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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第六章【魂帳局と転生者狩り】

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第107話 回収対象


 灰色の扉は、黒い棺の奥にあった。


 戦場跡の灰色の空の下。


 黒く湿った土、折れた剣、浅い墓穴、焼けた旗。そのすべての奥に沈んでいた記憶の棺が開き、そこから現れたのは、前世の封印庫でも、父王の倒れた儀式場でもなかった。


 無機質な灰色の扉だった。


 石でもない。


 木でもない。


 金属でもない。


 けれど、その表面はどこか帳簿の紙に似ていた。何枚もの記録紙を圧縮し、固め、扉の形へ押し込めたような質感をしている。中央には封緘印。四隅には古い管理式。扉の縁には、転生記録、魂名照合、死者名簿、前世保存庫を示す細かな文字列が刻まれていた。


 その向こうから、声がした。


「転生者ノア・クロウ、記録不一致。回収対象」


 感情のない声だった。


 生きた人間の声ではない。


 誰かが読み上げているというより、記録そのものが音になっている。


 ノア・クロウは、しばらく黙っていた。


 左手には、幼いイリアスの手がある。


 土まみれの小さな手。


 前世の残響。


 完全に一体化したわけではない。ノアの中へ溶けきったわけでもない。けれど、もう墓穴の前に置き去りにしているわけではなかった。


 ノアはその手を取っている。


 逃げずに、黒い棺の前に立っている。


 それだけで、魂糸の奥が少し重い。


 けれど、前のように裂けそうではなかった。


 ノアは、灰色の扉を見て笑った。


「今度は回収か。俺、荷物扱い多すぎない?」


 軽口だった。


 しかし、声の底は低かった。


 名、声、記憶。


 そこまでは、まだぎりぎり理解できた。


 いや、理解したくはない。理解したくはないが、敵が狙っているものとして、かろうじて形を捉えられた。


 だが、今度は存在そのものだ。


 転生者ノア・クロウ。


 記録不一致。


 回収対象。


 人を、魂を、生きている現在を、まるで棚から外れた帳簿か、登録番号のずれた荷物のように扱っている。


 不快だった。


 腹の奥が冷えるほどに。


 伴侶首輪《メイト・カラー》が、冷たい熱を持った。


 焼けるようではない。


 氷のような熱だった。


 首輪の内側で黒い亀裂が細く疼き、照合率二パーセントの数字が一瞬だけ浮かぶ。だが、進まない。二のまま、黒く沈む。手の甲の照合番号が疼き、掌の三つの紋が灰色の扉へ反応した。


 黒い花。


 灰色の帳簿印。


 白花派紋。


 三つが低く脈打つように光る。


 魂糸が、扉へ引かれた。


 ノアは眉を寄せる。


「勝手に引くな。俺は書類じゃない」


 幼いイリアスが、隣で扉を見上げていた。


「回収って何だ」


「知らない。たぶん役所的には丁寧な言い方なんだろ」


「丁寧か?」


「俺への扱いが最悪なことは確か」


 幼いイリアスは、ノアの手を握り返しはしなかった。


 ただ、離れなかった。


 そのことが、奇妙に重かった。


 背後で、赤い糸が強く震えた。


 レオ・アステルレインが、一歩前へ出る。


 現世の姿のまま、夢の戦場跡に立っている。青い瞳が、灰色の扉を見据えていた。静かな顔だったが、その奥にある怒りは、隠しきれていない。


 白金の魔力が、指先に灯る。


 鋭い。


 冷たい。


 レオは、扉を壊そうとしていた。


 ノアはすぐに言った。


「待て」


 レオは止まらない。


 さらに一歩、ノアの前へ出ようとする。


 ノアを背後に隠そうとするように。


 赤い糸が、現世側へ強く引く。


 ノアの魂を扉から遠ざけようとしている。


 ノアは、幼いイリアスの手を離さないまま、低く言った。


「レオ」


 その声で、レオの足が止まった。


 ただし、魔力は消えない。


 白金の光は、今にも灰色の扉へ突き刺さりそうだった。


 ノアは続ける。


「壊したら情報も消える」


 レオの声は、低かった。


「君を物として扱った」


「そこは同意する。腹立つ」


「なら」


「だから壊すな」


 ノアは、灰色の扉を睨んだ。


「腹立つからこそ、何をどう記録してるのか見る。何を根拠に回収対象なんて言ってるのか、全部吐かせる」


 レオは黙った。


 その沈黙が重い。


 ノアを隠したい。


 扉を壊したい。


 回収などという言葉ごと、灰色の記録機関を消し飛ばしたい。


 その衝動が、赤い糸から伝わってくる。


 だが、レオは踏みとどまった。


 白金の魔力を握り潰すように、手を閉じる。


 光が少しだけ弱まった。


「……君を背後に隠したい」


「言うと思った」


「隠していい?」


「駄目」


「分かってる」


「分かってるなら聞くな」


「聞かないと、本当にやりそうだから」


「自覚があって偉い。最悪だけど」


 レオは、ようやくノアの横に立った。


 前ではない。


 後ろでもない。


 横だった。


 それだけで、ノアは少しだけ息がしやすくなる。


 灰色の扉の表面に、光が走った。


 封緘印が浮かぶ。


 その上に、照合番号。


 さらに、白花派の儀礼対象印。


 ノアの手の甲にあるものと似た形が、扉の表面で重なっていた。


 そして、そのさらに奥。


 紙の繊維の内側に沈むように、微かな文字が浮かぶ。


 署名。


 オルドレイス代理。


 ノアの喉が詰まった。


 軽度の痛みが喉の奥に走る。


 首輪が冷たく熱を持ち、魂糸が扉へ引かれかける。レオの赤い糸が、すぐに現世側へ固定するように張った。


 ノアは、低く呟く。


「やっぱりいるのかよ」


 レオの目が、さらに冷える。


「オルドレイス代理」


「魂帳局全体が黒って決まったわけじゃない」


 ノアは、扉の署名から目を離さなかった。


「けど、少なくとも記録システムの一部は使われてる。あるいは乗っ取られてる。もしくは最初から混じってる」


「全部、嫌な可能性だね」


「嫌な可能性しか出てこないの、もう慣れてきた」


「慣れなくていい」


「慣れないとやってられない」


 幼いイリアスが、ノアの手元を見る。


「これも、俺のせいか」


 ノアは、すぐに答えなかった。


 幼いイリアスの声は、責めるものではなかった。


 けれど、自分が壊したことも、黒魔導書に手を伸ばしたことも、忘れていない声だった。


 ノアは、少しだけ手に力を込める。


 小さな手は冷たい。


「全部お前のせいって話にはしない」


「でも、俺の記録だ」


「俺の記録でもある」


 幼いイリアスが、ノアを見上げる。


 ノアは、扉を見たまま言った。


「だから、俺が見る」


 灰色の扉の向こうから、再び声がした。


「前世記録、現世名、伴侶契約、照合中」


 扉の表面に文字が流れる。


 前世記録。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 現世名。


 ノア・クロウ。


 伴侶契約。


 レオ・アステルレイン。


 セラフィード・ルミナリア。


 その文字列が、冷たい光となって扉の上を滑る。


 ノアは奥歯を噛んだ。


 名前が、また並べられている。


 現世と前世を、同じ棚に置くように。


 名を、記録として。


 伴侶契約を、照合項目として。


 人のつながりを、管理欄に押し込めるように。


 不快だった。


 胸の奥がざわつく。


 喉がまた詰まる。


 照合番号が疼き、首輪の内側に二パーセントの数字が浮かぶ。進まない。だが、確かに見られている感覚があった。


 灰色の扉が、ノアを測っている。


 レオの赤い糸が震えた。


 怒りと恐怖が混じっている。


 レオは、低く言った。


「伴侶契約まで」


「俺たちの契約も管理対象らしい」


「許可していない」


「俺もしてない」


「壊したい」


「さっき言った」


「まだ思っている」


「正直でよろしい。今は我慢しろ」


「……うん」


 レオは、横に立ったまま踏みとどまる。


 今にも扉を裂きそうな白金の魔力を、必死に抑えている。ノアを守りたいという衝動が、少しでも形を間違えれば、情報ごと灰色の扉を破壊する。


 だが、壊さない。


 ノアの選択を奪わない。


 檻ではなく、同行。


 それを守ろうとしている。


 灰色の声は続けた。


「不一致が続く場合、強制回収を実行」


 その瞬間、ノアの首輪が強く冷えた。


 熱いのに冷たい。


 喉が詰まり、息が短くなる。魂糸が扉へ引っ張られる。灰色の扉の奥から、見えない手がノアの記録を引き抜こうとしているようだった。


 幼いイリアスの手が、わずかに強張る。


 レオの赤い糸が、一気に張った。


「ノア・クロウ」


 現世名が、夢の中で強く響く。


 ノアは目を細め、息を整える。


「聞こえてる」


「君は今ここにいる」


「いる。勝手に回収されてたまるか」


「ノア」


「分かってる。熱くならない」


 自分で言いながら、かなり熱くなっている自覚はあった。


 腹が立つ。


 存在そのものを、管理項目として扱われたことが。


 不一致なら回収。


 まるで、規格外品だ。


 人間でも、魂でもなく、棚卸しで見つかった不良在庫みたいな扱いである。最低だ。前世から今世まで、どいつもこいつも人を品目名で呼びすぎる。


 ノアは、低い声で言った。


「俺はノア・クロウだ」


 扉の文字が一瞬止まる。


「イリアス・ノクスヴェルトの記憶を持ってる。黒い災厄の前世もある。そこの手も取った」


 幼いイリアスが、黙ってノアを見る。


「でも、今ここで生きてる俺の名前はノア・クロウだ。記録不一致だろうが、回収対象だろうが、そこは変えない」


 伴侶首輪の二パーセントが、薄く揺れる。


 進まない。


 赤い糸が、静かにノアの背を支える。


 レオは、横で言った。


「僕はレオ・アステルレイン」


 ノアが少しだけ横を見る。


 レオは灰色の扉を見ていた。


「セラフィードの記憶があっても、今ここにいる僕はレオ・アステルレイン。ノア・クロウの伴侶だ」


 赤い糸が、強く光った。


 灰色の扉の封緘印が、不快そうに震えたように見えた。


 ノアは小さく笑う。


「お前もなかなか喧嘩売るな」


「売っている」


「正直でよろしい。最悪だけど、今のは悪くない」


 幼いイリアスが、ぽつりと言った。


「俺は」


 ノアは、幼いイリアスを見る。


 幼いイリアスは、自分の手を見ていた。


「俺は、どう記録される」


 その問いは、重かった。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 黒い災厄。


 前世記録。


 罪人。


 被誘導者。


 殺した者。


 壊された者。


 どの欄にも入りきらない。


 ノアは、幼いイリアスの手を離さずに言った。


「お前は、お前だ」


 幼いイリアスが顔を上げる。


「まだ、うまく言えない。お前の扱い方も分かってない。でも、少なくとも灰色の扉に勝手に決めさせる気はない」


 幼いイリアスは、少しだけ目を細めた。


「遅い」


「知ってる」


「雑」


「それも知ってる」


「でも」


 幼いイリアスは、灰色の扉を見た。


「そいつよりはましだ」


 ノアは一瞬黙った。


 それから、喉の奥で小さく笑った。


「基準が低いな」


「お前が低い」


「自分相手に言われると腹立つな」


 灰色の扉の表面で、照合番号がまた走る。


 封緘印、儀礼対象印、署名、記録不一致。


 扉の奥で、機械的な魔力が集まっていく。


 レオがすぐに身構えた。


 ノアは片手を上げる。


「壊すな」


「まだ何もしていない」


「目がしてる」


「……抑える」


 夢の外。


 現実の寮部屋で、ノアの身体は寝台の上に横たわっていた。


 額には冷や汗が滲んでいる。


 喉が細く震え、息が浅くなる。首元の伴侶首輪は、夢の中と同じように冷たい熱を持っていた。手の甲の照合番号が薄く光り、左掌の三つの紋が封印布の下でわずかに疼く。


 レオの現実の身体は、椅子に座ったままノアの手を握っていた。


 強くはない。


 けれど離さない。


 夢の中の赤い糸と、現実の手の温度が重なる。


 ノアの指先が冷えかけるたび、レオの白金の魔力がほんの少しだけ流れ、現在へ繋ぎ止めていた。


 夢の中で、灰色の扉が低く鳴った。


 封緘印が回転する。


 帳簿の線が開く。


 白花派の儀礼対象印が、一度だけ黒く沈む。


 その奥にあったオルドレイス代理の署名が、薄く笑うように揺れた。


 ノアは眉を寄せる。


「署名が感じ悪い」


「署名に人格を感じたくないね」


「あるんだよ。最悪」


 レオの赤い糸が、また攻撃的に震えかける。


 ノアは軽く睨む。


「我慢」


「してる」


「してるならよし」


 灰色の扉が、ゆっくりと開いた。


 隙間から光が漏れる。


 白ではない。


 黒でもない。


 白灰色の、乾いた光だった。


 扉の向こうには、広大な空間が広がっていた。


 無数の帳簿。


 壁一面の棚。


 空中を流れる記録紙。


 列をなす受付窓口。


 顔のない受付係の影。


 床には番号札を発行する小さな台座が並び、奥には魂名照合、転生記録、前世閲覧、死者名簿照会と書かれた窓口が、無機質に並んでいた。


 白灰色の空間。


 魂帳局。


 その入口が、記憶の棺の奥に口を開けている。


 受付の声が、冷たく響いた。


「番号札をお取りください」


 ノアは、低く笑った。



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