第118話 回収済転生者保管目録
旧記録庫の扉は、研究室の中に浮かんでいた。
実物ではない。
セドリック・バロウズの黒魔法陣が、記録線を逆に辿って引き寄せた像だった。机の上に五枚の記録符が並び、その中央から細い灰色の線が伸びている。線は空中で折れ曲がり、何重にも封じられた古い帳簿印を通り抜け、最後に一枚の扉の形を取っていた。
灰色の扉。
魂帳局本庁の白灰色の空間より、もっと暗い。
表面には古い封鎖符が何枚も貼られ、縁には錆びた鎖のような記録術式が巻きついている。中央には魂帳局の封緘印。その下に、黒く塗り潰された署名痕。さらに奥に、古代文字の「O」に似た傷が薄く浮かんでいた。
そして扉には、冷たい文字が刻まれている。
回収済転生者保管目録。
ノア・クロウは、その文字を見てしばらく黙った。
喉が少し痛む。
手の甲の照合番号が、扉に反応して冷たく疼いている。伴侶首輪の内側に残った灰色の切断痕も、じわじわと熱を持ち始めていた。
赤い糸は、隣から支えている。
レオ・アステルレインが、ノアの手首の下をそっと支えていた。強く握らない。包み込みすぎない。ただ、記録線へ引かれる魂糸が裂けないように、細く支えている。
その加減は、まだ不安定だった。
だが、以前よりは確かにうまくなっている。
過保護の微調整。
レオにとって最も苦手そうな作業を、彼は苦しげな顔で続けていた。
ノアは、扉を見たまま低く言った。
「保管って言い方、ほんと荷物扱いだな」
軽口の形をしていた。
だが、声は重かった。
保護。
回収。
保管。
どれも、きれいな言葉の皮を被っている。
けれど、この扉の前に立つと分かる。ここにあるのは、人を守るための温度ではない。名前を札にし、魂を項目にし、現世を記録の箱へしまう冷たさだった。
セドリックは術式を絞りながら言った。
「扉の向こうを覗く。入るな。線を深く繋げるな。見える範囲だけを読む」
「了解」
「軽い返事をするな」
「重く返すと喉に悪いので」
セドリックは眉を寄せたが、反論はしなかった。
実際、ノアの喉は限界に近い。
昨夜から今日まで、回復したそばから使い続けている。声はまだ掠れ、長く喋ると奥がひりついた。レオはそれに気づいているから、今にも水を差し出したそうな顔をしている。
だが、今は術式中だった。
ノアは、灰色の扉へ意識を向ける。
記録線が、扉の封緘印へ触れた。
ぎしり、と音がした。
本当の音ではない。
魂糸の奥へ響く、記録が軋む感覚だった。
扉が、ほんの少しだけ開いた。
隙間から、灰色の光が漏れる。
古い紙の匂い。
乾いたインクの匂い。
そして、名を呼ばれなくなった魂の、薄い残響。
ノアの胸が重くなった。
「っ……」
短く息が詰まる。
首輪が熱を持つ。
レオがすぐに赤い糸を支え直した。
「ノア・クロウ」
名前が現世へ引き戻す。
ノアは小さく頷いた。
「大丈夫。まだ見てる」
扉の向こうには、無数の名前札が並んでいた。
棚ではない。
墓標でもない。
薄い灰色の札が、空中に整然と吊られている。それぞれに細い記録糸が繋がり、奥の帳簿棚へ伸びていた。札の表面には、いくつもの項目が刻まれている。
現世名。
前世名。
回収理由。
処理状態。
その四つが、どの札にもあった。
ノアは、最初の一枚を見た。
現世名、ルシア・メル。
前世名、アグネリア・ヴァルト。
回収理由、前世の罪による人格侵食。
処理状態、現世名凍結。
次の札。
現世名、カイル・レンフォード。
前世名、ザハル・グラン。
回収理由、危険魔力暴走。
処理状態、魂名封緘。
次の札。
現世名、エミル・サーナ。
前世名、リュドミラ・オルクス。
回収理由、記録不一致。
処理状態、旧記録再統合。
次。
現世名の欄が薄く削られている。
前世名だけが、濃く残っていた。
回収理由、祈祷対象。
処理状態、現世名消去。
ノアの軽口が、そこで途切れた。
言葉が出ない。
喉が詰まる。
首輪の熱がじわじわと上がる。
回収済転生者。
それは、言葉の上では制度の記録だった。
だが、札を見れば分かる。
そこには、かつて誰かとして生きていた者たちの名がある。
現世で呼ばれた名前。
笑った名前。
友人に呼ばれた名前。
家族が呼んだ名前。
本人が自分だと選んだかもしれない名前。
それが、凍結され、封緘され、統合され、消去されている。
ノア一人の問題ではなかった。
多くの転生者が、「保護」の名で回収され、現世名を奪われている可能性がある。
ノアは、扉の向こうを見たまま低く言った。
「……多いな」
レオの赤い糸が、静かに震える。
怒りではなく、重さに反応した震えだった。
セドリックの声も低くなる。
「見える範囲で、どれくらいだ」
「数えられない。奥まである。札がずっと続いてる」
「処理状態は」
「凍結、封緘、旧記録再統合、現世名消去……他にもある。読みにくい」
ノアの魂糸が、札の残響に触れた。
かすかな声が、胸の奥を掠める。
誰かが名前を呼んでいた。
誰かが違うと叫んでいた。
誰かが、自分は今の名前だと言っていた。
それらは、もう声としてはほとんど残っていない。ただ、剥がされた名の痛みだけが、札の周囲に薄く漂っている。
ノアの手の甲が鋭く疼いた。
レオがすぐに支える。
「ノア」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「分かってる。でも見る」
ノアの声は低かった。
軽口は戻ってこない。
セドリックが術式の出力をさらに絞る。
「深く触れるな。残響を拾いすぎると、君の魂糸が引かれる」
「もう少しだけ」
「いつもそう言う」
「先生、今は説教後でお願いします」
セドリックは舌打ちした。
だが、術式は閉じなかった。
ノアは、さらに奥へ視線を滑らせる。
札の一部には、白い花の印があった。
見覚えがある。
白花派の祈祷対象印。
ノアの手の甲にも刻まれたもの。
その印が、回収済転生者の札にいくつも付いていた。
ノアは息を止めた。
「白花派の印がある」
セドリックの目が鋭くなる。
「数は」
「見える範囲だけでも、少なくない。祈祷対象、儀礼対象、白花登録……言い方は違うけど、同じ系統だ」
レオの声が冷えた。
「魂帳局と白花派が繋がっていた」
「少なくとも、過去にも連携してた可能性がある」
ノアは扉の向こうを睨む。
「転生者を回収して、祈祷対象にして、現世名を消す。災厄再臨だけじゃない。似たことを、他にもやってたのかもしれない」
言葉にすると、胸が重くなった。
制度。
保護。
回収。
その裏で、どれだけの名が消されたのか。
全員が完全な被害者だったとは限らない。
中には本当に危険な転生者もいたのだろう。
前世の罪が現世を侵食し、魔力が暴走し、誰かを傷つける寸前だった者もいたかもしれない。
だから制度が始まった。
それは理解できる。
だが、この名札の並びは、保護というより保管だった。
本人の現在を、記録の整合性へ押し込めた結果に見えた。
ノアは、喉の奥で低く呟いた。
「これ、全部を今すぐどうこうは無理だな」
レオが言う。
「でも、放っておけない」
「分かってる」
「君の名前も探す」
レオの声が変わった。
冷静だった。
冷静すぎた。
ノアは横を見る。
「探すなって言っても探す顔」
「探す」
「はいはい」
レオの赤い糸が、ノアを支えながら、扉の奥の札へ注意を向ける。
強く引かない。
直接触れない。
だが、ノアの視界と赤い糸の感覚を重ね、名前の気配を探す。
ノア・クロウ。
その名があるか。
回収済の棚にはない。
そのことに、ノアはわずかに息を吐いた。
だが、安堵は一瞬だった。
棚の横。
まだ扉の奥、入ってすぐの側面に、別の欄があった。
回収予定。
そこに、仮登録の札が並んでいる。
数は少ない。
だが、確かにある。
その中の一枚が、淡く黒い光を放っていた。
現世名、ノア・クロウ。
旧記録、イリアス・ノクスヴェルト。
回収理由、記録不一致、旧災厄記録照合中、伴侶契約による不正固定、白花派儀礼対象疑義。
処理状態、任意同行未了。監視継続。回収準備中。
ノアの首輪が、強く熱を持った。
「っ……」
喉が詰まる。
照合番号が冷たく疼き、左掌の三つの紋がじくりと痛む。赤い糸が防御的に張った。灰色の切断痕が、また裂けるように疼く。
レオの表情が消えた。
「消す」
低い声だった。
ノアは、即座に言った。
「だから証拠を消すな」
「君が回収予定に入っている」
「見れば分かる」
「消す」
「消すな」
レオの白金の魔力が、赤い糸に沿って強まりかける。
記録線が警戒するように震えた。
セドリックが鋭く言う。
「アステルレイン、抑えろ。今、壊せば逆探知線が弾かれる。証拠も失う」
レオは、ノアの名札から目を離さない。
「ノアを予定に入れている」
「だから証拠になる」
ノアの声は掠れていたが、低くはっきりしていた。
「消したら、向こうは最初からなかったことにできる。俺たちは、回収予定に入ってたって証明できない」
「君を回収する予定表だ」
「予定表に入れるな。俺にも都合がある」
軽口だった。
だが、声は重い。
レオが苦しげにノアを見る。
「今、茶化すところじゃない」
「茶化さないと、こっちが先に燃やしそうなんだよ」
ノアは、回収予定の札を睨んだ。
そこに自分の名前がある。
ノア・クロウ。
現世名。
自分が選び直した名。
それが、回収予定という欄に掛けられている。
腹が立つ。
怖い。
気持ち悪い。
だが、それ以上に、冷える。
この札が正式処理になれば、自分もあの奥の回収済棚に移されるのだろうか。
現世名凍結。
旧記録再統合。
現世名消去。
そのどれかの処理状態を付けられて。
ノアは、低く言った。
「持ち帰る」
セドリックが応じる。
「写しを取る。札そのものに触れるな」
「分かってます」
「本当か」
「この状況で札に突っ込む趣味はないです」
レオが静かに言う。
「信用できない」
「お前まで」
「君は突っ込む」
「否定できないのが悔しい」
セドリックは、黒魔法陣を細く伸ばし、回収予定札の写しだけを取った。
直接触れない。
記録の表面を薄く撫で取り、灰色の膜として研究室側へ引き戻す。ノアの名札が反応し、照合番号が痛む。だが、赤い糸が支えた。
今度は強すぎない。
弱すぎない。
レオは、怒りで震えながらも、加減を保った。
ノアはそれに気づいた。
「うまい」
レオの眉が苦しげに寄る。
「褒めないで」
「褒める。今のは偉い」
「消したかった」
「消さなかった」
「まだ消したい」
「正直でよろしい。怖いけど、今は偉い」
レオは黙った。
写しが研究室側へ戻る。
机の上に、灰色の薄膜が一枚落ちた。
そこには、確かにノアの回収予定情報が刻まれている。
証拠だ。
ノアは息を吐いた。
身体が重い。
他人の名札を見すぎたせいで、胸の奥に冷たいものが溜まっている。魂糸が、回収済転生者たちの残響を拾ってしまったのだろう。喉が詰まり、瞼が少し重い。
セドリックが術式を閉じようとする。
「ここまでだ」
「待っ……」
「駄目だ。十分すぎる」
ノアは反論しかけたが、声が出なかった。
喉が痛む。
それに、セドリックの判断は正しい。
これ以上見れば、回収済の残響に引かれる。
レオもノアの手を支え直した。
「戻る」
「……はいはい」
ノアは、扉から視線を外そうとした。
その時だった。
目録の奥から、小さな声が聞こえた。
「まだいるの?」
ノアの身体が、止まった。
セドリックの術式が閉じかけたまま、ぎりぎりで止まる。
レオの赤い糸が一気に張った。
「ノア」
ノアは振り返った。
旧記録庫の奥。
回収済転生者の名札が並ぶ灰色の棚の影。
そこに、小さな子供が立っていた。
年齢は、十にも届かないように見える。
輪郭は薄い。
灰色の光に透け、身体の端が記録紙のように揺れている。
首元には、名前札の紐がかかっていた。
だが、その札の現世名欄は削られている。
前世名も、半分消えていた。
残っているのは、処理状態の一文だけ。
現世名剥離済。
子供は、ノアを見ていた。
もう一度、小さく言う。
「まだいるの?」




