第124話 存在しない局長代理
研究室の中央に、黒い署名が浮かんでいた。
灰色の拘束術式は、すでに砕かれている。
床に落ちるはずだった灰色の文字片は、セドリック・バロウズの黒魔法陣によって空中に封じられていた。薄い硝子片のように散った命令文。拘束。逸脱。回収官。対象。再分類。移送。
その残骸の奥に、ひとつだけ黒い文字が残っている。
局長代理、O。
署名というより、傷に近かった。
文字の輪郭は滑らかではない。古代文字の丸い始まりから、蛇の尾のような筆致が伸びている。黒く、細く、しかし妙に深い。そこだけが、灰色の術式から浮き上がっているようだった。
ノア・クロウは椅子に座ったまま、その署名を見ていた。
喉はまだ痛む。
昨夜の空白名札の侵食、その後の重度反応、今朝のレギスの確認、そして先ほどの拘束術式への介入。身体は完全に回復していない。右手の甲には、照合番号の横へ白い枠が残っている。その中には、薄く「ノア・クロウ」と刻まれていた。
消えそうで、消えない。
自分で書いた名。
その近くの照合番号が、黒い署名を見た瞬間からじくじく疼いている。
伴侶首輪も反応していた。
首輪の内側に残った灰色の切断痕が熱を持ち、黒い亀裂が疼く。照合率二パーセントの数字は進んでいない。だが、署名を見るだけで、魂糸が硬直する。
レオ・アステルレインの赤い糸は、空中で震えていた。
敵を探しているようだった。
だが、そこに斬るべき肉体はない。
燃やすべき手もない。
捕まえるべき影すらない。
あるのは、署名だけだった。
記録上の命令。
存在しないはずの役職。
ノアは、喉を押さえながら掠れた声で言った。
「存在しない役職が命令出してるの、組織として終わってるな」
レギス・グレイヴは、黒く染まった腕輪を押さえたまま立っていた。
灰色の制服は乱れていない。
銀灰の髪も整っている。
だが、薄い灰色の瞳には、明らかな動揺が残っていた。彼は今しがた、自分の所属する魂帳局から「拘束対象」とされた。正式任務の中にいたはずの回収官が、記録から弾かれた。
そのうえ、拘束術式の署名には、存在しない役職が刻まれていた。
レギスは低く言う。
「ありえません」
ノアは目を細める。
「実際ありえてるから困ってる」
レギスは否定しなかった。
否定できなかった。
彼は一度、深く息を吸った。
それは感情を抑えるためではなく、規定を思い出すための呼吸に見えた。
「魂帳局に、局長代理という役職は存在しません」
研究室の空気が、さらに重くなる。
セドリックが腕を組む。
「詳しく話せ」
レギスは頷いた。
「魂帳局長が不在、あるいは職務不能となった場合、緊急処理は三名の上級記録官による合議で行われます。単独代理権限は認められていません。令状発行、回収命令、旧記録庫接続、職員拘束。いずれも、単独署名で処理されることはありません」
ノアは、黒い署名を見た。
「でも、俺の令状にも局長代理ってあった」
「はい」
「回収予定の札にも、子供の空白名札にも、同じ系統の署名があった」
「はい」
「レギスさんを拘束しようとした命令にも、それがある」
「……はい」
レギスの声は、最後だけわずかに沈んだ。
ノアは低く呟く。
「じゃあ、局内の誰かが勝手に名乗ってるって話でもないのか」
セドリックが黒い署名を観測符で拡大した。
「実在の職員が偽名を使っている可能性は残る。だが、この署名の構造は人間の個人印ではない」
レオが口を開く。
声は低く、冷たい。
「記録にしかいない相手が、ノアを奪おうとしている」
その言葉に、赤い糸が細く震えた。
レオの苛立ちが伝わる。
相手が目の前にいれば斬れる。
術式なら燃やせる。
職員なら捕まえられる。
だが、これは違う。
記録にしかいない。
役職として存在しない。
それなのに、命令を出す。
令状に署名する。
監視記録を旧記録庫へ複写する。
空白名札を刻む。
現世名を消そうとする。
ノアは、黒い署名を睨んだ。
「実体ないくせに面倒すぎる」
軽口の形をしている。
だが、声は低い。
理解したからだ。
オルドレイス代理は、魂帳局に椅子を持つ誰かではないのかもしれない。
局内に存在する職員として入り込んでいるのではない。
存在しない役職名で、記録システムに寄生している。
局長代理。
そんな役職はない。
だが、記録上に署名欄が作られれば、命令は出せる。
信仰。
儀礼。
帳簿。
代理権限。
空白。
注釈。
そこに名を差し込む。
誰かがそれを本物だと扱えば、記録は現実を動かし始める。
セドリックが低く言った。
「オルドレイスという名は、以前から記録ごとに立場が違った。魔導学者、魂術師、戦争記録官、禁書編纂者。死者とも、生存者とも、存在不明ともされる」
ノアは静かに聞いていた。
セドリックは続ける。
「一貫していないのではない。空白に入り込んでいる可能性がある」
「空白」
「神話の注釈。儀礼の署名。古い帳簿の代理欄。英雄譚で名前が削られた協力者。戦争記録で役職だけが残る欄。そこに“オルドレイス代理”という署名が寄生する」
レギスが、黒い署名を凝視していた。
「記録に寄生する存在」
その言葉を、彼が言う。
魂帳局の回収官が。
制度を信じ、記録に従ってきた者が。
ノアは、ほんの少しだけ目を細めた。
「記録側の人間がそれ言うと、重いな」
「……私の知る魂帳局では、ありえない」
「今の魂帳局では、ありえてる」
「認めざるを得ません」
レギスの声には、まだ動揺が残っていた。
だが、逃げてはいない。
少なくとも今、この場で見えている矛盾を、彼は否定しなかった。
レオはレギスを信用していない顔をしている。
当然だ。
レギスはノアを回収対象として見た。
監視した。
任意同行を求めた。
レオにとっては、その事実だけで十分すぎる。
だが今は、攻撃しない。
ノアの判断を優先している。
その赤い糸は、敵を探すように空を震えながらも、ノアの手首の近くで踏みとどまっていた。
セドリックは、拘束術式の残骸から複数の記録片を抜き出した。
「この署名が本物の役職ではないなら、魂帳局内に偽の権限経路が作られている。局員はそれを正式命令として受け取る。レギスの腕輪も反応した」
レギスが頷く。
「腕輪は、正規の局内命令として受信しました」
「つまり、命令系統の表示だけは正規」
「はい」
「中身は偽」
「その可能性が高い」
ノアは、喉を押さえた。
黒い署名を見続けていると、首輪の亀裂がじわじわ疼く。手の甲の照合番号も冷たい。白い枠の中のノア・クロウという文字が、かすかに熱を持った。
レオがすぐに気づく。
「喉」
「まだ大丈夫」
「首輪」
「痛い」
「手」
「痛い」
「治す」
「今は後」
「今」
「会話中」
「体調も会話に入る」
「過保護の議題追加するな」
レオは返事をせず、ノアの首元へ薄い治癒魔法をかざした。
触れない。
外側から、喉の負担だけを軽くする。
ノアは文句を言おうとして、やめた。
少し楽になったのは事実だった。
「存在しない上司に体調崩される人生、嫌すぎ」
ノアが掠れた声で茶化すと、レオは真面目に返した。
「存在しないなら、消せない」
「そこ真顔で言うと怖いな」
「斬れない。燃やせない。捕まえられない」
レオの声に苛立ちが滲む。
「なのに、君を狙っている」
「だから記録を辿る」
「君の周囲の記録すべてが危険に見える」
「見えるだろうな」
「実際、危険かもしれない」
「でも全部疑って全部遮断したら、俺の現世側の繋がりまで切れる」
レオの顔が苦く歪む。
ノアは、低く続けた。
「俺をノア・クロウとして呼んだ記録も、俺が授業受けた記録も、ルカやアイリスと話した記録も、全部が敵じゃない。敵が混ざってる」
「混ざっているなら、全部調べる」
「そこは同意する」
レオの目が少しだけ揺れた。
ノアは白い枠のある手の甲を見た。
「この枠だって、名前を消す処理の形をしてる。でも俺が名を書いた。記録の形を全部捨てるんじゃなくて、こっちが上書きする方法もある」
セドリックが、ノアを見る。
「上書きは危険だ」
「分かってます」
「だが、鍵にはなる」
「ですよね」
セドリックは否定しなかった。
レギスが、静かに口を開く。
「魂帳局の記録は、空白を嫌います」
ノアは彼を見る。
「役所っぽいですね」
「空欄は処理対象です。未記入の欄があれば、補完されます。矛盾があれば、照合されます。不一致があれば、修正されます」
「その習性に、オルドレイス代理が寄生してる?」
「可能性があります」
レギスは黒い署名を見上げた。
「存在しない役職欄が作られ、そこに署名が入る。局内術式は、空欄が埋まったと判断する。命令の発行者があるものとして処理する。職員は腕輪を通じて命令を受け取る」
セドリックが続ける。
「そして、発行者の実在確認は行われない」
「通常は、役職構造に存在しない署名欄自体が生成されません」
「それが生成されている時点で、深部記録が汚染されている」
「はい」
ノアは、低く息を吐いた。
「局長代理O。存在しない役職。空白に署名。代理権限。名前を剥がす空白名札」
言葉を並べるほど、輪郭が見えてくる。
オルドレイス代理は、ただの黒幕ではない。
少なくとも、椅子に座って命令を出す人間の形だけでは捉えられない。
存在しないものが、記録上だけで存在する。
記録が現実を動かす世界では、それだけで十分なのだ。
ノアは、少しだけ唇を歪めた。
「存在しないやつに、俺の存在消されかけてるの、皮肉が過ぎるな」
レオの声が重くなる。
「消させない」
「知ってる」
「記録にしかいなくても、探す」
「頼もしいけど怖い」
「怖くていい」
「よくない」
セドリックが二人を遮る。
「問題は、確認手段だ。学院側から魂帳局本庁の深部記録へは通常接続できない。旧記録庫、局長代理署名、代理処理権限。そこに触れなければ、この偽命令系統を証明できない」
レギスが、黒く染まった腕輪を見た。
「私の局内認証を使えば、一度だけ接続できる可能性があります」
研究室の空気が止まった。
ノアは目を上げる。
レオの赤い糸が警戒で張る。
セドリックが低く問う。
「一度だけ?」
「はい。拘束対象となったことで、私の通常権限は凍結されました。しかし、凍結前に発行済みの回収官認証が腕輪内に残っています。完全に失効する前であれば、本庁深部記録へ短時間だけ接続できる可能性があります」
「危険は」
「高いです」
「具体的に」
「接続すれば、魂帳局側に私の位置と状態が通知されます。任務逸脱の拘束対象が深部記録へ接続したと判断されれば、転生者狩りが正式発動します」
レオの瞳が冷えた。
「ノアも巻き込まれる」
「可能性があります」
「却下です」
即答だった。
ノアはレオを見た。
「まだ何も言ってない」
「言う前に却下」
「お前の却下、早いな」
「危険だ」
「それは分かる」
「転生者狩りが正式発動する」
「それも分かる」
「分かっていて行くと言う顔をしている」
「顔で先読みするな」
「合ってる」
「まあ、合ってるけど」
レオの顔がさらに険しくなる。
ノアは、黒い署名を見た。
局長代理、O。
存在しない役職。
その署名が、自分を回収予定へ入れ、子供の名前を消し、レギスを拘束対象にした。
深部記録へ入れば、核心に近づける。
同時に、罠へ踏み込む。
ノアは、掠れた声で笑った。
「正面玄関から罠に入る感じか」
レオの赤い糸が、強く震えた。




