第122話 正式処理ではない
朝は、来ていた。
けれど、ノア・クロウの身体には、まだ夜が残っていた。
寮部屋の窓から薄い光が差し込んでいる。学院の中庭には朝霧が漂い、遠くで鐘が鳴った。普段なら、生徒たちが動き出す時間だ。廊下の向こうから足音が聞こえ、誰かが眠そうに欠伸をし、授業前の支度に追われる。
だが、ノアの世界はまだ寝台の上にあった。
重い。
身体が、鉛のように重かった。
昨夜、手の甲に浮かんだ空白名札の枠が現世名を吸おうとした。その反動で、全身の魔力回路が乱れている。喉は焼けたように痛み、声はほとんど掠れていた。胸の奥では赤い糸の傷が鈍く疼き、伴侶首輪は熱と冷えのあいだを不安定に揺れている。
右手の甲。
照合番号の横に、白い枠が残っていた。
空白名札と同じ形。
ただし、中は完全な空白ではない。
薄く、文字が刻まれている。
ノア・クロウ。
昨夜、喉が壊れ、泡混じりの息の中で、それでも自分で言った名だった。レオに呼ばれただけではなく、自分の口で言った名。その名が、白い枠の中にかすかに残っている。
薄い。
消えそうだ。
けれど、ある。
ノアはそれを見下ろし、掠れた息を吐いた。
寝台の横には、レオ・アステルレインがいた。
彼は一晩中、ほとんど眠っていない。
水を含ませ、喉の治癒をし、手の甲の熱を冷まし、首輪の冷えと熱を整え、魔力回路を少しずつ戻した。身体が冷えないよう毛布を替え、汗と黒い霧の残滓を拭い、乱れた髪を梳いた。
何も言わずに。
必要なことだけを、丁寧に。
過剰になりかけるたび、自分で止めていた。ノアの手を握り潰すほど強く握りたい衝動も、首輪ごと包み込んで外界から遮断したい衝動も、全部ぎりぎりで抑えている。
だが、顔はひどかった。
青い瞳の下には疲労の影が落ちている。金髪も乱れたままだ。レオはそれを気にする余裕もなく、ノアの喉元へ薄い治癒魔法を当てていた。
「水」
低い声で言われる。
ノアは目だけで返事をした。
レオは杯を傾ける。
急がせない。
一滴ずつ唇を湿らせ、喉がひきつらないのを確認してから、ほんの少しだけ飲ませる。
水が喉を通った瞬間、痛みで眉が動いた。
レオの表情が硬くなる。
「痛い?」
「……痛くない顔に見えるか?」
声は、紙を擦るように掠れていた。
レオは一瞬、何か言いかける。
たぶん、喋らなくていい、と。
だが、飲み込んだ。
「見えない」
「正直でよろしい……最悪だけど」
ノアが軽口の形を作ると、レオの目がほんの少しだけ揺れた。
安心ではない。
ノアが無理に笑っていることを、彼は分かっている。
レオは櫛を取った。
「髪、梳く」
「確認じゃなくて宣言になってる」
「梳いていい?」
「……いい」
櫛が、黒髪にゆっくり通る。
絡まったところで止まり、引っ張らずに解く。額にかかった髪を避け、汗で張りついた襟足を布で拭う。淡々とした動作なのに、その指先はずっと震えを隠していた。
ノアはそれを感じながら、目を閉じかけた。
朝が来ても、まだ旧記録庫の灰色が瞼の裏にある。
空白の子。
名前を忘れた子。
名札の裏に刻まれていた、オルドレイス代理の署名。
そして、自分の手の甲へ浮かんだ白い枠。
名前を消すなよ。
昨夜、自分で言った言葉が、喉の痛みと一緒に残っていた。
扉が叩かれたのは、その時だった。
レオの手が止まる。
赤い糸が一瞬で張った。
扉の向こうの気配を、敵として捉えた反応だった。
セドリックの声が外からした。
「私だ。レギスもいる」
レオの表情が冷えた。
ノアはゆっくり目を開ける。
「……朝から灰色出勤かよ」
「会わせたくない」
レオの声は即答だった。
ノアは薄く笑おうとして、喉を押さえる。
「俺も会いたくない。でも見せる必要がある」
「危険だ」
「証拠だ」
「君が危険な証拠になっている」
「分かってる」
ノアは右手を見た。
白い枠。
その中に、薄く刻まれたノア・クロウ。
「だから、見せる」
レオは苦しそうに息を吐いた。
それでも、扉を拒まなかった。
セドリックが入ってきた。
その後ろに、レギス・グレイヴがいる。
灰色の制服。
銀灰の髪。
薄い灰色の瞳。
白い手袋。
姿勢はいつも通り端正だった。だが、室内に入った瞬間、レオの赤い糸が鋭く張る。伴侶首輪も不安定に震えた。ノアの魂糸が、レギスの持つ灰色の記録術式に警戒している。
レギスは距離を取って立ち止まった。
学院側の条件を守っている。
無断で近づかない。
接触しない。
記録術式も開かない。
その点だけは、正確だった。
セドリックが低く言う。
「ノア、見せられるか」
ノアは、右手をゆっくり上げた。
手が重い。
レオが下から支える。
白い枠が、朝の光の中に浮かんだ。
照合番号の横。
薄く刻まれたノア・クロウ。
それを見た瞬間、レギスの表情が初めて変わった。
大きくではない。
目がわずかに開き、唇がほんの少しだけ止まった。
だが、彼にしては明確な動揺だった。
レギスは一歩近づこうとして、レオの赤い糸が張るのを見て止まる。
そして、低く言った。
「これは正式処理ではありません」
ノアは掠れた声で返した。
「じゃあ違法役所ってこと?」
セドリックが眉を寄せる。
「喉を削るな」
「大事な確認です」
レギスは、白い枠から目を離さなかった。
「魂帳局の正式な回収手続きでは、本人意思確認前に現世名を空白化する処理は行いません」
レオの声が冷える。
「昨夜、ノアの名は消されかけました」
「その処理は、正式手順に反しています」
「あなたの局の誰かです」
レギスは否定しなかった。
その沈黙だけで、部屋の空気が少し重くなる。
やがて彼は、静かに答えた。
「否定はできません」
レオの瞳が凍る。
赤い糸がさらに張った。
セドリックがすぐに釘を刺す。
「アステルレイン」
「分かっています」
声は分かっていない温度だった。
ノアは、レオの袖を指先で引く。
弱い力だった。
だが、レオはすぐ気づいた。
「攻撃するなよ。情報源だ」
「信用できない」
「俺もしてない」
ノアはレギスを見る。
声は掠れている。
それでも、低く通した。
「でも、使える」
レギスの薄い灰色の瞳が、ノアを見た。
ノアは右手の白い枠を少し持ち上げる。
「じゃあ、監視官様。自分の職場の不正、説明してもらおうか」
レギスは、しばらく黙っていた。
感情を整理しているのか。
記録と現実の矛盾を照合しているのか。
その沈黙は、今までの冷たい沈黙とは少し違っていた。
「魂帳局の正式処理では、回収対象の現世名を即時空白化することはありません」
レギスは言った。
「まず、対象本人の現世人格確認。次に、前世記録との照合。危険度判定。必要に応じた一時保護。伴侶契約や現世名固定が存在する場合、それらは解除対象ではなく安定要素として審査されます」
レオの声が低くなる。
「昨夜の切断申請では、不正固定として扱われました」
「異常です」
「監視記録で照合率が進みかけました」
「それも、本来は起こりません」
レギスはノアの手の甲を見つめる。
「監視記録は対象の状態確認に用いるものです。照合率を進めるための燃料ではありません」
ノアは低く笑った。
喉が痛み、すぐに咳き込む。
レオが水を差し出す。
ノアはそれを受け取り、少しだけ飲んでから言った。
「燃料扱いされてますけど」
「そのようです」
「そこ、淡々と認められると腹立つな」
「否定すべきではないと判断しました」
レギスの声は、まだ平板だった。
だが、そこに微かな変化があった。
記録に従うだけの声ではない。
記録そのものを疑い始めた声だった。
セドリックが問う。
「局長代理の権限はどこまである」
「回収令状の発行、緊急照合命令、監視官の派遣、旧記録庫への一部アクセス権限」
「旧記録庫」
セドリックの目が鋭くなる。
「そこに、回収済転生者保管目録があった」
レギスの表情が、またわずかに動いた。
「旧記録庫は封鎖区域です」
「だが、ノアの監視記録はそこへ複写されていた」
「……確認が必要です」
レオが低く言う。
「確認で済ませるな」
レギスはレオを見る。
「私の立場で即断できる範囲を超えています」
「ノアは昨夜、名を消されかけた」
「認識しています」
「認識で済ませるな」
レオの声が重くなる。
白金の魔力が、わずかに滲む。
ノアは袖を引いた。
「レオ」
レオは止まった。
止まったが、目はレギスから離さない。
ノアは、ゆっくり息を吐く。
「レギスさん。あんたは、俺を回収対象として見てた」
「はい」
「赤い糸も不正固定の疑いとして見てた」
「はい」
「でも、今は違う可能性が出た」
「はい」
「なら、そっちの記録も更新してくれ」
レギスは沈黙した。
「私は、魂帳局本庁へ戻り、記録を確認します」
ノアは目を細める。
「戻れるのか?」
「正式な確認手続きが必要です」
「局長代理が絡んでる可能性あるんだろ。戻った瞬間、あんたも口塞がれるんじゃないの」
レギスは答えなかった。
その沈黙は、肯定に近かった。
セドリックが言う。
「学院内から照会できないのか」
「通常権限では不可能です。旧記録庫、局長代理署名、代理処理の改竄履歴を確認するには、本庁記録端末への接続が必要です」
ノアは掠れた声で呟く。
「端末って言い方がもう嫌だな。魂の役所、設備だけ近代的にすんな」
「喉」
レオがすぐに水を寄せる。
「今いい感じに皮肉が出たところ」
「喉が削れてる」
「はいはい」
ノアは水を飲む。
その間、レギスは白い枠を見つめていた。
そこに刻まれた薄いノア・クロウの文字。
本人が消されかけた名を、自分で刻み直した痕。
それは、レギスが知る正式手続きにはないものだった。
レギスは静かに言った。
「ノア・クロウ」
レオの赤い糸が即座に反応する。
だが、ノアの首輪はわずかに安定した。
レギス自身も、それに気づいたらしい。
「現世名呼称により、首輪反応が安定」
「記録するなよ」
ノアが即座に言う。
レギスは、白い手袋をわずかに止めた。
「……失礼しました」
謝罪だった。
ごく短い。
不器用で、硬い。
だが、確かに謝罪だった。
ノアは目を細める。
「今のは、記録じゃなくて謝罪として受け取っとく」
「ありがとうございます」
「信用はしないけどな」
「承知しています」
レオが低く言う。
「当然です」
レギスは否定しない。
「私の所属機関が、あなた方に損傷を与えた可能性があります。現時点で、信頼を求める立場にはありません」
セドリックが、観測符を閉じた。
「その認識があるなら、情報を出せ」
「可能な範囲で」
「可能な範囲では足りない」
「それでも、虚偽は述べません」
ノアは、少しだけレギスを見直した。
信用ではない。
ただ、使える。
制度の中にいる人間が、制度の異常に気づき始めている。
それは、貴重だった。
その時だった。
レギスの左手首で、灰色の腕輪が光った。
魂帳局の回収官に支給されている記録腕輪。
普段は薄い灰色の金属輪に見えるそれが、突然、黒く染まり始めた。
レギスの表情が変わる。
今度は明確に。
警戒。
そして、理解。
腕輪の表面に、黒い文字が浮かび上がった。
魂帳局からの命令文。
レギスはそれを見下ろしたまま、動かなかった。
ノアも、レオも、セドリックも、その文字を読んだ。
「回収官レギス・グレイヴ、任務逸脱。拘束対象」
部屋の空気が止まった。
レオの赤い糸が、ノアを守るように張る。
セドリックの黒魔法陣が瞬時に展開される。
レギスは、黒く染まった自分の腕輪を見た。
そして初めて、低く呟いた。
「私も、記録から外れましたか」




