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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第六章【魂帳局と転生者狩り】

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第122話 正式処理ではない



 朝は、来ていた。


 けれど、ノア・クロウの身体には、まだ夜が残っていた。


 寮部屋の窓から薄い光が差し込んでいる。学院の中庭には朝霧が漂い、遠くで鐘が鳴った。普段なら、生徒たちが動き出す時間だ。廊下の向こうから足音が聞こえ、誰かが眠そうに欠伸をし、授業前の支度に追われる。


 だが、ノアの世界はまだ寝台の上にあった。


 重い。


 身体が、鉛のように重かった。


 昨夜、手の甲に浮かんだ空白名札の枠が現世名を吸おうとした。その反動で、全身の魔力回路が乱れている。喉は焼けたように痛み、声はほとんど掠れていた。胸の奥では赤い糸の傷が鈍く疼き、伴侶首輪《メイト・カラー》は熱と冷えのあいだを不安定に揺れている。


 右手の甲。


 照合番号の横に、白い枠が残っていた。


 空白名札と同じ形。


 ただし、中は完全な空白ではない。


 薄く、文字が刻まれている。


 ノア・クロウ。


 昨夜、喉が壊れ、泡混じりの息の中で、それでも自分で言った名だった。レオに呼ばれただけではなく、自分の口で言った名。その名が、白い枠の中にかすかに残っている。


 薄い。


 消えそうだ。


 けれど、ある。


 ノアはそれを見下ろし、掠れた息を吐いた。


 寝台の横には、レオ・アステルレインがいた。


 彼は一晩中、ほとんど眠っていない。


 水を含ませ、喉の治癒をし、手の甲の熱を冷まし、首輪の冷えと熱を整え、魔力回路を少しずつ戻した。身体が冷えないよう毛布を替え、汗と黒い霧の残滓を拭い、乱れた髪を梳いた。


 何も言わずに。


 必要なことだけを、丁寧に。


 過剰になりかけるたび、自分で止めていた。ノアの手を握り潰すほど強く握りたい衝動も、首輪ごと包み込んで外界から遮断したい衝動も、全部ぎりぎりで抑えている。


 だが、顔はひどかった。


 青い瞳の下には疲労の影が落ちている。金髪も乱れたままだ。レオはそれを気にする余裕もなく、ノアの喉元へ薄い治癒魔法を当てていた。


「水」


 低い声で言われる。


 ノアは目だけで返事をした。


 レオは杯を傾ける。


 急がせない。


 一滴ずつ唇を湿らせ、喉がひきつらないのを確認してから、ほんの少しだけ飲ませる。


 水が喉を通った瞬間、痛みで眉が動いた。


 レオの表情が硬くなる。


「痛い?」


「……痛くない顔に見えるか?」


 声は、紙を擦るように掠れていた。


 レオは一瞬、何か言いかける。


 たぶん、喋らなくていい、と。


 だが、飲み込んだ。


「見えない」


「正直でよろしい……最悪だけど」


 ノアが軽口の形を作ると、レオの目がほんの少しだけ揺れた。


 安心ではない。


 ノアが無理に笑っていることを、彼は分かっている。


 レオは櫛を取った。


「髪、梳く」


「確認じゃなくて宣言になってる」


「梳いていい?」


「……いい」


 櫛が、黒髪にゆっくり通る。


 絡まったところで止まり、引っ張らずに解く。額にかかった髪を避け、汗で張りついた襟足を布で拭う。淡々とした動作なのに、その指先はずっと震えを隠していた。


 ノアはそれを感じながら、目を閉じかけた。


 朝が来ても、まだ旧記録庫の灰色が瞼の裏にある。


 空白の子。


 名前を忘れた子。


 名札の裏に刻まれていた、オルドレイス代理の署名。


 そして、自分の手の甲へ浮かんだ白い枠。


 名前を消すなよ。


 昨夜、自分で言った言葉が、喉の痛みと一緒に残っていた。


 扉が叩かれたのは、その時だった。


 レオの手が止まる。


 赤い糸が一瞬で張った。


 扉の向こうの気配を、敵として捉えた反応だった。


 セドリックの声が外からした。


「私だ。レギスもいる」


 レオの表情が冷えた。


 ノアはゆっくり目を開ける。


「……朝から灰色出勤かよ」


「会わせたくない」


 レオの声は即答だった。


 ノアは薄く笑おうとして、喉を押さえる。


「俺も会いたくない。でも見せる必要がある」


「危険だ」


「証拠だ」


「君が危険な証拠になっている」


「分かってる」


 ノアは右手を見た。


 白い枠。


 その中に、薄く刻まれたノア・クロウ。


「だから、見せる」


 レオは苦しそうに息を吐いた。


 それでも、扉を拒まなかった。


 セドリックが入ってきた。


 その後ろに、レギス・グレイヴがいる。


 灰色の制服。


 銀灰の髪。


 薄い灰色の瞳。


 白い手袋。


 姿勢はいつも通り端正だった。だが、室内に入った瞬間、レオの赤い糸が鋭く張る。伴侶首輪も不安定に震えた。ノアの魂糸が、レギスの持つ灰色の記録術式に警戒している。


 レギスは距離を取って立ち止まった。


 学院側の条件を守っている。


 無断で近づかない。


 接触しない。


 記録術式も開かない。


 その点だけは、正確だった。


 セドリックが低く言う。


「ノア、見せられるか」


 ノアは、右手をゆっくり上げた。


 手が重い。


 レオが下から支える。


 白い枠が、朝の光の中に浮かんだ。


 照合番号の横。


 薄く刻まれたノア・クロウ。


 それを見た瞬間、レギスの表情が初めて変わった。


 大きくではない。


 目がわずかに開き、唇がほんの少しだけ止まった。


 だが、彼にしては明確な動揺だった。


 レギスは一歩近づこうとして、レオの赤い糸が張るのを見て止まる。


 そして、低く言った。


「これは正式処理ではありません」


 ノアは掠れた声で返した。


「じゃあ違法役所ってこと?」


 セドリックが眉を寄せる。


「喉を削るな」


「大事な確認です」


 レギスは、白い枠から目を離さなかった。


「魂帳局の正式な回収手続きでは、本人意思確認前に現世名を空白化する処理は行いません」


 レオの声が冷える。


「昨夜、ノアの名は消されかけました」


「その処理は、正式手順に反しています」


「あなたの局の誰かです」


 レギスは否定しなかった。


 その沈黙だけで、部屋の空気が少し重くなる。


 やがて彼は、静かに答えた。


「否定はできません」


 レオの瞳が凍る。


 赤い糸がさらに張った。


 セドリックがすぐに釘を刺す。


「アステルレイン」


「分かっています」


 声は分かっていない温度だった。


 ノアは、レオの袖を指先で引く。


 弱い力だった。


 だが、レオはすぐ気づいた。


「攻撃するなよ。情報源だ」


「信用できない」


「俺もしてない」


 ノアはレギスを見る。


 声は掠れている。


 それでも、低く通した。


「でも、使える」


 レギスの薄い灰色の瞳が、ノアを見た。


 ノアは右手の白い枠を少し持ち上げる。


「じゃあ、監視官様。自分の職場の不正、説明してもらおうか」


 レギスは、しばらく黙っていた。


 感情を整理しているのか。


 記録と現実の矛盾を照合しているのか。


 その沈黙は、今までの冷たい沈黙とは少し違っていた。


「魂帳局の正式処理では、回収対象の現世名を即時空白化することはありません」


 レギスは言った。


「まず、対象本人の現世人格確認。次に、前世記録との照合。危険度判定。必要に応じた一時保護。伴侶契約や現世名固定が存在する場合、それらは解除対象ではなく安定要素として審査されます」


 レオの声が低くなる。


「昨夜の切断申請では、不正固定として扱われました」


「異常です」


「監視記録で照合率が進みかけました」


「それも、本来は起こりません」


 レギスはノアの手の甲を見つめる。


「監視記録は対象の状態確認に用いるものです。照合率を進めるための燃料ではありません」


 ノアは低く笑った。


 喉が痛み、すぐに咳き込む。


 レオが水を差し出す。


 ノアはそれを受け取り、少しだけ飲んでから言った。


「燃料扱いされてますけど」


「そのようです」


「そこ、淡々と認められると腹立つな」


「否定すべきではないと判断しました」


 レギスの声は、まだ平板だった。


 だが、そこに微かな変化があった。


 記録に従うだけの声ではない。


 記録そのものを疑い始めた声だった。


 セドリックが問う。


「局長代理の権限はどこまである」


「回収令状の発行、緊急照合命令、監視官の派遣、旧記録庫への一部アクセス権限」


「旧記録庫」


 セドリックの目が鋭くなる。


「そこに、回収済転生者保管目録があった」


 レギスの表情が、またわずかに動いた。


「旧記録庫は封鎖区域です」


「だが、ノアの監視記録はそこへ複写されていた」


「……確認が必要です」


 レオが低く言う。


「確認で済ませるな」


 レギスはレオを見る。


「私の立場で即断できる範囲を超えています」


「ノアは昨夜、名を消されかけた」


「認識しています」


「認識で済ませるな」


 レオの声が重くなる。


 白金の魔力が、わずかに滲む。


 ノアは袖を引いた。


「レオ」


 レオは止まった。


 止まったが、目はレギスから離さない。


 ノアは、ゆっくり息を吐く。


「レギスさん。あんたは、俺を回収対象として見てた」


「はい」


「赤い糸も不正固定の疑いとして見てた」


「はい」


「でも、今は違う可能性が出た」


「はい」


「なら、そっちの記録も更新してくれ」


 レギスは沈黙した。


「私は、魂帳局本庁へ戻り、記録を確認します」


 ノアは目を細める。


「戻れるのか?」


「正式な確認手続きが必要です」


「局長代理が絡んでる可能性あるんだろ。戻った瞬間、あんたも口塞がれるんじゃないの」


 レギスは答えなかった。


 その沈黙は、肯定に近かった。


 セドリックが言う。


「学院内から照会できないのか」


「通常権限では不可能です。旧記録庫、局長代理署名、代理処理の改竄履歴を確認するには、本庁記録端末への接続が必要です」


 ノアは掠れた声で呟く。


「端末って言い方がもう嫌だな。魂の役所、設備だけ近代的にすんな」


「喉」


 レオがすぐに水を寄せる。


「今いい感じに皮肉が出たところ」


「喉が削れてる」


「はいはい」


 ノアは水を飲む。


 その間、レギスは白い枠を見つめていた。


 そこに刻まれた薄いノア・クロウの文字。


 本人が消されかけた名を、自分で刻み直した痕。


 それは、レギスが知る正式手続きにはないものだった。


 レギスは静かに言った。


「ノア・クロウ」


 レオの赤い糸が即座に反応する。


 だが、ノアの首輪はわずかに安定した。


 レギス自身も、それに気づいたらしい。


「現世名呼称により、首輪反応が安定」


「記録するなよ」


 ノアが即座に言う。


 レギスは、白い手袋をわずかに止めた。


「……失礼しました」


 謝罪だった。


 ごく短い。


 不器用で、硬い。


 だが、確かに謝罪だった。


 ノアは目を細める。


「今のは、記録じゃなくて謝罪として受け取っとく」


「ありがとうございます」


「信用はしないけどな」


「承知しています」


 レオが低く言う。


「当然です」


 レギスは否定しない。


「私の所属機関が、あなた方に損傷を与えた可能性があります。現時点で、信頼を求める立場にはありません」


 セドリックが、観測符を閉じた。


「その認識があるなら、情報を出せ」


「可能な範囲で」


「可能な範囲では足りない」


「それでも、虚偽は述べません」


 ノアは、少しだけレギスを見直した。


 信用ではない。


 ただ、使える。


 制度の中にいる人間が、制度の異常に気づき始めている。


 それは、貴重だった。


 その時だった。


 レギスの左手首で、灰色の腕輪が光った。


 魂帳局の回収官に支給されている記録腕輪。


 普段は薄い灰色の金属輪に見えるそれが、突然、黒く染まり始めた。


 レギスの表情が変わる。


 今度は明確に。


 警戒。


 そして、理解。


 腕輪の表面に、黒い文字が浮かび上がった。


 魂帳局からの命令文。


 レギスはそれを見下ろしたまま、動かなかった。


 ノアも、レオも、セドリックも、その文字を読んだ。


「回収官レギス・グレイヴ、任務逸脱。拘束対象」


 部屋の空気が止まった。


 レオの赤い糸が、ノアを守るように張る。


 セドリックの黒魔法陣が瞬時に展開される。


 レギスは、黒く染まった自分の腕輪を見た。


 そして初めて、低く呟いた。


「私も、記録から外れましたか」




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