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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第六章【魂帳局と転生者狩り】

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第113話 回収官レギス・グレイヴ



 学院正門の外に、灰色の馬車が止まっていた。


 朝の光は、まだ薄い。


 夜明けからそれほど経っていない空には、青白い冷気が残っていた。学院の尖塔は淡い金に縁取られ、中庭の木々には朝露が光っている。普段なら、登校前の静けさと呼べる時間だった。


 だが、その正門前にある馬車だけが、空気を別のものに変えていた。


 灰色。


 飾り気のない車体。


 貴族の馬車にあるような家紋の華やかさはない。商人の馬車にあるような実用の気配もない。ただ、扉の中央に白灰色の帳簿印が刻まれている。


 魂帳局の紋章。


 それを見ただけで、ノア・クロウの首元が疼いた。


 伴侶首輪《メイト・カラー》の内側に残った灰色の切断痕が、冷たく熱を持つ。熱いのに、氷を当てられているような感覚だった。赤い糸の傷も、胸の奥で細く震える。


 ノアは喉を押さえた。


 昨夜の重度反応の名残で、声はまだ完全には戻っていない。話せる。だが、長く話せば痛む。叫ぶなど論外だった。


 その状態で、よりによって魂帳局の馬車である。


 体調不良に合わせて嫌がらせの予定を組んでいるなら、なかなか几帳面だ。魂の役所、仕事だけは早い。最悪。


 隣で、レオ・アステルレインの赤い糸が鋭く張った。


 彼は何も言わない。


 だが、顔は十分に言っていた。


 帰れ。


 近づくな。


 ノアを見るな。


 その三つを、かなり丁寧ではない魔法で実現しようとしている顔だった。


 ノアは横目で見る。


「レオ」


「何?」


「その顔、もう戦闘開始してる」


「まだ何もしていない」


「顔がしてる」


「顔だけならいい」


「よくない」


 レオは正門から目を離さなかった。


 その横に、セドリック・バロウズが立っている。研究室の外套を羽織り、片手には観測符、もう片手には学院結界の一時許可符を持っていた。正門周囲にはすでに黒魔法の薄い陣が敷かれている。


 ノアを前に出すつもりはない。


 だが、完全に隠すつもりもない。


 セドリックは、灰色の馬車を睨むでもなく、ただ観察していた。


「来るのが早いな」


 ノアは掠れた声で返す。


「役所ってもっと待たせるものじゃないんですか」


「相手に都合の悪い時だけ早いのは、どこの機関も同じだ」


「先生の社会観、黒い」


「事実だ」


 灰色の馬車の扉が開いた。


 音がしなかった。


 金具の軋みも、木が鳴る音もない。


 ただ、扉が開いた。


 中から、一人の男が降りてくる。


 灰色の制服。


 銀灰の髪。


 薄い灰色の瞳。


 長身だが、威圧のための姿勢ではない。背筋はまっすぐで、動作は丁寧だった。白い手袋をした手で外套の前を整え、学院の結界前で足を止める。


 表情はある。


 だが、感情が見えない。


 怒りも、焦りも、見下しもない。


 礼儀正しい。


 それが、冷たい。


 男は、結界の向こうから静かに一礼した。


「魂帳局回収官、レギス・グレイヴ」


 声は低く、よく通った。


 機械のようではない。


 受付窓口の職員とは違い、確かに生きた人間の声だった。


 だが、その声にも温度はほとんどなかった。


「転生者ノア・クロウの任意同行を求めます」


 レオが、一歩前に出た。


 ノアの前へ。


 完全に遮るように。


 赤い糸が防御的に張る。伴侶契約の傷を庇うように、ノアの魂糸の前へ回り込む。白金の魔力が、まだ表には出ないまま、指先に集まっていた。


 ノアは、その背中を見上げる。


 分厚い。


 壁だ。


 便利だが、今は邪魔でもある。


 ノアは掠れた声で言った。


「任意って言葉、今まで一番信用できない声で聞いた」


 レギスは、ノアを見た。


 正確には、レオの肩越しに、ノアの位置を確認した。


 視線は鋭くない。


 冷淡でもない。


 ただ、記録を確認するような目だった。


「不信は理解します。しかし、任意同行です。魂帳局は対象の安全確認および記録照合のため、正式な手順に従い保護観察を求めています」


 ノアは眉を上げる。


「保護観察」


 言葉だけなら、丁寧だ。


 守るための響きがある。


 だが、昨夜の記録空間で聞いた声が蘇る。


 本人意思は照合完了後に確認されます。


 伴侶契約、切断申請。


 あれを経験したあとで、保護などと言われても笑うしかない。


 笑えば喉が痛むので、かなり損だ。


 セドリックが一歩前へ出た。


「学院敷地内での転生者回収手続きには、学院長および担当教員への事前通達が必要なはずだ。通達は受け取っていない」


 レギスはセドリックへ視線を移した。


「緊急処理です。対象には、記録不一致、旧災厄記録との照合中、伴侶契約による不正固定、白花派儀礼対象登録の疑いがあります」


 旧災厄記録。


 その言葉で、ノアの首輪が熱を持った。


 灰色の切断痕が疼く。


 手の甲の照合番号が冷たく脈打つ。


 喉が少し詰まった。


 レオがすぐに低く言う。


「ノア・クロウ」


 その名で、首輪の熱がわずかに落ちる。


 ノアは息を整えた。


「助かる。でも今は後」


 レオは、ちらりとノアを見る。


 声の乱れを確認したい顔だった。


 喉に手を当てたい。


 首輪の熱を見たい。


 赤い糸の傷を確かめたい。


 だが、ノアは小さく首を振った。


「今は後」


 レオは、歯を食いしばるように沈黙した。


 ノアはレオの横へ一歩出ようとした。


 レオの腕が反射的に動く。


 塞ごうとした。


 ノアはその腕を軽く押した。


「俺の話なら俺にしろ」


 レオの表情が苦く歪む。


 それでも、完全には塞がなかった。


 横へずれる。


 半歩だけ。


 ノアが見える位置。


 だが、すぐ隣にはいる。


 いつでも遮れる距離。


 妥協の幅が狭い。


 それでも、妥協ではあった。


 ノアは結界越しにレギスを見た。


 レギスの薄い灰色の瞳が、ノアを捉える。


「記録対象本人の発言は、照合完了まで参考扱いです」


 ノアの声が、低くなった。


「本人の発言を参考扱いにするな」


 朝の空気が、少し冷えた。


 レギスは表情を変えない。


「魂帳局の規定です。記録不一致状態では、本人申告と前世記録の混線が発生する可能性があります。よって、照合完了前の発言は参考情報として扱われます」


「俺が今ここで話してることより、帳簿の方が偉いってことか」


「帳簿記録は、照合判断の基準です」


「それを本人より偉いって言うんだよ」


 ノアの喉が痛む。


 だが、言葉は止めなかった。


「前世記録だの、旧災厄記録だの、勝手に並べられても困る。今ここにいるのはノア・クロウだ」


 手の甲の照合番号が疼く。


 首輪が冷たく熱を持つ。


 レオの赤い糸が防御的に張る。


 レギスは、ほんの少しだけ目を伏せた。


 それは感情ではなく、確認の動作に近かった。


「現世名ノア・クロウは確認しています」


「ならそれで呼べ」


「対象は、旧記録イリアス・ノクスヴェルトとの照合中です」


 レオの魔力が動いた。


 白金の光が、一瞬だけ指先へ灯る。


 セドリックが低く言った。


「アステルレイン、抑えろ」


 レオは抑えた。


 だが、青い瞳は凍っている。


 レギスはレオへ視線を向けた。


「伴侶契約者レオ・アステルレイン。あなたにも事情聴取の必要があります」


 レオの赤い糸が震えた。


「僕はノアを連れて行かせません」


 その声は静かだった。


 静かすぎて危険だった。


 レギスは変わらず礼儀正しい。


「同行対象の安全確保のため、伴侶契約者の同席申請は可能です。ただし、伴侶契約による不正固定の疑いがあるため、契約干渉についても聴取対象となります」


「不正ではありません」


「記録上、不正固定の疑いがあります」


「ノアを壊す処理を妨げた。それを不正と呼ぶなら、何度でも不正をします」


 レギスの瞳が、わずかに動いた。


 初めて、ほんの少しだけ、人間らしい間が生まれた。


「魂帳局は、対象を壊すための機関ではありません」


 ノアは、低く笑った。


 喉が痛んで、笑いはすぐ掠れる。


「それ、信じたいところなんだけどな」


 レギスはノアを見る。


「本来、魂帳局の回収制度は保護のためにあります」


「本来、って言葉が最近一番怖い」


「前世記録が現世人格を侵食する場合、対象本人および周囲に危険が及ぶ可能性があります。魂帳局は記録を安定させる義務があります」


 その言葉は、嘘ではなさそうだった。


 少なくとも、レギス本人はそう信じている。


 悪意でノアを連れ去ろうとしているのではない。


 彼は制度側の人間だ。


 記録に従い、手順を踏み、必要な保護を行うつもりでここにいる。


 問題は、その記録が正しいとは限らないことだった。


 セドリックが言う。


「その記録自体が汚染されている可能性がある」


 レギスは視線を戻す。


「汚染?」


「切断命令に代理処理が混ざっていた。通常の魂帳局職員署名ではない。オルドレイス代理に近い構文だ」


 レギスの表情は変わらない。


 だが、目の奥にかすかな警戒が走った。


「その情報の出所は」


「昨夜の記録空間接続中に発生した伴侶契約切断未遂の痕跡だ」


 セドリックが観測符を掲げる。


 灰色の切断痕の写しが空中に浮かぶ。


 レギスはそれを見た。


 薄い灰色の瞳が、切断痕に留まる。


「……魂帳局式です」


「だが通常処理ではない」


「確認が必要です」


「では、ここで確認しろ」


「対象を魂帳局へ保護した上で行います」


 レオの声が低くなる。


「連れて行かせないと言いました」


 レギスは、レオを正面から見た。


「あなたの反応は、伴侶契約による固定干渉の典型です」


 赤い糸が鋭く震えた。


 ノアの首輪も疼く。


 レオの表情が冷える。


「ノアを守ろうとしている」


「記録上、過度の固定は対象の照合を妨げます」


「照合のためにノアを壊すなら、妨げます」


「対象の保護が目的です」


「本人の発言を参考扱いにする保護を、信用しません」


 レギスは沈黙した。


 礼儀正しく、冷たい沈黙。


 ノアは息を吐いた。


 胸の奥が痛い。


 赤い糸の傷が、レギスの記録術式に反応している。


 彼の周囲には、薄い灰色の魔力がある。


 攻撃的ではない。


 だが、記録の匂いがした。


 帳簿。


 封緘。


 照合。


 回収。


 それらの気配に、魂糸が勝手に警戒する。


 ノアは喉を押さえ、低く言った。


「レギスさん」


「はい」


「あなた個人が、俺を害するつもりで来たわけじゃないのは分かる」


 レギスは何も言わない。


「でも、あなたが持ってる記録は信用できない。俺を回収対象にして、赤い糸を不正扱いして、本人意思を後回しにする記録だ」


「記録は照合により修正可能です」


「その照合の前提が汚染されてたら?」


 レギスの目が、少しだけ細くなる。


「証拠を提示してください」


 ノアは、掠れた声で笑った。


「その証拠を持ってる俺を連れて行こうとしてる人に言われると、だいぶ困るな」


 レギスは淡々と答える。


「魂帳局での保護観察中、証拠提出は可能です」


「行ったら赤い糸を切られる可能性がある」


「正式手続きなしに伴侶契約を切断することはありません」


 レオの声が鋭くなる。


「昨夜、切断申請が出ました」


「記録空間内の自動処理です。現実での正式処理とは異なります」


「同じ魂に傷が残っています」


 レオの赤い糸が震える。


 ノアの胸が鈍く痛んだ。


 レギスは、ほんのわずかに視線をノアの首元へ向けた。


 伴侶首輪の灰色の切断痕。


 その存在を、彼も認識している。


「切断痕は確認しています。だからこそ、魂帳局での処置が必要です」


 ノアは低く言った。


「切った側の処置、怖すぎるだろ」


「切断処理の正当性を確認します」


「正当性じゃなくて、まず謝罪とかないんですかね」


 レギスは沈黙した。


 ノアは肩をすくめる。


 喉が痛んで、その動作だけでも少し息が詰まった。


 レオがすぐに横から見る。


 確認しようとした。


 ノアは先に言う。


「今は後」


 レオは止まった。


 不満そうに。


 だが止まった。


 セドリックが、低く口を開く。


「学院は、現時点でノア・クロウの引き渡しを認めない」


 レギスはセドリックを見る。


「魂帳局の令状があります」


「提示しろ」


 レギスは、外套の内側から一枚の書状を取り出した。


 紙ではない。


 灰色の薄い板のようなものだった。


 だが、表面には帳簿紙の繊維が走り、魂帳局の封緘印が押されている。結界越しに差し出されると、学院の防護術式が低く唸った。


 令状。


 その灰色の書面には、転生者ノア・クロウの任意同行、保護観察、記録照合、伴侶契約干渉の調査、といった項目が整然と並んでいた。


 整っている。


 だからこそ、気味が悪い。


 ノアは、そこにある署名欄を見た。


 魂帳局長代理。


 その下の名前欄は、黒く塗り潰されている。


 塗り潰しは雑ではない。


 公式な秘匿処理のように、完全に黒い帯で覆われていた。


 だが、その黒の下。


 わずかに浮いた筆跡の癖が見える。


 古代文字。


 円環のように始まり、蛇の尾のように終わる一文字。


 O。


 ノアの伴侶首輪が、冷たく疼いた。


 セドリックの目が鋭くなる。


 レオの赤い糸が、静かに張り詰めた。


 レギスは、灰色の令状を差し出したまま言った。


「魂帳局長代理の署名です」


 黒く塗り潰された名前欄の下で、古い「O」の文字だけが、薄く浮かんでいた。



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