第113話 回収官レギス・グレイヴ
学院正門の外に、灰色の馬車が止まっていた。
朝の光は、まだ薄い。
夜明けからそれほど経っていない空には、青白い冷気が残っていた。学院の尖塔は淡い金に縁取られ、中庭の木々には朝露が光っている。普段なら、登校前の静けさと呼べる時間だった。
だが、その正門前にある馬車だけが、空気を別のものに変えていた。
灰色。
飾り気のない車体。
貴族の馬車にあるような家紋の華やかさはない。商人の馬車にあるような実用の気配もない。ただ、扉の中央に白灰色の帳簿印が刻まれている。
魂帳局の紋章。
それを見ただけで、ノア・クロウの首元が疼いた。
伴侶首輪の内側に残った灰色の切断痕が、冷たく熱を持つ。熱いのに、氷を当てられているような感覚だった。赤い糸の傷も、胸の奥で細く震える。
ノアは喉を押さえた。
昨夜の重度反応の名残で、声はまだ完全には戻っていない。話せる。だが、長く話せば痛む。叫ぶなど論外だった。
その状態で、よりによって魂帳局の馬車である。
体調不良に合わせて嫌がらせの予定を組んでいるなら、なかなか几帳面だ。魂の役所、仕事だけは早い。最悪。
隣で、レオ・アステルレインの赤い糸が鋭く張った。
彼は何も言わない。
だが、顔は十分に言っていた。
帰れ。
近づくな。
ノアを見るな。
その三つを、かなり丁寧ではない魔法で実現しようとしている顔だった。
ノアは横目で見る。
「レオ」
「何?」
「その顔、もう戦闘開始してる」
「まだ何もしていない」
「顔がしてる」
「顔だけならいい」
「よくない」
レオは正門から目を離さなかった。
その横に、セドリック・バロウズが立っている。研究室の外套を羽織り、片手には観測符、もう片手には学院結界の一時許可符を持っていた。正門周囲にはすでに黒魔法の薄い陣が敷かれている。
ノアを前に出すつもりはない。
だが、完全に隠すつもりもない。
セドリックは、灰色の馬車を睨むでもなく、ただ観察していた。
「来るのが早いな」
ノアは掠れた声で返す。
「役所ってもっと待たせるものじゃないんですか」
「相手に都合の悪い時だけ早いのは、どこの機関も同じだ」
「先生の社会観、黒い」
「事実だ」
灰色の馬車の扉が開いた。
音がしなかった。
金具の軋みも、木が鳴る音もない。
ただ、扉が開いた。
中から、一人の男が降りてくる。
灰色の制服。
銀灰の髪。
薄い灰色の瞳。
長身だが、威圧のための姿勢ではない。背筋はまっすぐで、動作は丁寧だった。白い手袋をした手で外套の前を整え、学院の結界前で足を止める。
表情はある。
だが、感情が見えない。
怒りも、焦りも、見下しもない。
礼儀正しい。
それが、冷たい。
男は、結界の向こうから静かに一礼した。
「魂帳局回収官、レギス・グレイヴ」
声は低く、よく通った。
機械のようではない。
受付窓口の職員とは違い、確かに生きた人間の声だった。
だが、その声にも温度はほとんどなかった。
「転生者ノア・クロウの任意同行を求めます」
レオが、一歩前に出た。
ノアの前へ。
完全に遮るように。
赤い糸が防御的に張る。伴侶契約の傷を庇うように、ノアの魂糸の前へ回り込む。白金の魔力が、まだ表には出ないまま、指先に集まっていた。
ノアは、その背中を見上げる。
分厚い。
壁だ。
便利だが、今は邪魔でもある。
ノアは掠れた声で言った。
「任意って言葉、今まで一番信用できない声で聞いた」
レギスは、ノアを見た。
正確には、レオの肩越しに、ノアの位置を確認した。
視線は鋭くない。
冷淡でもない。
ただ、記録を確認するような目だった。
「不信は理解します。しかし、任意同行です。魂帳局は対象の安全確認および記録照合のため、正式な手順に従い保護観察を求めています」
ノアは眉を上げる。
「保護観察」
言葉だけなら、丁寧だ。
守るための響きがある。
だが、昨夜の記録空間で聞いた声が蘇る。
本人意思は照合完了後に確認されます。
伴侶契約、切断申請。
あれを経験したあとで、保護などと言われても笑うしかない。
笑えば喉が痛むので、かなり損だ。
セドリックが一歩前へ出た。
「学院敷地内での転生者回収手続きには、学院長および担当教員への事前通達が必要なはずだ。通達は受け取っていない」
レギスはセドリックへ視線を移した。
「緊急処理です。対象には、記録不一致、旧災厄記録との照合中、伴侶契約による不正固定、白花派儀礼対象登録の疑いがあります」
旧災厄記録。
その言葉で、ノアの首輪が熱を持った。
灰色の切断痕が疼く。
手の甲の照合番号が冷たく脈打つ。
喉が少し詰まった。
レオがすぐに低く言う。
「ノア・クロウ」
その名で、首輪の熱がわずかに落ちる。
ノアは息を整えた。
「助かる。でも今は後」
レオは、ちらりとノアを見る。
声の乱れを確認したい顔だった。
喉に手を当てたい。
首輪の熱を見たい。
赤い糸の傷を確かめたい。
だが、ノアは小さく首を振った。
「今は後」
レオは、歯を食いしばるように沈黙した。
ノアはレオの横へ一歩出ようとした。
レオの腕が反射的に動く。
塞ごうとした。
ノアはその腕を軽く押した。
「俺の話なら俺にしろ」
レオの表情が苦く歪む。
それでも、完全には塞がなかった。
横へずれる。
半歩だけ。
ノアが見える位置。
だが、すぐ隣にはいる。
いつでも遮れる距離。
妥協の幅が狭い。
それでも、妥協ではあった。
ノアは結界越しにレギスを見た。
レギスの薄い灰色の瞳が、ノアを捉える。
「記録対象本人の発言は、照合完了まで参考扱いです」
ノアの声が、低くなった。
「本人の発言を参考扱いにするな」
朝の空気が、少し冷えた。
レギスは表情を変えない。
「魂帳局の規定です。記録不一致状態では、本人申告と前世記録の混線が発生する可能性があります。よって、照合完了前の発言は参考情報として扱われます」
「俺が今ここで話してることより、帳簿の方が偉いってことか」
「帳簿記録は、照合判断の基準です」
「それを本人より偉いって言うんだよ」
ノアの喉が痛む。
だが、言葉は止めなかった。
「前世記録だの、旧災厄記録だの、勝手に並べられても困る。今ここにいるのはノア・クロウだ」
手の甲の照合番号が疼く。
首輪が冷たく熱を持つ。
レオの赤い糸が防御的に張る。
レギスは、ほんの少しだけ目を伏せた。
それは感情ではなく、確認の動作に近かった。
「現世名ノア・クロウは確認しています」
「ならそれで呼べ」
「対象は、旧記録イリアス・ノクスヴェルトとの照合中です」
レオの魔力が動いた。
白金の光が、一瞬だけ指先へ灯る。
セドリックが低く言った。
「アステルレイン、抑えろ」
レオは抑えた。
だが、青い瞳は凍っている。
レギスはレオへ視線を向けた。
「伴侶契約者レオ・アステルレイン。あなたにも事情聴取の必要があります」
レオの赤い糸が震えた。
「僕はノアを連れて行かせません」
その声は静かだった。
静かすぎて危険だった。
レギスは変わらず礼儀正しい。
「同行対象の安全確保のため、伴侶契約者の同席申請は可能です。ただし、伴侶契約による不正固定の疑いがあるため、契約干渉についても聴取対象となります」
「不正ではありません」
「記録上、不正固定の疑いがあります」
「ノアを壊す処理を妨げた。それを不正と呼ぶなら、何度でも不正をします」
レギスの瞳が、わずかに動いた。
初めて、ほんの少しだけ、人間らしい間が生まれた。
「魂帳局は、対象を壊すための機関ではありません」
ノアは、低く笑った。
喉が痛んで、笑いはすぐ掠れる。
「それ、信じたいところなんだけどな」
レギスはノアを見る。
「本来、魂帳局の回収制度は保護のためにあります」
「本来、って言葉が最近一番怖い」
「前世記録が現世人格を侵食する場合、対象本人および周囲に危険が及ぶ可能性があります。魂帳局は記録を安定させる義務があります」
その言葉は、嘘ではなさそうだった。
少なくとも、レギス本人はそう信じている。
悪意でノアを連れ去ろうとしているのではない。
彼は制度側の人間だ。
記録に従い、手順を踏み、必要な保護を行うつもりでここにいる。
問題は、その記録が正しいとは限らないことだった。
セドリックが言う。
「その記録自体が汚染されている可能性がある」
レギスは視線を戻す。
「汚染?」
「切断命令に代理処理が混ざっていた。通常の魂帳局職員署名ではない。オルドレイス代理に近い構文だ」
レギスの表情は変わらない。
だが、目の奥にかすかな警戒が走った。
「その情報の出所は」
「昨夜の記録空間接続中に発生した伴侶契約切断未遂の痕跡だ」
セドリックが観測符を掲げる。
灰色の切断痕の写しが空中に浮かぶ。
レギスはそれを見た。
薄い灰色の瞳が、切断痕に留まる。
「……魂帳局式です」
「だが通常処理ではない」
「確認が必要です」
「では、ここで確認しろ」
「対象を魂帳局へ保護した上で行います」
レオの声が低くなる。
「連れて行かせないと言いました」
レギスは、レオを正面から見た。
「あなたの反応は、伴侶契約による固定干渉の典型です」
赤い糸が鋭く震えた。
ノアの首輪も疼く。
レオの表情が冷える。
「ノアを守ろうとしている」
「記録上、過度の固定は対象の照合を妨げます」
「照合のためにノアを壊すなら、妨げます」
「対象の保護が目的です」
「本人の発言を参考扱いにする保護を、信用しません」
レギスは沈黙した。
礼儀正しく、冷たい沈黙。
ノアは息を吐いた。
胸の奥が痛い。
赤い糸の傷が、レギスの記録術式に反応している。
彼の周囲には、薄い灰色の魔力がある。
攻撃的ではない。
だが、記録の匂いがした。
帳簿。
封緘。
照合。
回収。
それらの気配に、魂糸が勝手に警戒する。
ノアは喉を押さえ、低く言った。
「レギスさん」
「はい」
「あなた個人が、俺を害するつもりで来たわけじゃないのは分かる」
レギスは何も言わない。
「でも、あなたが持ってる記録は信用できない。俺を回収対象にして、赤い糸を不正扱いして、本人意思を後回しにする記録だ」
「記録は照合により修正可能です」
「その照合の前提が汚染されてたら?」
レギスの目が、少しだけ細くなる。
「証拠を提示してください」
ノアは、掠れた声で笑った。
「その証拠を持ってる俺を連れて行こうとしてる人に言われると、だいぶ困るな」
レギスは淡々と答える。
「魂帳局での保護観察中、証拠提出は可能です」
「行ったら赤い糸を切られる可能性がある」
「正式手続きなしに伴侶契約を切断することはありません」
レオの声が鋭くなる。
「昨夜、切断申請が出ました」
「記録空間内の自動処理です。現実での正式処理とは異なります」
「同じ魂に傷が残っています」
レオの赤い糸が震える。
ノアの胸が鈍く痛んだ。
レギスは、ほんのわずかに視線をノアの首元へ向けた。
伴侶首輪の灰色の切断痕。
その存在を、彼も認識している。
「切断痕は確認しています。だからこそ、魂帳局での処置が必要です」
ノアは低く言った。
「切った側の処置、怖すぎるだろ」
「切断処理の正当性を確認します」
「正当性じゃなくて、まず謝罪とかないんですかね」
レギスは沈黙した。
ノアは肩をすくめる。
喉が痛んで、その動作だけでも少し息が詰まった。
レオがすぐに横から見る。
確認しようとした。
ノアは先に言う。
「今は後」
レオは止まった。
不満そうに。
だが止まった。
セドリックが、低く口を開く。
「学院は、現時点でノア・クロウの引き渡しを認めない」
レギスはセドリックを見る。
「魂帳局の令状があります」
「提示しろ」
レギスは、外套の内側から一枚の書状を取り出した。
紙ではない。
灰色の薄い板のようなものだった。
だが、表面には帳簿紙の繊維が走り、魂帳局の封緘印が押されている。結界越しに差し出されると、学院の防護術式が低く唸った。
令状。
その灰色の書面には、転生者ノア・クロウの任意同行、保護観察、記録照合、伴侶契約干渉の調査、といった項目が整然と並んでいた。
整っている。
だからこそ、気味が悪い。
ノアは、そこにある署名欄を見た。
魂帳局長代理。
その下の名前欄は、黒く塗り潰されている。
塗り潰しは雑ではない。
公式な秘匿処理のように、完全に黒い帯で覆われていた。
だが、その黒の下。
わずかに浮いた筆跡の癖が見える。
古代文字。
円環のように始まり、蛇の尾のように終わる一文字。
O。
ノアの伴侶首輪が、冷たく疼いた。
セドリックの目が鋭くなる。
レオの赤い糸が、静かに張り詰めた。
レギスは、灰色の令状を差し出したまま言った。
「魂帳局長代理の署名です」
黒く塗り潰された名前欄の下で、古い「O」の文字だけが、薄く浮かんでいた。




