第114話 灰色の令状
学院長室の空気は、朝とは思えないほど重かった。
高い窓からは、柔らかな光が差し込んでいる。
学院の中庭では、もう生徒たちが動き始めているはずだった。遠くには鐘の余韻があり、廊下には一日の始まりの気配が満ちている。だが、扉を一枚隔てたこの部屋だけは、まるで灰色の記録空間から切り取られてきたように静まり返っていた。
壁一面の書棚。
古い魔法具。
学院長の机。
応接用の長椅子。
その中央に、灰色の令状が置かれていた。
紙ではない。
薄い板のようでもあり、古い帳簿紙を何層にも重ねて圧縮したもののようでもある。表面には魂帳局の封緘印。四隅には細かな記録術式が走り、見る角度によって文字が浮いたり沈んだりした。
ノア・クロウは、その令状から少し離れた椅子に座っていた。
喉はまだ掠れている。
朝前の重度反応、その後の赤い糸の応急処置、学院正門でのレギス・グレイヴとの対面。身体は休む暇をもらえていない。伴侶首輪の内側に残った灰色の切断痕は、令状の気配に反応してじくじく疼いていた。
手の甲の照合番号も、冷たく痛む。
魂糸が、机上の令状へ引かれそうになる。
ノアは、喉を押さえながら低く息を吐いた。
隣にはレオ・アステルレインが立っている。
座れと言われても座らなかった。
正門からここまで、ずっとノアの半歩前に立とうとして、そのたびにノアに横へ戻されていた。今も、椅子に座るノアのすぐ隣に立ち、いつでも灰色の令状とレギスを遮れる位置にいる。
赤い糸は防御的に張っていた。
令状に触れないよう、だがノアから離れないよう、ひどく神経質に震えている。
学院長は机の向こうに座っていた。
白髪混じりの髪を後ろへ撫でつけ、深い色の長衣をまとっている。老齢ではあるが、目は鋭い。学院の長として、王都の諸機関とも渡り合ってきた者の目だった。
その傍らにセドリック・バロウズが立っている。
腕を組み、灰色の令状を冷たく見下ろしていた。彼の前には観測符が数枚浮いている。令状から出る灰色術式、魂帳局の封緘印、黒塗りの署名欄。そのすべてを同時に記録している。
そして、応接席の反対側。
レギス・グレイヴが座っていた。
灰色の制服。
銀灰の髪。
薄い灰色の瞳。
白い手袋をした手は膝の上に揃えられている。姿勢は端正で、礼儀正しい。敵意をむき出しにするわけでも、優位を誇るわけでもない。
ただ、冷静だった。
その冷静さが、レオの神経を逆撫でしていた。
学院長が令状へ視線を落とす。
「魂帳局長代理名義の令状、か」
レギスが静かに頷いた。
「はい。正式な封緘印を伴う令状です。内容は、転生者ノア・クロウの任意同行、魂記録照合、伴侶契約の妥当性調査、必要時の保護回収となります」
ノアは、掠れた声で言った。
「任意同行、必要時回収。言葉の治安が終わってる」
レギスはノアを見る。
感情の読めない瞳だった。
「強制ではありません。拒否した場合、照合不履行として記録されます」
ノアは目を細めた。
「拒否権を飾りにするな」
喉が痛む。
だが、声は低く、はっきりしていた。
「任意です。でも断ったら不履行扱いです。必要なら回収します。そういうの、任意って言わないだろ」
レギスは淡々と答える。
「魂帳局における任意同行とは、対象が自発的に照合手続きへ協力する機会を示します」
「自発的に協力しなかったら?」
「照合不履行として記録されます」
「だから、それを飾りの拒否権って言ってるんだよ」
伴侶首輪が、冷たい熱を持つ。
令状の灰色術式に反応して、首輪の切断痕が疼いた。手の甲の照合番号も鈍く痛む。魂糸が、灰色の令状の方へ引かれかける。
レオが即座に名を呼んだ。
「ノア・クロウ」
首輪の反応が少しだけ落ち着く。
ノアは横目で見た。
「今のは助かる。でも前に出るなよ」
レオは、まさに前に出ようとしていた足を止めた。
「……分かった」
「顔は分かってない」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
レオは沈黙した。
その沈黙がすでに不満だった。
学院長は令状を指先で示した。
直接触れない。
古い魔法具を扱うように、宙に浮かせた解析陣で内容を読み取る。
「任意同行と記載されている以上、学院として即時引き渡しに応じる義務はない。ただし、魂帳局長代理の正式令状を完全に無視することも難しい」
レオの声が冷えた。
「無視してください」
学院長はレオを見る。
「君の感情は理解するが、学院は魂帳局との公式な関係を持つ。全面拒否は、ノア君の立場をさらに悪化させる」
「連れて行かれれば、もっと悪化します」
「だから即時同行は認めない」
学院長の声は静かだった。
だが、そこには明確な意志があった。
ノアはわずかに目を上げる。
学院長は続ける。
「この学院内にいる限り、ノア・クロウは学院の保護下にある。魂帳局が記録照合を求めるなら、学院立ち会いのもとで行うべきだ」
レギスは表情を変えない。
「学院内調査では、魂帳局の全記録へ接続できません」
「それは魂帳局側の事情だ」
セドリックが淡々と言った。
「少なくとも、昨夜、記録空間内で伴侶契約切断申請が行われた。その痕が現実の首輪と赤い糸に残っている。これが解明されるまで、ノアを魂帳局本庁へ移すことは認められない」
レギスはセドリックを見る。
「切断申請については、魂帳局内で確認します」
「その確認が終わる前に対象を連れて行くなと言っている」
「対象の保護が目的です」
「切断痕を残した機関の保護を、こちらが無条件で信じる理由はない」
レギスは沈黙した。
礼儀正しい沈黙。
その沈黙の中で、令状の灰色術式がわずかに光った。
ノアの首輪が疼く。
レオの赤い糸が張る。
伴侶契約が令状を敵視しているようだった。
ノアは、机上の令状を見た。
署名欄。
魂帳局長代理。
名前欄は黒く塗り潰されている。
公式な秘匿処理。
だが、その下に、わずかに古代文字の跡が見える。
O。
円環のように始まり、尾を引く一文字。
オルドレイス。
その可能性が、部屋の誰の目にも見えていた。
ノアは低く言った。
「黒塗り、雑じゃないのに下が見えてるの嫌だな」
セドリックが答える。
「雑ではない。むしろ、見せている可能性がある」
「挑発ですか」
「または署名そのものが、完全には隠せない構文を持っている」
レギスが口を開く。
「魂帳局長代理の名は、局内規定により秘匿されています」
セドリックは冷たく返した。
「その秘匿規定自体が疑わしい」
「局内規定です」
「局内規定であれば正しいという前提を、我々はすでに信用していない」
レギスは目を伏せた。
怒ったわけではない。
困ったわけでもない。
ただ、記録するように沈黙した。
レオが、令状を見ていた。
その視線が危ない。
白金の魔力が、指先に集まり始める。
令状の灰色の縁が、その魔力に反応して薄く光った。
ノアは、すぐに言った。
「燃やすな」
レオの動きが止まる。
「まだ何も」
「した」
「していない」
「目が燃やしてた。指先も燃やす準備してた」
レオは令状から目を離さない。
「君を連れていく紙だ」
「だから証拠になる」
「君を危険に晒す」
「だから証拠になる」
「燃やしたい」
「証拠を燃やすな。最近それ多いぞ」
レオの口元が固く結ばれる。
ノアは椅子の肘置きを握り、少しだけ身体を起こした。
喉が痛む。
胸の奥に、赤い糸の傷が鈍く響く。
それでも、声を低く保つ。
「燃やしたら、向こうは令状を出した事実だけ残せる。こっちは黒塗り署名と古代文字の証拠を失う。損しかない」
レオは、苦しげに息を吐いた。
「分かってる」
「分かってるなら魔力をしまえ」
「……分かった」
白金の魔力が、ゆっくり引いた。
完全ではない。
いつでも出せる位置にある。
だが、令状を焼くことはしなかった。
ノアは小さく息を吐く。
「よし」
レオがノアを見る。
「声が乱れてる」
「今は後」
「水」
「会議後」
「喉」
「後」
「首輪」
「後」
「ノア」
「今は後」
レオは沈黙した。
かなり不満そうだった。
学院長が、二人のやり取りを見てからレギスへ向き直った。
「学院としての回答を示す」
レギスは姿勢を正す。
「伺います」
「ノア・クロウの即時同行は認めない。魂帳局による本庁移送も認めない。伴侶契約への干渉、首輪および赤い糸への直接処理は禁止する」
レオの赤い糸が、わずかに落ち着いた。
学院長は続ける。
「ただし、正式令状が存在する以上、学院内での調査と監視は認める。場所、時間、接触範囲は学院側が指定する。すべての照合は学院長、担当教員セドリック・バロウズ、伴侶契約者レオ・アステルレインのいずれかの立ち会いを必須とする」
レギスは、少しだけ目を細めた。
「伴侶契約者は調査対象でもあります」
「だからこそ立ち会わせる。彼を排除した状態での照合は、昨夜の切断未遂を考えれば危険が高い」
セドリックが付け加える。
「赤い糸は不正固定ではなく、現世名固定の支柱として機能している可能性がある。少なくとも現段階では、切断や弱体化はノアの魂糸を損傷させる危険が高い」
レギスは、令状へ視線を落とした。
「学院内監視では、対象が逃亡する可能性があります」
ノアは掠れた声で笑った。
「逃げる前提かよ」
レギスは淡々と答える。
「回収対象に指定された転生者が逃亡する事例はあります」
「俺を事例で見るな」
「記録上の分類です」
「その分類が信用できないって話を、今ずっとしてるんだけどな」
レギスは、わずかに沈黙した。
それから言った。
「学院側の条件を、一部受諾します」
レオの目が鋭くなる。
「一部?」
「即時同行は保留。学院内調査を実施。対象の単独行動を制限。魂帳局回収官である私が、学院内に滞在し監視を行います」
レオの赤い糸が、一気に張った。
部屋の空気が硬くなる。
ノアは内心で顔をしかめた。
最悪だ。
魂帳局の人間が学院内に滞在する。
監視。
今度は現実の窓口が、学院内に居座るようなものだ。
役所が出張してきた。
悪夢の移動窓口である。
レオは低く言う。
「監視を許すつもりはありません」
学院長が制した。
「完全拒否はできない」
「ノアを見張らせるのですか」
「学院側も見張る」
「相手は魂帳局です」
「だから、こちらも条件を付ける」
セドリックがレギスへ告げる。
「監視は遠隔を基本とする。ノアへの接触は事前申請。夜間接触は禁止。魂糸、首輪、赤い糸への術式干渉は禁止。違反した場合、学院結界から排除する」
レギスは頷いた。
「条件を記録します」
その言葉が、また微妙に腹立たしかった。
ノアは低く呟く。
「何でも記録するな……」
レギスは、令状を丁寧に閉じた。
封緘印が淡く光る。
その瞬間、ノアの首輪が冷えた。
手の甲の照合番号が疼く。
レオが即座に名を呼ぶ。
「ノア・クロウ」
ノアは息を吸い、吐いた。
「俺はノア・クロウ」
レギスの薄い灰色の瞳が、そのやり取りを見ていた。
観察。
記録。
判断。
その視線に、悪意はない。
だが、ノアは不快だった。
本人が自分の名を確認することさえ、記録対象として見られている気がした。
会議は、そこで一旦区切られた。
即時連行は避けられた。
だが、魂帳局の監視は学院内に入り込む。
守れたものと、許してしまったもの。
両方があった。
学院長室を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じた。
それでも、ノアの喉は痛む。
声を出しすぎた。
レオがすぐに水筒を差し出す。
いつの間に用意していたのか。
ノアはそれを見て、掠れた声で言った。
「会議後の給水、定番化したな」
レオは真面目に答える。
「声が怒っていた」
「怒ってたら水が出るのか」
「喉が痛む」
「まあ、痛い」
「飲んで」
「はいはい」
ノアは水を少し飲んだ。
喉の奥がひきつる。
顔をしかめると、レオがすぐに手を伸ばしかける。
ノアは手で制した。
「大丈夫。今は飲める」
レオは止まった。
止まったが、目は止まっていない。
喉、首輪、赤い糸、手の甲の番号。
全部確認している。
「点検顔」
「してる」
「開き直るな」
「隠せない」
「努力は?」
「する」
「よろしい」
廊下の先で、レギスが足を止めた。
彼は学院長室から出てきたばかりの灰色の令状を外套の内側へしまい、ノアたちへ向き直る。
「学院内に滞在する間、対象の行動記録を確認します」
レオが一歩前へ出かけた。
ノアが袖を掴む。
レギスは淡々と続けた。
「逃亡した場合、転生者狩りを正式発動します」
ノアは、喉を痛めない程度に笑った。
掠れていても、皮肉は乗った。
「逃げる前提で話すな。失礼だな」
レギスは表情を変えない。
「規定です」
「便利な言葉だな、規定」
レオは無言だった。
だが、赤い糸が鋭く張った。
灰色の令状と、レギスと、廊下の先に続く学院の空気すべてを警戒するように。
ノアの胸の奥で、傷ついた赤い糸が細く震えていた。




