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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第六章【魂帳局と転生者狩り】

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第121話 空白名札の侵食


 寮部屋に戻っても、灰色の冷気は消えなかった。


 窓の外は夜だった。


 学院の尖塔の灯りは遠く、廊下も静まり返っている。いつもなら、夜の寮部屋にはかすかな生活音が残っていた。隣室の扉が閉まる音。遠くで誰かが笑う声。魔法灯の芯が小さく鳴る音。


 だが今、ノア・クロウの耳に届くのは、自分の乱れた呼吸だけだった。


 寝台の端に座っている。


 戻ってきた。


 旧記録庫から。


 回収済転生者保管目録から。


 名前のない子供の残響から。


 戻ってきたはずだった。


 けれど、右手の甲に浮かびかけている白い枠が、それを否定していた。


 照合番号の横。


 皮膚の内側から滲むように、薄い白い線が現れている。長方形。角の丸い、小さな名札の形。空白の枠。


 名前のない子供が胸元に下げていた、あの空白名札と同じ形だった。


 中には、まだ何も刻まれていない。


 だからこそ、不気味だった。


 未記入の欄。


 剥がされた名の受け皿。


 そこに何も刻まれなければ、現世名そのものが空白へ吸われる。そんな直感が、ノアの魂糸を冷たく撫でた。


 ノアは、手の甲を見下ろしたまま、軽口を言おうとした。


「名前欄、未記入で提出されそう」


 言い終える前に、声が掠れた。


 喉が詰まる。


 空白枠が熱を持った。


 白い線が、皮膚の上ではなく魂の表面に焼きつく。そこから細い針のようなものが伸び、ノアの魂糸へ食い込んだ。喉の奥が勝手に痙攣する。何かを吐き出そうとしている。声ではない。言葉でもない。名前の形をした何かを、空白へ引き剥がそうとしている。


 伴侶首輪《メイト・カラー》が、灰色に冷えた。


 熱ではない。


 冷たい。


 氷の輪が首に噛みついたように、首輪の内側が一気に冷たくなる。その冷えが、灰色の切断痕から喉へ広がった。呼吸が止まりかける。


 レオ・アステルレインが、即座にノアの手を取った。


 強く握りそうになって、ぎりぎりで止める。


 それでも、白金の魔力が指先に走った。


「ノア・クロウ」


 低い声。


 重く、切実な声。


 ノアは、血の気の引いた唇をわずかに動かした。


「……呼びすぎって、言っただろ……」


 言葉の最後が崩れた。


 空白枠が、さらに深く魂糸へ食い込んだからだ。


 ノアの瞳孔が開いた。


 赤い瞳が血走り、白目が大きく覗く。焦点が合わない。喉が勝手に動く。空白を吐き出すように、名を吸われるように、内側からひきつる。


 背筋が跳ねた。


 寝台の上で身体が大きく跳ね、肩が後ろへ反る。指先が硬直し、次の瞬間には勝手に開く。足が床を蹴り、寝具が乱れた。黒い魔力が口元から霧のように漏れ始める。


「が、あ゛……っ、あ゛ああああああッ!! 消す、な……ッ!」


 喉が裂けるような声だった。


 悲鳴ではない。


 人の言葉を保とうとして壊れた、獣の咆哮に近い拒絶。


 空白枠が白く燃える。


 手の甲の皮膚が裂けたわけではない。血は出ていない。だが、その下にある魂の名札を剥がされる痛みが、身体の反応を一気に限界へ叩き込んだ。


 ノアの身体が大きく痙攣する。


 背中が跳ね、腰が浮き、肩が震え、腕が制御を失う。指先は何度も折れ曲がり、爪が掌を掻いた。膝が外へ開きかけ、脚がばたばたと寝台を打つ。


「が、あ゛あ゛あ゛ッ……!」


「ぐ、ぅ゛……あ゛ああああッ!」


「ひゅ、が……ッ、あ゛、あ゛ああッ!」


 声が崩れる。


 喉がうまく閉じない。


 舌が力を失い、口の中に収まらず、唇の間からだらりと覗きかける。舌先が震え、言葉を形にできない。泡混じりの息が唇に滲んだ。白い泡の中に、喉から滲んだ赤が細く混ざる。


 黒い霧が、その泡の上から漏れた。


 ノアの目がぐらりと揺れる。


 瞳孔は開ききり、赤い瞳が充血している。白目を剥きかけ、視線が天井へ逃げる。レオが片手で後頭部を支え、もう片方の手でノアの右手を支えた。


 押さえつけない。


 縛らない。


 だが、落とさない。


「ノア・クロウ」


 レオは呼び続ける。


「ノア・クロウ。ここにいる。君はノア・クロウだ」


 空白枠が、白く光った。


 その中に、何もない。


 何もないから、吸おうとする。


 ノア・クロウという名を。


 現世で呼ばれ、選び直し、守ってきた名を。


 ノアの喉が、また勝手に痙攣した。


「が、は……ッ、あ゛、あ゛あ゛……ッ!」


 吐き気が込み上げる。


 身体が折れる。


 レオがすぐに横向きに支えた。ノアは寝台の端で身体を丸め、喉を震わせる。胃の中にはほとんど何もない。それでも、魔法的限界反応で身体は排出しようとした。苦い液が少しだけ喉から上がり、泡と混じって唇を濡らす。


 腹部が痙攣する。


 下腹部の制御も崩れた。


 冷たい失禁の感覚が衣服の下で広がる。羞恥を感じる余裕はない。魂糸が名を剥がされかける負荷に、身体はただ限界を超えて壊れている。現実の身体が、魔法的侵食に巻き込まれて制御を失っていた。


 レオの顔が歪む。


 だが、目を逸らさない。


 汚れでも、恥でもない。


 限界反応だ。


 救護対象だ。


 レオは、ノアの名を呼ぶ声を止めなかった。


「ノア・クロウ。ノア、聞いて。君の名を言って」


 ノアは震える。


 首輪は灰色に冷え、手の甲の空白枠は熱を持つ。


 熱と冷えが同時に魂へ食い込み、身体の内側でぶつかる。赤い糸が強く張った。灰色の切断痕を抱えたまま、ノアの魂糸を現実へ繋ぎ止める。


 レオは、ただ呼ぶだけではなかった。


 縛るためではない。


 自分の声だけでノアを固定するためでもない。


 ノア本人に、言わせるために。


 レオは、声を低くした。


「君の名を言って」


 ノアの唇が震える。


 泡が滲む。


 舌がうまく動かない。


 喉が引き攣り、空白を吐き出そうとする痙攣がまだ続いている。


「の……」


 声にならない。


 ノアの背筋が跳ねる。


「が、あ゛……ッ!」


 また叫びが漏れる。


 レオは揺らがない。


「ノア。君の名を言って」


 ノアの目が、かすかにレオを探した。


 焦点は合っていない。


 白目を剥きかけた赤い瞳が、涙ではなく生理的な滲みで濡れている。呼吸は泡混じりで、舌はまだ収まらない。だが、その奥に、意識が残っている。


 ノアは、口を動かした。


「ノ、ア……」


 空白枠が、ぎちりと痛む。


 白い枠の内側が、黒く揺れた。


 ノアは歯を食いしばる。


 歯の隙間から、壊れた息が漏れる。


「ク、ロ……ウ……ッ」


 言えた。


 崩れた声だった。


 泡混じりで、喉が裂け、舌がうまく動かず、音は汚く濁っていた。


 それでも、確かに言った。


 ノア・クロウ。


 その瞬間、手の甲の白い空白枠の中に、文字が刻まれた。


 ノア・クロウ。


 一瞬だけ。


 黒でも灰色でもない。


 ノア自身の赤い魔力と、レオの白金の魔力が混ざったような、深い赤の文字だった。


 空白枠が震える。


 現世名を剥がそうとしていた侵食が止まった。


 完全に消えはしない。


 だが、白い枠の内側に刻まれた「ノア・クロウ」の文字が、空白を塞いだ。


 伴侶首輪の灰色の冷えが、少しずつ薄れる。


 赤い糸が震えながらも、強く現実へ繋がる。


 ノアの身体から力が抜けた。


 痙攣はすぐには止まらない。


 腕がまだ細かく震え、脚が断続的に跳ねる。喉は泡混じりの息を吐き続け、瞳孔は開いたまま、視線は定まらない。だが、魂糸を剥がされる力は止まっていた。


 レオは、ノアの身体を支えたまま言った。


「ノア・クロウ」


 もう一度。


「ノア・クロウ」


 ノアは、ほとんど音にならない声で返した。


「……ノア……クロウ……」


 その声を聞いて、レオの赤い糸が震えた。


 安堵ではない。


 完全な安堵には遠すぎる。


 だが、失わなかった。


 今だけは。


 レオは、ようやく救護へ移った。


 まず、呼吸。


 ノアの身体を横向きに保ち、喉に詰まった泡と苦い液が奥へ戻らないようにする。布で口元を拭う。黒い霧が少しずつ薄れていくのを待つ。


 次に、喉。


 白金の治癒魔法を直接流し込まず、外側から薄く当てる。裂けた声帯を無理に塞がない。痙攣している喉の魔力回路を鎮め、血泡が増えないようにする。


 次に、手の甲。


 白い枠は消さない。


 そこに刻まれた「ノア・クロウ」も消さない。


 ただ、熱だけを冷ます。空白枠が再び名を吸おうとしないよう、周囲に細い白金の膜を張る。


 次に、首輪。


 灰色に冷えた伴侶首輪へ、温めすぎない程度の魔力を流す。冷えと熱が交互に暴れないよう、首輪の内側の反応を整える。灰色の切断痕、黒い二パーセントの数字、白い花紋。そのすべてを消さず、安定だけさせる。


 最後に、身体。


 汚れた衣服と寝具を手早く整え、ノアの身体を冷やさないよう毛布を掛ける。羞恥を刺激する言葉は何も言わない。レオは淡々と、だが震えるほど丁寧に動いた。


 官能はない。


 甘さもない。


 そこにあるのは、名を剥がされかけた魂を、現実の身体へ戻すための救護だった。


 ノアは意識の底で、かすかに水を飲まされた。


 


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