第120話 空白名札の署名
術式線は、切れたはずだった。
セドリック・バロウズの研究室に戻った。
灰色の光は閉じ、旧記録庫の扉は消え、回収済転生者保管目録の棚も、空白名札を下げた子供の姿も、記録線の向こうへ沈んだはずだった。
だが、ノア・クロウの魂糸には、まだ一本だけ細い灰色の糸が残っていた。
切れ残った記録線。
子供の名札から伸びた、あまりにも細い残響。
それが、ノアの手の甲に絡んでいる。
現実の研究室と、旧記録庫の術式空間が、薄い膜一枚で重なっていた。
研究室の机。
黒魔法陣。
セドリックの声。
レオ・アステルレインの手。
そのすべてが遠くなり、ノアの視界には、再び灰色の棚が映った。
回収済転生者保管目録。
無数の名札。
現世名を凍結された者。
魂名を封緘された者。
旧記録へ再統合された者。
そして、現世名を剥がされた者。
棚の影に、子供が立っている。
胸元の名札は空白。
現世名も、前世名も、削られている。
その名札が、ふわりと裏返った。
裏面に、署名があった。
古代文字を絡めた、細く冷たい記録署名。
オルドレイス代理。
それは、正式な魂帳局職員の署名ではなかった。
通常処理の印でもない。
代理処理。
誰かが魂帳局の形式を使い、正式な記録の顔をして、転生者の名を書き換えた痕だった。
ノアの喉が詰まる。
伴侶首輪が冷たく熱を持った。灰色の切断痕が疼き、手の甲の照合番号が針のように痛む。魂糸が、空白名札の署名へ引かれた。
レオの声が聞こえた。
静かだった。
だが、その静けさの奥に、今までにない怒りがあった。
「この名を使って、どれだけ消した」
白金の魔力が、低く震える。
それは爆発ではない。
剣でも、炎でもない。
けれど、レオの怒りが赤い糸を通じてノアの胸まで伝わった。
前世で失った者の怒り。
現世で奪われかけた者の怒り。
そして、名前を剥がされた子供を見た怒り。
レオは、その子供を知らない。
それでも怒っていた。
ノアは、子供を見た。
子供は、自分の名札の裏に何が刻まれているのか分かっていないようだった。薄い輪郭のまま、灰色の棚の前に立っている。服は古く、袖口は記録紙の端のように揺れ、空白の名札だけが妙にはっきりしていた。
ノアは、珍しく茶化せなかった。
喉の奥で、怒りが低く沈んでいる。
軽口で逃がせない。
これは、笑いごとにして形を保てるものではなかった。
ノアは、低く言った。
「名前を消すなよ」
声は掠れていた。
だが、重かった。
「前世名でも、現世名でも、本人が自分を呼ぶためのものだろ。記録に合わないからって、剥がして、空白にして、保管済にするなよ」
子供は、ノアを見上げる。
その瞳の色も曖昧だった。
灰色にも見える。
薄い赤にも見える。
あるいは、もう色という記録さえ残っていないのかもしれない。
「名前」
子供は、口の中でその言葉を転がすように呟いた。
「あなたの名前は?」
ノアは、息を吸った。
喉が痛い。
首輪が熱い。
手の甲の照合番号が疼く。
それでも、答えた。
「ノア・クロウ」
その名を口にした瞬間、赤い糸が静かに光った。
レオが後ろで息を止める気配がする。
幼いイリアスの残響も、魂の奥で微かに揺れた。
子供は、ノアの名を聞いて、少しだけ首を傾げた。
「ノア……クロウ」
たどたどしい声だった。
長いあいだ名前というものを口にしていなかったように、一音ずつ確かめるような声。
「ノア・クロウ」
もう一度。
子供が、その名を呼んだ。
その瞬間、ノアの魂糸が少しだけ安定した。
胸の奥で、揺れていたものが現世へ結び直される。
誰かに名を呼ばれること。
それは、存在を繋ぐ。
帳簿ではない。
番号ではない。
照合対象でも、旧記録でもない。
名前を呼ばれた。
ノア・クロウとして。
子供の声は弱く、残響で、ほとんど記録の端に残ったかすれだった。それでも、ノアの魂糸は確かに反応した。
ノアは目を見開きかけた。
「……呼べるのか」
子供は、また首を傾げた。
「呼べた」
「そうか」
「名前、あるんだね」
「ああ」
「いいね」
ノアの胸が、きつく締まった。
いいね。
また、その言葉。
名前があること。
呼んでもらえること。
自分で名乗れること。
それを、いいね、と言う。
ノアは奥歯を噛んだ。
怒りが、また静かに沈む。
子供の残響が、ノアへ近づいた。
足音はない。
身体の輪郭が薄く揺れ、名札の空白だけが光る。
小さな手が、ノアへ伸びる。
触れたわけではない。
それでも、魂糸を掴まれた感覚があった。
ノアの喉が詰まる。
「っ……」
瞳孔が開く。
視界の端が灰色に滲む。
伴侶首輪が熱を持ち、黒い二パーセントの数字が内側で揺れた。進まない。だが、旧記録庫の奥から引かれる力が強くなる。
子供は、縋っていた。
悪意ではない。
引きずり込もうとしているのではない。
ただ、名前を呼んだ。
名前がある者を見つけた。
自分にはもうないものを持っている者へ、残響が縋った。
旧記録庫が、それを利用する。
空白名札から伸びた灰色の糸が、ノアの魂糸へ絡む。名前を持つ魂を、記録庫の奥へ引き込もうとする。子供の寂しさと、記録庫の処理術式が混ざり合い、見分けがつかない。
レオの赤い糸が一気に張った。
「ノア、戻って」
ノアは子供から目を逸らさなかった。
「置いていけるかよ」
声は低かった。
痛みで掠れている。
それでも、拒絶ではない。
怒りと、焦りと、どうしようもない重さが混ざっていた。
レオの声が強くなる。
「引かれている」
「分かってる」
「その子の残響が、君の魂糸を掴んでいる」
「分かってる」
「旧記録庫が使っている」
「それも分かってる」
「なら戻って」
ノアは唇を噛んだ。
戻らなければ危ない。
それは分かる。
このまま残響に触れ続ければ、子供の空白名札に自分の名前まで引かれる。現世名を持つ魂として、記録庫に捕まる。回収予定の札が、回収済の棚へ引き寄せられる可能性すらある。
だが、目の前に子供がいる。
名前を忘れた子供。
ノア・クロウという名を、たどたどしく呼んだ子供。
その名札の裏に、オルドレイス代理の署名を刻まれた子供。
置いていけるか。
ノアの首輪が熱を増した。
喉が詰まり、短い呻きが漏れる。
「ぐ……っ」
重度ではない。
まだ、絶叫には落ちない。
だが、近いところまで引かれている。
瞳孔が開き、赤い瞳が血走りかける。首輪の内側で灰色の切断痕と黒い二パーセントの数字が同時に疼く。手の甲の照合番号が冷たく光った。
レオは、ノアの手を強く握りたい衝動を抑えていた。
ノアには分かった。
今、レオは本当なら無理やり引き戻したい。
赤い糸でノアを巻き取り、旧記録庫から引き剥がし、自分の腕の中に閉じ込めたい。
子供を助けたいノアを止めたい。
ノアが他者のために危険な場所へ残ろうとすることが、怖くて仕方ない。
だが、子供を見捨てろとも言えない。
その苦しさが、赤い糸を通して伝わる。
ノアは、子供へ向かって手を伸ばした。
レオの赤い糸が、さらに張る。
「ノア」
「触らない。約束する」
「君の約束は信用が薄い」
「今は守る」
ノアは、子供の手に直接触れない位置で止めた。
自分の掌を、子供の前に置くだけ。
その掌には、黒い花、灰色の帳簿印、白花派紋が重なった痕がある。父王殺害術式の核。災厄再臨儀礼。魂帳局。白花派。
そして今、そのすべてにオルドレイス代理の署名が繋がっている。
ノアは低く言った。
「俺は、今すぐ君を連れていけない」
子供は瞬きする。
「どうして?」
「俺が持たない。君も壊れるかもしれない。旧記録庫に引かれて、俺まで空白になる」
「空白」
「そうだ」
ノアの声は震えていなかった。
震えないようにしていた。
「でも、名前を探す。君の札の裏にある署名も持って帰る。誰が消したのか、どうやって消したのか、調べる」
子供は、よく分かっていない顔をしていた。
それでも、ノアを見ている。
「名前、くれる?」
ノアの胸が痛んだ。
今ここで、勝手に名前を与えることはできない。
それは、また記録を上書きすることになるかもしれない。
この子が誰だったのか。
本人の現世名が何だったのか。
それを探す前に、ノアが勝手に名付けることはできなかった。
ノアは、ゆっくり首を振った。
「俺が勝手につけるのは違う」
子供の目が、少しだけ沈む。
ノアは続けた。
「でも、呼ぶための仮の目印は必要だな」
レオが小さく息を呑む。
セドリックの遠い声も聞こえた。
「ノア、慎重にしろ」
「分かってます」
ノアは、子供を見る。
「空白の子」
子供は首を傾げる。
「からっぽ?」
「違う。空白は、まだ書ける場所だ」
ノアは低く言った。
「消された場所じゃない。取り戻す場所だ」
子供は、初めて少しだけ表情を変えた。
笑ったわけではない。
泣いたわけでもない。
ただ、空白の名札が、ほんの少しだけ揺れた。
「空白」
「そう。今だけだ」
その瞬間、旧記録庫の奥が揺れた。
灰色の棚が、ざわりと鳴る。
空白名札の裏に刻まれたオルドレイス代理の署名が、黒く光った。
記録庫そのものが、反応した。
ノアの魂糸を掴む力が、一気に強まる。
首輪が灼けるように熱を持った。
「っ、あ……!」
喉が潰れかける。
瞳孔がさらに開く。
膝が崩れそうになる感覚が、術式越しに現実の身体へも伝わった。手の甲の照合番号が強く疼き、白い枠のようなものが皮膚の下で浮かびかける。
レオが叫ぶ。
「ノア、戻って!」
ノアは歯を食いしばる。
「置いていけるかよ……っ」
「今は戻る」
「まだ」
「今戻らないと、君の名前が引かれる」
その言葉で、ノアは息を止めた。
自分の名前が引かれる。
ノア・クロウ。
子供が呼んでくれた名。
自分が選び直した名。
それが、空白名札へ引かれる。
子供を助けるために自分の名を失えば、誰も救えない。
レオの赤い糸が、現実へ向けて強く張る。
今度は、やや強い。
だが、所有のためではない。
ノアの名を守るため。
ノア自身が戻ると決める余地を残したまま、帰り道を太くするため。
ノアは、子供へ言った。
「また来る」
子供は、ノアを見た。
「ノア・クロウ」
もう一度、その名を呼んだ。
ノアの魂糸が安定する。
同時に、旧記録庫が強く引く。
矛盾した力が、胸の奥でぶつかった。
ノアは、喉の奥で低く言う。
「戻る。でも、忘れない」
子供は言った。
「忘れないで」
「忘れない」
レオの赤い糸が、一気に現実へ引いた。
灰色の棚が遠ざかる。
空白名札が揺れる。
裏面のオルドレイス代理の署名が、最後に黒く光った。
そして、旧記録庫の術式空間は閉じた。
研究室の空気が戻る。
ノアは椅子の上で大きく息を吸った。
喉が痛む。
胸が重い。
首輪は熱を持ち、照合率の数字が内側で揺れている。だが、進んでいない。二パーセントのまま止まっている。
レオがすぐに水を差し出した。
ノアは受け取る手に力が入らず、レオが支えた。
少しだけ飲む。
喉がひきつる。
それでも、飲めた。
ノアは、低く呟いた。
「置いてきた」
レオは、ノアの手を支えたまま答えた。
「まだ終わっていない」
その声は静かだった。
だが、怒りも、恐怖も、決意も混じっていた。
ノアは目を伏せた。
置いてきた。
空白の子を。
名を失った子を。
だが、忘れない。
忘れないと約束した。
その時、レオの呼吸が止まった。
「ノア」
ノアは顔を上げる。
「何」
レオは、ノアの右手を見ていた。
手の甲。
照合番号のそば。
そこに、薄い白い枠が浮かびかけていた。
子供の空白名札と同じ形。
まだ文字はない。
だが、空白の名札を思わせる白い枠が、ノアの皮膚の下から浮かび上がろうとしている。
レオの顔から、血の気が引いた。
赤い糸が鋭く張る。
彼はその糸を、強く握った。




