第123話 回収官も狩られる
灰色の腕輪が、黒く染まっていく。
レギス・グレイヴの左手首に嵌められた魂帳局回収官の腕輪は、さきほどまで薄い灰色だった。無駄な装飾はなく、ただ記録術式を通すための細い金属輪に見えた。
それが今、墨を流し込まれたように黒へ変わっている。
研究室の空気が、冷えた。
腕輪の表面に浮かび上がった文字は、誰の目にも読めた。
「回収官レギス・グレイヴ、任務逸脱。拘束対象」
ノア・クロウは寝台ではなく、研究室の椅子に座っていた。
重度反応後の身体はまだ重い。喉は掠れ、手の甲の白い枠は熱を残している。照合番号の横には、薄く刻まれた「ノア・クロウ」の文字がある。伴侶首輪も不安定で、灰色の切断痕が時折じくじくと疼いた。
それでも、ノアはその文字を見て、乾いた笑いを漏らした。
「お仲間にも容赦ないな。職場環境、最悪」
声は掠れていた。
だが、皮肉は死んでいなかった。
レギスは腕輪を見下ろしたまま、表情を整えていた。
いつもの灰色の顔。
感情を見せない、礼儀正しい回収官の顔。
けれど、その沈黙はいつもよりわずかに長い。
彼は正式任務として来た。
魂帳局の令状を持ち、学院へ入り、監視官として滞在し、記録を取った。ノアを回収対象として扱った。伴侶契約を不正固定の疑いとして見た。
それが彼の職務だった。
だが、ノアの手の甲に浮かんだ空白名札を見て、彼は言った。
正式処理ではない、と。
その瞬間、魂帳局側から任務逸脱と認定された。
つまり。
正式処理を口にした者が、正式な命令系統から外れた。
セドリック・バロウズが、低く言った。
「命令系統そのものが汚染されているな」
レギスは否定しなかった。
薄い灰色の瞳が、黒く染まった腕輪を見ている。
「私は、局内規定に基づき確認を述べました」
「それが逸脱扱いか」
「そのようです」
声はまだ淡々としている。
だが、そこに微かな硬さが混じった。
ノアは、手の甲を押さえながら呟く。
「役所で規定通りに喋ったら拘束対象。終わってるな」
レオ・アステルレインは、ノアの隣に立っていた。
レギスに対する敵意は消えていない。
むしろ濃い。
レギスが完全な黒幕ではないと分かっても、魂帳局の人間であることは変わらない。ノアを回収対象として見た。監視した。その記録で照合率が進みかけた。令状を持って任意同行を求めた。
レオにとって、それは簡単に許せるものではなかった。
それでも、今のレギスが情報源であることも分かっている。
ノアがそう判断したからだ。
レオは、青い瞳を冷やしたまま、魔力を抑えていた。
その時、研究室の中央に灰色の線が走った。
床ではない。
空間そのものに、線が刻まれる。
細い文字列が鎖のように連なり、輪を作り、腕輪から伸びた黒い命令文と接続した。魂帳局の記録術式。拘束用の構文。
灰色の鎖が、空中に現れた。
一本。
二本。
三本。
金属ではない。灰色の文字が連なって鎖の形を取っている。輪の一つ一つに「拘束」「回収官」「逸脱」「連行」「処理」といった文字が刻まれていた。
鎖は、レギスへ向かって伸びた。
レギスは反射的に後退しようとしたが、腕輪が黒く光り、足元に灰色の陣が開く。
動きが鈍る。
自身の装備が、自身を拘束するための座標になっていた。
ノアは、椅子の肘置きを掴んで立ち上がろうとした。
身体が重い。
喉が痛い。
それでも、動いた。
レオが即座に支えようとする。
「ノア」
「レオ、止めるぞ」
レオの視線がレギスへ向く。
「彼を?」
「情報源を」
「言い方」
「大事だろ」
レオは一瞬だけ沈黙した。
助けたいわけではない。
だが、ノアが動くなら、止めるだけでは足りない。
ノアの判断を尊重する。
敵味方の線引きより、ノアが今必要だと言ったものを優先する。
それを、レオは苦しそうに選んだ。
「分かった」
灰色の鎖がレギスの腕へ巻きつこうとする。
セドリックが黒魔法陣を展開した。
「ノア、読むだけだ。触れすぎるな」
「分かってます」
「信用ならない」
「今日それ三人目」
ノアは右手を上げた。
照合番号が冷たく疼く。
白い枠の中に刻まれた「ノア・クロウ」の文字が、灰色の鎖に反応して薄く光った。伴侶首輪の切断痕も痛む。胸の奥で赤い糸が震えた。
鎖の構文は、魂帳局式。
だが、表面の整った拘束命令の下に、黒い別の筆跡が混じっている。
局内装備の停止。
職務権限の凍結。
移送準備。
回収官を回収対象へ再分類。
ノアは、低く息を吸った。
「……やっぱり、これも代理処理が混じってる」
喉が詰まる。
灰色の鎖の構文を読むたび、首輪の切断痕が熱を持った。第110話で赤い糸を切られかけた時と同じ種類の冷たい痛みが、胸の奥を引っ掻く。
ノアは顔をしかめた。
「っ……」
短い呻きが漏れる。
レオの赤い糸がすぐに支える。
「ノア・クロウ」
「助かる。まだいける」
「無理をするな」
「してる。でも必要」
レオは苦い顔をした。
だが、止めない。
灰色の鎖がレギスの左腕へ巻きついた。
腕輪がさらに黒く染まる。
レギスの顔がわずかに歪んだ。
痛みではない。
魔力権限を奪われる感覚だろう。彼の持つ魂帳局式の術式が、同じ魂帳局式の命令で封じられている。
セドリックが低く言った。
「レギス、腕輪を外せるか」
「不可能です。回収官登録と連動しています」
「なら、接続を切る」
「切断すれば、回収官資格が失効します」
ノアは掠れた声で笑った。
「今それ気にしてる場合か?」
レギスは一瞬黙った。
「……違います」
「よろしい」
灰色の鎖が、次に首元へ向かう。
魂糸を拘束する鎖だった。
人間の身体を縛るものではない。記録上の所属と権限を縛り、魂帳局の管理対象として再登録する鎖。捕まれば、レギスは身体ごとではなく、記録ごと持っていかれる。
ノアは鎖の構文を目で追った。
灰色の文字列が速い。
喉がさらに詰まる。
首輪が熱を持ち、手の甲の白い枠がずきりと痛んだ。空白名札の侵食が、鎖の構文に反応している。
だが、今は止まれない。
「レオ、三本目。根元じゃなくて、命令文の接続部分」
「見えている」
「聖魔法を強く入れすぎると、こっちの赤い糸が反応する」
「分かってる」
「ほんとに?」
「調整する」
「よろしい」
レオの白金の魔力が、細い刃の形を取った。
いつものような大きな光ではない。
髪の毛ほどの細さ。
ノアが読んだ構文の継ぎ目だけを狙う。
レオにとっては苦手な戦い方だった。
大きく守りたい。
大きく斬りたい。
完全に遮断したい。
だが、それでは証拠も構文も壊れる。レギスを助けるどころか、魂帳局側へ警報を送る可能性がある。
だから、細く。
必要なところだけ。
ノアの声を頼りに。
レオは白金の刃を走らせた。
灰色の鎖の一部が、音もなく切れた。
文字列が崩れ、床へ落ちる前に灰へ変わる。
レギスの右腕が動くようになった。
彼はすぐに白い手袋の指で腕輪へ触れ、内部から拘束命令を遅延させる。
「十秒、稼ぎます」
ノアは息を吐く。
「職場への反抗、板についてきたな」
「不本意です」
「そこは慣れて」
「慣れたくありません」
次の鎖が動いた。
今度はノアの方へ反応した。
構文を読んでいるノアの魂糸を、補助対象として検出したらしい。灰色の文字列が、蛇のように方向を変える。
レオの赤い糸が一気に張った。
「ノア!」
「来るの早いな、役所のくせに……っ」
ノアは右手をかざす。
黒魔法が指先に集まった。
攻撃ではない。
解析。
灰色の鎖の文字列を、黒い魔力で一瞬だけ浮かび上がらせる。鎖が持つ命令文を読み取り、偽装された接続点を露出させる。
その瞬間、首輪の切断痕が強く痛んだ。
「ぐ……っ」
喉が詰まる。
視界の端が黒く滲む。
手の甲の白い枠が熱を持つ。
レオが支える。
「ノア・クロウ」
名が、現実へ引き戻す。
ノアは歯を食いしばった。
「左下、黒い署名の手前……そこ、切れ」
レオは迷わなかった。
白金の刃が走る。
灰色の鎖が切断され、ノアへ向かっていた文字列が砕けた。
だが、砕けた破片が空中で再結合しようとする。
セドリックが黒魔法陣を叩き込んだ。
「再構築阻害」
低い声とともに、床に展開された黒い陣が灰色の破片を飲み込む。
鎖の再形成が止まる。
レギスはその隙に、自分の腕輪へ指を押し込むように術式を走らせた。
白い手袋の下で、指先が震える。
腕輪から黒い光が噴き出す。
ノアは、その光の中に署名を見た。
O。
古代文字の丸い始まり。
尾を引く筆跡。
局長代理。
代理処理。
名前のない子供の空白名札にもあった署名。
ノアは低く言う。
「また、Oだ」
レオの魔力が冷える。
「切る」
「待て。署名は残す」
「……分かった」
レオは、今度も我慢した。
白金の刃を、署名の本体ではなく、その周囲の拘束命令だけに当てる。黒い署名を傷つけず、鎖の命令文を断つ。
難しい。
だが、やった。
灰色の鎖が、一本ずつ崩れていく。
最後の鎖がレギスの腕輪から外れ、空中で砕け散った。
研究室に、灰色の灰が降る。
黒魔法陣がそれを受け止め、証拠として封じる。
レギスは片膝をついた。
呼吸は乱れていない。
だが、薄い灰色の瞳に、初めて明確な疲労が浮かんでいた。
腕輪はまだ黒い。
ただし、拘束命令は停止している。
ノアは椅子に座り直した。
立っていたつもりだったが、いつの間にかレオに支えられていた。足に力が入らない。喉が痛い。首輪の切断痕がじくじくと疼いている。
レオがすぐに顔を覗き込む。
「喉」
「今日は俺より回収官の心配じゃない?」
「君を優先する」
「知ってた」
レオは返事もせず、ノアの喉へ薄い治癒魔法を当てた。
次に首輪。
灰色の切断痕の熱を鎮める。赤い糸の傷も確認する。強く包み込まず、けれど離さない。怒りと恐怖の残る指先で、それでも手順を守る。
ノアは小さく息を吐いた。
「だいぶ調整、上手くなったな」
「嬉しくない」
「褒めてるのに」
「君が痛がった」
「戦闘中だからな」
「嫌だ」
「知ってる」
レギスはゆっくり立ち上がった。
セドリックが彼の腕輪へ観測符を向ける。
「動くな。残骸を読む」
「承知しました」
灰色の鎖の残骸が、研究室の中央に浮かび上がる。
砕けた文字列。
拘束命令。
任務逸脱。
拘束対象。
そして、その奥に黒い署名が浮かぶ。
局長代理、O。
ノアはそれを見て、眉を寄せた。
「局長代理、O」
レオの赤い糸が鋭く震える。
セドリックの顔が険しくなる。
レギスは、その署名を見た瞬間、初めてはっきりと表情を変えた。
驚愕。
否定。
そして、恐怖に近い理解。
「そんな役職は存在しない」
研究室の灰色の残骸が、その言葉を嘲笑うように、黒く微かに光った。




