第116話 見るだけで進む
夜の寮部屋に、黒い数字が浮かんでいた。
伴侶首輪の内側。
白い花紋の縁。
灰色の切断痕が横切る、そのすぐ下。
照合率、二パーセント。
その数字が、揺れている。
二。
黒い数字の端が震え、薄い灰色の線が横へ滲む。
次の形を取ろうとしていた。
三。
完全には変わらない。
だが、進みかけている。
ノア・クロウは寝台の端に座ったまま、首元へ指を当てていた。指先は冷えているのに、首輪だけが熱い。内側からじりじりと炙られているような熱があり、灰色の切断痕は脈打つように疼いている。
喉が詰まった。
呼吸が浅くなる。
瞳孔がわずかに開き、視界の端が暗く沈む。胸の奥で魂糸が引かれる感覚があった。誰かが遠くから、帳簿の頁をめくり、そのたびにノアの名前の横へ印をひとつずつ重ねているような感覚だった。
その原因は、分かっていた。
レギス・グレイヴの監視記録。
授業中の記録。
食堂での記録。
廊下での記録。
図書館での記録。
訓練場での記録。
魂帳局の監視官が、正式な手順として積み上げた記録。
それらが、ノアの「異常」として帳簿へ登録されている。
記録不一致。
旧記録照合中。
伴侶契約による不正固定。
白花派儀礼対象登録の疑い。
その一つ一つが、照合率へ流し込まれている。
ノアは、低く笑った。
笑えば喉が痛んだ。
それでも、笑わずにはいられなかった。
「見るだけで進むのかよ。最悪の観察日記だな」
声は掠れていた。
だが、軽口の形だけは残っている。
寝台の前に立っていたレオ・アステルレインの顔が、静かに凍った。
その青い瞳が、ノアの首元に浮かぶ数字を見ている。
二から三へ進みかける、黒い数字。
その数字の揺れ。
灰色の切断痕。
赤い糸の裂けたような震え。
全部を見ている。
レオの赤い糸が、鋭く張った。
傷ついた部分を抱えたまま、それでも防御的に伸びる。まるで部屋全体を覆い、窓も扉も、外の視線も、記録も、帳簿も、全部遮断しようとしているようだった。
レオは低く言った。
「見せたくない」
ノアは、息を整えながら横目で見る。
「俺も見られたくない。でも逃げたら向こうの思う壺だろ」
「君を守るためなら」
その言葉の先を、ノアは遮った。
「俺を回収対象に近づける守り方は却下」
レオの唇が閉じる。
かなり不満そうだった。
不満というより、今にも部屋の外へ出てレギスの帳簿板を粉砕し、学院中の記録術式を白金の魔力で焼き尽くし、ノアの周囲に不可侵の結界を張り直しそうな顔だった。
ノアは首元を押さえたまま、低く言う。
「その顔、監視官どころか学院ごと遮断する顔」
「したい」
「正直でよろしい。最悪だけど」
「監視そのものを止めたい」
「分かる」
「見られるだけで進むなら、見せるべきじゃない」
「理屈は分かる」
「なら」
「でも、正式監視を拒絶すれば、逃亡扱いにされる」
ノアはゆっくり息を吸った。
喉が熱でひきつる。
首輪の数字が、また揺れた。
二。
三。
まだ変わらない。
だが、黒い線が数字の端を侵食するように伸びている。
ノアは歯を食いしばる。
「逃亡扱いになれば、転生者狩りを正式発動。回収官どころか実働部隊が来る。向こうからすれば、俺が記録不一致を認めず逃げたって帳簿に書ける」
レオの声は、低く抑えられていた。
「書かせない」
「書かせないために、今は逃げない」
「監視を受け続ければ進む」
「だから、監視の仕組みを調べる」
「その間に進んだら」
「止める」
「どうやって」
ノアは、首輪の数字を指先で押さえた。
熱い。
皮膚の下で、黒い数字が鼓動しているようだった。
だが、ここで引けば終わる。
記録された。
見られた。
だから進んだ。
そこでレオの遮断に隠れれば、魂帳局は逃亡扱いにする。
そこで首輪を力で封じれば、また本人意思より力が先に立つ。
ノアは、息を吐いた。
「名前で」
レオの目が揺れる。
ノアは続けた。
「俺が言う。お前も呼ぶ。それで止まるか見る」
「実験にしないで」
「実験にしないと、原因も対策も分からない」
「君の魂で試すのは嫌だ」
「俺の魂の話だ。俺が決める」
レオは言葉を詰まらせた。
その言葉には、弱い。
ノアが決める。
何度も言われてきたこと。
閉じ込めるな。
声を奪うな。
名を選ぶのは俺だ。
記憶を勝手に閉じるな。
前世の自分を勝手に抱え込むな。
そして今。
照合率が進みかけているこの瞬間でも、ノアは自分で止めようとしている。
レオは、拳を握った。
白金の魔力が指先に滲みかけ、すぐに消える。
消したのではない。
押し込めた。
ノアは見ていた。
「よし。燃やさなかった」
「燃やしたい」
「正直でよろしい。今は却下」
「……うん」
首輪の数字が、また揺れた。
二パーセント。
黒い数字の外側に、三の輪郭が浮かびかける。
ノアの喉が詰まった。
「っ……」
短い呻きが漏れる。
視界が一瞬白く滲む。
瞳孔が開く。赤い瞳が、部屋の灯りを妙に強く拾った。首輪の熱が増し、灰色の切断痕が冷たい痛みを放つ。胸の奥で魂糸が引かれた。どこか遠い帳簿棚へ、名前の端を引っ張られている感覚。
レオがすぐに動こうとする。
ノアは片手を上げた。
「待て」
「ノア」
「俺が先」
声は掠れている。
だが、折れてはいない。
ノアは、熱を持つ首輪に指を添えたまま、まっすぐ前を見た。
夢でもない。
記録空間でもない。
ここは寮部屋だ。
机がある。
水差しがある。
毛布がある。
レオがいる。
現世の部屋だ。
ノアは低く、はっきりと言った。
「俺はノア・クロウだ」
伴侶首輪が、強く震えた。
三へ変わりかけていた数字の輪郭が止まる。
二。
黒い二が、熱を持ったまま固定される。
だが、まだ消えない。
レオがすぐに続けた。
「ノア・クロウ」
赤い糸が、傷を抱えたまま強く光った。
灰色の切断痕の周囲に巻かれていた応急固定が、淡く白金に輝く。赤い糸は震えながらも、ノアの現世名へ力を流した。
レオはもう一度呼ぶ。
「ノア・クロウ」
首輪の熱が少しずつ下がる。
三の輪郭が薄れる。
二パーセントの数字が残る。
進まない。
だが、消えない。
ノアは、浅く息を吐いた。
喉がひりつく。
胸の奥の痛みも残っている。
首輪の内側には、黒い二がしぶとく浮かんでいる。
完全に沈まない。
レオの顔が険しくなる。
「消えない」
「止まっただけまし」
「消えない」
「二回言うな。怖さが増す」
「監視を止めないと、また進む」
「だろうな」
「止める」
「だから逃亡扱いにされる止め方は却下」
レオは、明らかに納得していなかった。
ノアは喉を押さえながら、低く続ける。
「遮断するなら、向こうに違反記録を取らせない形にする。監視の条件違反を証明して、学院側から止めさせる。もしくは、監視記録が照合率へ影響してる証拠を出す」
「その間、君は見られる」
「だから、見られた時の反応を全部記録する」
「君の負担を証拠にするのは嫌だ」
「俺も嫌だ。でも、向こうが俺を記録で縛るなら、こっちも記録で殴る」
レオは沈黙した。
青い瞳の奥で、苛立ちが煮えている。
見る者を敵視している。
レギスだけではない。
帳簿板。
監視記録。
学院内の視線。
噂。
証言。
ノアを「見る」ものすべてが、照合率へ使われる可能性を持ち始めた。
それはレオにとって最悪だった。
元から、ノアを人の目から隠したい衝動を持っている。
それが今、合理性を得てしまっている。
見られれば進む。
なら見せない。
その理屈は危険だった。
ノアは、それを分かっていた。
だから低く言う。
「レオ」
「何?」
「見る者全部を敵にするなよ」
レオの目が、わずかに揺れた。
「でも」
「レギスの記録が問題なんだ。全員の視線じゃない」
「分からない」
「分からないから調べる。分からないまま全部遮断したら、俺の現世側の認識まで薄くなる」
レオは息を止める。
セドリックが以前言ったことだ。
遮断しすぎれば、現世名の認識が弱くなる。
ノア・クロウとして呼ばれ、見られ、扱われることもまた、現世名を支える。
見られることが危険になったからといって、すべてから隠せばいいわけではない。
ノアは苦く笑った。
「面倒だよな。見られすぎると進む。隠れすぎると現世が薄くなる。魂の調整、難易度高すぎる」
レオは低く言う。
「僕は、君を失いたくない」
「知ってる」
「見られるだけで進むなら、全部塞ぎたい」
「知ってる」
「でも、それをしたら君を閉じ込める」
「そうだな」
「嫌だ」
その声は、少しだけ揺れていた。
ノアは、レオを見た。
レオの中で、衝動と理性がぶつかっている。
ノアを閉じ込めたい。
でも、閉じ込めたくない。
奪われたくない。
でも、ノアの選択を奪いたくない。
赤い糸は、その葛藤の形そのもののように震えていた。
ノアは、掠れた声で言った。
「横にいろ」
レオは、すぐに答えた。
「いる」
「前じゃなくて」
「横」
「檻じゃなくて」
「同行」
「よろしい」
ノアは少しだけ息を吐いた。
首輪の数字は、まだ消えない。
二パーセント。
黒い数字が、内側に残り続けている。
ノアはそれを指で押さえる。
「数字、しつこいな」
レオが手を伸ばす。
「熱、鎮める」
「消すなよ」
「消さない。熱だけ」
「許可」
レオの手が、ノアの首元へ近づく。
直接首輪に触れない。
外側から白金の魔力を薄く広げ、首輪の熱だけをゆっくり逃がしていく。灰色の切断痕には触れず、黒い数字にも触れない。証拠を消さず、痛みだけを和らげる。
ノアの肩から、少し力が抜けた。
喉はまだ詰まっている。
レオは水を取った。
「水」
「飲む」
水を少し含む。
喉がひきつる。
レオの魔力がすぐに外側から支える。
少しずつ飲み込む。
水は冷たく、痛い。
だが、飲めた。
ノアは目を細めた。
「名前宣言、そろそろ得意技になってきた」
レオは、ノアの喉へ治癒魔法を薄くかけながら言った。
「何度でも聞く」
「重い応援」
「必要なら、何度でも呼ぶ」
「知ってる。呼びすぎ注意」
「努力する」
「努力じゃなくて調整」
「調整する」
「よろしい」
レオは喉の治癒を終えると、赤い糸の傷も確認した。
灰色の切断痕は、今日一日の監視記録の影響で少し硬くなっている。レオはそこへ白金の魔力を厚く巻こうとして、止まった。
ノアが見ていたからだ。
「厚くしすぎるなよ」
「……分かってる」
「見張ってるからな」
「君に見られるのはいい」
「言い方」
レオは少しだけ目を伏せた。
それから慎重に、赤い糸の傷の周囲だけを整えた。
糸を縛らない。
隠さない。
ただ、裂け目が広がらないように支える。
ノアは、じっとそれを感じていた。
赤い糸は痛い。
だが、切れていない。
ノアは現世にいる。
イリアスの記録へ戻されていない。
魂帳局の帳簿は、今日一日ノアを見て、記録した。
それによって照合率は進みかけた。
つまり。
ノアは、ふと目を開けた。
「なあ」
レオが顔を上げる。
「何?」
「レギスが記録してるなら、その記録先があるよな」
レオの表情が一瞬で警戒に変わる。
「記録先?」
「帳簿板に記録して、魂帳局のどこかへ送ってる。監視記録が照合率に影響してるなら、その経路があるはずだ」
「危険だ」
「まだ何も言ってない」
「言おうとしてる」
「まあ、言うけど」
ノアは首輪の数字を指先で押さえたまま、低く笑った。
軽い笑いではない。
少しだけ、反撃の色が混じっていた。
「見られてるなら、こっちも覗き返すか」
レオは、心底嫌そうに言った。
「危険だ」




