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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第六章【魂帳局と転生者狩り】

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第109話 伴侶契約による不正固定



 帳簿の頁に、赤い印が押されていた。


 記録不一致。


 白灰色の受付窓口の向こうで、顔のない職員が開いた帳簿。その頁には、ノア・クロウの記録が並んでいる。


 現世名。


 所属。


 魂名照合状態。


 伴侶契約保持。


 旧記録照合中。


 それらの上に、赤い印が滲むように重なっていた。


 記録不一致。


 そして、その下にある不一致理由欄。


 そこに、冷たい灰色の文字で記されていた。


 伴侶契約による不正固定。


 ノア・クロウは、一瞬だけ目を細めた。


 首元の伴侶首輪《メイト・カラー》が、強く熱を持つ。


 白い花紋が浮かび、その縁が黒く染まる。内側の黒い亀裂が疼き、照合率二パーセントの数字が薄く浮かんだ。進まない。だが、帳簿に見られている感覚が、首輪の奥へ冷たく入り込んでくる。


 手の甲の照合番号が疼いた。


 喉が詰まる。


 魂糸が帳簿の頁へ引かれかける。


 すぐ隣で、赤い糸が防御的に震えた。


 レオ・アステルレインの表情が消えていた。


 怒りの顔ではない。


 もっと静かで、もっと危ない。


 感情の表面だけを凍らせたような顔だった。


 ノアは、その顔を見て、あえて口を開いた。


「お前の過保護、ついに公的機関に怒られてるぞ」


 声は軽かった。


 だが、喉の奥は熱い。


 帳簿に記された文字が、思った以上に不快だった。


 不正。


 固定。


 伴侶契約。


 レオが自分を現世名へ繋ぎ止めていることは、事実だ。


 赤い糸は、時に檻のようだった。


 レオの執着は重く、過剰で、何度もノアの選択を奪いかけた。


 けれど、その赤い糸がなければ、ノアは何度も前世へ引きずり込まれていた。


 名を呼ばれ、声を焼かれ、記憶の棺へ呑まれ、父王の背中に引かれ、黒魔導書の囁きへ落ちかけた時、そのたびにレオは現世名を呼んだ。


 ノア・クロウ。


 君は今ここにいる。


 燃やされても、君の声は消えない。


 その全部を、この帳簿は不正と呼んでいる。


 レオは、帳簿から目を逸らさずに言った。


「君を固定しているのは事実だ」


 ノアは眉を寄せた。


「そこで開き直るな」


「否定はしない」


「否定しないところが問題なんだよ」


「でも、不正ではない」


 レオの声は静かだった。


 静かすぎて、白灰色の空間の無機質さとぶつかる。


「君を壊さないために、君がノア・クロウでいられるように、固定している」


 職員は、表情のない顔のまま帳簿へ視線を落とした。


 白い手袋の指が、頁の上をなぞる。


「伴侶契約による赤色魂糸、および伴侶首輪が、現世名ノア・クロウへの固定を強化しています」


 羽ペンの音が続く。


 さらさら、さらさら。


「旧記録イリアス・ノクスヴェルトとの照合進行を妨害。魂名再照合、前世記録統合、儀礼対象復元処理に支障」


 ノアの喉が、さらに詰まった。


 旧記録名。


 その呼称が出るたび、首輪が熱を持つ。


 伴侶首輪の白い花紋に黒い縁が走り、手の甲の照合番号が冷たく疼いた。


 レオが即座に呼ぶ。


「ノア・クロウ」


 その名で、首輪の熱が少しだけ下がる。


 ノアは短く息を吐いた。


「助かる」


 職員は続ける。


「魂帳局記録上、対象は旧記録との照合中です。伴侶契約による現世名固定は、記録処理を妨げる不正使用に該当します」


 レオの赤い糸が、ぴんと張った。


 白灰色の空間では赤が鈍っていたはずなのに、その瞬間だけ鋭く光る。


 顔のない職員の背後で、帳簿棚がわずかに震えた。


 ノアは、低い声で言った。


「本人の意思は?」


 職員は答える。


「記録が優先されます」


「現世名を選んだ本人の意思は?」


「記録が優先されます」


「前世記録に戻されたら、俺が壊れる可能性は?」


「記録の整合性が優先されます」


 ノアは、低く笑った。


 笑いは冷えていた。


「本人より書類が偉い世界、最悪だな」


 職員は反応しない。


 怒りも、反論も、困惑もない。


 ただ帳簿を見ている。


 ノアはその無感情さが嫌だった。


 悪意がある方が、まだ分かりやすい。


 この職員には、たぶん悪意などない。


 記録通りに処理しているだけ。


 だからこそ、最悪だった。


 人を壊しても、魂を剥がしても、名前を奪っても、記録が整えば正しい。


 そんな仕組みの顔をしている。


 レオが、一歩前へ出た。


 ノアを半歩だけ背後へ隠そうとする。


 ノアは横からその袖を掴んだ。


「隠すな」


 レオは止まる。


「君が引かれている」


「知ってる」


「帳簿へ」


「知ってる。だから横にいろ」


「前ではなく?」


「横」


 レオは、苦しげに息を吸った。


 だが、横へ戻った。


 赤い糸はノアを包むように張りたがっていたが、レオはそれを抑えている。防御したい。閉じたい。記録空間ごと切り捨てたい。その衝動が、糸の震えに出ている。


 それでも、彼はノアの選択を奪わないように踏みとどまった。


 ノアは職員を見る。


「伴侶契約が不正使用ってことは、本来どう処理する気だった?」


 職員の羽ペンが止まる。


 一拍。


 そして、同じ無機質な声が返る。


「旧記録照合を継続。前世記録、魂名、儀礼対象情報、死亡記録を統合。対象を正規記録へ復帰させます」


「正規記録って何だ」


「イリアス・ノクスヴェルト」


 首輪が、強く熱を持った。


 ノアの喉が詰まる。


「っ……」


 赤い糸が即座に現世側へ引く。


 レオの声が鋭く響いた。


「ノア・クロウ」


 ノアは息を吸った。


 白灰色の空気が喉に引っかかる。


 それでも、言う。


「俺はノア・クロウ」


 照合率の二パーセントが浮かび、揺れ、しかし進まない。


 伴侶首輪の黒い縁取りは残っている。


 だが、熱は少し落ち着いた。


 幼いイリアスは、ノアの隣で帳簿を睨んでいた。


 小さな手はノアに触れたまま。


「俺に戻すってことか」


 職員は答える。


「旧記録への復帰処理です」


 幼いイリアスは、眉を寄せた。


「俺はここにいる」


「旧記録は未統合状態です」


「俺は記録じゃない」


 その声は幼かった。


 だが、冷えていた。


 ノアは幼いイリアスを見る。


 幼いイリアスは、顔のない職員ではなく、帳簿を睨んでいる。


 ノアは小さく息を吐いた。


「そうだな」


 幼いイリアスが、ノアを見る。


 ノアは言った。


「お前も記録じゃない」


 その言葉に、幼いイリアスは少しだけ目を細めた。


 レオの赤い糸が、痛むように震えた。


 職員は、帳簿をめくった。


「伴侶契約による不正固定の影響により、旧記録復帰率が低下しています」


 ノアは眉を上げる。


「復帰率?」


「対象の旧記録への再照合進行度です」


「照合率とは別か」


「関連項目です」


「嫌な項目増やすな」


 職員は淡々と続けた。


「赤色魂糸の現世名固定、伴侶首輪による魂核保護、レオ・アステルレインによる反復呼称固定が、照合進行を阻害しています」


 レオの顔から、さらに表情が消えた。


 ノアは横目で見る。


「お前、呼びすぎまで記録されてるぞ」


「足りないくらいだと思っている」


「そこで増やそうとするな」


「でも、効いている」


「効いてるから問題視されてるんだろ」


「なら、なおさらやめない」


 開き直りが強い。


 だが、今のノアには、それが少しだけ頼もしくもあった。


 厄介だ。


 レオの重さは、いつも厄介だ。


 けれど、この白灰色の空間では、その重さがノアを現世へ繋ぎ止めている。


 赤い糸は檻だった。


 だが同時に、支柱でもあった。


 ノアの現世名が崩れそうになるたび、赤い糸が支えていた。


 職員は、それを不正と呼ぶ。


 ノアは低く言った。


「つまり、お前らから見たら、俺がノア・クロウでいること自体が邪魔なんだな」


「記録不一致状態です」


「邪魔って言われた方がまだ分かりやすい」


「記録不一致状態です」


「ほんと会話向いてないな」


 レオは窓口の職員を見据えた。


「記録に戻すために、ノアを壊す方が正しいのですか」


 職員は、即座に返した。


「記録の整合性が優先されます」


 その言葉に、白灰色の空間がひどく静かになった気がした。


 羽ペンの音だけが響く。


 さらさら、さらさら。


 まるで、その答えさえも当然の記録として書き込んでいるように。


 レオの白金の魔力が、指先で震えた。


 記録空間では攻撃が通じない。


 さっき、魔力は壁に吸収された。


 それでも、レオは消したいのだろう。


 この顔のない職員を。


 この帳簿を。


 ノアを壊してでも記録を整えようとする仕組みを。


 赤い糸が鋭く張る。


 ノアの首輪が、それに呼応するように熱を持った。


 ノアは低く言う。


「レオ、怒りをこっちに流すな」


 レオは、はっと息を詰める。


 白金の魔力が少し引いた。


「ごめん」


「謝るより名前」


「ノア・クロウ」


「よし」


 ノアは息を整える。


 現実の身体の感覚が、遠くで揺れた。


 寮部屋。


 寝台。


 喉が震えている。


 水を飲めない状態になりかけている。


 現実のレオの手が、自分の手を強く握っている。


 その圧だけが、遠くから伝わってきた。


 そのさらに外側。


 セドリック・バロウズの研究室では、臨時で設置した監視陣が薄く光っていた。


 寮部屋の安定符と研究室の観測水晶が繋がり、ノアとレオの魂糸反応を拾っている。セドリックは水晶の前で目を細め、記録紙へ素早く書き込んでいた。


「赤色魂糸、記録空間内で鈍化。首輪反応、熱上昇。照合率は二で停止。だが、帳簿側から切断準備に近い波形が出ている」


 彼の声は、現実の部屋には届かない。


 夢の中にも届かない。


 それでも、彼は記録を続ける。


 外側で見ている者が必要だった。


 白灰色の窓口で、ノアは職員を睨んでいた。


「伴侶契約を不正扱いする根拠は」


「旧記録復帰処理に対する妨害」


「本人保護は根拠にならない?」


「記録の整合性が優先されます」


「本人が壊れても?」


「記録の整合性が優先されます」


「本人がノア・クロウだと言っても?」


「記録が優先されます」


 ノアは、ゆっくり笑った。


 喉が痛む。


 首輪は熱い。


 それでも笑った。


「最悪だな」


 職員は、帳簿を見たまま言う。


「伴侶契約の干渉を解除することで、照合処理は正常化します」


 レオの赤い糸が一瞬で張り詰めた。


 ノアの背筋にも、冷たいものが走った。


 解除。


 伴侶契約。


 赤い糸。


 職員の白い手袋が、帳簿の端にある小さな欄へ移動する。


 そこには、処理申請と書かれていた。


 ノアは低く言う。


「おい」


 職員は、無機質に告げた。


「不正固定を解除します」


 レオの白金の魔力が、爆ぜる寸前まで膨れ上がる。


 記録空間の壁が、その光を吸い込もうと波打つ。


 職員は続けた。


「伴侶契約、切断申請」


 その瞬間、レオの赤い糸が鋭く張った。


 ノアの首輪が、灼けるように熱を持った。




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