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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第106話 俺から棺を開ける


 夜の寮部屋は、静かだった。


 窓の外では、学院の灯りが少しずつ落ちている。昼間のざわめきは遠く、廊下を行き交う足音もほとんどない。机の上には、セドリックから渡された安定符が三枚、封印布の上に並べられていた。


 一枚は魂糸用。


 一枚は伴侶首輪《メイト・カラー》用。


 もう一枚は、左の掌に残る三つの紋を暴走させないためのもの。


 黒い花。


 灰色の帳簿印。


 白花派紋。


 ノア・クロウの掌には、まだそれらの痕が残っている。


 熱は昼間より落ち着いた。だが、完全には消えていない。皮膚の奥、魂の表面に、誰かが押した印が沈んでいる。勝手に押された印だ。勝手に封じられ、勝手に記録され、勝手に災厄へ戻されかけている。


 まったく、魂の所有権という概念を全員で学び直してほしい。黒板に百回書け。本人の許可を取れ。


 ノアは寝台の端に腰掛けていた。


 喉の痛みは少し残っている。重度反応の名残で、長く話すと声が掠れた。首輪の黒い亀裂も完全には消えていない。けれど、昨夜よりは落ち着いている。


 レオ・アステルレインは、机のそばに立っていた。


 水差しを確認し、安定符の位置を確認し、赤い糸の反応を確かめる。いつもなら、少し過剰だと文句を言うところだった。実際、過剰ではある。過保護の分厚い毛布だ。暑い。


 だが、今夜は必要だった。


 ノアは、掌を見下ろしたまま言った。


「今度は、俺から棺を開ける」


 レオの動きが止まった。


 部屋の空気が、少しだけ張る。


 レオはすぐには答えなかった。


 反対したいのだと、ノアには分かった。


 止めたい。


 眠らせたくない。


 棺など開けさせたくない。


 幼いイリアスの手も、黒魔導書の声も、父王殺害の記憶も、魂帳局の封緘印も、もうノアに触れさせたくない。


 その全部が、レオの青い瞳の奥にあった。


 だが、レオは言わなかった。


 閉じ込めるな。


 声を奪うな。


 名を選ぶのは俺だ。


 記憶を勝手に閉じるな。


 前世の俺を勝手に抱え込むな。


 ノアが何度も言ってきた言葉を、レオは覚えている。


 ここで止めれば、またノアの選択を奪うことになる。


 レオは、静かに息を吸った。


「一人では行かせない」


 ノアは、少しだけ口角を上げた。


「そこは予想通り」


「君が決める。僕はついていく」


 その言葉に、ノアは目を瞬かせた。


 軽く返すつもりだった。


 重いな、と。


 相変わらずだな、と。


 けれど、先に出たのは別の言葉だった。


「……学習してる」


 レオは、わずかに目を伏せる。


「少しだけ」


「本当に少しだけ」


「うん」


「でもまあ、進歩」


 ノアは笑った。


 軽い笑いだった。


 けれど、逃げではなかった。


 怖い。


 今でも怖い。


 幼いイリアスの手を取ることが。記憶の棺を自分から開けることが。前世の罪と怒りと痛みを、自分の中へ迎え入れることが。


 怖くないわけがない。


 だが、逃げ続けることも、もうできなかった。


 前世の自分を置いていかない。


 ただし、イリアスに呑まれない。


 ノア・クロウとして、棺を開ける。


 それが、今出せる答えだった。


 レオは寝台の前に膝をつき、ノアを見上げた。


「触れていい?」


「どこ」


「手」


「いい。紋は消すなよ」


「消さない」


 レオはノアの左手をそっと取った。


 掌の三つの紋には触れない。手の甲と指先を支えるだけだった。白金の魔力が、冷たくなった指先を少しずつ温める。


 赤い糸が、静かに震えている。


 檻ではない。


 今夜の赤い糸は、檻になろうとしていない。


 道だった。


 ノアが自分で進むための道。


 ノアは、掠れた声で言った。


「夢に入ったら、俺が先に行く」


「うん」


「棺も、俺が開ける」


「うん」


「幼いイリアスに手を伸ばすのも、俺がやる」


 レオの指が、ほんの少し震えた。


 それでも、彼は頷く。


「分かった」


「代わりに抱えるなよ」


「抱えない」


「本当か」


「本当」


「努力するじゃないんだな」


「約束する」


 ノアは、少しだけ目を細めた。


「ならよし」


 レオは、ノアの手を離さなかった。


 ただ、握り込まない。


 強く縛らない。


 それだけで、ずいぶん違った。


 ノアは寝台に横になった。


 水杯は枕元。


 安定符は胸元の少し下。


 掌の紋へは封印布を軽く掛けた。


 レオは隣の椅子に座り、赤い糸を整える。


 ノアは目を閉じる前に、レオを見た。


「呼び戻す時は、俺の名前」


「ノア・クロウ」


「今じゃない」


「確認」


「便利確認やめろ」


 レオの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


 ノアも、少し笑った。


 そして、目を閉じた。


 眠りは、深く沈む水のように訪れた。


 だが、溺れる感じではなかった。


 落とされるのではない。


 自分から降りていく。


 暗い階段を、ひとつずつ。


 夢の底に、戦場跡が現れた。


 灰色の空。


 黒く湿った土。


 折れた剣。


 焼けた旗。


 浅い墓穴。


 何度も見た場所だった。


 けれど、今夜は少し違っていた。


 墓穴の奥に、黒い棺があった。


 黒魔導書の頁を押し固めたような質感。白い花の蔓。ノア・クロウとイリアス・ノクスヴェルトの名が重なりかけた傷。以前見た時よりも、棺は静かだった。


 そして、その前に幼いイリアスが立っていた。


 土まみれの手。


 赤い瞳。


 小さな身体。


 泣かない目。


 幼いイリアスは、ノアを見上げる。


「来たのか」


 ノアは、ゆっくり息を吐いた。


「来た」


 軽く言おうとした。


 だが、声は低かった。


 逃げではない声だった。


 幼いイリアスの視線が、ノアの背後へ向く。


 レオもいた。


 少し離れた場所に立っている。


 赤い糸はノアへ繋がっているが、強く引かない。ノアの選択を待つように、静かに張っていた。


 幼いイリアスは言った。


「またそいつもいる」


 ノアは肩をすくめる。


「置いてくると面倒だからな」


「面倒?」


「こいつ、置いていくと勝手に来る」


 レオが静かに言った。


「否定できない」


「しろよ、少しは」


「できない」


「正直でよろしい。最悪だけど」


 ほんの少し、空気が緩んだ。


 幼いイリアスは、じっと二人を見ていた。


 そして、手を伸ばした。


 前回と同じ手。


 土で汚れた、小さな手。


「じゃあ、連れていけ」


 ノアの喉が詰まった。


 だが、前よりは息ができた。


 首輪が熱を持つ。


 けれど、それは拒絶の熱ではなかった。


 焼けるような警告ではなく、内側で固まっていたものが少しずつ解けるような熱だった。魂糸が幼いイリアスへ引かれる。赤い糸は、ノアを支えるように静かに光った。


 ノアは手を伸ばした。


 まだ震えている。


 怖い。


 その怖さは消えない。


 消えないままで、手を伸ばす。


 幼いイリアスの手の前で、ノアは一度止まった。


 そして、低く言った。


「置いていかない。けど、俺の中で暴れるなら殴るぞ」


 幼いイリアスは、初めて少し笑った。


 ほんのわずかだった。


 唇の端が、かすかに上がる。


 泣き方を忘れた子どもが、笑い方も半分忘れているような笑みだった。


「自分を殴るのか」


「必要ならな」


「馬鹿だな」


「知ってる」


「弱い」


「それも知ってる」


「遅い」


「それも散々言われた」


 ノアは、幼いイリアスの手を見つめた。


「でも、来た」


 幼いイリアスは黙った。


 ノアは続ける。


「俺はノア・クロウだ。お前になりきる気はない。お前の罪を、全部黒幕のせいにして逃げる気もない」


 首輪の黒い亀裂が、小さく疼く。


 だが、広がらない。


「でも、お前をここに置いていく気もない」


 レオの赤い糸が、痛いほど静かに震えた。


 ノアは幼いイリアスの目を見る。


「連れていく。俺のままで」


 幼いイリアスが、土まみれの手を差し出し直した。


「じゃあ、連れていけ」


 ノアは、その手を取った。


 冷たかった。


 小さかった。


 だが、触れた瞬間に流れ込んでくるものは、軽くなかった。


 土の匂い。


 父王の背中。


 封印庫の冷気。


 黒魔導書の声。


 壊したもの。


 殺した命。


 泣けなかった夜。


 セラフィードの声。


 頼んだぞ、と笑った最期。


 それらが、一気に押し寄せる。


 ノアの喉が詰まった。


 けれど、叫ばなかった。


 重度反応には落ちない。


 赤い糸が、現在の名を支える。


 レオの声が届く。


「ノア・クロウ」


 ノアは幼いイリアスの手を握ったまま、低く答えた。


「俺はノア・クロウ」


 幼いイリアスの輪郭が、少しだけ揺れた。


 消えない。


 ノアに溶けきるわけでもない。


 ただ、魂糸のどこかで、過去と現在が結び直される。


 伴侶首輪の黒い亀裂が、ほんの少し塞がった。


 痛みが消えたわけではない。


 だが、裂け目の縁が、わずかに繋がる。


 幼いイリアスの手を取ったまま、ノアは黒い棺を見た。


 棺が震えていた。


 白い花の蔓がほどける。


 黒魔導書の頁のような表面に刻まれていた二つの名が、重なりきらず、別々の線として浮かび上がる。


 ノア・クロウ。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 混ざるのではない。


 消すのでもない。


 二つの名が、同じ魂の中で、別々の位置を持つ。


 ノアは幼いイリアスの手を握り、もう片方の手を棺へ伸ばした。


「開けるぞ」


 幼いイリアスが言う。


「見たら戻れないかもしれない」


「戻る」


「どうやって」


 ノアは後ろを見た。


 レオがそこにいた。


 赤い糸が繋がっている。


 重い。


 相変わらず重い。


 だが、今はその重さが、帰り道だった。


「呼ばせる」


 レオの青い瞳が揺れた。


 幼いイリアスが、少しだけ目を細める。


「そいつに?」


「ほかに、あんな重く俺の名前呼ぶやついないだろ」


 レオが静かに言った。


「呼ぶ」


「ほらな」


 ノアは、棺の蓋に手をかけた。


 熱い。


 冷たい。


 黒魔導書の頁のような質感が、掌に吸いつく。三つの紋が反応し、黒い花、灰色の帳簿印、白花派紋が薄く光った。だが、暴走しない。


 今度は、外からこじ開けられているのではない。


 ノアが、自分の意思で開けている。


 蓋が、ゆっくり開いた。


 黒い棺の中から、以前の封印庫の匂いはしなかった。


 代わりに、灰色の光が漏れた。


 石でも木でもない、無機質な灰色。


 棺の内側に、扉があった。


 巨大ではない。


 けれど、異様に冷たい扉だった。


 表面には、帳簿の線に似た幾何学模様が刻まれている。中央には封緘印。周囲には、転生記録、魂名照合、死者名簿、前世保存庫を示す古い文字が並んでいた。


 魂帳局の灰色の扉。


 ノアは、すぐに分かった。


 記憶の棺の奥に、魂帳局へ繋がる扉がある。


 つまり、魂帳局はノアの記憶だけでなく、転生そのものに深く関わっている。


 幼いイリアスの手が、ノアの手の中で小さく動いた。


「ここか」


 ノアは頷く。


「たぶんな」


 レオが一歩近づく。


 赤い糸が、灰色の扉に触れないよう慎重に張る。


「ノア」


「分かってる。突っ込まない」


「本当?」


「たぶん」


「信用が薄い」


「お互い様だろ」


 その時、灰色の扉の向こうから声がした。


 感情のない声だった。


 男でも女でもない。


 年齢もない。


 紙に記録された文字を、そのまま音にしたような声。


「転生者ノア・クロウ、記録不一致。回収対象」


 灰色の扉の封緘印が、淡く光る。


 ノアの掌の三つの紋も、それに呼応した。


 幼いイリアスの手は、まだノアの手の中にある。


 レオの赤い糸は、背後で静かに張っている。


 ノアは、しばらく黙っていた。


 それから、笑った。


 軽い笑いだった。


 けれど、逃げではなかった。


「今度は回収か。俺、荷物扱い多すぎない?」


 灰色の扉は、無機質な光を放ったまま沈黙していた。




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