第111話 灰色の切断痕
夜明け前の寮部屋は、冷えきっていた。
窓の外はまだ暗い。
学院の尖塔も、中庭の樹影も、青黒い夜の底に沈んでいる。灯りの落ちた廊下は静かで、遠くの階段を軋ませる音さえしない。世界そのものが息を潜めているようだった。
その静けさの中で、ノア・クロウの呼吸だけが乱れていた。
寝台の上。
ノアは仰向けに倒れたまま、しばらく目を開けられなかった。
喉が痛い。
痛い、という言葉では足りない。
焼けている。
裂けている。
魂の奥から無理やり獣の咆哮を引きずり出されたあと、喉の内側に黒い灰と血の味だけが残っている。息を吸うたび、気管がひきつった。吐くたび、掠れた音が唇の間から漏れる。
身体は重かった。
四肢は自分のものではないように鈍い。指先にはまだ痙攣の名残があり、時折、勝手に小さく跳ねる。背中には大きく反った時の痛みが残り、腹の奥は吐き気の余韻で冷えていた。魔力回路は乱れ、魂糸はざらざらとした違和感を抱えている。
そして、首。
伴侶首輪が、まだ熱を持っていた。
白い花紋の上を横切るように、灰色の線が残っている。
切断痕。
魂帳局の灰色の文字鎖が、赤い糸を切ろうとした痕だった。
赤い糸は、切れていない。
まだ繋がっている。
だが、細く裂けたように震えていた。いつものようにまっすぐで、鮮やかな赤ではない。途中に灰色の傷が入り、そこから冷たい光が滲んでいる。糸が揺れるたび、胸の奥に鈍い痛みが走った。
ノアは、息を吸おうとして、失敗した。
「っ……」
喉が鳴る。
声にはならない。
隣で、レオ・アステルレインがすぐに動いた。
レオもひどい顔をしていた。
金髪は乱れ、青い瞳の下には疲労の影が濃い。夢の記録空間から弾き出された反動で、彼の魔力もかなり削られているはずだった。胸元を押さえた指先には、まだ細い震えが残っている。赤い糸を切られかけた感覚は、レオの魂にも傷を残していた。
それでも、彼は自分の疲労を見ない。
ノアだけを見ていた。
「ノア・クロウ」
まず名を呼ぶ。
重いが、今は必要な重さだった。
「ノア。聞こえる?」
ノアは、まばたきを一度だけ返した。
声は出せない。
出そうとすると、喉がひきつり、血泡の味が戻ってくる。
レオは水差しへ手を伸ばしたが、すぐには飲ませなかった。
判断が早い。
ノアの喉が震えている。今、水を流し込めばむせる。だから、レオは指先に白金の魔力を薄く集め、まずノアの喉元へ手をかざした。
「触れる。喉の外側だけ」
ノアは、かすかに目を動かした。
許可の代わりだった。
レオの手が、首輪に触れないぎりぎりの位置で止まる。
白金の魔力が、薄い膜のように広がった。熱を奪いすぎず、傷を塞ぎすぎず、喉の表面から奥へゆっくりと染みていく。裂けた声帯を無理に戻すのではなく、痙攣した魔力回路を先に鎮める。黒い魔力の残滓を押し込めず、少しずつ吐き出させる。
ノアの唇の端に残っていた血泡を、レオが布で拭った。
手つきはひどく慎重だった。
官能も、甘さもない。
救護だった。
壊れかけた身体を、これ以上壊さないための手順。
次に、レオはノアの肩へ毛布を掛けた。身体を冷やさないよう、胸元から膝まで包む。失われた体温を戻すため、白金の魔力を直接流し込まず、毛布の内側の空気だけを温めた。
ノアはようやく、細く息を吐いた。
掠れた音だけが出る。
「……や……くしょ……」
レオが顔を寄せる。
「喋らなくていい」
「……ぼう……りょく、てき……すぎ、ない……?」
声は、ほとんど声になっていなかった。
紙を焼いたあとの灰を擦るような音だった。
それでも、言った。
ノアは言わずにいられなかった。
役所。
窓口。
帳簿。
番号札。
記録。
本人意思は照合完了後。
伴侶契約、切断申請。
そのすべてが、まだ喉の奥に灰色の棘として残っている。
レオは、ノアの手を握ったまま答えた。
「切らせない」
声が低かった。
静かだが、底がない。
ノアは目だけを動かして、レオを見た。
「……そこは、分かった。顔が怖い」
レオは答えない。
否定もしない。
赤い糸の切断痕を見ている。
灰色の傷。
切れていない。
だが、切られかけた。
その事実が、レオを静かに壊しかけていた。
ノアには分かった。
レオの中で、また檻が組み上がろうとしている。
部屋から出したくない。
学院の誰にも会わせたくない。
魂帳局どころか、廊下にも、教室にも、研究室にも、窓の外にも出したくない。
赤い糸を傷つけるものすべてから遠ざけたい。
ノアを抱えて、閉じ込めて、外の記録も儀礼も帳簿も声も、全部遮断したい。
その顔だった。
ノアは、掠れた声で言った。
「お前、今、俺を部屋から一歩も出さない顔してる」
レオの指が、ぴくりと動いた。
誤魔化さない。
青い瞳が、ノアを見る。
「出したくない」
「正直でよろしい。最悪だけど」
「出したくない」
「二回言うな。怖さが増す」
「魂帳局が君を切ろうとした」
「されたな」
「君の意思を後回しにした」
「されたな」
「赤い糸を不正だと言った」
「言われたな」
「だから、出したくない」
ノアは、喉の痛みに耐えながら、小さく息を吐いた。
笑えない。
今は、いつものように軽く笑えない。
だが、言わなければならないことは分かっていた。
「隠れてたら、また勝手に処理される」
レオの表情が強張る。
「でも」
「魂帳局と戦うなら、情報が要る。学院側の助けも、現実世界の調査も要る。セドリック先生に見せる。ラシェルにも、必要なら確認する。魂帳局の記録と、実際の術式を照合する」
「君が動ける状態じゃない」
「今すぐ走るって言ってない」
ノアは、ゆっくりまばたきした。
視界がまだ少し霞む。
瞳の奥が熱い。
重度反応後の疲労で、思考の端が鈍っている。
それでも、意識は折れていなかった。
「でも、隠れるのは違う」
レオは黙った。
赤い糸が震える。
防御的に。
傷ついた部分を庇うように。
ノアは、動かしにくい指をわずかに曲げた。
レオの手の中で、指先がほんの少し動く。
「レオ」
「何?」
「確認、過剰になるなよ」
レオは沈黙した。
もうなっている自覚はあるらしい。
ノアは続ける。
「名前呼ぶのは助かる。糸の確認も、今は必要。でも、俺を確認物にするな」
レオの目が揺れた。
「確認物」
「帳簿にやられて一番腹立ったところ、お前が真似するな」
その言葉は、レオに刺さった。
青い瞳が、痛むように伏せられる。
「……分かった」
「本当に?」
「努力する」
「そこは約束しろよ」
レオは、ノアの手を握る力を少し緩めた。
離しはしない。
だが、握り潰すような強さではなくなる。
「約束する」
ノアは、目を閉じた。
「よし」
それだけ言うのにも、喉が痛かった。
レオはようやく、水杯を取った。
今度は飲ませるのではなく、布に少し含ませ、ノアの唇を湿らせる。次に、ごく少量だけ、口に含ませる。
「飲み込まなくていい。湿らせるだけ」
ノアは、舌の上に水を受けた。
冷たい。
喉が反射的にひきつる。
レオがすぐに喉元へ魔力を添える。
水がゆっくり落ちた。
痛い。
だが、飲めた。
レオの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
そのあと、彼は魔力回路の調整に移った。
まず、胸元。
次に腹部。
それから手首。
ノアの黒魔力が暴れている箇所を、白金の魔力で押さえつけないよう、周囲に道を作る。黒い魔力を敵として消すのではなく、乱れた流れを元の場所へ戻す。セドリックが何度も叩き込んだ手順だった。
レオの指先は、慎重だった。
過保護ではある。
だが、雑ではない。
ノアの身体を所有物として扱わないように、ひとつひとつ許可を確認する。
「胸元、触れる」
ノアがまばたきする。
「腹部、魔力だけ通す」
ノアが指先で返す。
「首輪、外側だけ。切断痕には直接触れない」
ノアが、かすかに息を吐く。
許可。
レオはそのたびに、手順を守った。
伴侶首輪の熱は、少しずつ下がっていく。
だが、灰色の切断痕は消えない。
消そうとすれば、証拠も消える。
それに、無理に消せる傷ではなかった。
魂帳局の記録術式が残した痕だ。
白金の治癒魔法だけでは塞げない。
レオは赤い糸へ手を伸ばした。
目に見える糸ではない。
けれど、伴侶契約の感覚を辿れば、そこにある。
赤い糸の途中に、細い灰色の裂け目。
レオはそこへ、白金の魔力を直に流そうとして、止まった。
ノアが薄く目を開ける。
「今、塞ごうとしただろ」
「応急処置」
「証拠消すなよ」
「消さない。裂け目を広げないだけ」
「ならよし」
レオは慎重に、赤い糸の傷の周囲へ薄い魔力を巻いた。
包帯のように。
糸そのものを塗り潰さず、灰色の切断痕を隠さず、ただこれ以上裂けないよう固定する。
赤い糸が、小さく震えた。
ノアの胸の違和感が、少しだけ和らぐ。
「……まし」
レオがすぐに顔を上げる。
「痛みは?」
「ある。でも、さっきよりはまし」
「苦しい?」
「苦しい」
レオの顔が歪む。
ノアは掠れた声で続けた。
「でも、生きてる。切れてない」
その言葉に、レオの目が揺れた。
赤い糸が震える。
今にも、何かを言いそうだった。
謝罪か。
懺悔か。
閉じ込めたいという告白か。
全部かもしれない。
ノアは先に言った。
「今、重いこと言うな。喉が反論できない」
レオは口を閉じた。
しばらく沈黙する。
それから、静かに言った。
「ノア・クロウ」
「それはいい」
「ノア・クロウ」
「二回目」
「ノア・クロウ」
「三回目。過剰」
「……ごめん」
「分かればよろしい」
それでも、首輪は少し安定した。
魂糸の揺れも、ほんの少し落ち着く。
ノアは文句を言いながら、それを分かっていた。
レオも分かっている。
だから厄介なのだ。
必要と過剰の境目が、今はひどく細い。
レオは、枕元の櫛を取った。
「髪、梳いていい?」
ノアは少しだけ目を細めた。
こんな状態で髪か、と言いたかった。
だが、髪を梳く行為は、レオにとっても、ノアにとっても、現世へ戻るための手順になっていた。夢の中で名を呼ぶのと同じように。記憶に引かれた身体を、日常の動作で引き戻す。
ノアは小さく頷いた。
レオは、乱れた黒髪に櫛を通した。
ゆっくり。
引っかけないように。
額に張りついた冷や汗を布で拭い、首元の熱を避けながら髪を整える。
ノアの呼吸が、少しだけ深くなった。
部屋の空気が、ほんのわずかに現実のものへ戻る。
水。
毛布。
喉の治癒。
魔力回路。
髪を梳く音。
レオの声。
赤い糸。
灰色の切断痕は残っている。
それでも、ここは魂帳局ではない。
寮部屋だ。
ノア・クロウが、今生きている部屋。
やがて、扉の外に気配がした。
乱暴ではない。
だが、迷いもない。
控えめなノックのあと、セドリック・バロウズが入ってきた。
寝間着ではない。
すでに研究室の外套を羽織っている。おそらく、監視陣の異常を見てすぐに来たのだろう。顔色はいつもより悪いが、目は冴えていた。
セドリックは部屋に入るなり、ノアを見た。
次に、赤い糸を見た。
正確には、普通の人間には見えないはずの、伴侶契約の傷を見た。
彼の眉が、わずかに動く。
「動くな」
ノアは掠れた声で言った。
「……動けません」
「なら黙っていろ」
「喉に優しい命令ですね」
「軽口を叩くな。喉が死ぬ」
「もう半分死んでます」
レオが低く言う。
「ノア」
「はいはい」
セドリックは近づき、首輪の灰色の切断痕を確認した。
直接触れない。
観測用の黒魔法陣を指先に展開し、傷の周囲に漂う灰色の構文だけを拾い上げる。
彼の顔が、さらに険しくなった。
「魂帳局式だ」
レオの手が強張る。
セドリックは続ける。
「だが、純粋な局内処理ではない。切断命令の署名が通常職員のものではない」
ノアは薄く目を開けた。
「代理処理、ですか」
セドリックがノアを見る。
「そうだ。オルドレイス代理に近い」
部屋の空気が冷えた。
ノアの首輪が、わずかに疼く。
レオがすぐに呼ぶ。
「ノア・クロウ」
首輪の反応が落ち着く。
セドリックは、赤い糸の傷を観測しながら言った。
「切断は完了していない。だが、未遂では終わっていない。痕が残っている以上、向こうは君たちの伴侶契約を不正固定として処理対象にした」
ノアは喉の奥で低く笑った。
ひどく掠れた音だった。
「嫌な認定ですね」
「笑うな」
「笑ってません。たぶん」
セドリックは視線を鋭くした。
「魂帳局の実働部隊が来るかもしれない」
沈黙が落ちた。
ノアは、目を細める。
喉は痛い。
身体は重い。
首輪は熱い。
赤い糸は裂けたように震えている。
それでも、その言葉には反応せざるを得なかった。
ノアは掠れ声で返した。
「実働部隊? 役所に武闘派がいるのかよ」




