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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第六章【魂帳局と転生者狩り】

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第110話 切断申請



 職員の声は、最後まで無機質だった。


「伴侶契約、切断申請」


 白灰色の受付窓口の向こうで、顔のない職員が帳簿へ白い手袋の指を置く。


 その瞬間、開かれた頁の文字が動いた。


 記録不一致。


 伴侶契約による不正固定。


 その二つの記述が灰色の光を帯び、帳簿の紙面から浮き上がる。文字は細く伸び、絡まり、鎖のような形を作った。金属ではない。刃でもない。だが、ノア・クロウには分かった。


 これは切るための術式だ。


 肉を裂くのではない。


 骨を断つのでもない。


 魂糸と赤い糸の接続部分へ干渉し、記録上「不正固定」とされた伴侶契約を切り離すための、記録術式。


 灰色の文字鎖が、窓口から伸びる。


 それは空中を這い、赤い糸へ向かった。


 ノアの首元が、灼けた。


「っ……!」


 伴侶首輪《メイト・カラー》が、炎を押し当てられたように熱を持つ。白い花紋の縁が黒く染まり、黒い亀裂が一気に疼いた。首輪が締まる。喉の奥が潰れ、息が入らない。


 手の甲の照合番号が冷たく疼く。


 左の掌の三つの紋が、灰色の文字鎖に呼応して光った。


 黒い花。


 灰色の帳簿印。


 白花派紋。


 魂糸が、ぎちりと軋む。


 赤い糸が、灰色の鎖に削られた。


 火花は出ない。


 血も出ない。


 けれど、ノアの内側で何かが裂けかけた。


 レオ・アステルレインも、同時に胸を押さえた。


 青い瞳が見開かれる。


 赤い糸を切られかける感覚が、彼の魂を直撃していた。前世の最期。イリアスを討った瞬間。命が絶たれ、糸が途切れ、取り返しのつかない喪失が確定したあの感覚。


 それが、現在の赤い糸へ重なる。


 レオの声が低く落ちた。


「やめろ」


 職員は動じない。


「記録処理を妨げる契約を解除します」


 灰色の文字鎖が、さらに赤い糸へ絡む。


 ノアの首輪が熱を増した。


 喉が潰れる。


 声を出そうとして、空気が引っかかる。


 それでも、ノアは歯を食いしばり、低く絞り出した。


「誰が、許可した……っ」


 職員は、帳簿から目を上げない。


「本人意思は照合完了後に確認されます」


 その言葉で、何かが切れた。


 赤い糸ではない。


 ノアの中の、我慢の方だった。


 本人意思は照合完了後。


 本人がここにいる。


 今、苦しんでいる。


 切るなと言っている。


 それでも、記録が先。


 意思は後。


 ノアの赤い瞳の瞳孔が、一気に開いた。


 血走った赤が、白灰色の灯りの中で異様に濃く見える。白目を剥きかけ、焦点が揺れた。喉の奥が裂けるように震え、黒い魔力が口元から霧のように漏れ始める。


 赤い糸が灰色の文字鎖に削られるたび、ノアの背筋が跳ねた。


 四肢が電撃に打たれたように痙攣する。


 指先が勝手に曲がり、爪が掌へ食い込む。


 膝が崩れ、身体が床へ叩きつけられかける。


 レオが抱えようとする。


 だが、記録空間の床そのものが灰色の術式でノアを縛るように反応した。


 ノアの喉から、獣のような声が出た。


「が、あ゛……っ、あ゛あああああッ!!」


 それは悲鳴というより、壊れた咆哮だった。


 喉が裂けるような、濁った声。


 言葉ではない。


 怒りと拒絶と苦痛が、声の形に押し出されている。


「ぐ、あ゛あ゛あああああッ!!」


「があ゛ッ、あ゛、あ゛あああああッ!!」


「あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「ぎ、ぃ゛……ッ、あ゛あああああッ!!」


「が、は……ッ、あ゛あ゛あ゛ああッ!!」


「う゛あ゛ああああああッ!!」


「あ゛、あ゛、あ゛あああああッ!!」


「があ゛あ゛あ゛ッ!! あ゛あああッ!!」


「ひゅ、が……ッ、あ゛あ゛あ゛ああッ!!」


「ぐあ゛ッ、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 赤い糸が、また削られる。


 灰色の文字鎖が、伴侶契約の接続部へ潜り込もうとした。


 ノアの身体が大きく跳ねた。


 背筋が弓なりに反り、首輪が灼け、喉から黒い霧と泡混じりの息が漏れる。唇の端に白い泡が滲み、その中に細く赤が混じった。血泡だった。喉の内側が術式の圧に傷つき、叫びと一緒に滲んでいる。


 舌がうまく収まらない。


 力を失ったように口の端から覗き、言葉にならない声をさらに濁らせる。


「が、あ゛……ッ、あ゛ああああッ!!」


「や、ぁ゛……ッ、あ゛あ゛ああああッ!!」


「ぐ、があ゛あ゛あ゛ッ!!」


「あ゛あ゛ッ、あ゛、あ゛、あ゛ああッ!!」


「がは、っ……あ゛あああああッ!!」


「ぎぃ゛……ッ、あ゛あ゛あああッ!!」


「う゛、あ゛、あ゛ああああああッ!!」


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「が、あ゛あ゛ッ、あ゛ああああッ!!」


「ひ、ゅ……ッ、があ゛あ゛あ゛ッ!!」


 ノアは床に片膝をついた。


 いや、ついたというより、痙攣で叩きつけられた。


 身体制御が崩れている。


 腕が跳ね、指が開き、脚が勝手に震える。致命的な魔力電流を浴びせられたように、筋肉が勝手に収縮し、緩み、また跳ねた。床を蹴る音が、どたん、どたん、と白灰色の空間に響く。


 幼いイリアスが、ノアの手を離さずに叫ぶ。


「やめろ!」


 その声も、記録空間には届かない。


 職員は帳簿を見ている。


 ただ、処理を進めている。


 本人意思は照合完了後。


 記録の整合性が優先。


 灰色の文字鎖が、また赤い糸を削った。


 ノアの目がぐるりと揺れる。


 赤い瞳が血走り、白目が大きく覗く。焦点が消えかける。唇が引きつり、苦痛で顔が歪んだ。その歪みが、一瞬、笑っているように見えた。


 だが、笑みではない。


 苦痛で表情筋が制御を失っただけだ。


 レオは、それを可愛いなどとは思えなかった。


 胸が凍った。


 怒りが、喉を焼いた。


 これを可愛いと思う余地などない。あってはならない。ノアは今、魂を削られている。守るべきなのは、その表情ではなく、ノア本人の意思だった。


 レオは赤い糸を握り直した。


 所有物を引き戻すためではない。


 ノアを自分の檻へ閉じ込めるためでもない。


 ノアが切ると言っていない契約を、勝手に切らせないために。


「ノアが切ると言わない限り、切らせない」


 その声が、白灰色の空間に響く。


 赤い糸が、鈍っていた色を取り戻す。


 深い赤。


 ノアを現在へ繋ぎ止める色。


 レオは続けた。


「これは不正固定じゃない。ノアがノア・クロウでいるための契約だ」


 職員は告げる。


「記録処理を妨げています」


「妨げる」


 レオの声は震えていた。


 怒りと恐怖で。


 それでも、言葉は折れない。


「ノアを壊す処理なら、何度でも妨げる」


 灰色の文字鎖が、赤い糸と白金の魔力の間で軋んだ。


 ノアの叫びが、また爆ぜる。


「が、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「あ゛ああああああッ!! が、あ゛ッ!!」


「ぐ、ぁ゛……ッ、あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「ぎゃ、あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「う゛あ゛ッ、あ゛あああああッ!!」


「が、は……ッ、あ゛あ゛あ゛ああッ!!」


「あ゛あ゛あ゛ッ!! あ゛、あ゛、あ゛ッ!!」


「ぐあ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「ひゅ、ぅ゛……ッ、があ゛あああッ!!」


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 泡が唇に溜まる。


 血の混じった泡が、顎へ伝いかける。


 黒い霧がその上から漏れ、白灰色の床へ落ちる前にほどけた。


 ノアの腹が大きく痙攣した。


 吐き気が込み上げ、身体が折れる。


 胃の中身はほとんどない。


 それでも、魔法的限界反応で身体は排出しようとする。喉が締まり、胸がえぐれるように震え、苦い液が少しだけ唇を濡らした。レオが手を伸ばすが、灰色の術式が邪魔をする。


 ノアの身体は、さらに制御を失った。


 下腹部に力が入らなくなる。


 夢の中なのに、現実の身体まで引きずられる感覚がある。衣服の下で、冷たい失禁の感覚が広がった。魔法的限界反応による制御喪失。恥も嫌悪も処理する余裕がない。魂が裂けかけている時、身体はただ限界を超えて壊れる。


 ノアの喉から、言葉にならない拒絶が漏れた。


「が、あ゛……ッ、い、や゛……ッ!!」


 すぐに声は崩れる。


「あ゛あ゛あああああッ!!」


「ぐ、あ゛ッ、あ゛あ゛あ゛ああッ!!」


「ぎぃ゛、あ゛、あ゛あああッ!!」


「があ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「う゛あ゛あ゛あ゛ッ、あ゛ああッ!!」


「あ゛、あ゛、あ゛あああああッ!!」


「が、がは……ッ、あ゛ああああッ!!」


「ひゅ、が……ッ、あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「ぐあ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!! あ゛あああッ!!」


 レオが歯を食いしばる。


 赤い糸を握る手が震えている。


 喪失恐怖が、最大まで膨れ上がっていた。


 切られる。


 また失う。


 前世で一度、イリアスを失った。


 自分の手で失わせた。


 今度は記録の名で、帳簿の処理で、ノア・クロウを切り離されようとしている。


 本当は閉じ込めたい。


 ノアを抱え込み、誰にも見せず、どんな記録からも遠ざけ、赤い糸でぐるぐるに縛って自分の腕の中だけへ戻したい。


 だが、それをすれば、同じだ。


 本人意思を後回しにした魂帳局と、同じ場所へ落ちる。


 レオは、赤い糸を強く握り直した。


 所有ではなく、支柱として。


「ノア・クロウ!」


 その名が、灰色の鎖を揺らす。


 ノアの白目がちな赤い瞳が、一瞬だけレオを探した。


 焦点は合わない。


 瞳孔は開ききっている。


 血走った目が苦痛で揺れ、舌が収まりきらず、血泡混じりの息が唇に滲む。


 それでも、ノアは反応した。


 喉の奥で、潰れた声が出る。


「の、ぁ゛……ッ、あ゛……ッ」


 自分の名に触れようとしたのだ。


 だが、文字鎖が赤い糸をさらに削った。


 ノアの身体が激しく跳ねる。


「が、あ゛あ゛あ゛ああああッ!!」


「あ゛ッ、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「ぐ、ぎぃ゛……ッ、あ゛あああッ!!」


「があ゛ッ、あ゛あああああッ!!」


「あ゛あ゛あ゛ッ!! や゛、あ゛あああッ!!」


「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「が、はッ、あ゛あ゛あああッ!!」


「ひゅ、ぅ゛……ッ、あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「ぐあ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「あ゛ああああああッ!!」


 幼いイリアスが、ノアの手を握った。


 小さな手が震えている。


 彼もまた、切られる感覚を知っている。


 置いていかれることを知っている。


 赤い糸が切られれば、ノアは現世から引き剥がされる。イリアスの記録へ戻される。だが、それはイリアスの救済でもない。ただ、帳簿の中へ押し込められるだけだ。


 幼いイリアスは、灰色の文字鎖を睨んだ。


「切るな」


 声は小さい。


 けれど、ノアの魂糸の奥に届いた。


「俺を使って、ノアを消すな」


 黒い棺の奥で、何かが震えた。


 記憶の棺。


 父王の背中。


 黒魔導書の囁き。


 壊したもの。


 罪。


 それらを抱えた幼いイリアスが、今、ノア・クロウを消すなと言っている。


 ノアの喉が、また大きく震えた。


「が、あ゛……ッ」


 今度の声には、怒りが混じっていた。


 血泡に濡れた唇が、震える。


 舌がうまく動かない。


 言葉にはならない。


 それでも、拒絶の形が生まれる。


「が、あ゛……ッ、き、る、な゛……ッ」


 職員は言う。


「本人意思は照合完了後に確認されます」


 ノアの瞳が、血走ったまま見開かれる。


 首輪が灼ける。


 だが、その熱の奥で、黒い亀裂が逆に赤く光った。


 拒絶。


 本人意思を後回しにする記録への、明確な拒絶。


 ノアは、床に爪を立てた。


 指先が痙攣してうまく動かない。


 それでも、掻きむしるように床を掴む。


 口元から黒い霧と血泡が漏れる。


 舌が力なく垂れかけ、言葉が濁る。


 それでも、喉の奥から声を絞る。


「だ、れ、が……っ、ゆ、る、し、た゛……ッ」


 灰色の文字鎖が揺らいだ。


 職員の羽ペンが止まる。


 ノアはさらに叫ぶ。


「が、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!! ゆ、る、し、て、ね゛ぇ……ッ!!」


 その瞬間、赤い糸が激しく光った。


 レオが叫ぶ。


「ノアが切ると言わない限り、切らせない!」


 ノアの喉から、最後の咆哮が上がる。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「があ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「ぐあ゛ッ、あ゛あああああッ!!」


「ぎゃあ゛あ゛あ゛ッ!!」


「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「あ゛あ゛あ゛あ゛ッ、あ゛あああッ!!」


「が、あ゛……ッ、あ゛ああああッ!!」


「ひゅ、が……ッ、あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「ぐ、ぅ゛……ッ、あ゛あ゛あ゛ッ!!」


「あ゛あああああああッ!!」


 灰色の文字鎖が、弾けた。


 完全に砕けたわけではない。


 だが、赤い糸を切る寸前で止まった。


 伴侶契約の接続部に、灰色の傷が残る。


 ノアの首輪にも、同じ灰色の切断痕が走った。


 職員の帳簿が大きく震える。


「切断処理、中断」


 その声が響いた瞬間、白灰色の空間が歪んだ。


 窓口が遠ざかる。


 帳簿棚が傾く。


 羽ペンの音が途切れる。


 ノアの身体が、赤い糸ごと夢から弾き出される。


 落ちる。


 引き戻される。


 現実へ。


 寮部屋の寝台で、ノアの身体が大きく跳ねた。


 喉から壊れた息が漏れる。


 瞳孔は開き、赤い瞳は血走っている。白目を剥きかけたまま、焦点が合わない。唇には血の混じった泡が残り、黒い魔力が薄い霧となって口元から消えていく。身体はまだ大きく痙攣していた。腕が跳ね、脚が震え、指先が硬直し、背筋が断続的に跳ねる。


 レオも同時に現実へ戻っていた。


 椅子から崩れ落ちるように身を乗り出し、ノアの手を握り直す。


 強くしすぎない。


 折らない。


 縛らない。


 それでも、離さない。


「ノア・クロウ」


 レオの声は震えていた。


「ノア。ノア・クロウ。戻って。ここにいる」


 ノアは答えられない。


 喉が潰れている。


 舌がうまく収まらず、血泡混じりの息が漏れるばかりだった。


 レオは水へ手を伸ばしかけ、すぐに止める。


 今は飲ませられない。


 喉が震えすぎている。


 まず呼吸。


 首輪。


 魔力回路。


 身体を冷やさないこと。


 救護の手順が、恐怖の中でぎりぎり組み上がる。


 だが、処置は次の瞬間へ回された。


 ノアの首元に、灰色の線が浮かんだからだ。


 伴侶首輪の白い花紋を横切るように、細い切断痕が残っている。


 灰色の傷。


 赤い糸は切れていない。


 まだ繋がっている。


 けれど、糸の一部が細く裂けたように震えていた。


 レオは、それを見たまま息を止めた。



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