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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第六章【魂帳局と転生者狩り】

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第119話 名前のない子供



 子供が、そこに立っていた。


 旧記録庫の奥。


 回収済転生者保管目録の棚が、灰色の闇の中へどこまでも続いている。空中には無数の名前札が吊られ、現世名、前世名、回収理由、処理状態が冷たい文字で刻まれていた。


 現世名凍結。


 魂名封緘。


 旧記録再統合。


 現世名消去。


 そのひとつひとつが、かつて誰かだったものの残骸のように揺れている。


 扉の隙間から覗く術式空間。


 セドリックの研究室にいるはずなのに、ノア・クロウの意識は、記録線を通して旧記録庫の奥を見ていた。


 そして、その棚の影に、子供がいた。


 小さい。


 十にも届かないように見える。


 性別は分からない。声も、顔立ちも、輪郭も曖昧だった。古い服を着ている。どこの国のものかも分からないほど色が抜け、袖口は記録紙の端のように薄く揺れていた。


 胸元には名札が下がっている。


 だが、空白だった。


 現世名の欄も。


 前世名の欄も。


 削られている。


 文字が消えているのではない。


 剥がされた跡だけが残っている。


 子供は、ノアを見ていた。


 もう一度、言った。


「まだいるの?」


 ノアは、何も返せなかった。


 軽口が出ない。


 魂の役所に迷子センターまであるのか、とか。


 名札くらいまともに管理しろ、とか。


 いつものように、何かを言って息を整えようとした。


 けれど、喉が動かなかった。


 言葉が、喉の奥で止まる。


 伴侶首輪《メイト・カラー》が冷たくなる。


 熱ではない。


 氷の輪を首にかけられたような冷たさだった。灰色の切断痕が細く疼き、手の甲の照合番号が冷たい針のように痛む。魂糸が、子供の空白名札へ反応して震えた。


 レオ・アステルレインも黙っていた。


 ノアの隣で、赤い糸を張っている。


 強く包み込まない。


 だが、離さない。


 子供の空白名札を見た瞬間、レオの赤い糸は痛いほど強張った。ノアがこうなる未来を、見てしまったのだろう。


 名前を失う。


 現世名を剥がされる。


 自分を呼べなくなる。


 ノア・クロウという名が空白になり、旧記録だけが残り、あるいはその旧記録さえ処理状態のための項目へ押し込められる。


 その想像が、レオを凍らせていた。


 彼はノアの手を握ろうとした。


 けれど、止まった。


 今、握れば強すぎる。


 怖さのままに引き寄せれば、またノアの選択を奪う。


 ノアには、それが分かった。


 だから、自分から手を差し出した。


 レオの指が、一瞬だけ震える。


 それから、静かに握った。


 強くない。


 だが、確かにそこにある。


 ノアは、子供へ向き直った。


 声を出すまでに、少し時間がかかった。


「名前は?」


 子供は、首を傾げた。


 胸元の空白名札が、かすかに揺れる。


「忘れた」


 ノアは息を呑んだ。


 それだけだった。


 たった一言。


 それなのに、胸の奥を強く殴られたようだった。


 忘れた。


 名前を。


 自分の名前を。


 誰かに呼ばれていたはずの名を。


 自分で自分を確かめるための名を。


 現世名を剥がされるとは、こういうことなのだ。


 記録に戻されるとは、こういうことなのだ。


 帳簿上の整合性が取れる代わりに、本人が自分を呼べなくなる。


 ノアの喉が詰まった。


 首輪の冷たさが増す。


 照合番号が疼き、魂糸が子供の残響へ引かれそうになる。


 レオの赤い糸が、静かに支えた。


 名を呼びたいのだと分かった。


 今すぐ何度も、ノア・クロウと呼びたいのだと。


 けれど、レオは黙っていた。


 子供の前で、ノアの名を叫ぶことが、何かを踏みにじるように感じたのかもしれない。


 だから、ただ支えていた。


 子供は、ノアを見上げる。


「あなたは、名前あるの?」


 ノアは、低く答えた。


「ある」


「いいね」


 その言葉に、ノアは目を伏せかけた。


 いいね。


 名前があることを、そんなふうに言われる。


 当たり前ではなかった。


 ここでは、もう当たり前ではない。


「呼んでくれる人もいる?」


 子供が聞く。


 ノアは、レオの手の温度を感じながら言った。


「いる」


「いいね」


 また同じ言葉だった。


 羨ましいのか、懐かしいのか、それすら曖昧な声だった。


 レオの手が、ほんの少し震える。


 ノアは握り返した。


 子供の胸元の名札には、処理状態だけが残っている。


 現世名除去。


 旧記録統合。


 保管済。


 その三つの文字が、薄く浮かんでは沈んでいる。


 ノアは、唇を引き結んだ。


「君は、ここにずっといるのか」


 子供は、また首を傾げた。


「分からない」


「誰か来た?」


「灰色の人は来た」


「灰色の人」


「見て、書いて、行く」


 レオの赤い糸が鋭く震えた。


 レギスのような監視官か。


 それとも、もっと古い回収官か。


 子供の残響は、そこを区別できていない。


 ただ、見られ、書かれ、置かれた記憶だけが残っている。


「痛かったか」


 ノアが聞くと、子供は少し考えた。


「最初は」


「今は?」


「分からない」


 ノアは、それ以上聞けなかった。


 痛みすら分からなくなる。


 名前を忘れたあと、痛みも自分のものではなくなるのかもしれない。


 喉が詰まる。


 ノアは、軽口を探した。


 探して、見つからなかった。


 子供は、ノアの首元を見た。


 伴侶首輪。


 灰色の切断痕。


 黒い数字。


 それから、手の甲の照合番号を見た。


「あなたも、戻されるの?」


 レオの手が強張った。


 赤い糸が、強くノアを現世名へ支える。


 ノアは、子供から目を逸らさなかった。


 怖くないわけではない。


 この子供は、未来の可能性だ。


 ノア・クロウが回収予定から回収済へ移された先。


 現世名を剥がされ、旧記録へ統合され、やがて自分の名前を忘れる未来。


 だが、そこで目を逸らせば、負ける。


 ノアは、低く言った。


「戻らない」


 子供が、瞬きした。


 ノアは続ける。


「俺はノア・クロウだ」


 伴侶首輪が震える。


 照合率は進まない。


 黒い二パーセントの数字は、冷たく浮いたままだが、三へは揺れない。


 レオが、静かに息を吸う。


 ノアの声を遮らず、支えるように赤い糸を張る。


「前世の記録がある。イリアス・ノクスヴェルトだったことも、消えない。壊したことも、罪も、なかったことにはしない」


 子供は聞いている。


 名札のない胸元が、灰色の光の中で揺れている。


「でも、戻らない。俺は俺のまま、持っていく」


 レオの手が、ノアの手を支える。


 今度は少しだけ強い。


 だが、強すぎない。


 ノアは子供へ視線を落とした。


「君の名前は、今すぐには分からない」


 子供は、首を傾げる。


「探すの?」


「探す」


 言ってから、ノアは自分でも驚いた。


 簡単に言えることではない。


 回収済転生者保管目録。


 無数の名札。


 現世名凍結。


 現世名消去。


 そのすべてを今すぐどうにかする力などない。


 この子供の名も、すでに消されているかもしれない。


 完全には戻らないかもしれない。


 それでも、言っていた。


「約束は、まだできない。けど、探す」


 子供は、不思議そうにノアを見た。


「どうして?」


 ノアは答えられなかった。


 なぜ、と言われると難しい。


 同情だけではない。


 怒りだけでもない。


 この子供を放っておけば、自分も同じ場所へ行くかもしれないから、という恐怖だけでもない。


 名前を奪われた子供が、まだそこに立っている。


 それだけで、十分だった。


「名前がないのは、嫌だろ」


 子供は少し考えた。


 そして、小さく言った。


「分からない」


 ノアの胸が痛んだ。


 嫌だという感覚さえ、薄れている。


 それが、何より痛かった。


 セドリックの声が、遠くから響く。


「限界だ。戻す」


 研究室側の声だった。


 術式線が細くなっている。


 ノアの魂糸は、旧記録庫の残響へ引かれ始めていた。これ以上留まれば、子供の空白名札に触れすぎる。


 レオもそれを感じている。


「ノア」


「分かってる」


 ノアは、子供へ言った。


「また来る」


 子供は、首を傾げた。


「まだいるの?」


「いる」


「名前、あるのに?」


「あるから来る」


 子供は、その意味が分からないようだった。


 それでも、ノアを見ていた。


 記録線が閉じ始める。


 旧記録庫の棚が遠ざかる。


 名札の群れが灰色の霧へ溶けていく。


 その時、レオが低く息を呑んだ。


「ノア」


「何」


「名札の裏」


 レオの声が硬い。


 ノアは、消えかける子供の胸元へ視線を戻した。


 空白の名札が、ふわりと揺れる。


 その裏側が、一瞬だけ見えた。


 そこに、署名があった。


 小さく。


 薄く。


 だが、確かに。


 オルドレイス代理。


 古代文字の「O」が、灰色の裏面に刻まれている。


 レオの声に、初めて怒りが滲んだ。


「……この子にも」


 その低い声が旧記録庫の灰色に沈む直前、術式線が切れた。


 研究室の空気が戻る。


 ノアは椅子の上で、しばらく動けなかった。


 喉が詰まっている。


 首輪は冷たい。


 手の甲の照合番号が、まだ疼いていた。


 レオはノアの手を握ったまま、黙っている。


 いつもなら、すぐに名前を呼ぶ。


 水を渡す。


 喉を確認する。


 赤い糸を確認する。


 だが今は、一拍遅れた。


 怒りが、彼の中で凍りついている。


 ノアは、掠れた声で言った。


「今日は茶化すの無理」


 レオは、水を差し出しながら、静かに答えた。


「いい」


 その声の奥には、まだ消えない怒りがあった。



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