第107話 回収対象
灰色の扉は、黒い棺の奥にあった。
戦場跡の灰色の空の下。
黒く湿った土、折れた剣、浅い墓穴、焼けた旗。そのすべての奥に沈んでいた記憶の棺が開き、そこから現れたのは、前世の封印庫でも、父王の倒れた儀式場でもなかった。
無機質な灰色の扉だった。
石でもない。
木でもない。
金属でもない。
けれど、その表面はどこか帳簿の紙に似ていた。何枚もの記録紙を圧縮し、固め、扉の形へ押し込めたような質感をしている。中央には封緘印。四隅には古い管理式。扉の縁には、転生記録、魂名照合、死者名簿、前世保存庫を示す細かな文字列が刻まれていた。
その向こうから、声がした。
「転生者ノア・クロウ、記録不一致。回収対象」
感情のない声だった。
生きた人間の声ではない。
誰かが読み上げているというより、記録そのものが音になっている。
ノア・クロウは、しばらく黙っていた。
左手には、幼いイリアスの手がある。
土まみれの小さな手。
前世の残響。
完全に一体化したわけではない。ノアの中へ溶けきったわけでもない。けれど、もう墓穴の前に置き去りにしているわけではなかった。
ノアはその手を取っている。
逃げずに、黒い棺の前に立っている。
それだけで、魂糸の奥が少し重い。
けれど、前のように裂けそうではなかった。
ノアは、灰色の扉を見て笑った。
「今度は回収か。俺、荷物扱い多すぎない?」
軽口だった。
しかし、声の底は低かった。
名、声、記憶。
そこまでは、まだぎりぎり理解できた。
いや、理解したくはない。理解したくはないが、敵が狙っているものとして、かろうじて形を捉えられた。
だが、今度は存在そのものだ。
転生者ノア・クロウ。
記録不一致。
回収対象。
人を、魂を、生きている現在を、まるで棚から外れた帳簿か、登録番号のずれた荷物のように扱っている。
不快だった。
腹の奥が冷えるほどに。
伴侶首輪が、冷たい熱を持った。
焼けるようではない。
氷のような熱だった。
首輪の内側で黒い亀裂が細く疼き、照合率二パーセントの数字が一瞬だけ浮かぶ。だが、進まない。二のまま、黒く沈む。手の甲の照合番号が疼き、掌の三つの紋が灰色の扉へ反応した。
黒い花。
灰色の帳簿印。
白花派紋。
三つが低く脈打つように光る。
魂糸が、扉へ引かれた。
ノアは眉を寄せる。
「勝手に引くな。俺は書類じゃない」
幼いイリアスが、隣で扉を見上げていた。
「回収って何だ」
「知らない。たぶん役所的には丁寧な言い方なんだろ」
「丁寧か?」
「俺への扱いが最悪なことは確か」
幼いイリアスは、ノアの手を握り返しはしなかった。
ただ、離れなかった。
そのことが、奇妙に重かった。
背後で、赤い糸が強く震えた。
レオ・アステルレインが、一歩前へ出る。
現世の姿のまま、夢の戦場跡に立っている。青い瞳が、灰色の扉を見据えていた。静かな顔だったが、その奥にある怒りは、隠しきれていない。
白金の魔力が、指先に灯る。
鋭い。
冷たい。
レオは、扉を壊そうとしていた。
ノアはすぐに言った。
「待て」
レオは止まらない。
さらに一歩、ノアの前へ出ようとする。
ノアを背後に隠そうとするように。
赤い糸が、現世側へ強く引く。
ノアの魂を扉から遠ざけようとしている。
ノアは、幼いイリアスの手を離さないまま、低く言った。
「レオ」
その声で、レオの足が止まった。
ただし、魔力は消えない。
白金の光は、今にも灰色の扉へ突き刺さりそうだった。
ノアは続ける。
「壊したら情報も消える」
レオの声は、低かった。
「君を物として扱った」
「そこは同意する。腹立つ」
「なら」
「だから壊すな」
ノアは、灰色の扉を睨んだ。
「腹立つからこそ、何をどう記録してるのか見る。何を根拠に回収対象なんて言ってるのか、全部吐かせる」
レオは黙った。
その沈黙が重い。
ノアを隠したい。
扉を壊したい。
回収などという言葉ごと、灰色の記録機関を消し飛ばしたい。
その衝動が、赤い糸から伝わってくる。
だが、レオは踏みとどまった。
白金の魔力を握り潰すように、手を閉じる。
光が少しだけ弱まった。
「……君を背後に隠したい」
「言うと思った」
「隠していい?」
「駄目」
「分かってる」
「分かってるなら聞くな」
「聞かないと、本当にやりそうだから」
「自覚があって偉い。最悪だけど」
レオは、ようやくノアの横に立った。
前ではない。
後ろでもない。
横だった。
それだけで、ノアは少しだけ息がしやすくなる。
灰色の扉の表面に、光が走った。
封緘印が浮かぶ。
その上に、照合番号。
さらに、白花派の儀礼対象印。
ノアの手の甲にあるものと似た形が、扉の表面で重なっていた。
そして、そのさらに奥。
紙の繊維の内側に沈むように、微かな文字が浮かぶ。
署名。
オルドレイス代理。
ノアの喉が詰まった。
軽度の痛みが喉の奥に走る。
首輪が冷たく熱を持ち、魂糸が扉へ引かれかける。レオの赤い糸が、すぐに現世側へ固定するように張った。
ノアは、低く呟く。
「やっぱりいるのかよ」
レオの目が、さらに冷える。
「オルドレイス代理」
「魂帳局全体が黒って決まったわけじゃない」
ノアは、扉の署名から目を離さなかった。
「けど、少なくとも記録システムの一部は使われてる。あるいは乗っ取られてる。もしくは最初から混じってる」
「全部、嫌な可能性だね」
「嫌な可能性しか出てこないの、もう慣れてきた」
「慣れなくていい」
「慣れないとやってられない」
幼いイリアスが、ノアの手元を見る。
「これも、俺のせいか」
ノアは、すぐに答えなかった。
幼いイリアスの声は、責めるものではなかった。
けれど、自分が壊したことも、黒魔導書に手を伸ばしたことも、忘れていない声だった。
ノアは、少しだけ手に力を込める。
小さな手は冷たい。
「全部お前のせいって話にはしない」
「でも、俺の記録だ」
「俺の記録でもある」
幼いイリアスが、ノアを見上げる。
ノアは、扉を見たまま言った。
「だから、俺が見る」
灰色の扉の向こうから、再び声がした。
「前世記録、現世名、伴侶契約、照合中」
扉の表面に文字が流れる。
前世記録。
イリアス・ノクスヴェルト。
現世名。
ノア・クロウ。
伴侶契約。
レオ・アステルレイン。
セラフィード・ルミナリア。
その文字列が、冷たい光となって扉の上を滑る。
ノアは奥歯を噛んだ。
名前が、また並べられている。
現世と前世を、同じ棚に置くように。
名を、記録として。
伴侶契約を、照合項目として。
人のつながりを、管理欄に押し込めるように。
不快だった。
胸の奥がざわつく。
喉がまた詰まる。
照合番号が疼き、首輪の内側に二パーセントの数字が浮かぶ。進まない。だが、確かに見られている感覚があった。
灰色の扉が、ノアを測っている。
レオの赤い糸が震えた。
怒りと恐怖が混じっている。
レオは、低く言った。
「伴侶契約まで」
「俺たちの契約も管理対象らしい」
「許可していない」
「俺もしてない」
「壊したい」
「さっき言った」
「まだ思っている」
「正直でよろしい。今は我慢しろ」
「……うん」
レオは、横に立ったまま踏みとどまる。
今にも扉を裂きそうな白金の魔力を、必死に抑えている。ノアを守りたいという衝動が、少しでも形を間違えれば、情報ごと灰色の扉を破壊する。
だが、壊さない。
ノアの選択を奪わない。
檻ではなく、同行。
それを守ろうとしている。
灰色の声は続けた。
「不一致が続く場合、強制回収を実行」
その瞬間、ノアの首輪が強く冷えた。
熱いのに冷たい。
喉が詰まり、息が短くなる。魂糸が扉へ引っ張られる。灰色の扉の奥から、見えない手がノアの記録を引き抜こうとしているようだった。
幼いイリアスの手が、わずかに強張る。
レオの赤い糸が、一気に張った。
「ノア・クロウ」
現世名が、夢の中で強く響く。
ノアは目を細め、息を整える。
「聞こえてる」
「君は今ここにいる」
「いる。勝手に回収されてたまるか」
「ノア」
「分かってる。熱くならない」
自分で言いながら、かなり熱くなっている自覚はあった。
腹が立つ。
存在そのものを、管理項目として扱われたことが。
不一致なら回収。
まるで、規格外品だ。
人間でも、魂でもなく、棚卸しで見つかった不良在庫みたいな扱いである。最低だ。前世から今世まで、どいつもこいつも人を品目名で呼びすぎる。
ノアは、低い声で言った。
「俺はノア・クロウだ」
扉の文字が一瞬止まる。
「イリアス・ノクスヴェルトの記憶を持ってる。黒い災厄の前世もある。そこの手も取った」
幼いイリアスが、黙ってノアを見る。
「でも、今ここで生きてる俺の名前はノア・クロウだ。記録不一致だろうが、回収対象だろうが、そこは変えない」
伴侶首輪の二パーセントが、薄く揺れる。
進まない。
赤い糸が、静かにノアの背を支える。
レオは、横で言った。
「僕はレオ・アステルレイン」
ノアが少しだけ横を見る。
レオは灰色の扉を見ていた。
「セラフィードの記憶があっても、今ここにいる僕はレオ・アステルレイン。ノア・クロウの伴侶だ」
赤い糸が、強く光った。
灰色の扉の封緘印が、不快そうに震えたように見えた。
ノアは小さく笑う。
「お前もなかなか喧嘩売るな」
「売っている」
「正直でよろしい。最悪だけど、今のは悪くない」
幼いイリアスが、ぽつりと言った。
「俺は」
ノアは、幼いイリアスを見る。
幼いイリアスは、自分の手を見ていた。
「俺は、どう記録される」
その問いは、重かった。
イリアス・ノクスヴェルト。
黒い災厄。
前世記録。
罪人。
被誘導者。
殺した者。
壊された者。
どの欄にも入りきらない。
ノアは、幼いイリアスの手を離さずに言った。
「お前は、お前だ」
幼いイリアスが顔を上げる。
「まだ、うまく言えない。お前の扱い方も分かってない。でも、少なくとも灰色の扉に勝手に決めさせる気はない」
幼いイリアスは、少しだけ目を細めた。
「遅い」
「知ってる」
「雑」
「それも知ってる」
「でも」
幼いイリアスは、灰色の扉を見た。
「そいつよりはましだ」
ノアは一瞬黙った。
それから、喉の奥で小さく笑った。
「基準が低いな」
「お前が低い」
「自分相手に言われると腹立つな」
灰色の扉の表面で、照合番号がまた走る。
封緘印、儀礼対象印、署名、記録不一致。
扉の奥で、機械的な魔力が集まっていく。
レオがすぐに身構えた。
ノアは片手を上げる。
「壊すな」
「まだ何もしていない」
「目がしてる」
「……抑える」
夢の外。
現実の寮部屋で、ノアの身体は寝台の上に横たわっていた。
額には冷や汗が滲んでいる。
喉が細く震え、息が浅くなる。首元の伴侶首輪は、夢の中と同じように冷たい熱を持っていた。手の甲の照合番号が薄く光り、左掌の三つの紋が封印布の下でわずかに疼く。
レオの現実の身体は、椅子に座ったままノアの手を握っていた。
強くはない。
けれど離さない。
夢の中の赤い糸と、現実の手の温度が重なる。
ノアの指先が冷えかけるたび、レオの白金の魔力がほんの少しだけ流れ、現在へ繋ぎ止めていた。
夢の中で、灰色の扉が低く鳴った。
封緘印が回転する。
帳簿の線が開く。
白花派の儀礼対象印が、一度だけ黒く沈む。
その奥にあったオルドレイス代理の署名が、薄く笑うように揺れた。
ノアは眉を寄せる。
「署名が感じ悪い」
「署名に人格を感じたくないね」
「あるんだよ。最悪」
レオの赤い糸が、また攻撃的に震えかける。
ノアは軽く睨む。
「我慢」
「してる」
「してるならよし」
灰色の扉が、ゆっくりと開いた。
隙間から光が漏れる。
白ではない。
黒でもない。
白灰色の、乾いた光だった。
扉の向こうには、広大な空間が広がっていた。
無数の帳簿。
壁一面の棚。
空中を流れる記録紙。
列をなす受付窓口。
顔のない受付係の影。
床には番号札を発行する小さな台座が並び、奥には魂名照合、転生記録、前世閲覧、死者名簿照会と書かれた窓口が、無機質に並んでいた。
白灰色の空間。
魂帳局。
その入口が、記憶の棺の奥に口を開けている。
受付の声が、冷たく響いた。
「番号札をお取りください」
ノアは、低く笑った。




