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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第104話 それでも俺は壊した



 夢の空は、灰色だった。


 夜なのか、朝なのか、そこでは分からない。


 ただ、光が薄い。


 戦場跡に降る灰は止んでいるのに、空そのものが灰を抱え込んだように重く沈んでいた。遠くには、焼け落ちた旗の残骸が揺れている。折れた剣。黒く湿った土。浅い墓穴。誰かが埋めきれなかったものの匂い。


 ノア・クロウは、その場所に立っていた。


 現世の姿のまま。


 学院の制服。


 首元の伴侶首輪《メイト・カラー》。


 掌には、黒い花、灰色の帳簿印、白花派紋が重なった痕の熱が残っている。夢の中では布も包帯もなく、三つの紋は皮膚の奥で淡く沈んでいた。


 少し離れた場所に、幼いイリアスが立っていた。


 土まみれの手。


 黒い髪。


 赤い瞳。


 泣かない目。


 その小さな身体は、夢の戦場跡の中で妙にくっきりしていた。灰色の空も、黒い土も、折れた剣も、その子どもの輪郭だけはぼかせないように見えた。


 幼いイリアスは、ノアを見上げた。


 そして、静かに言った。


「それでも俺は壊した」


 ノアは黙った。


 言葉が出なかった。


 出せなかった。


 胸の奥が重い。


 喉が詰まり、首輪が冷たくなる。熱ではない。焼けるような警告ではなく、氷の輪を首にかけられたような冷たさだった。魂糸が、幼いイリアスの声に触れて小さく揺れる。


 同盟儀式には黒幕がいた。


 父王殺害は、ルミナリア聖魔法ではなかった。


 白金の光は偽装で、内側には黒い術式が花のように開いていた。その核には、黒い花、灰色の帳簿印、白花派紋が重なっていた。さらにその上には、オルドレイス式の構文があった。


 イリアスは、仕組まれた。


 誘導された。


 最も弱ったところへ、黒魔導書の声と、封印庫の影と、奪われたなら奪い返せという言葉を差し込まれた。


 けれど。


 だからといって。


 幼いイリアスは、ノアを見上げたまま言う。


「俺は黒魔導書を取った」


 ノアは息を詰める。


「俺は怒った。憎んだ。奪い返せって声を聞いて、手を伸ばした」


 小さな手が、土を握る。


 その手は、子どものものだった。


 それなのに、抱えているものは重すぎた。


「俺は、たくさん殺した」


 ノアの喉が、さらに詰まった。


 重度反応ではない。


 身体が壊れるほどではない。


 けれど、魂の奥に石を落とされたように重かった。


 誘導されたことと、罪が消えることは違う。


 黒幕がいたことと、イリアスが何も選ばなかったことは違う。


 誰かに背中を押された。


 だが、手を伸ばしたのはイリアスだった。


 黒魔導書を取り込んだのも、憎しみに身を委ねたのも、世界を壊しかけたのも、イリアス自身だった。


 そこを曖昧にすれば、楽になれるかもしれない。


 仕組まれたから。


 騙されたから。


 誘導されたから。


 だから悪くない。


 そう言えたら、どれだけ楽だろう。


 けれど、それは違う。


 ノアは、低く言った。


「分かってる」


 声は掠れていた。


 昨夜の重度反応の痛みがまだ残っている。夢の中でも、喉の奥が焼けたように痛む。


 幼いイリアスは、じっとノアを見る。


「じゃあ、俺をどうする?」


 ノアは答えられなかった。


 風が、灰色の戦場跡を撫でる。


 浅い墓穴の縁が少し崩れた。


 遠くで、折れた旗が音もなく揺れる。


 俺をどうする。


 前世をなかったことにはしない。


 そう言った。


 イリアスを置いていかない。


 そう言いたかった。


 けれど、前世に呑まれるわけにもいかない。


 ノア・クロウは、ノア・クロウとして生きている。


 イリアスの罪を否定しない。


 だが、イリアスの罪だけで現世の自分を潰すことも違う。


 その中間。


 なかったことにしない。


 呑まれもしない。


 連れていく。


 背負うのではなく、連れていく。


 言葉としては分かっている。


 けれど、幼いイリアスを目の前にすると、その言葉は形にならなかった。


 どう連れていく。


 罪ごと。


 痛みごと。


 殺した事実ごと。


 その答えを、ノアはまだ持っていなかった。


 幼いイリアスは、さらに問う。


「俺を捨てるのか」


 ノアの胸が軋む。


「違う」


「じゃあ俺になるのか」


「それも違う」


「じゃあ、どうする?」


 ノアは唇を結んだ。


 答えられない沈黙が、喉の奥で重く膨らむ。


 そこへ、赤い糸が降りてきた。


 灰色の空から、一本の赤が伸びる。


 その先を辿るように、レオ・アステルレインが夢の戦場跡へ現れた。


 現世の姿のまま。


 金髪。


 青い瞳。


 学院の制服。


 白金の魔力。


 夢へ入るたび、レオの表情は少しずつ変わっている気がした。前は、ノアを救うことだけでいっぱいだった。閉じたい、抱えたい、守りたい、奪われたくない。その全部が、赤い糸から溢れていた。


 今も重い。


 それは変わらない。


 たぶん、一生変わらない。人の執着は雑草より生命力がある。困った園芸だ。


 けれど、今のレオは、ただ閉じようとはしていなかった。


 ノアの隣へ立つ。


 幼いイリアスを見下ろすのではなく、同じ夢の土の上に立つ。


 幼いイリアスは、レオを見た。


「お前は俺を許すのか?」


 赤い糸が、痛むように震えた。


 ノアは、レオを見る。


 息が止まりかけた。


 レオはイリアスを愛していた。


 前世で、半分持つと言った。


 最後には、世界のためにイリアスを討った。


 現世で、ノアを救うために夢へ入り、黒く燃える記憶の中でも名前を呼び続けた。


 そのレオが、何と答えるのか。


 ノアは分からなかった。


 分からなくて、少し怖かった。


 許す。


 もし、そう言われたら。


 優しい言葉のはずなのに、たぶん苦しくなる。


 許さない。


 そう言われても、きっと痛む。


 どちらでも、逃げ場がない。


 レオは、すぐには答えなかった。


 青い瞳が、幼いイリアスをまっすぐ見ている。


 その目の奥に、愛があった。


 後悔もあった。


 罪悪感もあった。


 それでも、答えは静かだった。


「許すかどうかを、僕だけが決めていいとは思わない」


 ノアは、わずかに目を開いた。


 幼いイリアスも瞬きした。


 レオは続けた。


「君に殺された人がいる。壊されたものがある。戻らない命がある。僕が君を愛していたからといって、それを全部、僕の言葉だけで赦すことはできない」


 赤い糸が、低く震える。


 痛みを抱えた震えだった。


「でも」


 レオの声が、少しだけ深くなる。


「君を、ただ災厄として切り捨てることもしない」


 幼いイリアスが、黙って見上げている。


「君が誘導されたことも見る。君が選んだことも見る。君が壊したことも、君が壊されていたことも、どちらも見る」


 ノアの喉が詰まった。


 その答えに、少し揺れた。


 レオが、イリアスの罪を勝手に赦すと言わなかったことに。


 同時に、見捨てるとも言わなかったことに。


 愛と罪の両方を抱えようとしている。


 重い。


 とんでもなく重い。


 だが、それは以前のような、全部を閉じ込めて自分のものにしようとする重さとは少し違った。


 レオは、ノアを見る。


「僕は、ノアを手放さない」


 ノアは息を止めた。


「君がイリアスの罪と向き合っても、前世の記憶に揺れても、君がノア・クロウとして生きると言うなら、僕はその隣にいる」


 幼いイリアスが問う。


「俺は?」


 レオは幼いイリアスへ視線を戻す。


「君を勝手には抱え込まない」


 ノアの胸が、また軋んだ。


 それは、ノアが出した条件だった。


 前世の俺を勝手に抱え込まない。


 レオは守っている。


 苦しそうに。


 今にも手を伸ばしそうなほど重い顔で。


 それでも、守っている。


 幼いイリアスは土まみれの手を見下ろした。


「じゃあ、俺はどうなる」


 ノアは、今度こそ答えなければならないと思った。


 けれど、まだ言葉にならない。


 喉が詰まる。


 首輪が冷たい。


 魂糸が、幼いイリアスと現世のノアの間で不安定に揺れる。


「……まだ、分からない」


 ノアは低く言った。


 情けない答えだった。


 だが、嘘よりはましだった。


「お前をなかったことにはしない。お前になりきる気もない。お前の罪を、黒幕のせいだけにする気もない」


 幼いイリアスは、じっと聞いている。


「でも、どう連れていくのかは、まだ分からない」


 風が吹いた。


 灰色の空の下、浅い墓穴の土が少し舞う。


 幼いイリアスは、責めなかった。


 泣きもしない。


 ただ、静かに言う。


「遅い」


 ノアは苦く息を吐いた。


「知ってる」


「俺は、ずっとここにいた」


「知ってる」


「置いていった」


「……知ってる」


 それ以上、言えなかった。


 レオの赤い糸が、そっと足元へ近づく。


 触れすぎない。


 支えるだけ。


 幼いイリアスは、ノアへ一歩近づいた。


 土まみれの小さな手が、ノアへ伸びる。


「じゃあ、俺を連れていけ」


 ノアの呼吸が止まった。


 その手は小さい。


 軽そうに見える。


 けれど、世界の終わりほど重く見えた。


 取れば、何かが変わる。


 取らなければ、また置いていく。


 ノアは手を伸ばそうとした。


 指先が動く。


 だが、届かない。


 身体が固まる。


 怖かった。


 幼いイリアスを連れていくということが、何を意味するのか。


 罪を認めること。


 痛みを持つこと。


 前世をなかったことにしないこと。


 それでも現世を選ぶこと。


 その全部を、まだノアは握りきれなかった。


 幼いイリアスの手は、目の前にある。


 レオは何も言わない。


 代わりに、赤い糸だけが静かに震えている。


 ノアは、手を取れなかった。


 その瞬間、夢が薄れていく。


 灰色の空が崩れる。


 戦場跡が遠ざかる。


 幼いイリアスの手だけが、最後まで見えていた。


 ノアは、息を詰めたまま目を覚ました。


 寮部屋の天井が見えた。


 夜明け前の薄暗さ。


 喉の奥に残る苦さ。


 首輪の冷たさ。


 掌の三つの紋の熱。


 隣にいたレオが、すぐに身体を起こす。


「ノア」


 ノアは返事をしなかった。


 できなかった。


 しばらく、ただ天井を見ていた。


 幼いイリアスの手が、まだ目の前に残っているようだった。


 レオは水杯を取った。


 急かさず、ノアの視界に入る位置へ置く。


「水」


 ノアは、ゆっくり手を伸ばした。


 受け取る指先が少し震えている。水を飲むと、喉の痛みがじわりと広がった。けれど、飲めないほどではない。


 沈黙が続いた。


 いつもなら、何か言う。


 嫌な夢だとか、魂の面談が長いとか、夢の中まで説教するなとか。


 だが、今日は出てこなかった。


 ノアは、掠れた声で呟いた。


「今日は茶化す燃料切れ」


 レオは静かに答えた。


「黙っていていい」


 ノアは水杯を見下ろしたまま、小さく息を吐いた。


「……それ、助かる」


 レオは何も言わず、ただ隣にいた。


 赤い糸は、静かに繋がっていた。




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