第109話 伴侶契約による不正固定
帳簿の頁に、赤い印が押されていた。
記録不一致。
白灰色の受付窓口の向こうで、顔のない職員が開いた帳簿。その頁には、ノア・クロウの記録が並んでいる。
現世名。
所属。
魂名照合状態。
伴侶契約保持。
旧記録照合中。
それらの上に、赤い印が滲むように重なっていた。
記録不一致。
そして、その下にある不一致理由欄。
そこに、冷たい灰色の文字で記されていた。
伴侶契約による不正固定。
ノア・クロウは、一瞬だけ目を細めた。
首元の伴侶首輪が、強く熱を持つ。
白い花紋が浮かび、その縁が黒く染まる。内側の黒い亀裂が疼き、照合率二パーセントの数字が薄く浮かんだ。進まない。だが、帳簿に見られている感覚が、首輪の奥へ冷たく入り込んでくる。
手の甲の照合番号が疼いた。
喉が詰まる。
魂糸が帳簿の頁へ引かれかける。
すぐ隣で、赤い糸が防御的に震えた。
レオ・アステルレインの表情が消えていた。
怒りの顔ではない。
もっと静かで、もっと危ない。
感情の表面だけを凍らせたような顔だった。
ノアは、その顔を見て、あえて口を開いた。
「お前の過保護、ついに公的機関に怒られてるぞ」
声は軽かった。
だが、喉の奥は熱い。
帳簿に記された文字が、思った以上に不快だった。
不正。
固定。
伴侶契約。
レオが自分を現世名へ繋ぎ止めていることは、事実だ。
赤い糸は、時に檻のようだった。
レオの執着は重く、過剰で、何度もノアの選択を奪いかけた。
けれど、その赤い糸がなければ、ノアは何度も前世へ引きずり込まれていた。
名を呼ばれ、声を焼かれ、記憶の棺へ呑まれ、父王の背中に引かれ、黒魔導書の囁きへ落ちかけた時、そのたびにレオは現世名を呼んだ。
ノア・クロウ。
君は今ここにいる。
燃やされても、君の声は消えない。
その全部を、この帳簿は不正と呼んでいる。
レオは、帳簿から目を逸らさずに言った。
「君を固定しているのは事実だ」
ノアは眉を寄せた。
「そこで開き直るな」
「否定はしない」
「否定しないところが問題なんだよ」
「でも、不正ではない」
レオの声は静かだった。
静かすぎて、白灰色の空間の無機質さとぶつかる。
「君を壊さないために、君がノア・クロウでいられるように、固定している」
職員は、表情のない顔のまま帳簿へ視線を落とした。
白い手袋の指が、頁の上をなぞる。
「伴侶契約による赤色魂糸、および伴侶首輪が、現世名ノア・クロウへの固定を強化しています」
羽ペンの音が続く。
さらさら、さらさら。
「旧記録イリアス・ノクスヴェルトとの照合進行を妨害。魂名再照合、前世記録統合、儀礼対象復元処理に支障」
ノアの喉が、さらに詰まった。
旧記録名。
その呼称が出るたび、首輪が熱を持つ。
伴侶首輪の白い花紋に黒い縁が走り、手の甲の照合番号が冷たく疼いた。
レオが即座に呼ぶ。
「ノア・クロウ」
その名で、首輪の熱が少しだけ下がる。
ノアは短く息を吐いた。
「助かる」
職員は続ける。
「魂帳局記録上、対象は旧記録との照合中です。伴侶契約による現世名固定は、記録処理を妨げる不正使用に該当します」
レオの赤い糸が、ぴんと張った。
白灰色の空間では赤が鈍っていたはずなのに、その瞬間だけ鋭く光る。
顔のない職員の背後で、帳簿棚がわずかに震えた。
ノアは、低い声で言った。
「本人の意思は?」
職員は答える。
「記録が優先されます」
「現世名を選んだ本人の意思は?」
「記録が優先されます」
「前世記録に戻されたら、俺が壊れる可能性は?」
「記録の整合性が優先されます」
ノアは、低く笑った。
笑いは冷えていた。
「本人より書類が偉い世界、最悪だな」
職員は反応しない。
怒りも、反論も、困惑もない。
ただ帳簿を見ている。
ノアはその無感情さが嫌だった。
悪意がある方が、まだ分かりやすい。
この職員には、たぶん悪意などない。
記録通りに処理しているだけ。
だからこそ、最悪だった。
人を壊しても、魂を剥がしても、名前を奪っても、記録が整えば正しい。
そんな仕組みの顔をしている。
レオが、一歩前へ出た。
ノアを半歩だけ背後へ隠そうとする。
ノアは横からその袖を掴んだ。
「隠すな」
レオは止まる。
「君が引かれている」
「知ってる」
「帳簿へ」
「知ってる。だから横にいろ」
「前ではなく?」
「横」
レオは、苦しげに息を吸った。
だが、横へ戻った。
赤い糸はノアを包むように張りたがっていたが、レオはそれを抑えている。防御したい。閉じたい。記録空間ごと切り捨てたい。その衝動が、糸の震えに出ている。
それでも、彼はノアの選択を奪わないように踏みとどまった。
ノアは職員を見る。
「伴侶契約が不正使用ってことは、本来どう処理する気だった?」
職員の羽ペンが止まる。
一拍。
そして、同じ無機質な声が返る。
「旧記録照合を継続。前世記録、魂名、儀礼対象情報、死亡記録を統合。対象を正規記録へ復帰させます」
「正規記録って何だ」
「イリアス・ノクスヴェルト」
首輪が、強く熱を持った。
ノアの喉が詰まる。
「っ……」
赤い糸が即座に現世側へ引く。
レオの声が鋭く響いた。
「ノア・クロウ」
ノアは息を吸った。
白灰色の空気が喉に引っかかる。
それでも、言う。
「俺はノア・クロウ」
照合率の二パーセントが浮かび、揺れ、しかし進まない。
伴侶首輪の黒い縁取りは残っている。
だが、熱は少し落ち着いた。
幼いイリアスは、ノアの隣で帳簿を睨んでいた。
小さな手はノアに触れたまま。
「俺に戻すってことか」
職員は答える。
「旧記録への復帰処理です」
幼いイリアスは、眉を寄せた。
「俺はここにいる」
「旧記録は未統合状態です」
「俺は記録じゃない」
その声は幼かった。
だが、冷えていた。
ノアは幼いイリアスを見る。
幼いイリアスは、顔のない職員ではなく、帳簿を睨んでいる。
ノアは小さく息を吐いた。
「そうだな」
幼いイリアスが、ノアを見る。
ノアは言った。
「お前も記録じゃない」
その言葉に、幼いイリアスは少しだけ目を細めた。
レオの赤い糸が、痛むように震えた。
職員は、帳簿をめくった。
「伴侶契約による不正固定の影響により、旧記録復帰率が低下しています」
ノアは眉を上げる。
「復帰率?」
「対象の旧記録への再照合進行度です」
「照合率とは別か」
「関連項目です」
「嫌な項目増やすな」
職員は淡々と続けた。
「赤色魂糸の現世名固定、伴侶首輪による魂核保護、レオ・アステルレインによる反復呼称固定が、照合進行を阻害しています」
レオの顔から、さらに表情が消えた。
ノアは横目で見る。
「お前、呼びすぎまで記録されてるぞ」
「足りないくらいだと思っている」
「そこで増やそうとするな」
「でも、効いている」
「効いてるから問題視されてるんだろ」
「なら、なおさらやめない」
開き直りが強い。
だが、今のノアには、それが少しだけ頼もしくもあった。
厄介だ。
レオの重さは、いつも厄介だ。
けれど、この白灰色の空間では、その重さがノアを現世へ繋ぎ止めている。
赤い糸は檻だった。
だが同時に、支柱でもあった。
ノアの現世名が崩れそうになるたび、赤い糸が支えていた。
職員は、それを不正と呼ぶ。
ノアは低く言った。
「つまり、お前らから見たら、俺がノア・クロウでいること自体が邪魔なんだな」
「記録不一致状態です」
「邪魔って言われた方がまだ分かりやすい」
「記録不一致状態です」
「ほんと会話向いてないな」
レオは窓口の職員を見据えた。
「記録に戻すために、ノアを壊す方が正しいのですか」
職員は、即座に返した。
「記録の整合性が優先されます」
その言葉に、白灰色の空間がひどく静かになった気がした。
羽ペンの音だけが響く。
さらさら、さらさら。
まるで、その答えさえも当然の記録として書き込んでいるように。
レオの白金の魔力が、指先で震えた。
記録空間では攻撃が通じない。
さっき、魔力は壁に吸収された。
それでも、レオは消したいのだろう。
この顔のない職員を。
この帳簿を。
ノアを壊してでも記録を整えようとする仕組みを。
赤い糸が鋭く張る。
ノアの首輪が、それに呼応するように熱を持った。
ノアは低く言う。
「レオ、怒りをこっちに流すな」
レオは、はっと息を詰める。
白金の魔力が少し引いた。
「ごめん」
「謝るより名前」
「ノア・クロウ」
「よし」
ノアは息を整える。
現実の身体の感覚が、遠くで揺れた。
寮部屋。
寝台。
喉が震えている。
水を飲めない状態になりかけている。
現実のレオの手が、自分の手を強く握っている。
その圧だけが、遠くから伝わってきた。
そのさらに外側。
セドリック・バロウズの研究室では、臨時で設置した監視陣が薄く光っていた。
寮部屋の安定符と研究室の観測水晶が繋がり、ノアとレオの魂糸反応を拾っている。セドリックは水晶の前で目を細め、記録紙へ素早く書き込んでいた。
「赤色魂糸、記録空間内で鈍化。首輪反応、熱上昇。照合率は二で停止。だが、帳簿側から切断準備に近い波形が出ている」
彼の声は、現実の部屋には届かない。
夢の中にも届かない。
それでも、彼は記録を続ける。
外側で見ている者が必要だった。
白灰色の窓口で、ノアは職員を睨んでいた。
「伴侶契約を不正扱いする根拠は」
「旧記録復帰処理に対する妨害」
「本人保護は根拠にならない?」
「記録の整合性が優先されます」
「本人が壊れても?」
「記録の整合性が優先されます」
「本人がノア・クロウだと言っても?」
「記録が優先されます」
ノアは、ゆっくり笑った。
喉が痛む。
首輪は熱い。
それでも笑った。
「最悪だな」
職員は、帳簿を見たまま言う。
「伴侶契約の干渉を解除することで、照合処理は正常化します」
レオの赤い糸が一瞬で張り詰めた。
ノアの背筋にも、冷たいものが走った。
解除。
伴侶契約。
赤い糸。
職員の白い手袋が、帳簿の端にある小さな欄へ移動する。
そこには、処理申請と書かれていた。
ノアは低く言う。
「おい」
職員は、無機質に告げた。
「不正固定を解除します」
レオの白金の魔力が、爆ぜる寸前まで膨れ上がる。
記録空間の壁が、その光を吸い込もうと波打つ。
職員は続けた。
「伴侶契約、切断申請」
その瞬間、レオの赤い糸が鋭く張った。
ノアの首輪が、灼けるように熱を持った。




