へ沈んでいく。
Oの署名だけが、最後まで残った。
まるで、こちらを見ているようだった。
ノアは低く呟いた。
「実体ないくせに、目だけあるみたいで嫌だな」
レオの声が冷える。
「次はもっと離れて見る」
「次がある前提か」
「あるなら」
「頼もしい。怖いけど」
深部記録の幻が消えた。
研究室の壁が戻る。
机の上には、灰色の薄膜状の複写記録が残っていた。そこには複数の記録線が絡み合い、その中心に黒い空白とOの署名が写っている。
ノアは椅子の背にもたれた。
手の甲が痛む。
首輪も熱い。
だが、照合率は進んでいない。
二パーセントのままだ。
レオがすぐにノアの喉へ手をかざす。
「喉」
「今日は無茶してないだろ」
レオは、ノアの手の甲も確認しながら言った。
「していない。だから怖かった」
「どういう理屈」
「君が止まったから、どれだけ危なかったか分かった」
「止まらなかった場合の想像で怖がるな」
「する」
「するな」
「無理」
「正直でよろしい。最悪だけど」
レオは手の甲の白い枠の熱を冷まし、首輪の反応を整えた。
ノアは文句を言いながらも、されるままにしていた。今回は、本当に無茶をしなかった。だからこそ、身体の方も重度には落ちていない。喉の詰まりも軽い。手の甲の痛みはあるが、耐えられる。
その時、机上の複写記録が強く光った。
レギスの認証符が黒く染まる。
セドリックの黒魔法陣が警告を吐き出した。
灰色の文字が、研究室の空中に浮かぶ。
「深部記録への不正接続を検知」
続いて、二行目。
「転生者狩り、正式発動」
研究室の外で、学院結界が鳴った。
低い音だった。
鐘でも、警報でもない。
結界そのものが、灰色の記録術式に触れられた音。
ノアは窓の外を見た。
学院全体を包む透明な防護結界が、端から灰色に染まり始めていた。




