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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第六章【魂帳局と転生者狩り】

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第111話 灰色の切断痕


 夜明け前の寮部屋は、冷えきっていた。


 窓の外はまだ暗い。


 学院の尖塔も、中庭の樹影も、青黒い夜の底に沈んでいる。灯りの落ちた廊下は静かで、遠くの階段を軋ませる音さえしない。世界そのものが息を潜めているようだった。


 その静けさの中で、ノア・クロウの呼吸だけが乱れていた。


 寝台の上。


 ノアは仰向けに倒れたまま、しばらく目を開けられなかった。


 喉が痛い。


 痛い、という言葉では足りない。


 焼けている。


 裂けている。


 魂の奥から無理やり獣の咆哮を引きずり出されたあと、喉の内側に黒い灰と血の味だけが残っている。息を吸うたび、気管がひきつった。吐くたび、掠れた音が唇の間から漏れる。


 身体は重かった。


 四肢は自分のものではないように鈍い。指先にはまだ痙攣の名残があり、時折、勝手に小さく跳ねる。背中には大きく反った時の痛みが残り、腹の奥は吐き気の余韻で冷えていた。魔力回路は乱れ、魂糸はざらざらとした違和感を抱えている。


 そして、首。


 伴侶首輪《メイト・カラー》が、まだ熱を持っていた。


 白い花紋の上を横切るように、灰色の線が残っている。


 切断痕。


 魂帳局の灰色の文字鎖が、赤い糸を切ろうとした痕だった。


 赤い糸は、切れていない。


 まだ繋がっている。


 だが、細く裂けたように震えていた。いつものようにまっすぐで、鮮やかな赤ではない。途中に灰色の傷が入り、そこから冷たい光が滲んでいる。糸が揺れるたび、胸の奥に鈍い痛みが走った。


 ノアは、息を吸おうとして、失敗した。


「っ……」


 喉が鳴る。


 声にはならない。


 隣で、レオ・アステルレインがすぐに動いた。


 レオもひどい顔をしていた。


 金髪は乱れ、青い瞳の下には疲労の影が濃い。夢の記録空間から弾き出された反動で、彼の魔力もかなり削られているはずだった。胸元を押さえた指先には、まだ細い震えが残っている。赤い糸を切られかけた感覚は、レオの魂にも傷を残していた。


 それでも、彼は自分の疲労を見ない。


 ノアだけを見ていた。


「ノア・クロウ」


 まず名を呼ぶ。


 重いが、今は必要な重さだった。


「ノア。聞こえる?」


 ノアは、まばたきを一度だけ返した。


 声は出せない。


 出そうとすると、喉がひきつり、血泡の味が戻ってくる。


 レオは水差しへ手を伸ばしたが、すぐには飲ませなかった。


 判断が早い。


 ノアの喉が震えている。今、水を流し込めばむせる。だから、レオは指先に白金の魔力を薄く集め、まずノアの喉元へ手をかざした。


「触れる。喉の外側だけ」


 ノアは、かすかに目を動かした。


 許可の代わりだった。


 レオの手が、首輪に触れないぎりぎりの位置で止まる。


 白金の魔力が、薄い膜のように広がった。熱を奪いすぎず、傷を塞ぎすぎず、喉の表面から奥へゆっくりと染みていく。裂けた声帯を無理に戻すのではなく、痙攣した魔力回路を先に鎮める。黒い魔力の残滓を押し込めず、少しずつ吐き出させる。


 ノアの唇の端に残っていた血泡を、レオが布で拭った。


 手つきはひどく慎重だった。


 官能も、甘さもない。


 救護だった。


 壊れかけた身体を、これ以上壊さないための手順。


 次に、レオはノアの肩へ毛布を掛けた。身体を冷やさないよう、胸元から膝まで包む。失われた体温を戻すため、白金の魔力を直接流し込まず、毛布の内側の空気だけを温めた。


 ノアはようやく、細く息を吐いた。


 掠れた音だけが出る。


「……や……くしょ……」


 レオが顔を寄せる。


「喋らなくていい」


「……ぼう……りょく、てき……すぎ、ない……?」


 声は、ほとんど声になっていなかった。


 紙を焼いたあとの灰を擦るような音だった。


 それでも、言った。


 ノアは言わずにいられなかった。


 役所。


 窓口。


 帳簿。


 番号札。


 記録。


 本人意思は照合完了後。


 伴侶契約、切断申請。


 そのすべてが、まだ喉の奥に灰色の棘として残っている。


 レオは、ノアの手を握ったまま答えた。


「切らせない」


 声が低かった。


 静かだが、底がない。


 ノアは目だけを動かして、レオを見た。


「……そこは、分かった。顔が怖い」


 レオは答えない。


 否定もしない。


 赤い糸の切断痕を見ている。


 灰色の傷。


 切れていない。


 だが、切られかけた。


 その事実が、レオを静かに壊しかけていた。


 ノアには分かった。


 レオの中で、また檻が組み上がろうとしている。


 部屋から出したくない。


 学院の誰にも会わせたくない。


 魂帳局どころか、廊下にも、教室にも、研究室にも、窓の外にも出したくない。


 赤い糸を傷つけるものすべてから遠ざけたい。


 ノアを抱えて、閉じ込めて、外の記録も儀礼も帳簿も声も、全部遮断したい。


 その顔だった。


 ノアは、掠れた声で言った。


「お前、今、俺を部屋から一歩も出さない顔してる」


 レオの指が、ぴくりと動いた。


 誤魔化さない。


 青い瞳が、ノアを見る。


「出したくない」


「正直でよろしい。最悪だけど」


「出したくない」


「二回言うな。怖さが増す」


「魂帳局が君を切ろうとした」


「されたな」


「君の意思を後回しにした」


「されたな」


「赤い糸を不正だと言った」


「言われたな」


「だから、出したくない」


 ノアは、喉の痛みに耐えながら、小さく息を吐いた。


 笑えない。


 今は、いつものように軽く笑えない。


 だが、言わなければならないことは分かっていた。


「隠れてたら、また勝手に処理される」


 レオの表情が強張る。


「でも」


「魂帳局と戦うなら、情報が要る。学院側の助けも、現実世界の調査も要る。セドリック先生に見せる。ラシェルにも、必要なら確認する。魂帳局の記録と、実際の術式を照合する」


「君が動ける状態じゃない」


「今すぐ走るって言ってない」


 ノアは、ゆっくりまばたきした。


 視界がまだ少し霞む。


 瞳の奥が熱い。


 重度反応後の疲労で、思考の端が鈍っている。


 それでも、意識は折れていなかった。


「でも、隠れるのは違う」


 レオは黙った。


 赤い糸が震える。


 防御的に。


 傷ついた部分を庇うように。


 ノアは、動かしにくい指をわずかに曲げた。


 レオの手の中で、指先がほんの少し動く。


「レオ」


「何?」


「確認、過剰になるなよ」


 レオは沈黙した。


 もうなっている自覚はあるらしい。


 ノアは続ける。


「名前呼ぶのは助かる。糸の確認も、今は必要。でも、俺を確認物にするな」


 レオの目が揺れた。


「確認物」


「帳簿にやられて一番腹立ったところ、お前が真似するな」


 その言葉は、レオに刺さった。


 青い瞳が、痛むように伏せられる。


「……分かった」


「本当に?」


「努力する」


「そこは約束しろよ」


 レオは、ノアの手を握る力を少し緩めた。


 離しはしない。


 だが、握り潰すような強さではなくなる。


「約束する」


 ノアは、目を閉じた。


「よし」


 それだけ言うのにも、喉が痛かった。


 レオはようやく、水杯を取った。


 今度は飲ませるのではなく、布に少し含ませ、ノアの唇を湿らせる。次に、ごく少量だけ、口に含ませる。


「飲み込まなくていい。湿らせるだけ」


 ノアは、舌の上に水を受けた。


 冷たい。


 喉が反射的にひきつる。


 レオがすぐに喉元へ魔力を添える。


 水がゆっくり落ちた。


 痛い。


 だが、飲めた。


 レオの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。


 そのあと、彼は魔力回路の調整に移った。


 まず、胸元。


 次に腹部。


 それから手首。


 ノアの黒魔力が暴れている箇所を、白金の魔力で押さえつけないよう、周囲に道を作る。黒い魔力を敵として消すのではなく、乱れた流れを元の場所へ戻す。セドリックが何度も叩き込んだ手順だった。


 レオの指先は、慎重だった。


 過保護ではある。


 だが、雑ではない。


 ノアの身体を所有物として扱わないように、ひとつひとつ許可を確認する。


「胸元、触れる」


 ノアがまばたきする。


「腹部、魔力だけ通す」


 ノアが指先で返す。


「首輪、外側だけ。切断痕には直接触れない」


 ノアが、かすかに息を吐く。


 許可。


 レオはそのたびに、手順を守った。


 伴侶首輪の熱は、少しずつ下がっていく。


 だが、灰色の切断痕は消えない。


 消そうとすれば、証拠も消える。


 それに、無理に消せる傷ではなかった。


 魂帳局の記録術式が残した痕だ。


 白金の治癒魔法だけでは塞げない。


 レオは赤い糸へ手を伸ばした。


 目に見える糸ではない。


 けれど、伴侶契約の感覚を辿れば、そこにある。


 赤い糸の途中に、細い灰色の裂け目。


 レオはそこへ、白金の魔力を直に流そうとして、止まった。


 ノアが薄く目を開ける。


「今、塞ごうとしただろ」


「応急処置」


「証拠消すなよ」


「消さない。裂け目を広げないだけ」


「ならよし」


 レオは慎重に、赤い糸の傷の周囲へ薄い魔力を巻いた。


 包帯のように。


 糸そのものを塗り潰さず、灰色の切断痕を隠さず、ただこれ以上裂けないよう固定する。


 赤い糸が、小さく震えた。


 ノアの胸の違和感が、少しだけ和らぐ。


「……まし」


 レオがすぐに顔を上げる。


「痛みは?」


「ある。でも、さっきよりはまし」


「苦しい?」


「苦しい」


 レオの顔が歪む。


 ノアは掠れた声で続けた。


「でも、生きてる。切れてない」


 その言葉に、レオの目が揺れた。


 赤い糸が震える。


 今にも、何かを言いそうだった。


 謝罪か。


 懺悔か。


 閉じ込めたいという告白か。


 全部かもしれない。


 ノアは先に言った。


「今、重いこと言うな。喉が反論できない」


 レオは口を閉じた。


 しばらく沈黙する。


 それから、静かに言った。


「ノア・クロウ」


「それはいい」


「ノア・クロウ」


「二回目」


「ノア・クロウ」


「三回目。過剰」


「……ごめん」


「分かればよろしい」


 それでも、首輪は少し安定した。


 魂糸の揺れも、ほんの少し落ち着く。


 ノアは文句を言いながら、それを分かっていた。


 レオも分かっている。


 だから厄介なのだ。


 必要と過剰の境目が、今はひどく細い。


 レオは、枕元の櫛を取った。


「髪、梳いていい?」


 ノアは少しだけ目を細めた。


 こんな状態で髪か、と言いたかった。


 だが、髪を梳く行為は、レオにとっても、ノアにとっても、現世へ戻るための手順になっていた。夢の中で名を呼ぶのと同じように。記憶に引かれた身体を、日常の動作で引き戻す。


 ノアは小さく頷いた。


 レオは、乱れた黒髪に櫛を通した。


 ゆっくり。


 引っかけないように。


 額に張りついた冷や汗を布で拭い、首元の熱を避けながら髪を整える。


 ノアの呼吸が、少しだけ深くなった。


 部屋の空気が、ほんのわずかに現実のものへ戻る。


 水。


 毛布。


 喉の治癒。


 魔力回路。


 髪を梳く音。


 レオの声。


 赤い糸。


 灰色の切断痕は残っている。


 それでも、ここは魂帳局ではない。


 寮部屋だ。


 ノア・クロウが、今生きている部屋。


 やがて、扉の外に気配がした。


 乱暴ではない。


 だが、迷いもない。


 控えめなノックのあと、セドリック・バロウズが入ってきた。


 寝間着ではない。


 すでに研究室の外套を羽織っている。おそらく、監視陣の異常を見てすぐに来たのだろう。顔色はいつもより悪いが、目は冴えていた。


 セドリックは部屋に入るなり、ノアを見た。


 次に、赤い糸を見た。


 正確には、普通の人間には見えないはずの、伴侶契約の傷を見た。


 彼の眉が、わずかに動く。


「動くな」


 ノアは掠れた声で言った。


「……動けません」


「なら黙っていろ」


「喉に優しい命令ですね」


「軽口を叩くな。喉が死ぬ」


「もう半分死んでます」


 レオが低く言う。


「ノア」


「はいはい」


 セドリックは近づき、首輪の灰色の切断痕を確認した。


 直接触れない。


 観測用の黒魔法陣を指先に展開し、傷の周囲に漂う灰色の構文だけを拾い上げる。


 彼の顔が、さらに険しくなった。


「魂帳局式だ」


 レオの手が強張る。


 セドリックは続ける。


「だが、純粋な局内処理ではない。切断命令の署名が通常職員のものではない」


 ノアは薄く目を開けた。


「代理処理、ですか」


 セドリックがノアを見る。


「そうだ。オルドレイス代理に近い」


 部屋の空気が冷えた。


 ノアの首輪が、わずかに疼く。


 レオがすぐに呼ぶ。


「ノア・クロウ」


 首輪の反応が落ち着く。


 セドリックは、赤い糸の傷を観測しながら言った。


「切断は完了していない。だが、未遂では終わっていない。痕が残っている以上、向こうは君たちの伴侶契約を不正固定として処理対象にした」


 ノアは喉の奥で低く笑った。


 ひどく掠れた音だった。


「嫌な認定ですね」


「笑うな」


「笑ってません。たぶん」


 セドリックは視線を鋭くした。


「魂帳局の実働部隊が来るかもしれない」


 沈黙が落ちた。


 ノアは、目を細める。


 喉は痛い。


 身体は重い。


 首輪は熱い。


 赤い糸は裂けたように震えている。


 それでも、その言葉には反応せざるを得なかった。


 ノアは掠れ声で返した。


「実働部隊? 役所に武闘派がいるのかよ」




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