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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第六章【魂帳局と転生者狩り】

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第118話 回収済転生者保管目録



 旧記録庫の扉は、研究室の中に浮かんでいた。


 実物ではない。


 セドリック・バロウズの黒魔法陣が、記録線を逆に辿って引き寄せた像だった。机の上に五枚の記録符が並び、その中央から細い灰色の線が伸びている。線は空中で折れ曲がり、何重にも封じられた古い帳簿印を通り抜け、最後に一枚の扉の形を取っていた。


 灰色の扉。


 魂帳局本庁の白灰色の空間より、もっと暗い。


 表面には古い封鎖符が何枚も貼られ、縁には錆びた鎖のような記録術式が巻きついている。中央には魂帳局の封緘印。その下に、黒く塗り潰された署名痕。さらに奥に、古代文字の「O」に似た傷が薄く浮かんでいた。


 そして扉には、冷たい文字が刻まれている。


 回収済転生者保管目録。


 ノア・クロウは、その文字を見てしばらく黙った。


 喉が少し痛む。


 手の甲の照合番号が、扉に反応して冷たく疼いている。伴侶首輪《メイト・カラー》の内側に残った灰色の切断痕も、じわじわと熱を持ち始めていた。


 赤い糸は、隣から支えている。


 レオ・アステルレインが、ノアの手首の下をそっと支えていた。強く握らない。包み込みすぎない。ただ、記録線へ引かれる魂糸が裂けないように、細く支えている。


 その加減は、まだ不安定だった。


 だが、以前よりは確かにうまくなっている。


 過保護の微調整。


 レオにとって最も苦手そうな作業を、彼は苦しげな顔で続けていた。


 ノアは、扉を見たまま低く言った。


「保管って言い方、ほんと荷物扱いだな」


 軽口の形をしていた。


 だが、声は重かった。


 保護。


 回収。


 保管。


 どれも、きれいな言葉の皮を被っている。


 けれど、この扉の前に立つと分かる。ここにあるのは、人を守るための温度ではない。名前を札にし、魂を項目にし、現世を記録の箱へしまう冷たさだった。


 セドリックは術式を絞りながら言った。


「扉の向こうを覗く。入るな。線を深く繋げるな。見える範囲だけを読む」


「了解」


「軽い返事をするな」


「重く返すと喉に悪いので」


 セドリックは眉を寄せたが、反論はしなかった。


 実際、ノアの喉は限界に近い。


 昨夜から今日まで、回復したそばから使い続けている。声はまだ掠れ、長く喋ると奥がひりついた。レオはそれに気づいているから、今にも水を差し出したそうな顔をしている。


 だが、今は術式中だった。


 ノアは、灰色の扉へ意識を向ける。


 記録線が、扉の封緘印へ触れた。


 ぎしり、と音がした。


 本当の音ではない。


 魂糸の奥へ響く、記録が軋む感覚だった。


 扉が、ほんの少しだけ開いた。


 隙間から、灰色の光が漏れる。


 古い紙の匂い。


 乾いたインクの匂い。


 そして、名を呼ばれなくなった魂の、薄い残響。


 ノアの胸が重くなった。


「っ……」


 短く息が詰まる。


 首輪が熱を持つ。


 レオがすぐに赤い糸を支え直した。


「ノア・クロウ」


 名前が現世へ引き戻す。


 ノアは小さく頷いた。


「大丈夫。まだ見てる」


 扉の向こうには、無数の名前札が並んでいた。


 棚ではない。


 墓標でもない。


 薄い灰色の札が、空中に整然と吊られている。それぞれに細い記録糸が繋がり、奥の帳簿棚へ伸びていた。札の表面には、いくつもの項目が刻まれている。


 現世名。


 前世名。


 回収理由。


 処理状態。


 その四つが、どの札にもあった。


 ノアは、最初の一枚を見た。


 現世名、ルシア・メル。


 前世名、アグネリア・ヴァルト。


 回収理由、前世の罪による人格侵食。


 処理状態、現世名凍結。


 次の札。


 現世名、カイル・レンフォード。


 前世名、ザハル・グラン。


 回収理由、危険魔力暴走。


 処理状態、魂名封緘。


 次の札。


 現世名、エミル・サーナ。


 前世名、リュドミラ・オルクス。


 回収理由、記録不一致。


 処理状態、旧記録再統合。


 次。


 現世名の欄が薄く削られている。


 前世名だけが、濃く残っていた。


 回収理由、祈祷対象。


 処理状態、現世名消去。


 ノアの軽口が、そこで途切れた。


 言葉が出ない。


 喉が詰まる。


 首輪の熱がじわじわと上がる。


 回収済転生者。


 それは、言葉の上では制度の記録だった。


 だが、札を見れば分かる。


 そこには、かつて誰かとして生きていた者たちの名がある。


 現世で呼ばれた名前。


 笑った名前。


 友人に呼ばれた名前。


 家族が呼んだ名前。


 本人が自分だと選んだかもしれない名前。


 それが、凍結され、封緘され、統合され、消去されている。


 ノア一人の問題ではなかった。


 多くの転生者が、「保護」の名で回収され、現世名を奪われている可能性がある。


 ノアは、扉の向こうを見たまま低く言った。


「……多いな」


 レオの赤い糸が、静かに震える。


 怒りではなく、重さに反応した震えだった。


 セドリックの声も低くなる。


「見える範囲で、どれくらいだ」


「数えられない。奥まである。札がずっと続いてる」


「処理状態は」


「凍結、封緘、旧記録再統合、現世名消去……他にもある。読みにくい」


 ノアの魂糸が、札の残響に触れた。


 かすかな声が、胸の奥を掠める。


 誰かが名前を呼んでいた。


 誰かが違うと叫んでいた。


 誰かが、自分は今の名前だと言っていた。


 それらは、もう声としてはほとんど残っていない。ただ、剥がされた名の痛みだけが、札の周囲に薄く漂っている。


 ノアの手の甲が鋭く疼いた。


 レオがすぐに支える。


「ノア」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない」


「分かってる。でも見る」


 ノアの声は低かった。


 軽口は戻ってこない。


 セドリックが術式の出力をさらに絞る。


「深く触れるな。残響を拾いすぎると、君の魂糸が引かれる」


「もう少しだけ」


「いつもそう言う」


「先生、今は説教後でお願いします」


 セドリックは舌打ちした。


 だが、術式は閉じなかった。


 ノアは、さらに奥へ視線を滑らせる。


 札の一部には、白い花の印があった。


 見覚えがある。


 白花派の祈祷対象印。


 ノアの手の甲にも刻まれたもの。


 その印が、回収済転生者の札にいくつも付いていた。


 ノアは息を止めた。


「白花派の印がある」


 セドリックの目が鋭くなる。


「数は」


「見える範囲だけでも、少なくない。祈祷対象、儀礼対象、白花登録……言い方は違うけど、同じ系統だ」


 レオの声が冷えた。


「魂帳局と白花派が繋がっていた」


「少なくとも、過去にも連携してた可能性がある」


 ノアは扉の向こうを睨む。


「転生者を回収して、祈祷対象にして、現世名を消す。災厄再臨だけじゃない。似たことを、他にもやってたのかもしれない」


 言葉にすると、胸が重くなった。


 制度。


 保護。


 回収。


 その裏で、どれだけの名が消されたのか。


 全員が完全な被害者だったとは限らない。


 中には本当に危険な転生者もいたのだろう。


 前世の罪が現世を侵食し、魔力が暴走し、誰かを傷つける寸前だった者もいたかもしれない。


 だから制度が始まった。


 それは理解できる。


 だが、この名札の並びは、保護というより保管だった。


 本人の現在を、記録の整合性へ押し込めた結果に見えた。


 ノアは、喉の奥で低く呟いた。


「これ、全部を今すぐどうこうは無理だな」


 レオが言う。


「でも、放っておけない」


「分かってる」


「君の名前も探す」


 レオの声が変わった。


 冷静だった。


 冷静すぎた。


 ノアは横を見る。


「探すなって言っても探す顔」


「探す」


「はいはい」


 レオの赤い糸が、ノアを支えながら、扉の奥の札へ注意を向ける。


 強く引かない。


 直接触れない。


 だが、ノアの視界と赤い糸の感覚を重ね、名前の気配を探す。


 ノア・クロウ。


 その名があるか。


 回収済の棚にはない。


 そのことに、ノアはわずかに息を吐いた。


 だが、安堵は一瞬だった。


 棚の横。


 まだ扉の奥、入ってすぐの側面に、別の欄があった。


 回収予定。


 そこに、仮登録の札が並んでいる。


 数は少ない。


 だが、確かにある。


 その中の一枚が、淡く黒い光を放っていた。


 現世名、ノア・クロウ。


 旧記録、イリアス・ノクスヴェルト。


 回収理由、記録不一致、旧災厄記録照合中、伴侶契約による不正固定、白花派儀礼対象疑義。


 処理状態、任意同行未了。監視継続。回収準備中。


 ノアの首輪が、強く熱を持った。


「っ……」


 喉が詰まる。


 照合番号が冷たく疼き、左掌の三つの紋がじくりと痛む。赤い糸が防御的に張った。灰色の切断痕が、また裂けるように疼く。


 レオの表情が消えた。


「消す」


 低い声だった。


 ノアは、即座に言った。


「だから証拠を消すな」


「君が回収予定に入っている」


「見れば分かる」


「消す」


「消すな」


 レオの白金の魔力が、赤い糸に沿って強まりかける。


 記録線が警戒するように震えた。


 セドリックが鋭く言う。


「アステルレイン、抑えろ。今、壊せば逆探知線が弾かれる。証拠も失う」


 レオは、ノアの名札から目を離さない。


「ノアを予定に入れている」


「だから証拠になる」


 ノアの声は掠れていたが、低くはっきりしていた。


「消したら、向こうは最初からなかったことにできる。俺たちは、回収予定に入ってたって証明できない」


「君を回収する予定表だ」


「予定表に入れるな。俺にも都合がある」


 軽口だった。


 だが、声は重い。


 レオが苦しげにノアを見る。


「今、茶化すところじゃない」


「茶化さないと、こっちが先に燃やしそうなんだよ」


 ノアは、回収予定の札を睨んだ。


 そこに自分の名前がある。


 ノア・クロウ。


 現世名。


 自分が選び直した名。


 それが、回収予定という欄に掛けられている。


 腹が立つ。


 怖い。


 気持ち悪い。


 だが、それ以上に、冷える。


 この札が正式処理になれば、自分もあの奥の回収済棚に移されるのだろうか。


 現世名凍結。


 旧記録再統合。


 現世名消去。


 そのどれかの処理状態を付けられて。


 ノアは、低く言った。


「持ち帰る」


 セドリックが応じる。


「写しを取る。札そのものに触れるな」


「分かってます」


「本当か」


「この状況で札に突っ込む趣味はないです」


 レオが静かに言う。


「信用できない」


「お前まで」


「君は突っ込む」


「否定できないのが悔しい」


 セドリックは、黒魔法陣を細く伸ばし、回収予定札の写しだけを取った。


 直接触れない。


 記録の表面を薄く撫で取り、灰色の膜として研究室側へ引き戻す。ノアの名札が反応し、照合番号が痛む。だが、赤い糸が支えた。


 今度は強すぎない。


 弱すぎない。


 レオは、怒りで震えながらも、加減を保った。


 ノアはそれに気づいた。


「うまい」


 レオの眉が苦しげに寄る。


「褒めないで」


「褒める。今のは偉い」


「消したかった」


「消さなかった」


「まだ消したい」


「正直でよろしい。怖いけど、今は偉い」


 レオは黙った。


 写しが研究室側へ戻る。


 机の上に、灰色の薄膜が一枚落ちた。


 そこには、確かにノアの回収予定情報が刻まれている。


 証拠だ。


 ノアは息を吐いた。


 身体が重い。


 他人の名札を見すぎたせいで、胸の奥に冷たいものが溜まっている。魂糸が、回収済転生者たちの残響を拾ってしまったのだろう。喉が詰まり、瞼が少し重い。


 セドリックが術式を閉じようとする。


「ここまでだ」


「待っ……」


「駄目だ。十分すぎる」


 ノアは反論しかけたが、声が出なかった。


 喉が痛む。


 それに、セドリックの判断は正しい。


 これ以上見れば、回収済の残響に引かれる。


 レオもノアの手を支え直した。


「戻る」


「……はいはい」


 ノアは、扉から視線を外そうとした。


 その時だった。


 目録の奥から、小さな声が聞こえた。


「まだいるの?」


 ノアの身体が、止まった。


 セドリックの術式が閉じかけたまま、ぎりぎりで止まる。


 レオの赤い糸が一気に張った。


「ノア」


 ノアは振り返った。


 旧記録庫の奥。


 回収済転生者の名札が並ぶ灰色の棚の影。


 そこに、小さな子供が立っていた。


 年齢は、十にも届かないように見える。


 輪郭は薄い。


 灰色の光に透け、身体の端が記録紙のように揺れている。


 首元には、名前札の紐がかかっていた。


 だが、その札の現世名欄は削られている。


 前世名も、半分消えていた。


 残っているのは、処理状態の一文だけ。


 現世名剥離済。


 子供は、ノアを見ていた。


 もう一度、小さく言う。


「まだいるの?」




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