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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第105話 俺を連れていけ



 灰色の空の下に、戦場跡が広がっていた。


 何度も見た場所だった。


 黒く湿った土。折れた剣。焼けた旗。浅い墓穴。埋めきれなかったものの匂い。風が吹くたび、灰を含んだ土が細く舞い、足元へまとわりつく。


 夜なのか朝なのか、そこでは分からない。


 ただ、空は重く、光は薄い。


 ノア・クロウは、その場所に立っていた。


 現世の姿のまま。


 学院の制服。首元の伴侶首輪《メイト・カラー》。右手の甲の照合番号。白花派の印。左の掌に残る、黒い花と灰色の帳簿印と白花派紋が重なった痕。


 現世の証拠ばかりを抱えて、前世の墓穴の前に立っている。


 悪い冗談みたいだった。


 魂は、いつから資料保管庫になったのか。棚卸し担当を呼べ。たぶん全員逃げている。


 ノアの正面に、幼いイリアスが立っていた。


 土まみれの手。


 黒い髪。


 赤い瞳。


 小さな身体。


 泣かない目。


 その子どもは、前回と同じように手を伸ばしていた。


 ノアへ向かって。


 まっすぐに。


「じゃあ、俺を連れていけ」


 幼いイリアスの声は、静かだった。


 命令ではない。


 懇願でもない。


 ただ、当然のことを告げるような声だった。


 置いていかないと言うのなら。


 なかったことにしないと言うのなら。


 自分になりきるわけでも、切り捨てるわけでもないと言うのなら。


 では、連れていけ。


 その手を取れ。


 ノアは動けなかった。


 幼いイリアスの手は小さい。


 子どもの手だった。


 土で汚れ、爪の間に黒い泥が入り、冷えた空気の中で少し赤くなっている。


 取ればいい。


 そう思う。


 たった一歩近づいて、その手に触れればいい。


 けれど、指先が動かない。


 手を取った瞬間、前世に呑まれる気がした。


 イリアスの怒り。


 罪。


 喪失。


 黒魔導書。


 父王の血。


 セラフィードへの憎しみ。


 壊したもの。


 殺した命。


 それらが一気に自分の中へ流れ込み、ノア・クロウという輪郭を押し潰す気がした。


 怖かった。


 だが、取らなければ。


 取らなければ、前世の自分をまた置き去りにする気がした。


 墓穴のそばに、幼いイリアスを残していく。


 土まみれの手を伸ばしたまま、誰にも取られず、ずっとそこで待たせる。


 それも、できなかった。


 ノアは軽口を言おうとした。


 何か、いつものように。


 夢の子どもに面接される趣味はないとか。


 魂の迷子センターかよとか。


 連れていけと言われても交通費がないとか。


 くだらない言葉で、少しだけ息を整えようとした。


 だが、声が出なかった。


 喉が詰まっている。


 伴侶首輪が熱を持つ。


 熱いのに、内側は冷たい。黒い亀裂が小さく疼き、魂糸が幼いイリアスの手へ引かれていく。指先が震えた。


 幼いイリアスは、ノアの沈黙を見ていた。


「俺を置いて、ノアになるのか?」


 ノアは、ようやく声を絞り出した。


「違う」


 掠れていた。


 夢の中なのに、現実の喉の痛みが残っている。重度反応の後の傷が、言葉の端を削っていた。


 幼いイリアスは瞬きしない。


「じゃあ、連れていけ」


 その言葉が、胸に落ちる。


 重い。


 ひどく重い。


 ノアは、幼いイリアスの手を見つめたまま、息を吸った。


 入ってこない。


 肺が縮むようだった。


 そこへ、赤い糸が夢の空から降りてきた。


 細い赤。


 けれど、今は妙に静かだった。


 強く引かない。


 絡め取らない。


 急かさない。


 ただ、張っている。


 ノアの選択を待つように。


 その糸を辿って、レオ・アステルレインが現れた。


 現世の姿のまま、戦場跡の土の上に立つ。


 金髪。


 青い瞳。


 学院の制服。


 白金の魔力。


 レオは、幼いイリアスの伸ばした手を見た。


 その瞬間、赤い糸が震えた。


 ノアには分かった。


 レオは手を出したい。


 ノアの代わりに、幼いイリアスを抱えたい。


 土まみれの小さな手を取り、冷えた身体を抱え込み、もう大丈夫だと言いたい。置いていかない、半分持つ、全部持つと、そう言ってしまいたい。


 たぶん、今も思っている。


 いや、絶対に思っている。


 レオの執着は、消えるようなものではない。少し賢くなっただけで、重さそのものは相変わらず岩盤である。世界、よく沈まないな。


 だが、レオは動かなかった。


 幼いイリアスへ手を伸ばさない。


 ノアの前に出ない。


 代わりに、その場で止まった。


 そして、静かに言った。


「ノアが決める」


 幼いイリアスが、レオを見る。


 ノアも、思わずレオを見た。


 レオの顔は苦しそうだった。


 自分で言った言葉に、誰より傷ついている顔だった。


 ノアが決める。


 ノアが取るか、取らないか。


 幼いイリアスをどう連れていくか。


 前世をなかったことにしない方法も、前世に呑まれない方法も、ノアが選ばなければならない。


 レオが代わりに抱え込むことではない。


 レオが赦すことでも、閉じることでも、救ったことにすることでもない。


 ノアの選択だ。


 その当たり前が、ひどく重かった。


 ノアの指先が震えた。


 魂糸が幼いイリアスへ引かれる。


 首輪の黒い亀裂が小さく疼く。


 だが、少しだけ落ち着いている。


 前のように暴走しない。


 照合率も進まない。


 幼いイリアスの手を前にして、現世のノアはまだここにいる。


 ノアは唇を開いた。


 今度は、声が出た。


「待て」


 幼いイリアスの目が、わずかに揺れた。


 ノアは、震える声で続ける。


「置いていかない。けど、今すぐ俺になるな」


 その言葉は、情けなかった。


 格好よくない。


 救いの台詞でもない。


 約束としても半端だ。


 けれど、今のノアが言える、ぎりぎりの真実だった。


「お前をなかったことにはしない。ここに置いていく気もない。でも、今すぐ全部俺の中に入ってこられたら、俺が潰れる」


 幼いイリアスは黙っている。


 ノアは、自分の掌を握った。


 三つの紋が熱を持つ。


 黒い花。


 灰色の帳簿印。


 白花派紋。


 父王殺害術式の核。


 外部から仕込まれた証拠。


 それでも消えない罪。


 ノアは、奥歯を噛んだ。


「俺はノア・クロウだ」


 赤い糸が、静かに震えた。


「でも、お前がいないことにはしない」


 幼いイリアスの伸ばした手が、少しだけ下がる。


 完全には引っ込めない。


 まだ、差し出されている。


 ノアはその手を見つめた。


「まだ取れない」


 声が震えた。


 認めるのが怖かった。


 けれど、言わなければならなかった。


「今は、まだ怖い」


 幼いイリアスが、初めて少しだけ目を細めた。


 怒っているようにも、泣きそうなようにも見えない。


 ただ、ノアの言葉を見定めるような目だった。


「怖い?」


「怖い」


「俺が?」


「お前だけじゃない」


 ノアは低く息を吐く。


「お前を連れていくってことが、怖い。お前の罪も、怒りも、壊したものも、全部俺の中にあるって認めることが怖い。認めたら、俺が俺じゃなくなる気がする」


 レオが静かに聞いている。


 幼いイリアスも聞いている。


 戦場跡の灰色の空だけが、黙って沈んでいる。


 ノアは続けた。


「でも、取らなかったら、俺はまたお前をここに置いていく」


 幼いイリアスの小さな手に、黒い土が落ちる。


「それも嫌だ」


 言葉にすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 逃げ場がない。


 どちらも怖い。


 だが、今までのノアは、この手の前から逃げていた。


 軽口で。


 拒絶で。


 名を選び直すことで。


 ノア・クロウを選んだことは、間違いではない。


 第八十六話のあの夜、彼は確かに現世名を選び直した。


 イリアスをなかったことにしない。


 でも、今ここで生きている自分の名前はノア・クロウだ。


 その選択の続きが、今ここにある。


 現世名を選び直しただけでは足りない。


 前世の自分をどう扱うかを、選ばなければならない。


 ノアは、幼いイリアスの手へ、ゆっくり指を伸ばした。


 まだ触れない。


 届く直前で止める。


 指先が震えている。


 幼いイリアスは、じっと見ていた。


 ノアは言った。


「待て。俺が迎えに来る」


 幼いイリアスの目が、ほんの少しだけ細くなる。


「いつ」


「すぐとは言えない」


「また待たせるのか」


「そうなる」


 ノアは逃げなかった。


 視線を逸らさず、低く続けた。


「でも、今度は忘れない。逃げない。次に棺を開ける時、俺から来る」


 赤い糸が、ゆっくり温度を持った。


 レオの息が、わずかに止まる。


 幼いイリアスは、ノアの指先と自分の手を見比べた。


「取らないのか」


「まだ取れない」


「弱い」


「知ってる」


「遅い」


「それも知ってる」


「怖がり」


「それもまあ、否定できない」


 ノアは、少しだけ口角を上げようとした。


 やはり、うまく笑えなかった。


「夢の子供相手に負けそう」


 幼いイリアスは、ほんのわずかに首を傾げた。


「負け?」


 レオが静かに言う。


「負けじゃない」


 ノアは横目で見る。


 レオは、幼いイリアスを見ていた。


「逃げずに待てと言った。置いていかないと言った。今のノアができる選択をした」


 幼いイリアスは、何も言わない。


 ノアは低く呟いた。


「採点甘くないか」


「甘くない」


「お前の採点、俺にだけだいぶ重いか甘いかの二択だな」


「今回は正しい」


「断言するな」


 ほんの少しだけ、息ができた。


 だが、幼いイリアスの手はまだそこにある。


 取れない手。


 いずれ取らなければならない手。


 幼いイリアスは、ゆっくり手を下ろした。


 完全に諦めたのではない。


 ただ、今は引いた。


「じゃあ、待つ」


 ノアの胸が、痛む。


「……悪い」


「謝るな」


 幼いイリアスは、土まみれの手を握った。


「連れていくなら、謝るな」


 ノアは言葉を失った。


 その声は、幼いのに妙に鋭かった。


 イリアスらしい。


 自分らしい。


 嫌になるほど。


 幼いイリアスは、墓穴のそばへ戻る。


 けれど、前より少しだけ、ノアに近い位置に立った。


 それが何を意味するのか、まだ分からない。


 ただ、記憶の棺の奥で、何かが少しだけ動いた気がした。


 黒い棺の蓋。


 その隙間。


 幼いイリアスを連れていくことが、棺を開ける鍵になる。


 ノアは直感で理解した。


 ただし、それは前世の上書きではない。


 統合に近い。


 ノア・クロウの中へ、イリアスの記憶と罪と痛みを、ノア自身の意思で迎え入れること。


 まだ遠い。


 だが、道は見えた。


 夢が薄れていく。


 灰色の空がほどけ、黒い土が霧のように崩れる。


 レオがノアの隣に立ったまま、静かに言った。


「戻るよ」


「うん」


「ノア・クロウ」


「……俺はノア・クロウ」


 そう言って、ノアは目を覚ました。


 寮部屋はまだ暗かった。


 夜明け前の薄い青が、窓の向こうに沈んでいる。


 身体は重い。


 喉は痛い。


 首輪は少し熱を持っている。


 だが、黒い亀裂の疼きは前より落ち着いていた。


 ノアは右手を動かそうとして、指先が冷えていることに気づいた。


 まるで、夢の中で幼いイリアスの手に触れかけたまま、冷たい空気を握って戻ってきたようだった。


 レオも隣で目を開ける。


 すぐにノアの指先を見る。


「冷えてる」


「診断早いな」


「温めていい?」


「いい。手だけな」


「うん」


 レオはノアの指先を両手で包んだ。


 強く握らない。


 包むだけ。


 白金の魔力が、ゆっくりと冷えをほどいていく。


 ノアは、掠れた声で言った。


「夢の子供相手に負けそう」


 レオは静かに返した。


「負けじゃない」


「さっきも言ってた」


「何度でも言う」


「重い」


「うん」


 ノアは、小さく息を吐いた。


 茶化す力は、少しだけ戻っていた。


 けれど、胸の奥はまだ重い。


 幼いイリアスの手。


 連れていけという声。


 待つという言葉。


 謝るなという声。


 どれも、消えない。


 レオは、ノアの指先を温めながら何も急かさなかった。


 ノアも、しばらく黙っていた。


 やがて夜が明け、寮の窓に薄い光が差し込んだ。


 ノアは、まだ冷えの残る指先を見つめたまま言った。


「レオ」


「何?」


「今夜、寝る前にセドリック先生のところへ行く」


 レオの手が止まる。


 ノアは続けた。


「封緘印と三つの紋の安定処理をしてもらう。赤い糸の制御も」


「どうして」


 ノアは、少しだけ目を伏せた。


 怖い。


 まだ怖い。


 だが、逃げないと言った。


 忘れないと言った。


 次に棺を開ける時、俺から来ると言った。


 ノアは、低く言った。


「今度は、俺から棺を開ける」


 レオが息を止めた。




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