第108話 灰色の扉の向こう
灰色の扉の向こうには、白灰色の空間が広がっていた。
最初に聞こえたのは、羽ペンの音だった。
さらさら、さらさら、と。
誰かがどこかで、終わりなく書き続けている。
次に見えたのは、壁だった。
白でも黒でもない、乾いた灰色の壁。石のようで、紙のようで、どこか骨のようでもある。継ぎ目のない壁には、細い帳簿線が無数に走っていた。近づけば文字の列に見える。離れれば、ただの模様に見える。そのどちらでもあるようなものだった。
天井は高い。
高すぎて、上が霞んでいる。
そこまで届く帳簿棚が、ずらりと並んでいた。棚には厚い帳簿が詰め込まれ、その背表紙には名前とも番号ともつかない文字列が刻まれている。時折、棚の奥から一冊が勝手に抜け、宙を滑り、どこかの窓口へ運ばれていった。
受付窓口が、無数に並んでいる。
転生者照合。
前世記録閲覧。
魂名確認。
死者名簿照会。
伴侶契約記録。
儀礼対象管理。
どれも同じ白灰色の札が掲げられ、どれも同じ大きさの窓口だった。窓口の前には番号札の台座が置かれている。札は薄い灰色で、誰も触れていないのに一枚ずつ発行され、淡い光を帯びて積み上がっていた。
灯りはある。
淡い灰色の灯り。
だが、温度がない。
明るいのに、どこにも生きた気配がない。
人の声もしない。
足音もしない。
ただ、羽ペンの音だけが、果てしなく続いている。
ノア・クロウは、その空間に立っていた。
隣にはレオ・アステルレインがいる。
そして、もう片方の手には幼いイリアスがいた。
土まみれの小さな手は、まだノアの手に触れている。完全に一体化したわけではない。ノアの中へ溶けきったわけでもない。ただ、もう戦場跡の墓穴の前にはいない。
幼いイリアスは、白灰色の空間を見回していた。
赤い瞳が、帳簿棚を不快そうに睨む。
「ここ、嫌いだ」
ノアは低く笑う。
「俺も初対面で好感度底辺」
「俺の記録がある」
幼いイリアスの声は静かだった。
けれど、その奥に、確かな嫌悪があった。
棚。
帳簿。
記録。
そこに、自分の罪も、死も、黒魔導書へ手を伸ばした記憶も、誰かの都合のいい形で収められていると感じているのだろう。
ノアの掌に残る三つの紋が、淡く疼いた。
黒い花。
灰色の帳簿印。
白花派紋。
それらが、この空間に反応している。
魂糸が、帳簿棚の方へ引かれる。
まるで、棚のどこかにノアの記録があり、それを呼ばれているようだった。
ノアは顔をしかめる。
「勝手に引くな。人の魂を索引扱いするな」
赤い糸が、そこでかすかに震えた。
だが、いつもより鈍い。
夢の戦場跡や封印庫では、赤い糸は鮮やかだった。ノアとレオを繋ぎ、現在へ引き戻し、魂糸の裂け目を支えていた。
しかし、この白灰色の空間では、糸の赤が少し沈んで見える。
色を吸われているようだった。
レオがすぐに眉を寄せる。
「糸が鈍い」
「場所のせいか」
「たぶん。記録空間が接続を薄めている」
「役所、通信環境まで悪いのか」
「ノア」
「はいはい。真面目にする」
レオは、ノアから目を離さなかった。
赤い糸が鈍っていることに、強く警戒しているのが分かった。彼はノアの半歩後ろへ回ろうとした。守るために。隠すために。
ノアはすぐに横目で睨む。
「後ろに隠すな」
レオが止まる。
「まだ何もしていない」
「足がしてた」
「……ごめん」
「横」
「分かった」
レオはノアの横へ戻った。
それでも距離は近い。
離れない。
離す気がない。
ノアはわざと息を吐いた。
「離れないでって顔してる」
レオは即答した。
「離れないで」
ノアは指先に繋がる赤い糸を持ち上げるように見た。
「糸で繋がれてるから離れようがないんですけど?」
「それでも言う」
「重い確認」
「必要」
「まあ、ここでは否定しきれない」
灰色の空間に、受付の声が響いた。
「転生者照合窓口へお進みください」
どこから聞こえるのか分からない。
天井からでも、壁からでも、床からでもない。
空間そのものが話しているようだった。
ノアは、顔をしかめた。
「夢の中でも窓口対応。世界、終わってるな」
幼いイリアスが、番号札の台座を睨む。
「取るのか」
「取りたくない」
「じゃあ壊す?」
レオの白金の魔力が、わずかに動いた。
ノアは二人を交互に見る。
「お前ら、発想が近いな」
幼いイリアスは不満そうに眉を寄せる。
レオは静かに視線を逸らした。
否定しないらしい。
ノアは、低く言った。
「壊さない。情報を取る」
「番号札をお取りください」
受付の声が、もう一度響く。
ノアは番号札の台座へ近づいた。
台座の上に、一枚の札が吐き出される。
灰色の札。
そこには、黒い文字で番号が刻まれていた。
照合窓口 第〇〇二番。
ノアは眉を寄せる。
「二って数字、最近しつこい」
伴侶首輪の内側で、照合率二パーセントの数字が一瞬だけ浮かんだ。
首輪が熱を持つ。
強い熱ではない。
だが、旧記録へ引かれる前触れのような、嫌な熱だった。
レオがすぐに呼ぶ。
「ノア・クロウ」
その名で、首輪が少し安定した。
ノアは軽く息を吐く。
「今のは助かる」
「何度でも呼ぶ」
「知ってる」
番号札を取ると、足元に灰色の線が現れた。
転生者照合窓口へ続く線らしい。
徹底して役所だった。
魂の底まで案内表示を出してくる。
親切なのか不気味なのか、もう判断したくない。
三人はその線を辿った。
幼いイリアスは、ノアの手を離さない。
ただ、帳簿棚の間を通るたび、赤い瞳を細めた。
「見られてる」
ノアも感じていた。
棚の背表紙。
窓口の札。
宙を飛ぶ記録紙。
顔のない職員たち。
それらすべてが、こちらを見ている。
目などないのに。
転生者照合窓口には、職員がいた。
顔がない。
正確には、顔があるべき場所が、滑らかな灰色で覆われている。口も目も鼻もない。ただ、人型をしているだけだった。
白い手袋。
灰色の制服。
胸元には、魂帳局の帳簿印。
職員は、窓口の向こうで帳簿を閉じ、表情のない声で言った。
「転生者ノア・クロウ、旧記録イリアス・ノクスヴェルト。照合受付を開始します」
ノアは即座に言った。
「ノア・クロウでいい。余計な旧姓みたいにつけるな」
職員は、沈黙した。
訂正しない。
羽ペンが、帳簿の上で動く。
さらさら、と音がする。
ノアの手の甲の照合番号が疼いた。
伴侶首輪が、じわりと熱を持つ。
レオが横で言う。
「ノア・クロウ」
ノアは目を細める。
「聞こえてる」
職員は、変わらない声で続けた。
「記録上、対象は旧記録との照合中です。本人申告による呼称訂正は、照合完了まで反映されません」
レオの赤い糸が、鋭く震えた。
ノアも、笑わなかった。
声が低くなる。
「本人の主張より、帳簿の記録が優先ってことか」
「記録が優先されます」
「本人がここにいるのに?」
「記録が優先されます」
「本人の現在名より?」
「記録が優先されます」
淡々とした返答だった。
そこに悪意はない。
怒りもない。
だからこそ、不快だった。
人の意思も、名乗りも、現在も、すべて帳簿より下に置く仕組み。
ノアの喉が詰まった。
手の甲の照合番号が疼き、首輪の熱が上がる。
旧記録名を呼ばれるたび、魂糸が棚の方へ引かれる。
幼いイリアスの手が、少しだけ冷たくなる。
レオが低く言った。
「訂正して」
職員は答える。
「照合完了前の訂正はできません」
「ノア・クロウと呼んで」
「対象名は、転生者ノア・クロウ、旧記録イリアス・ノクスヴェルトです」
白金の魔力が、レオの指先に灯った。
空間が、かすかに歪む。
だが、すぐに灰色の壁が波打ち、白金の光を吸収した。
攻撃ではない。
まだ、魔力が立っただけだ。
それでも、この記録空間は反応した。
レオの目が冷える。
職員は、何事もなかったように言う。
「記録空間内での直接干渉は無効化されます」
ノアは、レオの腕に軽く触れた。
「やめろ」
「君の名を」
「分かってる」
「記録が優先されると言った」
「聞こえてる。腹立ってる。だから情報を取る」
レオの白金の魔力は、まだ消えきらない。
ノアは低く言った。
「壊しても、たぶんこいつ一体消えるだけだ。帳簿は残る。下手したら、俺たちの方が違反記録で縛られる」
レオは、苦しげに息を吸った。
「……分かった」
「ノア・クロウって呼べ」
レオはすぐに言う。
「ノア・クロウ」
首輪の熱が少し落ちる。
ノアは窓口へ向き直った。
「照合って何を照合してる」
職員は、帳簿を開いた。
「前世記録、現世名、伴侶契約、魂名、死亡記録、転生経路、儀礼対象情報」
「多いな。俺、何項目チェックされてるんだ」
「全項目です」
「最悪」
幼いイリアスが、窓口を睨む。
「俺の記録もそこにあるのか」
職員は少しだけ顔のない頭を傾けた。
「旧記録イリアス・ノクスヴェルトは、転生者ノア・クロウとの照合対象です」
幼いイリアスの手が、ノアの手の中で強張った。
ノアは、その手を少しだけ握り返す。
「照合対象とか言われてるぞ」
「嫌だ」
「俺も嫌だ」
職員は続ける。
「旧記録の未統合部分は、記憶の棺に保管されています」
ノアの瞳が細くなる。
「未統合部分」
「はい」
「誰が保管した」
職員の羽ペンが止まった。
わずかな沈黙。
初めて、流れが乱れた。
ノアはそれを見逃さなかった。
「誰が保管した」
職員は答える。
「記録に従い保管されています」
「誰の記録だ」
「記録に従い保管されています」
「壊れた案内音声かよ」
ノアの声は低い。
レオが、横から名を呼ぶ。
「ノア・クロウ」
「分かってる。熱くなってない」
「なってる」
「少しだけ」
職員は、また羽ペンを動かした。
さらさら、さらさら。
その音が、妙に耳障りだった。
ノアは窓口の帳簿を見る。
そこには、まだ文字が見えない。
灰色の紙面が、こちらを拒んでいるようだった。
「オルドレイス代理の署名が扉にあった」
職員は動かない。
「それについて説明しろ」
「オルドレイス代理は、記録上の処理権限者です」
レオの赤い糸が、また鋭く張る。
ノアは目を細めた。
「魂帳局の職員か」
「記録上の処理権限者です」
「本人なのか、代理なのか」
「記録上の処理権限者です」
「同じことしか言わないな」
「照会権限が不足しています」
ノアは、喉の奥で低く笑った。
「なるほど。権限不足」
嫌な言葉だ。
白花派。
魂帳局。
オルドレイス代理。
どいつもこいつも、本人の魂には無断で触るくせに、こちらが聞くと権限不足。
理不尽というより、もはや芸術的に腹立たしい。
職員は言った。
「対象は照合中です。照合完了まで、自己申告による記録変更は認められません」
ノアの首輪がまた熱を持つ。
照合率二パーセントが一瞬浮かぶ。
レオがすぐに言う。
「ノア・クロウ」
ノアは息を吐く。
「俺はノア・クロウ」
幼いイリアスが、隣でぽつりと言う。
「俺は、イリアス・ノクスヴェルト」
ノアは少しだけ驚いて幼いイリアスを見た。
幼いイリアスは窓口を睨んでいる。
「でも、そいつに決められるのは嫌だ」
ノアは、ほんのわずかに口角を上げた。
「同感」
レオが静かに続ける。
「僕はレオ・アステルレイン」
赤い糸が、鈍い空間の中で少しだけ赤を取り戻した。
「セラフィード・ルミナリアの記録があっても、今ここにいる僕はレオ・アステルレイン」
職員は、それにも反応しない。
ただ羽ペンを動かす。
さらさら、さらさら。
ノアは窓口へ身を乗り出しすぎないよう、意識して距離を保った。
魂糸が帳簿へ引かれている。
近づきすぎれば、何かを書き換えられる気がした。
「照合中ってことは、まだ決定じゃないんだな」
「照合中です」
「不一致の理由は?」
職員は、ようやく帳簿へ手を置いた。
白い手袋の指が、灰色の表紙に触れる。
「対象記録を開示します」
レオが低く言う。
「ノア」
「見る」
「近づきすぎないで」
「分かってる」
「ノア・クロウ」
「はいはい。助かる」
職員が帳簿を開いた。
その瞬間、窓口の周囲に灰色の光が広がる。
帳簿の頁は厚く、紙ではなく、薄く削いだ魂の膜のようだった。そこに、文字が浮かび上がっていく。
ノア・クロウ。
現世名。
黒魔法科一年。
伴侶契約保持。
旧記録照合中。
そして、その記録の上に、赤い印が押されていた。
記録不一致。
赤い印は、紙面に滲むように広がっている。
ノアの喉が詰まった。
手の甲の照合番号が疼く。
レオの赤い糸が、強く震える。
職員が、表情のない声で読み上げた。
「不一致理由欄」
頁の下部に、文字が浮かぶ。
ノアとレオは、同時にそれを見た。
そこには、冷たい灰色の字で、こう書かれていた。
伴侶契約による不正固定。




