第106話 俺から棺を開ける
夜の寮部屋は、静かだった。
窓の外では、学院の灯りが少しずつ落ちている。昼間のざわめきは遠く、廊下を行き交う足音もほとんどない。机の上には、セドリックから渡された安定符が三枚、封印布の上に並べられていた。
一枚は魂糸用。
一枚は伴侶首輪用。
もう一枚は、左の掌に残る三つの紋を暴走させないためのもの。
黒い花。
灰色の帳簿印。
白花派紋。
ノア・クロウの掌には、まだそれらの痕が残っている。
熱は昼間より落ち着いた。だが、完全には消えていない。皮膚の奥、魂の表面に、誰かが押した印が沈んでいる。勝手に押された印だ。勝手に封じられ、勝手に記録され、勝手に災厄へ戻されかけている。
まったく、魂の所有権という概念を全員で学び直してほしい。黒板に百回書け。本人の許可を取れ。
ノアは寝台の端に腰掛けていた。
喉の痛みは少し残っている。重度反応の名残で、長く話すと声が掠れた。首輪の黒い亀裂も完全には消えていない。けれど、昨夜よりは落ち着いている。
レオ・アステルレインは、机のそばに立っていた。
水差しを確認し、安定符の位置を確認し、赤い糸の反応を確かめる。いつもなら、少し過剰だと文句を言うところだった。実際、過剰ではある。過保護の分厚い毛布だ。暑い。
だが、今夜は必要だった。
ノアは、掌を見下ろしたまま言った。
「今度は、俺から棺を開ける」
レオの動きが止まった。
部屋の空気が、少しだけ張る。
レオはすぐには答えなかった。
反対したいのだと、ノアには分かった。
止めたい。
眠らせたくない。
棺など開けさせたくない。
幼いイリアスの手も、黒魔導書の声も、父王殺害の記憶も、魂帳局の封緘印も、もうノアに触れさせたくない。
その全部が、レオの青い瞳の奥にあった。
だが、レオは言わなかった。
閉じ込めるな。
声を奪うな。
名を選ぶのは俺だ。
記憶を勝手に閉じるな。
前世の俺を勝手に抱え込むな。
ノアが何度も言ってきた言葉を、レオは覚えている。
ここで止めれば、またノアの選択を奪うことになる。
レオは、静かに息を吸った。
「一人では行かせない」
ノアは、少しだけ口角を上げた。
「そこは予想通り」
「君が決める。僕はついていく」
その言葉に、ノアは目を瞬かせた。
軽く返すつもりだった。
重いな、と。
相変わらずだな、と。
けれど、先に出たのは別の言葉だった。
「……学習してる」
レオは、わずかに目を伏せる。
「少しだけ」
「本当に少しだけ」
「うん」
「でもまあ、進歩」
ノアは笑った。
軽い笑いだった。
けれど、逃げではなかった。
怖い。
今でも怖い。
幼いイリアスの手を取ることが。記憶の棺を自分から開けることが。前世の罪と怒りと痛みを、自分の中へ迎え入れることが。
怖くないわけがない。
だが、逃げ続けることも、もうできなかった。
前世の自分を置いていかない。
ただし、イリアスに呑まれない。
ノア・クロウとして、棺を開ける。
それが、今出せる答えだった。
レオは寝台の前に膝をつき、ノアを見上げた。
「触れていい?」
「どこ」
「手」
「いい。紋は消すなよ」
「消さない」
レオはノアの左手をそっと取った。
掌の三つの紋には触れない。手の甲と指先を支えるだけだった。白金の魔力が、冷たくなった指先を少しずつ温める。
赤い糸が、静かに震えている。
檻ではない。
今夜の赤い糸は、檻になろうとしていない。
道だった。
ノアが自分で進むための道。
ノアは、掠れた声で言った。
「夢に入ったら、俺が先に行く」
「うん」
「棺も、俺が開ける」
「うん」
「幼いイリアスに手を伸ばすのも、俺がやる」
レオの指が、ほんの少し震えた。
それでも、彼は頷く。
「分かった」
「代わりに抱えるなよ」
「抱えない」
「本当か」
「本当」
「努力するじゃないんだな」
「約束する」
ノアは、少しだけ目を細めた。
「ならよし」
レオは、ノアの手を離さなかった。
ただ、握り込まない。
強く縛らない。
それだけで、ずいぶん違った。
ノアは寝台に横になった。
水杯は枕元。
安定符は胸元の少し下。
掌の紋へは封印布を軽く掛けた。
レオは隣の椅子に座り、赤い糸を整える。
ノアは目を閉じる前に、レオを見た。
「呼び戻す時は、俺の名前」
「ノア・クロウ」
「今じゃない」
「確認」
「便利確認やめろ」
レオの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
ノアも、少し笑った。
そして、目を閉じた。
眠りは、深く沈む水のように訪れた。
だが、溺れる感じではなかった。
落とされるのではない。
自分から降りていく。
暗い階段を、ひとつずつ。
夢の底に、戦場跡が現れた。
灰色の空。
黒く湿った土。
折れた剣。
焼けた旗。
浅い墓穴。
何度も見た場所だった。
けれど、今夜は少し違っていた。
墓穴の奥に、黒い棺があった。
黒魔導書の頁を押し固めたような質感。白い花の蔓。ノア・クロウとイリアス・ノクスヴェルトの名が重なりかけた傷。以前見た時よりも、棺は静かだった。
そして、その前に幼いイリアスが立っていた。
土まみれの手。
赤い瞳。
小さな身体。
泣かない目。
幼いイリアスは、ノアを見上げる。
「来たのか」
ノアは、ゆっくり息を吐いた。
「来た」
軽く言おうとした。
だが、声は低かった。
逃げではない声だった。
幼いイリアスの視線が、ノアの背後へ向く。
レオもいた。
少し離れた場所に立っている。
赤い糸はノアへ繋がっているが、強く引かない。ノアの選択を待つように、静かに張っていた。
幼いイリアスは言った。
「またそいつもいる」
ノアは肩をすくめる。
「置いてくると面倒だからな」
「面倒?」
「こいつ、置いていくと勝手に来る」
レオが静かに言った。
「否定できない」
「しろよ、少しは」
「できない」
「正直でよろしい。最悪だけど」
ほんの少し、空気が緩んだ。
幼いイリアスは、じっと二人を見ていた。
そして、手を伸ばした。
前回と同じ手。
土で汚れた、小さな手。
「じゃあ、連れていけ」
ノアの喉が詰まった。
だが、前よりは息ができた。
首輪が熱を持つ。
けれど、それは拒絶の熱ではなかった。
焼けるような警告ではなく、内側で固まっていたものが少しずつ解けるような熱だった。魂糸が幼いイリアスへ引かれる。赤い糸は、ノアを支えるように静かに光った。
ノアは手を伸ばした。
まだ震えている。
怖い。
その怖さは消えない。
消えないままで、手を伸ばす。
幼いイリアスの手の前で、ノアは一度止まった。
そして、低く言った。
「置いていかない。けど、俺の中で暴れるなら殴るぞ」
幼いイリアスは、初めて少し笑った。
ほんのわずかだった。
唇の端が、かすかに上がる。
泣き方を忘れた子どもが、笑い方も半分忘れているような笑みだった。
「自分を殴るのか」
「必要ならな」
「馬鹿だな」
「知ってる」
「弱い」
「それも知ってる」
「遅い」
「それも散々言われた」
ノアは、幼いイリアスの手を見つめた。
「でも、来た」
幼いイリアスは黙った。
ノアは続ける。
「俺はノア・クロウだ。お前になりきる気はない。お前の罪を、全部黒幕のせいにして逃げる気もない」
首輪の黒い亀裂が、小さく疼く。
だが、広がらない。
「でも、お前をここに置いていく気もない」
レオの赤い糸が、痛いほど静かに震えた。
ノアは幼いイリアスの目を見る。
「連れていく。俺のままで」
幼いイリアスが、土まみれの手を差し出し直した。
「じゃあ、連れていけ」
ノアは、その手を取った。
冷たかった。
小さかった。
だが、触れた瞬間に流れ込んでくるものは、軽くなかった。
土の匂い。
父王の背中。
封印庫の冷気。
黒魔導書の声。
壊したもの。
殺した命。
泣けなかった夜。
セラフィードの声。
頼んだぞ、と笑った最期。
それらが、一気に押し寄せる。
ノアの喉が詰まった。
けれど、叫ばなかった。
重度反応には落ちない。
赤い糸が、現在の名を支える。
レオの声が届く。
「ノア・クロウ」
ノアは幼いイリアスの手を握ったまま、低く答えた。
「俺はノア・クロウ」
幼いイリアスの輪郭が、少しだけ揺れた。
消えない。
ノアに溶けきるわけでもない。
ただ、魂糸のどこかで、過去と現在が結び直される。
伴侶首輪の黒い亀裂が、ほんの少し塞がった。
痛みが消えたわけではない。
だが、裂け目の縁が、わずかに繋がる。
幼いイリアスの手を取ったまま、ノアは黒い棺を見た。
棺が震えていた。
白い花の蔓がほどける。
黒魔導書の頁のような表面に刻まれていた二つの名が、重なりきらず、別々の線として浮かび上がる。
ノア・クロウ。
イリアス・ノクスヴェルト。
混ざるのではない。
消すのでもない。
二つの名が、同じ魂の中で、別々の位置を持つ。
ノアは幼いイリアスの手を握り、もう片方の手を棺へ伸ばした。
「開けるぞ」
幼いイリアスが言う。
「見たら戻れないかもしれない」
「戻る」
「どうやって」
ノアは後ろを見た。
レオがそこにいた。
赤い糸が繋がっている。
重い。
相変わらず重い。
だが、今はその重さが、帰り道だった。
「呼ばせる」
レオの青い瞳が揺れた。
幼いイリアスが、少しだけ目を細める。
「そいつに?」
「ほかに、あんな重く俺の名前呼ぶやついないだろ」
レオが静かに言った。
「呼ぶ」
「ほらな」
ノアは、棺の蓋に手をかけた。
熱い。
冷たい。
黒魔導書の頁のような質感が、掌に吸いつく。三つの紋が反応し、黒い花、灰色の帳簿印、白花派紋が薄く光った。だが、暴走しない。
今度は、外からこじ開けられているのではない。
ノアが、自分の意思で開けている。
蓋が、ゆっくり開いた。
黒い棺の中から、以前の封印庫の匂いはしなかった。
代わりに、灰色の光が漏れた。
石でも木でもない、無機質な灰色。
棺の内側に、扉があった。
巨大ではない。
けれど、異様に冷たい扉だった。
表面には、帳簿の線に似た幾何学模様が刻まれている。中央には封緘印。周囲には、転生記録、魂名照合、死者名簿、前世保存庫を示す古い文字が並んでいた。
魂帳局の灰色の扉。
ノアは、すぐに分かった。
記憶の棺の奥に、魂帳局へ繋がる扉がある。
つまり、魂帳局はノアの記憶だけでなく、転生そのものに深く関わっている。
幼いイリアスの手が、ノアの手の中で小さく動いた。
「ここか」
ノアは頷く。
「たぶんな」
レオが一歩近づく。
赤い糸が、灰色の扉に触れないよう慎重に張る。
「ノア」
「分かってる。突っ込まない」
「本当?」
「たぶん」
「信用が薄い」
「お互い様だろ」
その時、灰色の扉の向こうから声がした。
感情のない声だった。
男でも女でもない。
年齢もない。
紙に記録された文字を、そのまま音にしたような声。
「転生者ノア・クロウ、記録不一致。回収対象」
灰色の扉の封緘印が、淡く光る。
ノアの掌の三つの紋も、それに呼応した。
幼いイリアスの手は、まだノアの手の中にある。
レオの赤い糸は、背後で静かに張っている。
ノアは、しばらく黙っていた。
それから、笑った。
軽い笑いだった。
けれど、逃げではなかった。
「今度は回収か。俺、荷物扱い多すぎない?」
灰色の扉は、無機質な光を放ったまま沈黙していた。




