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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第六章【魂帳局と転生者狩り】

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第124話 存在しない局長代理


 研究室の中央に、黒い署名が浮かんでいた。


 灰色の拘束術式は、すでに砕かれている。


 床に落ちるはずだった灰色の文字片は、セドリック・バロウズの黒魔法陣によって空中に封じられていた。薄い硝子片のように散った命令文。拘束。逸脱。回収官。対象。再分類。移送。


 その残骸の奥に、ひとつだけ黒い文字が残っている。


 局長代理、O。


 署名というより、傷に近かった。


 文字の輪郭は滑らかではない。古代文字の丸い始まりから、蛇の尾のような筆致が伸びている。黒く、細く、しかし妙に深い。そこだけが、灰色の術式から浮き上がっているようだった。


 ノア・クロウは椅子に座ったまま、その署名を見ていた。


 喉はまだ痛む。


 昨夜の空白名札の侵食、その後の重度反応、今朝のレギスの確認、そして先ほどの拘束術式への介入。身体は完全に回復していない。右手の甲には、照合番号の横へ白い枠が残っている。その中には、薄く「ノア・クロウ」と刻まれていた。


 消えそうで、消えない。


 自分で書いた名。


 その近くの照合番号が、黒い署名を見た瞬間からじくじく疼いている。


 伴侶首輪《メイト・カラー》も反応していた。


 首輪の内側に残った灰色の切断痕が熱を持ち、黒い亀裂が疼く。照合率二パーセントの数字は進んでいない。だが、署名を見るだけで、魂糸が硬直する。


 レオ・アステルレインの赤い糸は、空中で震えていた。


 敵を探しているようだった。


 だが、そこに斬るべき肉体はない。


 燃やすべき手もない。


 捕まえるべき影すらない。


 あるのは、署名だけだった。


 記録上の命令。


 存在しないはずの役職。


 ノアは、喉を押さえながら掠れた声で言った。


「存在しない役職が命令出してるの、組織として終わってるな」


 レギス・グレイヴは、黒く染まった腕輪を押さえたまま立っていた。


 灰色の制服は乱れていない。


 銀灰の髪も整っている。


 だが、薄い灰色の瞳には、明らかな動揺が残っていた。彼は今しがた、自分の所属する魂帳局から「拘束対象」とされた。正式任務の中にいたはずの回収官が、記録から弾かれた。


 そのうえ、拘束術式の署名には、存在しない役職が刻まれていた。


 レギスは低く言う。


「ありえません」


 ノアは目を細める。


「実際ありえてるから困ってる」


 レギスは否定しなかった。


 否定できなかった。


 彼は一度、深く息を吸った。


 それは感情を抑えるためではなく、規定を思い出すための呼吸に見えた。


「魂帳局に、局長代理という役職は存在しません」


 研究室の空気が、さらに重くなる。


 セドリックが腕を組む。


「詳しく話せ」


 レギスは頷いた。


「魂帳局長が不在、あるいは職務不能となった場合、緊急処理は三名の上級記録官による合議で行われます。単独代理権限は認められていません。令状発行、回収命令、旧記録庫接続、職員拘束。いずれも、単独署名で処理されることはありません」


 ノアは、黒い署名を見た。


「でも、俺の令状にも局長代理ってあった」


「はい」


「回収予定の札にも、子供の空白名札にも、同じ系統の署名があった」


「はい」


「レギスさんを拘束しようとした命令にも、それがある」


「……はい」


 レギスの声は、最後だけわずかに沈んだ。


 ノアは低く呟く。


「じゃあ、局内の誰かが勝手に名乗ってるって話でもないのか」


 セドリックが黒い署名を観測符で拡大した。


「実在の職員が偽名を使っている可能性は残る。だが、この署名の構造は人間の個人印ではない」


 レオが口を開く。


 声は低く、冷たい。


「記録にしかいない相手が、ノアを奪おうとしている」


 その言葉に、赤い糸が細く震えた。


 レオの苛立ちが伝わる。


 相手が目の前にいれば斬れる。


 術式なら燃やせる。


 職員なら捕まえられる。


 だが、これは違う。


 記録にしかいない。


 役職として存在しない。


 それなのに、命令を出す。


 令状に署名する。


 監視記録を旧記録庫へ複写する。


 空白名札を刻む。


 現世名を消そうとする。


 ノアは、黒い署名を睨んだ。


「実体ないくせに面倒すぎる」


 軽口の形をしている。


 だが、声は低い。


 理解したからだ。


 オルドレイス代理は、魂帳局に椅子を持つ誰かではないのかもしれない。


 局内に存在する職員として入り込んでいるのではない。


 存在しない役職名で、記録システムに寄生している。


 局長代理。


 そんな役職はない。


 だが、記録上に署名欄が作られれば、命令は出せる。


 信仰。


 儀礼。


 帳簿。


 代理権限。


 空白。


 注釈。


 そこに名を差し込む。


 誰かがそれを本物だと扱えば、記録は現実を動かし始める。


 セドリックが低く言った。


「オルドレイスという名は、以前から記録ごとに立場が違った。魔導学者、魂術師、戦争記録官、禁書編纂者。死者とも、生存者とも、存在不明ともされる」


 ノアは静かに聞いていた。


 セドリックは続ける。


「一貫していないのではない。空白に入り込んでいる可能性がある」


「空白」


「神話の注釈。儀礼の署名。古い帳簿の代理欄。英雄譚で名前が削られた協力者。戦争記録で役職だけが残る欄。そこに“オルドレイス代理”という署名が寄生する」


 レギスが、黒い署名を凝視していた。


「記録に寄生する存在」


 その言葉を、彼が言う。


 魂帳局の回収官が。


 制度を信じ、記録に従ってきた者が。


 ノアは、ほんの少しだけ目を細めた。


「記録側の人間がそれ言うと、重いな」


「……私の知る魂帳局では、ありえない」


「今の魂帳局では、ありえてる」


「認めざるを得ません」


 レギスの声には、まだ動揺が残っていた。


 だが、逃げてはいない。


 少なくとも今、この場で見えている矛盾を、彼は否定しなかった。


 レオはレギスを信用していない顔をしている。


 当然だ。


 レギスはノアを回収対象として見た。


 監視した。


 任意同行を求めた。


 レオにとっては、その事実だけで十分すぎる。


 だが今は、攻撃しない。


 ノアの判断を優先している。


 その赤い糸は、敵を探すように空を震えながらも、ノアの手首の近くで踏みとどまっていた。


 セドリックは、拘束術式の残骸から複数の記録片を抜き出した。


「この署名が本物の役職ではないなら、魂帳局内に偽の権限経路が作られている。局員はそれを正式命令として受け取る。レギスの腕輪も反応した」


 レギスが頷く。


「腕輪は、正規の局内命令として受信しました」


「つまり、命令系統の表示だけは正規」


「はい」


「中身は偽」


「その可能性が高い」


 ノアは、喉を押さえた。


 黒い署名を見続けていると、首輪の亀裂がじわじわ疼く。手の甲の照合番号も冷たい。白い枠の中のノア・クロウという文字が、かすかに熱を持った。


 レオがすぐに気づく。


「喉」


「まだ大丈夫」


「首輪」


「痛い」


「手」


「痛い」


「治す」


「今は後」


「今」


「会話中」


「体調も会話に入る」


「過保護の議題追加するな」


 レオは返事をせず、ノアの首元へ薄い治癒魔法をかざした。


 触れない。


 外側から、喉の負担だけを軽くする。


 ノアは文句を言おうとして、やめた。


 少し楽になったのは事実だった。


「存在しない上司に体調崩される人生、嫌すぎ」


 ノアが掠れた声で茶化すと、レオは真面目に返した。


「存在しないなら、消せない」


「そこ真顔で言うと怖いな」


「斬れない。燃やせない。捕まえられない」


 レオの声に苛立ちが滲む。


「なのに、君を狙っている」


「だから記録を辿る」


「君の周囲の記録すべてが危険に見える」


「見えるだろうな」


「実際、危険かもしれない」


「でも全部疑って全部遮断したら、俺の現世側の繋がりまで切れる」


 レオの顔が苦く歪む。


 ノアは、低く続けた。


「俺をノア・クロウとして呼んだ記録も、俺が授業受けた記録も、ルカやアイリスと話した記録も、全部が敵じゃない。敵が混ざってる」


「混ざっているなら、全部調べる」


「そこは同意する」


 レオの目が少しだけ揺れた。


 ノアは白い枠のある手の甲を見た。


「この枠だって、名前を消す処理の形をしてる。でも俺が名を書いた。記録の形を全部捨てるんじゃなくて、こっちが上書きする方法もある」


 セドリックが、ノアを見る。


「上書きは危険だ」


「分かってます」


「だが、鍵にはなる」


「ですよね」


 セドリックは否定しなかった。


 レギスが、静かに口を開く。


「魂帳局の記録は、空白を嫌います」


 ノアは彼を見る。


「役所っぽいですね」


「空欄は処理対象です。未記入の欄があれば、補完されます。矛盾があれば、照合されます。不一致があれば、修正されます」


「その習性に、オルドレイス代理が寄生してる?」


「可能性があります」


 レギスは黒い署名を見上げた。


「存在しない役職欄が作られ、そこに署名が入る。局内術式は、空欄が埋まったと判断する。命令の発行者があるものとして処理する。職員は腕輪を通じて命令を受け取る」


 セドリックが続ける。


「そして、発行者の実在確認は行われない」


「通常は、役職構造に存在しない署名欄自体が生成されません」


「それが生成されている時点で、深部記録が汚染されている」


「はい」


 ノアは、低く息を吐いた。


「局長代理O。存在しない役職。空白に署名。代理権限。名前を剥がす空白名札」


 言葉を並べるほど、輪郭が見えてくる。


 オルドレイス代理は、ただの黒幕ではない。


 少なくとも、椅子に座って命令を出す人間の形だけでは捉えられない。


 存在しないものが、記録上だけで存在する。


 記録が現実を動かす世界では、それだけで十分なのだ。


 ノアは、少しだけ唇を歪めた。


「存在しないやつに、俺の存在消されかけてるの、皮肉が過ぎるな」


 レオの声が重くなる。


「消させない」


「知ってる」


「記録にしかいなくても、探す」


「頼もしいけど怖い」


「怖くていい」


「よくない」


 セドリックが二人を遮る。


「問題は、確認手段だ。学院側から魂帳局本庁の深部記録へは通常接続できない。旧記録庫、局長代理署名、代理処理権限。そこに触れなければ、この偽命令系統を証明できない」


 レギスが、黒く染まった腕輪を見た。


「私の局内認証を使えば、一度だけ接続できる可能性があります」


 研究室の空気が止まった。


 ノアは目を上げる。


 レオの赤い糸が警戒で張る。


 セドリックが低く問う。


「一度だけ?」


「はい。拘束対象となったことで、私の通常権限は凍結されました。しかし、凍結前に発行済みの回収官認証が腕輪内に残っています。完全に失効する前であれば、本庁深部記録へ短時間だけ接続できる可能性があります」


「危険は」


「高いです」


「具体的に」


「接続すれば、魂帳局側に私の位置と状態が通知されます。任務逸脱の拘束対象が深部記録へ接続したと判断されれば、転生者狩りが正式発動します」


 レオの瞳が冷えた。


「ノアも巻き込まれる」


「可能性があります」


「却下です」


 即答だった。


 ノアはレオを見た。


「まだ何も言ってない」


「言う前に却下」


「お前の却下、早いな」


「危険だ」


「それは分かる」


「転生者狩りが正式発動する」


「それも分かる」


「分かっていて行くと言う顔をしている」


「顔で先読みするな」


「合ってる」


「まあ、合ってるけど」


 レオの顔がさらに険しくなる。


 ノアは、黒い署名を見た。


 局長代理、O。


 存在しない役職。


 その署名が、自分を回収予定へ入れ、子供の名前を消し、レギスを拘束対象にした。


 深部記録へ入れば、核心に近づける。


 同時に、罠へ踏み込む。


 ノアは、掠れた声で笑った。


「正面玄関から罠に入る感じか」


 レオの赤い糸が、強く震えた。




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