第119話 名前のない子供
子供が、そこに立っていた。
旧記録庫の奥。
回収済転生者保管目録の棚が、灰色の闇の中へどこまでも続いている。空中には無数の名前札が吊られ、現世名、前世名、回収理由、処理状態が冷たい文字で刻まれていた。
現世名凍結。
魂名封緘。
旧記録再統合。
現世名消去。
そのひとつひとつが、かつて誰かだったものの残骸のように揺れている。
扉の隙間から覗く術式空間。
セドリックの研究室にいるはずなのに、ノア・クロウの意識は、記録線を通して旧記録庫の奥を見ていた。
そして、その棚の影に、子供がいた。
小さい。
十にも届かないように見える。
性別は分からない。声も、顔立ちも、輪郭も曖昧だった。古い服を着ている。どこの国のものかも分からないほど色が抜け、袖口は記録紙の端のように薄く揺れていた。
胸元には名札が下がっている。
だが、空白だった。
現世名の欄も。
前世名の欄も。
削られている。
文字が消えているのではない。
剥がされた跡だけが残っている。
子供は、ノアを見ていた。
もう一度、言った。
「まだいるの?」
ノアは、何も返せなかった。
軽口が出ない。
魂の役所に迷子センターまであるのか、とか。
名札くらいまともに管理しろ、とか。
いつものように、何かを言って息を整えようとした。
けれど、喉が動かなかった。
言葉が、喉の奥で止まる。
伴侶首輪が冷たくなる。
熱ではない。
氷の輪を首にかけられたような冷たさだった。灰色の切断痕が細く疼き、手の甲の照合番号が冷たい針のように痛む。魂糸が、子供の空白名札へ反応して震えた。
レオ・アステルレインも黙っていた。
ノアの隣で、赤い糸を張っている。
強く包み込まない。
だが、離さない。
子供の空白名札を見た瞬間、レオの赤い糸は痛いほど強張った。ノアがこうなる未来を、見てしまったのだろう。
名前を失う。
現世名を剥がされる。
自分を呼べなくなる。
ノア・クロウという名が空白になり、旧記録だけが残り、あるいはその旧記録さえ処理状態のための項目へ押し込められる。
その想像が、レオを凍らせていた。
彼はノアの手を握ろうとした。
けれど、止まった。
今、握れば強すぎる。
怖さのままに引き寄せれば、またノアの選択を奪う。
ノアには、それが分かった。
だから、自分から手を差し出した。
レオの指が、一瞬だけ震える。
それから、静かに握った。
強くない。
だが、確かにそこにある。
ノアは、子供へ向き直った。
声を出すまでに、少し時間がかかった。
「名前は?」
子供は、首を傾げた。
胸元の空白名札が、かすかに揺れる。
「忘れた」
ノアは息を呑んだ。
それだけだった。
たった一言。
それなのに、胸の奥を強く殴られたようだった。
忘れた。
名前を。
自分の名前を。
誰かに呼ばれていたはずの名を。
自分で自分を確かめるための名を。
現世名を剥がされるとは、こういうことなのだ。
記録に戻されるとは、こういうことなのだ。
帳簿上の整合性が取れる代わりに、本人が自分を呼べなくなる。
ノアの喉が詰まった。
首輪の冷たさが増す。
照合番号が疼き、魂糸が子供の残響へ引かれそうになる。
レオの赤い糸が、静かに支えた。
名を呼びたいのだと分かった。
今すぐ何度も、ノア・クロウと呼びたいのだと。
けれど、レオは黙っていた。
子供の前で、ノアの名を叫ぶことが、何かを踏みにじるように感じたのかもしれない。
だから、ただ支えていた。
子供は、ノアを見上げる。
「あなたは、名前あるの?」
ノアは、低く答えた。
「ある」
「いいね」
その言葉に、ノアは目を伏せかけた。
いいね。
名前があることを、そんなふうに言われる。
当たり前ではなかった。
ここでは、もう当たり前ではない。
「呼んでくれる人もいる?」
子供が聞く。
ノアは、レオの手の温度を感じながら言った。
「いる」
「いいね」
また同じ言葉だった。
羨ましいのか、懐かしいのか、それすら曖昧な声だった。
レオの手が、ほんの少し震える。
ノアは握り返した。
子供の胸元の名札には、処理状態だけが残っている。
現世名除去。
旧記録統合。
保管済。
その三つの文字が、薄く浮かんでは沈んでいる。
ノアは、唇を引き結んだ。
「君は、ここにずっといるのか」
子供は、また首を傾げた。
「分からない」
「誰か来た?」
「灰色の人は来た」
「灰色の人」
「見て、書いて、行く」
レオの赤い糸が鋭く震えた。
レギスのような監視官か。
それとも、もっと古い回収官か。
子供の残響は、そこを区別できていない。
ただ、見られ、書かれ、置かれた記憶だけが残っている。
「痛かったか」
ノアが聞くと、子供は少し考えた。
「最初は」
「今は?」
「分からない」
ノアは、それ以上聞けなかった。
痛みすら分からなくなる。
名前を忘れたあと、痛みも自分のものではなくなるのかもしれない。
喉が詰まる。
ノアは、軽口を探した。
探して、見つからなかった。
子供は、ノアの首元を見た。
伴侶首輪。
灰色の切断痕。
黒い数字。
それから、手の甲の照合番号を見た。
「あなたも、戻されるの?」
レオの手が強張った。
赤い糸が、強くノアを現世名へ支える。
ノアは、子供から目を逸らさなかった。
怖くないわけではない。
この子供は、未来の可能性だ。
ノア・クロウが回収予定から回収済へ移された先。
現世名を剥がされ、旧記録へ統合され、やがて自分の名前を忘れる未来。
だが、そこで目を逸らせば、負ける。
ノアは、低く言った。
「戻らない」
子供が、瞬きした。
ノアは続ける。
「俺はノア・クロウだ」
伴侶首輪が震える。
照合率は進まない。
黒い二パーセントの数字は、冷たく浮いたままだが、三へは揺れない。
レオが、静かに息を吸う。
ノアの声を遮らず、支えるように赤い糸を張る。
「前世の記録がある。イリアス・ノクスヴェルトだったことも、消えない。壊したことも、罪も、なかったことにはしない」
子供は聞いている。
名札のない胸元が、灰色の光の中で揺れている。
「でも、戻らない。俺は俺のまま、持っていく」
レオの手が、ノアの手を支える。
今度は少しだけ強い。
だが、強すぎない。
ノアは子供へ視線を落とした。
「君の名前は、今すぐには分からない」
子供は、首を傾げる。
「探すの?」
「探す」
言ってから、ノアは自分でも驚いた。
簡単に言えることではない。
回収済転生者保管目録。
無数の名札。
現世名凍結。
現世名消去。
そのすべてを今すぐどうにかする力などない。
この子供の名も、すでに消されているかもしれない。
完全には戻らないかもしれない。
それでも、言っていた。
「約束は、まだできない。けど、探す」
子供は、不思議そうにノアを見た。
「どうして?」
ノアは答えられなかった。
なぜ、と言われると難しい。
同情だけではない。
怒りだけでもない。
この子供を放っておけば、自分も同じ場所へ行くかもしれないから、という恐怖だけでもない。
名前を奪われた子供が、まだそこに立っている。
それだけで、十分だった。
「名前がないのは、嫌だろ」
子供は少し考えた。
そして、小さく言った。
「分からない」
ノアの胸が痛んだ。
嫌だという感覚さえ、薄れている。
それが、何より痛かった。
セドリックの声が、遠くから響く。
「限界だ。戻す」
研究室側の声だった。
術式線が細くなっている。
ノアの魂糸は、旧記録庫の残響へ引かれ始めていた。これ以上留まれば、子供の空白名札に触れすぎる。
レオもそれを感じている。
「ノア」
「分かってる」
ノアは、子供へ言った。
「また来る」
子供は、首を傾げた。
「まだいるの?」
「いる」
「名前、あるのに?」
「あるから来る」
子供は、その意味が分からないようだった。
それでも、ノアを見ていた。
記録線が閉じ始める。
旧記録庫の棚が遠ざかる。
名札の群れが灰色の霧へ溶けていく。
その時、レオが低く息を呑んだ。
「ノア」
「何」
「名札の裏」
レオの声が硬い。
ノアは、消えかける子供の胸元へ視線を戻した。
空白の名札が、ふわりと揺れる。
その裏側が、一瞬だけ見えた。
そこに、署名があった。
小さく。
薄く。
だが、確かに。
オルドレイス代理。
古代文字の「O」が、灰色の裏面に刻まれている。
レオの声に、初めて怒りが滲んだ。
「……この子にも」
その低い声が旧記録庫の灰色に沈む直前、術式線が切れた。
研究室の空気が戻る。
ノアは椅子の上で、しばらく動けなかった。
喉が詰まっている。
首輪は冷たい。
手の甲の照合番号が、まだ疼いていた。
レオはノアの手を握ったまま、黙っている。
いつもなら、すぐに名前を呼ぶ。
水を渡す。
喉を確認する。
赤い糸を確認する。
だが今は、一拍遅れた。
怒りが、彼の中で凍りついている。
ノアは、掠れた声で言った。
「今日は茶化すの無理」
レオは、水を差し出しながら、静かに答えた。
「いい」
その声の奥には、まだ消えない怒りがあった。




