第117話 覗き返す
セドリック・バロウズの研究室には、灰色の紙片が浮かんでいた。
紙ではない。
記録符だった。
レギス・グレイヴが学院内で監視記録を取るたび、わずかに残る灰色の術式片。それをルカの魔具とセドリックの黒魔法陣で拾い集め、薄い札の形に仮固定したものだ。
机の上には、それが五枚並んでいる。
授業中。
食堂。
図書館。
訓練場。
廊下。
それぞれの場所で、ノア・クロウが記録された瞬間に発生した灰色の痕跡だった。
どれも小さい。
指先ほどの薄い灰色。
だが、そこから伸びる線は同じ方向を向いている。
魂帳局の帳簿へ。
ノアは椅子に座り、その五枚を見下ろしていた。
喉はまだ掠れている。水を飲める程度には戻ったが、長く話すと奥が痛む。首元の伴侶首輪には、照合率二パーセントの黒い数字が消えずに残っていた。昨夜、三パーセントへ進みかけたあと、現世名の宣言とレオの呼称で止めた数字だ。
止まった。
だが、消えない。
それが、嫌だった。
手の甲の照合番号も、記録符を前にしてじわじわ疼いている。魂糸が、机上の灰色の紙片へ引かれそうになった。
ノアは軽く眉を寄せる。
「で、こいつらが俺の観察日記の切れ端か」
セドリックが言う。
「正確には、監視記録が魂帳局側へ転送される際の記録線の残滓だ」
「観察日記の送信履歴ですね」
「軽く言うな」
「軽く言わないと燃やしたくなるので」
「燃やすな。証拠だ」
「俺が言ってたやつ、先生にも感染してる」
セドリックは無視した。
レオ・アステルレインは、ノアの隣に立っていた。
相変わらず座らない。
いや、座れと言われれば座るのだろう。だが、一秒でもノアの近くで動ける姿勢を保っていたいのが見えすぎている。赤い糸は傷を抱えたまま、静かに張っていた。
静かだが、警戒している。
記録符。
照合番号。
首輪。
セドリックの黒魔法陣。
全部を監視している。
監視官を監視し、その記録を監視し、その記録線を監視しようとしている。もはや監視の多重構造だった。魂の現場、目が多すぎる。
ノアはレオを横目で見た。
「顔が嫌そう」
「嫌だよ」
「即答」
「また君を使う」
レオの声は低かった。
責めているわけではない。
だが、嫌悪が濃い。
ノアを術式の中心に置くこと。
ノアの手の甲の照合番号を使うこと。
伴侶首輪を使うこと。
赤い糸の傷を使うこと。
レギスの記録符を使うこと。
その全部が、レオには耐えがたいのだろう。
ノアは机上の灰色符を指で軽く叩こうとして、セドリックに目で止められた。
指を引っ込める。
「俺の記録線だ。俺が一番引っかかりやすい」
「だから嫌だ」
「嫌でも必要」
「別の方法を探す」
「探してる間に、レギスがまた記録して、照合率が進む」
レオは黙った。
ノアは続けた。
「向こうが俺を見て、帳簿へ送ってる。なら、その線を逆に辿れるかもしれない。どこへ送られてるのか分かれば、監視記録が照合率へ流れてる証拠になる」
レオの指先がわずかに動く。
赤い糸が、ノアを包み込みたがっていた。
だが、今それを強めすぎれば、魂帳局側にまた「伴侶契約による不正固定」と検出される可能性がある。
レオもそれを分かっている。
分かっているから、苦しそうだった。
ノアはわざと軽く言った。
「過保護の微調整、苦手そう」
レオは、少しも誤魔化さなかった。
「苦手だよ」
「正直でよろしい。怖いけど」
「強く支えたい」
「でしょうね」
「でも強すぎると検出される」
「そうですね」
「弱いと、君が引かれる」
「つまり加減が命」
「嫌な術式だ」
「俺も同意見」
セドリックが二人の会話を切った。
「無駄話はそこまでだ。手順を確認する」
机の中央に、黒魔法陣が展開される。
円形ではない。
帳簿の罫線に似た長方形の陣が、何層にも重なっている。黒い線の間に、白金の細い補助線が走り、さらに灰色の記録符が五枚、角に固定されていた。
ノアの手の甲の照合番号。
伴侶首輪。
赤い糸。
レギスの記録符。
それらを接続点にして、監視記録が向かった先を逆に辿る。
現実的な通信を盗むのではない。
魂帳局の帳簿へ刻まれる記録の「流れ」を、魔法的に追跡するだけだ。
ただし、その線はノアの魂糸と深く結びついている。
だから危険だった。
セドリックは、鋭い目でノアを見た。
「異常があれば即中断する。喉が詰まる、首輪が熱を持つ、照合率が揺れる、赤い糸の傷が痛む。そのどれかが強く出たら合図しろ」
ノアは軽く片手を上げる。
「了解」
「軽い」
「重く返すと怖くなるので」
「怖がる程度の危機感は持て」
「持ってますよ。だいぶ」
声の底が少し低くなった。
セドリックはそれを聞き取り、何も言わなかった。
レオがノアの隣に膝をついた。
目線を合わせるためだ。
「触れていい?」
「どこ」
「手。赤い糸を支える」
「いい。引っ張るなよ」
「引っ張らない」
「包み込みすぎも禁止」
「……分かってる」
「間が怖い」
「努力する」
「努力じゃなくて調整」
「調整する」
レオの手が、ノアの左手を支えた。
掌には、黒い花、灰色の帳簿印、白花派紋が重なった痕がある。そこには触れない。手首と指の下だけを支える。赤い糸は、ノアの魂糸のすぐ横を通るように、細く張られた。
強すぎない。
弱すぎない。
レオにとっては、拷問のような加減だった。
ノアには分かった。
全部抱えたい。
全部覆いたい。
記録線も、魂帳局も、監視符も、ノアの手の甲も、首輪も、赤い糸の傷も、全部自分の魔力で包み込みたい。
けれど、それをすれば検出される。
また不正固定と呼ばれる。
だから、レオは震えるほど慎重に、力を絞っていた。
ノアは小さく言った。
「うまいぞ」
レオの目が少し揺れる。
「まだ始まってない」
「今の時点で、だいぶ偉い」
「偉くなくていい。君を傷つけたくない」
「それは今、同じ話だ」
レオは黙った。
赤い糸の震えが、ほんの少し落ち着く。
セドリックが術式を起動した。
黒い罫線の陣が光る。
五枚の記録符が、一枚ずつ灰色の光を放った。
ノアの手の甲が疼く。
「っ……」
短い息が漏れる。
まだ軽い。
照合番号が、皮膚の奥で冷たい針のように震える。伴侶首輪が熱を持ち、灰色の切断痕がじわりと疼いた。喉が少し詰まる。
レオが即座に名を呼ぼうとする。
ノアは目で止めた。
「まだ」
レオは唇を閉じる。
苦しそうに。
セドリックが低く言う。
「記録線、接続」
灰色の細い糸が、記録符から浮かび上がった。
それは本物の糸ではない。
文字列だった。
小さな灰色の文字が連なり、細い線になって空中を走っている。レギスが記録した内容の欠片。授業、発言、魔力反応、首輪反応、赤い糸反応。それらが、整理された符号として流れていた。
ノアの魂糸が、それに引かれる。
胸の奥が、ぐっと重くなった。
レオの赤い糸が支えようとする。
少し強い。
灰色の記録線が、ぴくりと反応した。
セドリックがすぐに言う。
「強い。抑えろ」
レオの顔が強張る。
赤い糸の圧が弱まる。
弱まりすぎて、ノアの魂糸が記録線へ引かれた。
ノアの首輪が熱を増す。
「っ、ぐ……」
レオが息を詰める。
セドリックの声が飛ぶ。
「弱い。戻せ。ただし包むな」
「分かってる」
レオの声が、低く震えた。
赤い糸が、細い支柱のように張り直される。
今度は、ちょうどよかった。
ノアの胸の重さが少し軽くなる。
記録線は反応するが、不正固定として跳ねるほどではない。
ノアは苦い息を吐いた。
「過保護の微調整、訓練場より難しそうだな」
「黙っていて」
「怖い。とうとう命令が出た」
「喉が詰まってる」
「心配の表現が不器用」
「……ノア・クロウ」
その名で、首輪が少し安定した。
ノアは小さく頷く。
「助かる」
セドリックは術式へ集中している。
灰色の記録線が、研究室の空間に一本の道を描いていく。普通の目には見えないはずだが、ノアには見えた。自分の記録だからだろう。
線の先に、帳簿棚の匂いがある。
白灰色の灯り。
羽ペンの音。
顔のない職員。
番号札。
転生者照合窓口。
魂帳局の空間が、ほんのわずかに口を開けている。
ノアの喉が詰まった。
レオがすぐに気づく。
「中断する?」
「まだ」
「ノア」
「まだだ。今、見えてる」
ノアは目を細めた。
記録線は、魂帳局本庁へ真っ直ぐ伸びているわけではなかった。
途中で曲がっている。
いや、曲げられている。
正規の帳簿棚へ行く線と、別の線が重なっている。表面上は転生者照合窓口へ送られているように見える。だが、その下に、もう一本の灰色の細い経路がある。
封鎖印。
古い帳簿印。
黒く塗り潰された署名。
古代文字の「O」。
ノアの手の甲が強く疼く。
「っ……見つけた」
セドリックが問う。
「何が見える」
「本庁じゃない」
声が低くなる。
「レギスの帳簿板から送られた記録、表面上は魂帳局本庁の照合窓口に行ってる。でも下に別の線がある。古い封鎖印を噛ませて、別の場所に複写されてる」
レオの赤い糸が硬くなる。
「別の場所?」
ノアは頷く。
「旧記録庫」
セドリックの目が鋭くなった。
「旧記録庫だと?」
「たぶん。扉が見える。古い。使われてないはずの場所みたいな……灰色が濃い」
首輪が警告の熱を持つ。
喉が強く詰まる。
照合率の数字が浮かびかけた。
二パーセント。
レオがすぐに呼ぶ。
「ノア・クロウ」
数字は揺れただけで止まる。
ノアは浅く息を吐いた。
「大丈夫。進んでない」
「中断」
「もう少し」
「ノア」
「もう少しだけ」
レオの顔が歪む。
嫌だ。
止めたい。
だが、ノアの声がまだ折れていないことも分かっている。
レオは赤い糸の加減を保った。
支える。
包まない。
引かない。
ただ、ノアが見るための足場になる。
セドリックが術式をさらに細く絞る。
「記録線を開きすぎるな。覗くだけだ。入るな」
「分かってます」
ノアは低く笑った。
「俺だって、役所の裏口に正面突破したいわけじゃない」
「信用ならない」
「ひどい」
「君はよく突っ込む」
「否定できない」
灰色の線の先が、霧のように開いた。
一瞬だけ、視界が変わる。
研究室の机の向こうに、別の空間が重なる。
旧記録庫。
それは、魂帳局の白灰色の空間より暗かった。
帳簿棚はある。
だが、整っていない。
封鎖布が掛けられ、古い鎖で閉じられ、使用停止を示す灰色の札がいくつも貼られている。床には古い記録紙の破片が散り、壁には消えかけた管理式が走っていた。
その奥に、扉がある。
重い灰色の扉。
中央に、封緘印。
その上に、黒い塗り潰し。
そして、古代文字の「O」に似た傷。
ノアの魂糸が、強く引かれた。
レオの赤い糸が支える。
強すぎないように。
だが、離さないように。
ノアの喉から、短い呻きが漏れた。
「っ、ぐ……」
セドリックが言う。
「限界だ。戻す」
「待っ……」
「戻す」
セドリックの黒魔法陣が閉じ始める。
灰色の視界が薄れる。
だが、扉の文字だけが、最後に浮かび上がった。
ノアはそれを読んだ。
読んでしまった。
回収済転生者保管目録。
その文字を見た瞬間、首輪が熱を放った。
手の甲の照合番号が鋭く疼く。
レオが即座に赤い糸を張り、現世名を呼ぶ。
「ノア・クロウ」
ノアは息を吸う。
「俺は、ノア・クロウ……っ」
記録線が切れる。
灰色の空間が閉じる。
研究室へ戻った。
机の上の記録符は、すべて薄く焦げたように変色している。セドリックの黒魔法陣は消え、空中には灰色の残滓だけが漂っていた。
ノアは椅子の背にもたれた。
喉が痛い。
手の甲が疼く。
首輪は熱い。
だが、重度反応には落ちていない。
レオがすぐにノアの手を取る。
「喉」
「痛い」
「手の甲」
「痛い」
「首輪」
「熱い」
「治す」
「消すなよ」
「消さない」
レオの白金の魔力が、喉の外側へ薄く広がる。
次に手の甲。
照合番号には直接触れず、その周囲の熱だけを冷やす。赤い糸の傷にも、薄い応急固定を重ねる。
ノアは目を閉じかけ、掠れた声で呟いた。
「逆探知後のメンテ、探偵っぽい」
レオは真面目に返す。
「探偵はこんな傷を負わない」
「夢のない返し」
「君が傷ついた」
「分かってる」
「危険だった」
「分かってる」
「でも、見えた」
ノアは目を開けた。
レオは嫌そうだった。
心底嫌そうだった。
それでも、成果を否定しなかった。
ノアは小さく息を吐く。
「うん。見えた」
セドリックは机の向こうで、灰色に変色した記録符を封印容器へ入れていた。
「記録線の行き先は魂帳局本庁ではなく、旧記録庫。しかも封鎖された区域だ」
ノアは、喉を押さえたまま言った。
「回収済転生者保管目録」
その言葉に、研究室の空気が沈む。
レオの赤い糸が、低く震えた。
セドリックの目が、さらに冷える。
「転生者狩りの本当の名簿かもしれないな」
ノアは、薄く笑った。
軽口にしようとして、うまくいかなかった。
「保護した転生者の名簿なら、保管目録なんて言い方、嫌すぎるだろ」
セドリックは答えなかった。
レオも答えなかった。
ただ、研究室の中央に封じられた記録符が、灰色の光を一度だけ弱く放った。
その光の奥に、ノアはまだ見えていた。
旧記録庫の扉。
そして、その扉に刻まれた文字。
回収済転生者保管目録。




