第104話 それでも俺は壊した
夢の空は、灰色だった。
夜なのか、朝なのか、そこでは分からない。
ただ、光が薄い。
戦場跡に降る灰は止んでいるのに、空そのものが灰を抱え込んだように重く沈んでいた。遠くには、焼け落ちた旗の残骸が揺れている。折れた剣。黒く湿った土。浅い墓穴。誰かが埋めきれなかったものの匂い。
ノア・クロウは、その場所に立っていた。
現世の姿のまま。
学院の制服。
首元の伴侶首輪。
掌には、黒い花、灰色の帳簿印、白花派紋が重なった痕の熱が残っている。夢の中では布も包帯もなく、三つの紋は皮膚の奥で淡く沈んでいた。
少し離れた場所に、幼いイリアスが立っていた。
土まみれの手。
黒い髪。
赤い瞳。
泣かない目。
その小さな身体は、夢の戦場跡の中で妙にくっきりしていた。灰色の空も、黒い土も、折れた剣も、その子どもの輪郭だけはぼかせないように見えた。
幼いイリアスは、ノアを見上げた。
そして、静かに言った。
「それでも俺は壊した」
ノアは黙った。
言葉が出なかった。
出せなかった。
胸の奥が重い。
喉が詰まり、首輪が冷たくなる。熱ではない。焼けるような警告ではなく、氷の輪を首にかけられたような冷たさだった。魂糸が、幼いイリアスの声に触れて小さく揺れる。
同盟儀式には黒幕がいた。
父王殺害は、ルミナリア聖魔法ではなかった。
白金の光は偽装で、内側には黒い術式が花のように開いていた。その核には、黒い花、灰色の帳簿印、白花派紋が重なっていた。さらにその上には、オルドレイス式の構文があった。
イリアスは、仕組まれた。
誘導された。
最も弱ったところへ、黒魔導書の声と、封印庫の影と、奪われたなら奪い返せという言葉を差し込まれた。
けれど。
だからといって。
幼いイリアスは、ノアを見上げたまま言う。
「俺は黒魔導書を取った」
ノアは息を詰める。
「俺は怒った。憎んだ。奪い返せって声を聞いて、手を伸ばした」
小さな手が、土を握る。
その手は、子どものものだった。
それなのに、抱えているものは重すぎた。
「俺は、たくさん殺した」
ノアの喉が、さらに詰まった。
重度反応ではない。
身体が壊れるほどではない。
けれど、魂の奥に石を落とされたように重かった。
誘導されたことと、罪が消えることは違う。
黒幕がいたことと、イリアスが何も選ばなかったことは違う。
誰かに背中を押された。
だが、手を伸ばしたのはイリアスだった。
黒魔導書を取り込んだのも、憎しみに身を委ねたのも、世界を壊しかけたのも、イリアス自身だった。
そこを曖昧にすれば、楽になれるかもしれない。
仕組まれたから。
騙されたから。
誘導されたから。
だから悪くない。
そう言えたら、どれだけ楽だろう。
けれど、それは違う。
ノアは、低く言った。
「分かってる」
声は掠れていた。
昨夜の重度反応の痛みがまだ残っている。夢の中でも、喉の奥が焼けたように痛む。
幼いイリアスは、じっとノアを見る。
「じゃあ、俺をどうする?」
ノアは答えられなかった。
風が、灰色の戦場跡を撫でる。
浅い墓穴の縁が少し崩れた。
遠くで、折れた旗が音もなく揺れる。
俺をどうする。
前世をなかったことにはしない。
そう言った。
イリアスを置いていかない。
そう言いたかった。
けれど、前世に呑まれるわけにもいかない。
ノア・クロウは、ノア・クロウとして生きている。
イリアスの罪を否定しない。
だが、イリアスの罪だけで現世の自分を潰すことも違う。
その中間。
なかったことにしない。
呑まれもしない。
連れていく。
背負うのではなく、連れていく。
言葉としては分かっている。
けれど、幼いイリアスを目の前にすると、その言葉は形にならなかった。
どう連れていく。
罪ごと。
痛みごと。
殺した事実ごと。
その答えを、ノアはまだ持っていなかった。
幼いイリアスは、さらに問う。
「俺を捨てるのか」
ノアの胸が軋む。
「違う」
「じゃあ俺になるのか」
「それも違う」
「じゃあ、どうする?」
ノアは唇を結んだ。
答えられない沈黙が、喉の奥で重く膨らむ。
そこへ、赤い糸が降りてきた。
灰色の空から、一本の赤が伸びる。
その先を辿るように、レオ・アステルレインが夢の戦場跡へ現れた。
現世の姿のまま。
金髪。
青い瞳。
学院の制服。
白金の魔力。
夢へ入るたび、レオの表情は少しずつ変わっている気がした。前は、ノアを救うことだけでいっぱいだった。閉じたい、抱えたい、守りたい、奪われたくない。その全部が、赤い糸から溢れていた。
今も重い。
それは変わらない。
たぶん、一生変わらない。人の執着は雑草より生命力がある。困った園芸だ。
けれど、今のレオは、ただ閉じようとはしていなかった。
ノアの隣へ立つ。
幼いイリアスを見下ろすのではなく、同じ夢の土の上に立つ。
幼いイリアスは、レオを見た。
「お前は俺を許すのか?」
赤い糸が、痛むように震えた。
ノアは、レオを見る。
息が止まりかけた。
レオはイリアスを愛していた。
前世で、半分持つと言った。
最後には、世界のためにイリアスを討った。
現世で、ノアを救うために夢へ入り、黒く燃える記憶の中でも名前を呼び続けた。
そのレオが、何と答えるのか。
ノアは分からなかった。
分からなくて、少し怖かった。
許す。
もし、そう言われたら。
優しい言葉のはずなのに、たぶん苦しくなる。
許さない。
そう言われても、きっと痛む。
どちらでも、逃げ場がない。
レオは、すぐには答えなかった。
青い瞳が、幼いイリアスをまっすぐ見ている。
その目の奥に、愛があった。
後悔もあった。
罪悪感もあった。
それでも、答えは静かだった。
「許すかどうかを、僕だけが決めていいとは思わない」
ノアは、わずかに目を開いた。
幼いイリアスも瞬きした。
レオは続けた。
「君に殺された人がいる。壊されたものがある。戻らない命がある。僕が君を愛していたからといって、それを全部、僕の言葉だけで赦すことはできない」
赤い糸が、低く震える。
痛みを抱えた震えだった。
「でも」
レオの声が、少しだけ深くなる。
「君を、ただ災厄として切り捨てることもしない」
幼いイリアスが、黙って見上げている。
「君が誘導されたことも見る。君が選んだことも見る。君が壊したことも、君が壊されていたことも、どちらも見る」
ノアの喉が詰まった。
その答えに、少し揺れた。
レオが、イリアスの罪を勝手に赦すと言わなかったことに。
同時に、見捨てるとも言わなかったことに。
愛と罪の両方を抱えようとしている。
重い。
とんでもなく重い。
だが、それは以前のような、全部を閉じ込めて自分のものにしようとする重さとは少し違った。
レオは、ノアを見る。
「僕は、ノアを手放さない」
ノアは息を止めた。
「君がイリアスの罪と向き合っても、前世の記憶に揺れても、君がノア・クロウとして生きると言うなら、僕はその隣にいる」
幼いイリアスが問う。
「俺は?」
レオは幼いイリアスへ視線を戻す。
「君を勝手には抱え込まない」
ノアの胸が、また軋んだ。
それは、ノアが出した条件だった。
前世の俺を勝手に抱え込まない。
レオは守っている。
苦しそうに。
今にも手を伸ばしそうなほど重い顔で。
それでも、守っている。
幼いイリアスは土まみれの手を見下ろした。
「じゃあ、俺はどうなる」
ノアは、今度こそ答えなければならないと思った。
けれど、まだ言葉にならない。
喉が詰まる。
首輪が冷たい。
魂糸が、幼いイリアスと現世のノアの間で不安定に揺れる。
「……まだ、分からない」
ノアは低く言った。
情けない答えだった。
だが、嘘よりはましだった。
「お前をなかったことにはしない。お前になりきる気もない。お前の罪を、黒幕のせいだけにする気もない」
幼いイリアスは、じっと聞いている。
「でも、どう連れていくのかは、まだ分からない」
風が吹いた。
灰色の空の下、浅い墓穴の土が少し舞う。
幼いイリアスは、責めなかった。
泣きもしない。
ただ、静かに言う。
「遅い」
ノアは苦く息を吐いた。
「知ってる」
「俺は、ずっとここにいた」
「知ってる」
「置いていった」
「……知ってる」
それ以上、言えなかった。
レオの赤い糸が、そっと足元へ近づく。
触れすぎない。
支えるだけ。
幼いイリアスは、ノアへ一歩近づいた。
土まみれの小さな手が、ノアへ伸びる。
「じゃあ、俺を連れていけ」
ノアの呼吸が止まった。
その手は小さい。
軽そうに見える。
けれど、世界の終わりほど重く見えた。
取れば、何かが変わる。
取らなければ、また置いていく。
ノアは手を伸ばそうとした。
指先が動く。
だが、届かない。
身体が固まる。
怖かった。
幼いイリアスを連れていくということが、何を意味するのか。
罪を認めること。
痛みを持つこと。
前世をなかったことにしないこと。
それでも現世を選ぶこと。
その全部を、まだノアは握りきれなかった。
幼いイリアスの手は、目の前にある。
レオは何も言わない。
代わりに、赤い糸だけが静かに震えている。
ノアは、手を取れなかった。
その瞬間、夢が薄れていく。
灰色の空が崩れる。
戦場跡が遠ざかる。
幼いイリアスの手だけが、最後まで見えていた。
ノアは、息を詰めたまま目を覚ました。
寮部屋の天井が見えた。
夜明け前の薄暗さ。
喉の奥に残る苦さ。
首輪の冷たさ。
掌の三つの紋の熱。
隣にいたレオが、すぐに身体を起こす。
「ノア」
ノアは返事をしなかった。
できなかった。
しばらく、ただ天井を見ていた。
幼いイリアスの手が、まだ目の前に残っているようだった。
レオは水杯を取った。
急かさず、ノアの視界に入る位置へ置く。
「水」
ノアは、ゆっくり手を伸ばした。
受け取る指先が少し震えている。水を飲むと、喉の痛みがじわりと広がった。けれど、飲めないほどではない。
沈黙が続いた。
いつもなら、何か言う。
嫌な夢だとか、魂の面談が長いとか、夢の中まで説教するなとか。
だが、今日は出てこなかった。
ノアは、掠れた声で呟いた。
「今日は茶化す燃料切れ」
レオは静かに答えた。
「黙っていていい」
ノアは水杯を見下ろしたまま、小さく息を吐いた。
「……それ、助かる」
レオは何も言わず、ただ隣にいた。
赤い糸は、静かに繋がっていた。




