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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第六章【魂帳局と転生者狩り】

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第115話 監視官の滞在



 監視官というものは、想像していたより静かだった。


 怒鳴らない。


 問い詰めない。


 廊下の角で待ち伏せることもしない。


 ただ、いる。


 灰色の制服、銀灰の髪、薄い灰色の瞳。白い手袋。無駄のない立ち姿。魂帳局回収官レギス・グレイヴは、学院内での滞在を許可されたその日から、正式な監視官としてノア・クロウの日常に入り込んだ。


 入り込んだ、と言っても、距離は保っている。


 学院長とセドリック・バロウズが条件をつけたため、レギスはノアに無断で接近できない。夜間接触は禁止。魂糸、伴侶首輪《メイト・カラー》、赤い糸への術式干渉も禁止。記録は学院側が指定した範囲でのみ許可されている。


 だが、いる。


 授業の後方に。


 食堂の柱の傍に。


 廊下の曲がり角の手前に。


 図書館の閲覧席から少し離れた場所に。


 訓練場の柵の外に。


 感情のない灰色の視線が、ノアの行動を拾っていく。


 レギスは、手帳を持っていた。


 紙の手帳ではない。


 薄い灰色の帳簿板。白い手袋の指先がその表面をなぞるたび、淡い文字が浮かび、すぐに消える。羽ペンは持っていない。けれど、彼が記録を取るたび、ノアの手の甲の照合番号が、針で軽く突かれたように疼いた。


 朝一番の黒魔法理論の授業。


 ノアは教室の席に座り、板書を写そうとしていた。


 喉はまだ完全ではない。昨日よりはましだが、長く話すと掠れる。首輪の灰色の切断痕も残っている。赤い糸は切れていないが、傷の周囲に薄い応急固定が巻かれているせいで、胸の奥に常に違和感があった。


 レオ・アステルレインは、当然のように隣にいる。


 黒魔法理論は本来、聖魔法科の必修ではない。


 だが彼は、セドリックと学院長の許可をもぎ取って同席していた。理由は、伴侶契約の安定観測。建前としては完璧だった。実態は、ノアを一秒でも灰色の視線に晒したくない、である。


 ノアは横目で見た。


「聖魔法科の王子様、黒魔法理論の授業に出て楽しいか?」


 レオは黒板を見たまま答える。


「君の隣にいる方が重要」


「授業内容じゃなくて監視内容で出席してるの、学生として終わってるぞ」


「単位はいらない」


「そこじゃない」


 教室の後方に、レギスがいる。


 彼は授業の邪魔はしない。発言もしない。ただ、指定された壁際の席に立ち、灰色の帳簿板へ記録している。


 黒魔法教師が黒板へ式を書く。


 ノアがペンを動かす。


 レオがノアの喉の調子を横目で確認する。


 レギスが記録する。


 その瞬間、ノアの手の甲が微かに疼いた。


 照合番号が、皮膚の下で冷たく瞬く。


 伴侶首輪の灰色痕も、細く痛んだ。


 ノアはペンを止めず、低く呟く。


「監視付き学生生活、人気者どころじゃないな」


 レオの赤い糸が、ぴんと張った。


「痛む?」


「ちょっとな」


「喉?」


「番号」


 レオの視線が、すぐにレギスへ向く。


 鋭い。


 それを見たノアは、机の下でレオの袖を軽く引いた。


「睨むな。黒板より怖い」


「記録した」


「仕事だろ」


「君の魂糸が反応した」


「そこは腹立つけど、今ここで燃やすなよ」


「燃やさない」


「顔が燃やしてる」


 レオは、少しだけ視線を戻した。


 戻しただけで、警戒は解けない。


 授業が終わるまで、ノアの手の甲は何度も微かに疼いた。


 レギスが記録するたび。


 ノアが発言するたび。


 レオが現世名を呼ぶたび。


 まるで、魂帳局のどこかで帳簿が更新されているようだった。


 次の時間、廊下に出ると、ルカが駆け寄ってきた。


 魔具科の制服の袖から、工具と小さな結晶板が覗いている。顔には明らかな心配が浮かんでいた。


「ノア、大丈夫なのか?」


 アイリスも隣にいた。


 治癒魔法科の白い袖を押さえ、ノアの首元を見ないようにしながら、それでも見てしまう目をしていた。灰色の切断痕が気になるのだろう。


 ノアは、喉に負担をかけないよう軽く笑った。


「多分な。俺、役所にモテてるだけ」


 アイリスの眉が下がる。


「笑いごとじゃないよ」


「笑いごとにしないと、腹立つだろ」


 声は軽かった。


 けれど、最後だけ少し低くなった。


 腹立つ。


 それは本当だった。


 レギスは、廊下の少し離れた位置に立っている。友人との会話を遮らない。こちらへ近づきもしない。ただ、記録している。


 白い手袋の指が、灰色の帳簿板を滑る。


 そのたび、ノアの魂糸が微かに引かれる。


 ノアは肩を竦めた。


「ほら、今も記録中。学生の雑談まで帳簿行き。俺の発言録、誰が読むんだよ」


 ルカが顔をしかめる。


「魔具で妨害できないのか? 記録遮断とか」


 レオが即座に反応する。


「作れる?」


 ノアはすぐに言った。


「食いつくな」


 ルカは少し考える。


「完全遮断は無理だと思う。学院側が許可した監視だろ? そこに干渉すると、こっちが違反扱いされる可能性がある。でも、記録時の反応を測る補助具なら作れるかもしれない」


 ノアは目を細める。


「反応計か」


「そう。帳簿板が記録するたびに、ノアの照合番号とか首輪がどう反応するか可視化できれば、証拠になる」


 アイリスが頷いた。


「治癒側でも、記録された時の身体反応を測れるかもしれない。喉、首輪、魔力回路の変化を記録しておけば、監視そのものが負担になってるって示せる」


 レオの赤い糸が、少しだけ落ち着いた。


 敵視だけでなく、証拠にする方向へ思考が動いたからだろう。


 ノアは、ほんの少し口角を上げた。


「友達が優秀すぎる。俺、そろそろ友人手当払った方がいい?」


 ルカが苦笑する。


「払えるのか?」


「魂帳局に差し押さえられてなければ」


 アイリスが悲しそうに怒る。


「そういう冗談、今は笑いづらい」


「ごめん」


 ノアは素直に謝った。


 アイリスは少し驚いた顔をしたあと、小さく頷いた。


 その間にも、レギスは記録している。


 灰色の視線。


 灰色の帳簿。


 感情のない観察。


 ノアは、廊下の窓に映る自分の首元をちらりと見た。


 灰色の切断痕は、制服の襟でほとんど隠れている。


 だが、消えたわけではない。


 魂帳局の記録が触れるたび、そこは鈍く痛む。


 昼食の食堂でも、監視は続いた。


 食堂には人が多い。


 いつものざわめき、皿の音、スープの湯気、焼きたてのパンの匂い。普段なら、ノアも軽口を挟みながら食べる時間だった。


 だが今日は、視線が多すぎた。


 レギスがいるからだ。


 生徒たちは露骨に騒がない。


 学院側からも説明があったのだろう。魂帳局監視官が学院内調査のため滞在する。不要な接触は避けること。噂を広げないこと。


 そう言われれば言われるほど、視線は増える。


 ノアはトレイを持って席に着き、スープを見下ろした。


「視線だけで満腹になりそう」


 レオがすぐ隣に座る。


 距離が近い。


「食べて」


「保護者か」


「食べて」


「はいはい」


 スープを少し飲む。


 喉に温かさが落ちる。


 痛みはあるが、朝よりはましだった。


 レオの視線が、ノアの喉を追う。


 ノアは匙を置いて、横目で見た。


「お前のチェック、監視官より近い」


「彼は君を記録する」


「お前は?」


「君を戻す」


 ノアは言葉に詰まった。


 重い。


 だが、今は反論しづらい。


 レオの言葉は、過剰な管理欲と紙一重だった。いや、正直かなり重い方向に傾いている。だが、昨夜、赤い糸を切られかけた時、ノアを現世に繋ぎ止めたのも確かにレオだった。


 ノアは小さく息を吐く。


「言い方がずるい」


「本当のこと」


「本当なら何言ってもいいと思うなよ」


「努力する」


「そこは学習継続」


 少し離れた柱の近くで、レギスが帳簿板を開いた。


 白い手袋の指が動く。


 ノアの照合番号が疼く。


 首輪の灰色痕が、細く痛んだ。


 レオの赤い糸が瞬時に張る。


 ノアは匙を持ったまま、低く言った。


「今、記録された」


「分かってる」


「糸が怒ってる」


「僕も怒ってる」


「食堂で威圧するな。スープが冷える」


「冷めたら温める」


「そういう話じゃない」


 図書館では、さらに分かりやすかった。


 静かな空間に、灰色の視線はよく目立つ。


 レギスは入口近くの指定席に立ち、距離を保っている。ノアの読む本を覗き込むことはない。話しかけもしない。ただ、ノアが棚から本を取るたび、帳簿板に記録する。


 黒魔法史。


 魂名理論。


 古代局制資料。


 転生記録の扱いについて。


 ノアがその背表紙に触れるたび、魂糸がわずかに反応する。


 レオは隣で、レギスを見ていた。


 もはや監視官を監視する人である。


 ノアは本を開きながら言った。


「お前、監視を監視してる自覚ある?」


「ある」


「開き直りが早い」


「彼が記録するなら、僕も見る」


「張り合うな」


「張り合っていない。警戒している」


「似たようなもんだろ」


 レオは答えなかった。


 その代わり、ノアの手元を見た。


「その本、重くない?」


「物理的に?」


「魂的に」


「新しい重量単位を増やすな」


 だが、実際、重かった。


 本を開くと、古い文字が並んでいる。


 転生記録の保管。


 前世人格の暴走。


 魂帳局による一時封緘。


 保護回収制度の初期理念。


 本来は、救うための制度だった。


 それはセドリックの説明とも一致している。


 前世に呑まれかけた者を保護する。


 記録を安定させる。


 現世人格を守る。


 だが、今ノアを見ている灰色の視線は、現世人格を守るものには見えなかった。


 記録へ戻す。


 不一致を直す。


 不正固定を解除する。


 本人の声より帳簿を優先する。


 ノアは、低く息を吐いた。


「制度が始まった時は、まともだったのかもな」


 レオがノアを見る。


「今は違う」


「そこが厄介なんだよ。全部悪なら燃やせば終わるって言いやすい。でも、元が保護だと、使ってる側だけ切り分けないといけない」


「君を狙うなら敵」


「お前の分類、単純すぎる」


「単純でいい」


「よくない。雑に敵認定すると、レギスみたいな記録通りに動いてるだけの奴も全部潰すことになる」


 レオの目が冷える。


「彼も君を連れて行こうとしている」


「だから警戒はする。でも、黒幕とは限らない」


「分かってる」


「分かってない顔」


「分かってる。でも嫌だ」


 ノアは本を閉じた。


「そこは正直でよろしい。最悪だけど」


 訓練場では、セドリックが同行した。


 ノアに激しい魔法訓練は禁止されている。


 今日は魔力回路の安定確認だけだった。黒魔力を指先に集め、一定の形で維持し、乱れたらすぐに止める。喉と首輪、赤い糸に負担をかけないための、ごく軽い訓練。


 レオはすぐ横。


 レギスは柵の外。


 セドリックは観測陣の傍。


 ノアは、指先に黒い魔力を灯した。


 小さな黒い蝶の形にする。


 以前なら簡単だった。


 今は少し揺れる。


 灰色の切断痕が、魔力の流れに引っかかる。赤い糸の傷も、魔力が胸の中心を通るたびに疼いた。


 レギスが記録する。


 その瞬間、蝶の羽が少し崩れた。


 ノアは眉を寄せる。


「見るだけで揺れるの、腹立つな」


 セドリックが観測陣を確認する。


「記録時に魂糸が引かれている。わずかだが、魔力制御へ影響している」


 レオの声が低くなる。


「記録をやめさせる」


「まだ駄目だ」


 ノアが言う。


「証拠を取る」


「君に負担が出ている」


「だから証拠になる」


 レオが言葉を詰まらせる。


 その理屈は、彼が今朝ノアに言われたものと同じだった。


 証拠を燃やすな。


 傷を消すな。


 負担があるから、証拠になる。


 レオは、苦い顔で黙った。


 セドリックが短く言う。


「今日はここまでだ」


「え、早くないですか」


「早いくらいでいい。君は今、回復中の身体で魂帳局の監視負荷を受けている」


「言葉にするとひどい」


「ひどいから止める」


 ノアは黒い蝶を消した。


 消える瞬間、手の甲の照合番号がまた疼く。


 レギスの帳簿板に、新しい記録が刻まれた気配がした。


 その夜。


 寮部屋に戻ったノアは、ようやく息をついた。


 授業、食堂、廊下、図書館、訓練場。


 一日中、灰色の視線があった。


 レギスは何もしていない。


 少なくとも表面上は。


 だが、記録されるたび、魂糸は引かれ、照合番号は疼き、首輪の灰色痕は痛んだ。


 何もしていない監視が、一番厄介だった。


 レオは、部屋に入るなり水を用意した。


 次に喉。


 次に首輪。


 次に赤い糸の切断痕。


 手順が完全に固定されつつある。


 ノアは寝台に腰掛けて、掠れた声で言った。


「監視官よりお前のチェックの方が細かい」


 レオは、ノアの喉元へ手をかざしながら答えた。


「彼は君を記録する。僕は君を戻す」


 昼にも聞いた言葉だ。


 今度は、少し違って聞こえた。


 ノアは眉を寄せる。


「重い。二回目でも重い」


「必要」


「必要と過剰の境目、また見失ってるぞ」


 レオの手が止まる。


 ノアは続けた。


「確認はいい。喉も、糸も、首輪も。今日の記録で変な反応が出てるのは俺も分かってる。でも、俺を帳簿みたいに確認するな」


 レオの目が伏せられた。


「……分かった」


「本当に?」


「努力する」


「そこ、まだ努力か」


「怖いから」


 その言葉は、静かだった。


 ノアは黙った。


 レオはノアの赤い糸の傷へ、薄い白金の魔力を巻いた。


 灰色の切断痕を隠さない。


 消さない。


 ただ、広がらないよう支える。


「今日、彼が記録するたび、糸が揺れた」


「うん」


「首輪も」


「うん」


「番号も」


「うん」


「君が少しずつ持っていかれる感じがした」


 ノアは、返す言葉を探した。


 軽口ならある。


 魂の分割払いかよ、とか。


 役所の取り立て怖いな、とか。


 だが、今は言えなかった。


 その代わり、低く言う。


「持っていかせないために、証拠を取る」


「分かってる」


「隠れるだけじゃ、帳簿の中で勝手に進む」


「分かってる」


「だから横」


 レオは、赤い糸に触れたまま頷いた。


「横にいる」


「よろしい」


 ノアは水を飲んだ。


 喉は痛むが、朝よりはましだった。


 レオが首輪の周囲に冷却魔法を薄く流す。


 伴侶首輪の灰色痕が、一瞬だけ冷えた。


 その直後だった。


 首輪の内側に、黒い数字が浮かんだ。


 二パーセント。


 ノアとレオが同時に動きを止める。


 数字が揺れる。


 二。


 その横に、細い線が走る。


 まるで、次の数字へ進もうとするように。


 三。


 まだ完全には形にならない。


 だが、確かに三パーセントへ進みかけていた。


 ノアの喉が詰まる。


 重度反応ではない。


 だが、胸の奥が冷える。


 レオの赤い糸が一気に張った。


「ノア・クロウ」


 数字の揺れが止まる。


 だが、完全には消えない。


 ノアは、首輪に指先を当てた。


 灰色の切断痕が疼いている。


 手の甲の照合番号も、今日一日分の記録を思い出すように冷たく脈打っていた。


 ノアは低く呟いた。


「見るだけで進むのかよ」




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