第121話 空白名札の侵食
寮部屋に戻っても、灰色の冷気は消えなかった。
窓の外は夜だった。
学院の尖塔の灯りは遠く、廊下も静まり返っている。いつもなら、夜の寮部屋にはかすかな生活音が残っていた。隣室の扉が閉まる音。遠くで誰かが笑う声。魔法灯の芯が小さく鳴る音。
だが今、ノア・クロウの耳に届くのは、自分の乱れた呼吸だけだった。
寝台の端に座っている。
戻ってきた。
旧記録庫から。
回収済転生者保管目録から。
名前のない子供の残響から。
戻ってきたはずだった。
けれど、右手の甲に浮かびかけている白い枠が、それを否定していた。
照合番号の横。
皮膚の内側から滲むように、薄い白い線が現れている。長方形。角の丸い、小さな名札の形。空白の枠。
名前のない子供が胸元に下げていた、あの空白名札と同じ形だった。
中には、まだ何も刻まれていない。
だからこそ、不気味だった。
未記入の欄。
剥がされた名の受け皿。
そこに何も刻まれなければ、現世名そのものが空白へ吸われる。そんな直感が、ノアの魂糸を冷たく撫でた。
ノアは、手の甲を見下ろしたまま、軽口を言おうとした。
「名前欄、未記入で提出されそう」
言い終える前に、声が掠れた。
喉が詰まる。
空白枠が熱を持った。
白い線が、皮膚の上ではなく魂の表面に焼きつく。そこから細い針のようなものが伸び、ノアの魂糸へ食い込んだ。喉の奥が勝手に痙攣する。何かを吐き出そうとしている。声ではない。言葉でもない。名前の形をした何かを、空白へ引き剥がそうとしている。
伴侶首輪が、灰色に冷えた。
熱ではない。
冷たい。
氷の輪が首に噛みついたように、首輪の内側が一気に冷たくなる。その冷えが、灰色の切断痕から喉へ広がった。呼吸が止まりかける。
レオ・アステルレインが、即座にノアの手を取った。
強く握りそうになって、ぎりぎりで止める。
それでも、白金の魔力が指先に走った。
「ノア・クロウ」
低い声。
重く、切実な声。
ノアは、血の気の引いた唇をわずかに動かした。
「……呼びすぎって、言っただろ……」
言葉の最後が崩れた。
空白枠が、さらに深く魂糸へ食い込んだからだ。
ノアの瞳孔が開いた。
赤い瞳が血走り、白目が大きく覗く。焦点が合わない。喉が勝手に動く。空白を吐き出すように、名を吸われるように、内側からひきつる。
背筋が跳ねた。
寝台の上で身体が大きく跳ね、肩が後ろへ反る。指先が硬直し、次の瞬間には勝手に開く。足が床を蹴り、寝具が乱れた。黒い魔力が口元から霧のように漏れ始める。
「が、あ゛……っ、あ゛ああああああッ!! 消す、な……ッ!」
喉が裂けるような声だった。
悲鳴ではない。
人の言葉を保とうとして壊れた、獣の咆哮に近い拒絶。
空白枠が白く燃える。
手の甲の皮膚が裂けたわけではない。血は出ていない。だが、その下にある魂の名札を剥がされる痛みが、身体の反応を一気に限界へ叩き込んだ。
ノアの身体が大きく痙攣する。
背中が跳ね、腰が浮き、肩が震え、腕が制御を失う。指先は何度も折れ曲がり、爪が掌を掻いた。膝が外へ開きかけ、脚がばたばたと寝台を打つ。
「が、あ゛あ゛あ゛ッ……!」
「ぐ、ぅ゛……あ゛ああああッ!」
「ひゅ、が……ッ、あ゛、あ゛ああッ!」
声が崩れる。
喉がうまく閉じない。
舌が力を失い、口の中に収まらず、唇の間からだらりと覗きかける。舌先が震え、言葉を形にできない。泡混じりの息が唇に滲んだ。白い泡の中に、喉から滲んだ赤が細く混ざる。
黒い霧が、その泡の上から漏れた。
ノアの目がぐらりと揺れる。
瞳孔は開ききり、赤い瞳が充血している。白目を剥きかけ、視線が天井へ逃げる。レオが片手で後頭部を支え、もう片方の手でノアの右手を支えた。
押さえつけない。
縛らない。
だが、落とさない。
「ノア・クロウ」
レオは呼び続ける。
「ノア・クロウ。ここにいる。君はノア・クロウだ」
空白枠が、白く光った。
その中に、何もない。
何もないから、吸おうとする。
ノア・クロウという名を。
現世で呼ばれ、選び直し、守ってきた名を。
ノアの喉が、また勝手に痙攣した。
「が、は……ッ、あ゛、あ゛あ゛……ッ!」
吐き気が込み上げる。
身体が折れる。
レオがすぐに横向きに支えた。ノアは寝台の端で身体を丸め、喉を震わせる。胃の中にはほとんど何もない。それでも、魔法的限界反応で身体は排出しようとした。苦い液が少しだけ喉から上がり、泡と混じって唇を濡らす。
腹部が痙攣する。
下腹部の制御も崩れた。
冷たい失禁の感覚が衣服の下で広がる。羞恥を感じる余裕はない。魂糸が名を剥がされかける負荷に、身体はただ限界を超えて壊れている。現実の身体が、魔法的侵食に巻き込まれて制御を失っていた。
レオの顔が歪む。
だが、目を逸らさない。
汚れでも、恥でもない。
限界反応だ。
救護対象だ。
レオは、ノアの名を呼ぶ声を止めなかった。
「ノア・クロウ。ノア、聞いて。君の名を言って」
ノアは震える。
首輪は灰色に冷え、手の甲の空白枠は熱を持つ。
熱と冷えが同時に魂へ食い込み、身体の内側でぶつかる。赤い糸が強く張った。灰色の切断痕を抱えたまま、ノアの魂糸を現実へ繋ぎ止める。
レオは、ただ呼ぶだけではなかった。
縛るためではない。
自分の声だけでノアを固定するためでもない。
ノア本人に、言わせるために。
レオは、声を低くした。
「君の名を言って」
ノアの唇が震える。
泡が滲む。
舌がうまく動かない。
喉が引き攣り、空白を吐き出そうとする痙攣がまだ続いている。
「の……」
声にならない。
ノアの背筋が跳ねる。
「が、あ゛……ッ!」
また叫びが漏れる。
レオは揺らがない。
「ノア。君の名を言って」
ノアの目が、かすかにレオを探した。
焦点は合っていない。
白目を剥きかけた赤い瞳が、涙ではなく生理的な滲みで濡れている。呼吸は泡混じりで、舌はまだ収まらない。だが、その奥に、意識が残っている。
ノアは、口を動かした。
「ノ、ア……」
空白枠が、ぎちりと痛む。
白い枠の内側が、黒く揺れた。
ノアは歯を食いしばる。
歯の隙間から、壊れた息が漏れる。
「ク、ロ……ウ……ッ」
言えた。
崩れた声だった。
泡混じりで、喉が裂け、舌がうまく動かず、音は汚く濁っていた。
それでも、確かに言った。
ノア・クロウ。
その瞬間、手の甲の白い空白枠の中に、文字が刻まれた。
ノア・クロウ。
一瞬だけ。
黒でも灰色でもない。
ノア自身の赤い魔力と、レオの白金の魔力が混ざったような、深い赤の文字だった。
空白枠が震える。
現世名を剥がそうとしていた侵食が止まった。
完全に消えはしない。
だが、白い枠の内側に刻まれた「ノア・クロウ」の文字が、空白を塞いだ。
伴侶首輪の灰色の冷えが、少しずつ薄れる。
赤い糸が震えながらも、強く現実へ繋がる。
ノアの身体から力が抜けた。
痙攣はすぐには止まらない。
腕がまだ細かく震え、脚が断続的に跳ねる。喉は泡混じりの息を吐き続け、瞳孔は開いたまま、視線は定まらない。だが、魂糸を剥がされる力は止まっていた。
レオは、ノアの身体を支えたまま言った。
「ノア・クロウ」
もう一度。
「ノア・クロウ」
ノアは、ほとんど音にならない声で返した。
「……ノア……クロウ……」
その声を聞いて、レオの赤い糸が震えた。
安堵ではない。
完全な安堵には遠すぎる。
だが、失わなかった。
今だけは。
レオは、ようやく救護へ移った。
まず、呼吸。
ノアの身体を横向きに保ち、喉に詰まった泡と苦い液が奥へ戻らないようにする。布で口元を拭う。黒い霧が少しずつ薄れていくのを待つ。
次に、喉。
白金の治癒魔法を直接流し込まず、外側から薄く当てる。裂けた声帯を無理に塞がない。痙攣している喉の魔力回路を鎮め、血泡が増えないようにする。
次に、手の甲。
白い枠は消さない。
そこに刻まれた「ノア・クロウ」も消さない。
ただ、熱だけを冷ます。空白枠が再び名を吸おうとしないよう、周囲に細い白金の膜を張る。
次に、首輪。
灰色に冷えた伴侶首輪へ、温めすぎない程度の魔力を流す。冷えと熱が交互に暴れないよう、首輪の内側の反応を整える。灰色の切断痕、黒い二パーセントの数字、白い花紋。そのすべてを消さず、安定だけさせる。
最後に、身体。
汚れた衣服と寝具を手早く整え、ノアの身体を冷やさないよう毛布を掛ける。羞恥を刺激する言葉は何も言わない。レオは淡々と、だが震えるほど丁寧に動いた。
官能はない。
甘さもない。
そこにあるのは、名を剥がされかけた魂を、現実の身体へ戻すための救護だった。
ノアは意識の底で、かすかに水を飲まされた。




