第110話 切断申請
職員の声は、最後まで無機質だった。
「伴侶契約、切断申請」
白灰色の受付窓口の向こうで、顔のない職員が帳簿へ白い手袋の指を置く。
その瞬間、開かれた頁の文字が動いた。
記録不一致。
伴侶契約による不正固定。
その二つの記述が灰色の光を帯び、帳簿の紙面から浮き上がる。文字は細く伸び、絡まり、鎖のような形を作った。金属ではない。刃でもない。だが、ノア・クロウには分かった。
これは切るための術式だ。
肉を裂くのではない。
骨を断つのでもない。
魂糸と赤い糸の接続部分へ干渉し、記録上「不正固定」とされた伴侶契約を切り離すための、記録術式。
灰色の文字鎖が、窓口から伸びる。
それは空中を這い、赤い糸へ向かった。
ノアの首元が、灼けた。
「っ……!」
伴侶首輪が、炎を押し当てられたように熱を持つ。白い花紋の縁が黒く染まり、黒い亀裂が一気に疼いた。首輪が締まる。喉の奥が潰れ、息が入らない。
手の甲の照合番号が冷たく疼く。
左の掌の三つの紋が、灰色の文字鎖に呼応して光った。
黒い花。
灰色の帳簿印。
白花派紋。
魂糸が、ぎちりと軋む。
赤い糸が、灰色の鎖に削られた。
火花は出ない。
血も出ない。
けれど、ノアの内側で何かが裂けかけた。
レオ・アステルレインも、同時に胸を押さえた。
青い瞳が見開かれる。
赤い糸を切られかける感覚が、彼の魂を直撃していた。前世の最期。イリアスを討った瞬間。命が絶たれ、糸が途切れ、取り返しのつかない喪失が確定したあの感覚。
それが、現在の赤い糸へ重なる。
レオの声が低く落ちた。
「やめろ」
職員は動じない。
「記録処理を妨げる契約を解除します」
灰色の文字鎖が、さらに赤い糸へ絡む。
ノアの首輪が熱を増した。
喉が潰れる。
声を出そうとして、空気が引っかかる。
それでも、ノアは歯を食いしばり、低く絞り出した。
「誰が、許可した……っ」
職員は、帳簿から目を上げない。
「本人意思は照合完了後に確認されます」
その言葉で、何かが切れた。
赤い糸ではない。
ノアの中の、我慢の方だった。
本人意思は照合完了後。
本人がここにいる。
今、苦しんでいる。
切るなと言っている。
それでも、記録が先。
意思は後。
ノアの赤い瞳の瞳孔が、一気に開いた。
血走った赤が、白灰色の灯りの中で異様に濃く見える。白目を剥きかけ、焦点が揺れた。喉の奥が裂けるように震え、黒い魔力が口元から霧のように漏れ始める。
赤い糸が灰色の文字鎖に削られるたび、ノアの背筋が跳ねた。
四肢が電撃に打たれたように痙攣する。
指先が勝手に曲がり、爪が掌へ食い込む。
膝が崩れ、身体が床へ叩きつけられかける。
レオが抱えようとする。
だが、記録空間の床そのものが灰色の術式でノアを縛るように反応した。
ノアの喉から、獣のような声が出た。
「が、あ゛……っ、あ゛あああああッ!!」
それは悲鳴というより、壊れた咆哮だった。
喉が裂けるような、濁った声。
言葉ではない。
怒りと拒絶と苦痛が、声の形に押し出されている。
「ぐ、あ゛あ゛あああああッ!!」
「があ゛ッ、あ゛、あ゛あああああッ!!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「ぎ、ぃ゛……ッ、あ゛あああああッ!!」
「が、は……ッ、あ゛あ゛あ゛ああッ!!」
「う゛あ゛ああああああッ!!」
「あ゛、あ゛、あ゛あああああッ!!」
「があ゛あ゛あ゛ッ!! あ゛あああッ!!」
「ひゅ、が……ッ、あ゛あ゛あ゛ああッ!!」
「ぐあ゛ッ、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
赤い糸が、また削られる。
灰色の文字鎖が、伴侶契約の接続部へ潜り込もうとした。
ノアの身体が大きく跳ねた。
背筋が弓なりに反り、首輪が灼け、喉から黒い霧と泡混じりの息が漏れる。唇の端に白い泡が滲み、その中に細く赤が混じった。血泡だった。喉の内側が術式の圧に傷つき、叫びと一緒に滲んでいる。
舌がうまく収まらない。
力を失ったように口の端から覗き、言葉にならない声をさらに濁らせる。
「が、あ゛……ッ、あ゛ああああッ!!」
「や、ぁ゛……ッ、あ゛あ゛ああああッ!!」
「ぐ、があ゛あ゛あ゛ッ!!」
「あ゛あ゛ッ、あ゛、あ゛、あ゛ああッ!!」
「がは、っ……あ゛あああああッ!!」
「ぎぃ゛……ッ、あ゛あ゛あああッ!!」
「う゛、あ゛、あ゛ああああああッ!!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「が、あ゛あ゛ッ、あ゛ああああッ!!」
「ひ、ゅ……ッ、があ゛あ゛あ゛ッ!!」
ノアは床に片膝をついた。
いや、ついたというより、痙攣で叩きつけられた。
身体制御が崩れている。
腕が跳ね、指が開き、脚が勝手に震える。致命的な魔力電流を浴びせられたように、筋肉が勝手に収縮し、緩み、また跳ねた。床を蹴る音が、どたん、どたん、と白灰色の空間に響く。
幼いイリアスが、ノアの手を離さずに叫ぶ。
「やめろ!」
その声も、記録空間には届かない。
職員は帳簿を見ている。
ただ、処理を進めている。
本人意思は照合完了後。
記録の整合性が優先。
灰色の文字鎖が、また赤い糸を削った。
ノアの目がぐるりと揺れる。
赤い瞳が血走り、白目が大きく覗く。焦点が消えかける。唇が引きつり、苦痛で顔が歪んだ。その歪みが、一瞬、笑っているように見えた。
だが、笑みではない。
苦痛で表情筋が制御を失っただけだ。
レオは、それを可愛いなどとは思えなかった。
胸が凍った。
怒りが、喉を焼いた。
これを可愛いと思う余地などない。あってはならない。ノアは今、魂を削られている。守るべきなのは、その表情ではなく、ノア本人の意思だった。
レオは赤い糸を握り直した。
所有物を引き戻すためではない。
ノアを自分の檻へ閉じ込めるためでもない。
ノアが切ると言っていない契約を、勝手に切らせないために。
「ノアが切ると言わない限り、切らせない」
その声が、白灰色の空間に響く。
赤い糸が、鈍っていた色を取り戻す。
深い赤。
ノアを現在へ繋ぎ止める色。
レオは続けた。
「これは不正固定じゃない。ノアがノア・クロウでいるための契約だ」
職員は告げる。
「記録処理を妨げています」
「妨げる」
レオの声は震えていた。
怒りと恐怖で。
それでも、言葉は折れない。
「ノアを壊す処理なら、何度でも妨げる」
灰色の文字鎖が、赤い糸と白金の魔力の間で軋んだ。
ノアの叫びが、また爆ぜる。
「が、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「あ゛ああああああッ!! が、あ゛ッ!!」
「ぐ、ぁ゛……ッ、あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「ぎゃ、あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「う゛あ゛ッ、あ゛あああああッ!!」
「が、は……ッ、あ゛あ゛あ゛ああッ!!」
「あ゛あ゛あ゛ッ!! あ゛、あ゛、あ゛ッ!!」
「ぐあ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「ひゅ、ぅ゛……ッ、があ゛あああッ!!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
泡が唇に溜まる。
血の混じった泡が、顎へ伝いかける。
黒い霧がその上から漏れ、白灰色の床へ落ちる前にほどけた。
ノアの腹が大きく痙攣した。
吐き気が込み上げ、身体が折れる。
胃の中身はほとんどない。
それでも、魔法的限界反応で身体は排出しようとする。喉が締まり、胸がえぐれるように震え、苦い液が少しだけ唇を濡らした。レオが手を伸ばすが、灰色の術式が邪魔をする。
ノアの身体は、さらに制御を失った。
下腹部に力が入らなくなる。
夢の中なのに、現実の身体まで引きずられる感覚がある。衣服の下で、冷たい失禁の感覚が広がった。魔法的限界反応による制御喪失。恥も嫌悪も処理する余裕がない。魂が裂けかけている時、身体はただ限界を超えて壊れる。
ノアの喉から、言葉にならない拒絶が漏れた。
「が、あ゛……ッ、い、や゛……ッ!!」
すぐに声は崩れる。
「あ゛あ゛あああああッ!!」
「ぐ、あ゛ッ、あ゛あ゛あ゛ああッ!!」
「ぎぃ゛、あ゛、あ゛あああッ!!」
「があ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「う゛あ゛あ゛あ゛ッ、あ゛ああッ!!」
「あ゛、あ゛、あ゛あああああッ!!」
「が、がは……ッ、あ゛ああああッ!!」
「ひゅ、が……ッ、あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「ぐあ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!! あ゛あああッ!!」
レオが歯を食いしばる。
赤い糸を握る手が震えている。
喪失恐怖が、最大まで膨れ上がっていた。
切られる。
また失う。
前世で一度、イリアスを失った。
自分の手で失わせた。
今度は記録の名で、帳簿の処理で、ノア・クロウを切り離されようとしている。
本当は閉じ込めたい。
ノアを抱え込み、誰にも見せず、どんな記録からも遠ざけ、赤い糸でぐるぐるに縛って自分の腕の中だけへ戻したい。
だが、それをすれば、同じだ。
本人意思を後回しにした魂帳局と、同じ場所へ落ちる。
レオは、赤い糸を強く握り直した。
所有ではなく、支柱として。
「ノア・クロウ!」
その名が、灰色の鎖を揺らす。
ノアの白目がちな赤い瞳が、一瞬だけレオを探した。
焦点は合わない。
瞳孔は開ききっている。
血走った目が苦痛で揺れ、舌が収まりきらず、血泡混じりの息が唇に滲む。
それでも、ノアは反応した。
喉の奥で、潰れた声が出る。
「の、ぁ゛……ッ、あ゛……ッ」
自分の名に触れようとしたのだ。
だが、文字鎖が赤い糸をさらに削った。
ノアの身体が激しく跳ねる。
「が、あ゛あ゛あ゛ああああッ!!」
「あ゛ッ、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「ぐ、ぎぃ゛……ッ、あ゛あああッ!!」
「があ゛ッ、あ゛あああああッ!!」
「あ゛あ゛あ゛ッ!! や゛、あ゛あああッ!!」
「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「が、はッ、あ゛あ゛あああッ!!」
「ひゅ、ぅ゛……ッ、あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「ぐあ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「あ゛ああああああッ!!」
幼いイリアスが、ノアの手を握った。
小さな手が震えている。
彼もまた、切られる感覚を知っている。
置いていかれることを知っている。
赤い糸が切られれば、ノアは現世から引き剥がされる。イリアスの記録へ戻される。だが、それはイリアスの救済でもない。ただ、帳簿の中へ押し込められるだけだ。
幼いイリアスは、灰色の文字鎖を睨んだ。
「切るな」
声は小さい。
けれど、ノアの魂糸の奥に届いた。
「俺を使って、ノアを消すな」
黒い棺の奥で、何かが震えた。
記憶の棺。
父王の背中。
黒魔導書の囁き。
壊したもの。
罪。
それらを抱えた幼いイリアスが、今、ノア・クロウを消すなと言っている。
ノアの喉が、また大きく震えた。
「が、あ゛……ッ」
今度の声には、怒りが混じっていた。
血泡に濡れた唇が、震える。
舌がうまく動かない。
言葉にはならない。
それでも、拒絶の形が生まれる。
「が、あ゛……ッ、き、る、な゛……ッ」
職員は言う。
「本人意思は照合完了後に確認されます」
ノアの瞳が、血走ったまま見開かれる。
首輪が灼ける。
だが、その熱の奥で、黒い亀裂が逆に赤く光った。
拒絶。
本人意思を後回しにする記録への、明確な拒絶。
ノアは、床に爪を立てた。
指先が痙攣してうまく動かない。
それでも、掻きむしるように床を掴む。
口元から黒い霧と血泡が漏れる。
舌が力なく垂れかけ、言葉が濁る。
それでも、喉の奥から声を絞る。
「だ、れ、が……っ、ゆ、る、し、た゛……ッ」
灰色の文字鎖が揺らいだ。
職員の羽ペンが止まる。
ノアはさらに叫ぶ。
「が、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!! ゆ、る、し、て、ね゛ぇ……ッ!!」
その瞬間、赤い糸が激しく光った。
レオが叫ぶ。
「ノアが切ると言わない限り、切らせない!」
ノアの喉から、最後の咆哮が上がる。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「があ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「ぐあ゛ッ、あ゛あああああッ!!」
「ぎゃあ゛あ゛あ゛ッ!!」
「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛ッ、あ゛あああッ!!」
「が、あ゛……ッ、あ゛ああああッ!!」
「ひゅ、が……ッ、あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「ぐ、ぅ゛……ッ、あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「あ゛あああああああッ!!」
灰色の文字鎖が、弾けた。
完全に砕けたわけではない。
だが、赤い糸を切る寸前で止まった。
伴侶契約の接続部に、灰色の傷が残る。
ノアの首輪にも、同じ灰色の切断痕が走った。
職員の帳簿が大きく震える。
「切断処理、中断」
その声が響いた瞬間、白灰色の空間が歪んだ。
窓口が遠ざかる。
帳簿棚が傾く。
羽ペンの音が途切れる。
ノアの身体が、赤い糸ごと夢から弾き出される。
落ちる。
引き戻される。
現実へ。
寮部屋の寝台で、ノアの身体が大きく跳ねた。
喉から壊れた息が漏れる。
瞳孔は開き、赤い瞳は血走っている。白目を剥きかけたまま、焦点が合わない。唇には血の混じった泡が残り、黒い魔力が薄い霧となって口元から消えていく。身体はまだ大きく痙攣していた。腕が跳ね、脚が震え、指先が硬直し、背筋が断続的に跳ねる。
レオも同時に現実へ戻っていた。
椅子から崩れ落ちるように身を乗り出し、ノアの手を握り直す。
強くしすぎない。
折らない。
縛らない。
それでも、離さない。
「ノア・クロウ」
レオの声は震えていた。
「ノア。ノア・クロウ。戻って。ここにいる」
ノアは答えられない。
喉が潰れている。
舌がうまく収まらず、血泡混じりの息が漏れるばかりだった。
レオは水へ手を伸ばしかけ、すぐに止める。
今は飲ませられない。
喉が震えすぎている。
まず呼吸。
首輪。
魔力回路。
身体を冷やさないこと。
救護の手順が、恐怖の中でぎりぎり組み上がる。
だが、処置は次の瞬間へ回された。
ノアの首元に、灰色の線が浮かんだからだ。
伴侶首輪の白い花紋を横切るように、細い切断痕が残っている。
灰色の傷。
赤い糸は切れていない。
まだ繋がっている。
けれど、糸の一部が細く裂けたように震えていた。
レオは、それを見たまま息を止めた。




