第103話 三つの紋
朝の研究室は、夜の残骸をまだ片づけきれていなかった。
仮眠台の脇には水差しが置かれている。喉の治癒に使った銀糸、首輪の熱を抑える冷却符、魂糸の揺れを記録した紙片、黒魔法陣の焦げ跡。窓の外はもう明るいのに、室内にはまだ夢の儀式場の気配が残っていた。
白金の光。
黒い術式。
父王の胸元で花のように開いた、外部から差し込まれた魔法構文。
ノア・クロウは、仮眠台の上で半身を起こしていた。
声はほとんど出ない。
昨夜、夢の中で叫び続けた喉は、現実に戻っても焼けつくように痛んでいた。息を吸うだけで、喉の奥に黒い灰が残っているような感覚がある。身体は重く、肩から指先まで鈍い痛みが残っていた。重度反応のあと特有の、魂と肉体のずれた感じが抜けていない。
それでも、意識ははっきりしていた。
ノアは、自分の掌を見下ろした。
左の掌に、三つの紋が残っている。
黒い花。
灰色の帳簿印。
白花派の古い紋。
三つが重なり、皮膚の上ではなく、魂の表面から浮かび上がるように見えていた。黒い花は中心から細い花弁を広げ、灰色の帳簿印はその奥に封じるような枠を作っている。白花派の紋は、花弁の縁に絡みつく蔓のように重なっていた。
掌は熱かった。
痛みは鋭くない。
だが、内側からじりじりと炙られるような熱がある。
ノアは掠れた声で呟いた。
「俺の手、証拠品になりがち」
声はひどく潰れていた。
自分で聞いても、紙を擦ったような声だった。
レオ・アステルレインが、すぐに顔を上げる。
「痛む?」
「ちょっとな」
本当は、ちょっとではなかった。
だが、少し盛って言う気力もなかった。逆に、軽く言うほうが今は楽だった。人間、苦しい時ほど表現が雑になる。魂の危機にも語彙力は課税されるらしい。理不尽。
レオは、ノアの手を取ろうとした。
指先が動きかけて、止まる。
青い瞳が、ノアを見る。
「触れていい?」
ノアは、ほんの少しだけ眉を下げた。
「いい。消すなよ」
「消さない」
レオの手が、ノアの掌の下にそっと差し込まれる。
握り込まない。
覆い隠さない。
掌に浮かぶ三つの紋へ直接触れないよう、手首と指の下だけを支えた。白金の治癒魔法も、紋を消すためではなく、周囲の熱を和らげるためだけに薄く広がる。
レオの手は温かかった。
けれど、その温かさの奥に、震えがあった。
怒りではない。
後悔だった。
赤い糸が、静かに震えている。
昨夜の夢の儀式場。
父王の胸元に突き刺さった白金の光。
だが、それは本物のルミナリア聖魔法ではなかった。
聖魔法に偽装された外部術式。
ノアが見た。レオも見た。
そして今、その証拠がノアの掌に残っている。
セドリック・バロウズは、机の前に立ち、黒魔法の解析陣を展開していた。
彼の顔にも疲労が濃い。昨夜から一睡もしていないのだろう。もはや教師というより、魂災害対策班である。そんな役職が存在してたまるか。だが現実は今日も遠慮なく職務範囲を破壊してくる。
セドリックは、ノアの掌を見て低く言った。
「これは証拠になる」
ノアは目だけを向ける。
「昨日の最後に言ってたやつですね」
「そうだ」
「先生、証拠って言葉、重いですね」
「軽い証拠ならここまで厄介ではない」
「でしょうね」
喉が痛む。
レオがすぐに水杯を差し出した。
ノアは受け取り、少しだけ水を含む。飲み込むたび、喉の内側がひきつる。顔をしかめると、レオの眉がわずかに寄った。
「喉、癒していい?」
「あとで。先に説明」
「無理しないで」
「喋る量は減らす」
「本当?」
「たぶん」
「信用が薄い」
「正しい判断」
セドリックが解析陣を指先で調整した。
ノアの掌から浮かび上がる三つの紋が、薄い光の写しとして机上の水晶へ転写される。
黒い花。
灰色の帳簿印。
白花派紋。
水晶の中で三つが重なり、さらにその上を、細い黒い構文が覆っている。
セドリックの目が鋭くなった。
「順に整理する」
ノアは小さく息を吐いた。
「先生の整理、だいたい嫌な棚卸し」
「聞け」
「はい」
セドリックは水晶の中の黒い花を指した。
「この黒い花は、災厄再臨儀礼の核に近い。単なる黒魔法ではない。魂を特定の役割へ戻すための印だ。今回の場合、イリアス・ノクスヴェルトを“黒い災厄”として再定義する構文と繋がる」
ノアの首輪が、低く熱を持った。
レオの赤い糸がすぐに反応する。
ノアは横目で睨んだ。
「糸、落ち着け」
「落ち着いている」
「今、研究室の空気がちょっと刺さった」
「……ごめん」
レオは赤い糸の震えを抑えた。
セドリックは続ける。
「灰色の帳簿印は、魂帳局の封緘印。魂記録、前世記録、死者記録を封じる際に使われる形式だ。昨夜の記録と一致する。同盟儀式記録の封鎖にも関係している」
ノアは、掌の熱を感じながら言った。
「つまり、父王殺害術式の核に、魂帳局の封印の仕組みが混ざってる」
「そういうことだ」
「嫌な混ぜ物」
「料理なら厨房を閉鎖する」
「魂の厨房も閉鎖してほしいですね」
セドリックは白花派の紋へ視線を移した。
「白花派紋は、英雄教会異端派の儀礼線だ。黒い災厄を再臨させ、英雄に再討伐させる思想と繋がる。だが、この紋は現在の白花派資料より古い。父王殺害当時、すでに原型が存在していた可能性がある」
レオの顔が強張る。
「つまり、英雄教会の異端派も、同盟儀式の時点で関与していた」
「確定とは言わない。だが、儀礼線が使われている可能性は高い」
セドリックは、最後に三つの紋の上を覆う細い黒い構文を指した。
「そして、問題はこれだ」
ノアは、水晶の中の黒い構文を見た。
細い。
だが、嫌なほど見覚えがある。
魂帳局の照合番号。
白花派儀礼の欄外。
封印庫の影。
黒魔導書の囁き。
すべてに、似た構文が混じっていた。
セドリックは低く言った。
「三つの紋を利用している、さらに上位の構文がある。オルドレイス式だ」
研究室の空気が沈んだ。
ノアは、掌を見下ろす。
「黒い花、魂帳局、白花派。その上に、オルドレイス」
「現段階では、白花派と魂帳局が実行層、オルドレイス式が設計層として機能している可能性がある」
「真犯人はまだ言えない」
「言えない」
「でも」
ノアは、喉の痛みを押して言った。
「セラフィードの国だけが犯人じゃなかったことは、ほぼ確定か」
レオの手が震えた。
ほんのわずかだった。
けれど、ノアには伝わった。
前世の同盟儀式。
父王の死。
白金の光。
イリアスが見たもの。
セラフィードへ向けた憎しみ。
僕じゃない。
違う。
信じて。
届かなかった言葉。
今、ようやく証拠が現れた。
セラフィードの国だけが犯人ではなかった。
ルミナリア聖魔法ではなかった。
あの白金の光は、偽装だった。
それは、レオにとって救いになるはずだった。
だが、レオの顔に安堵はなかった。
ただ、遅すぎるという痛みだけがあった。
証拠が今さら出ても、イリアスはもう死んでいる。
父王も戻らない。
黒魔導書へ伸ばした手も、世界を壊しかけた夜も、セラフィードがイリアスを討った結末も消えない。
前世の「僕じゃない」に、証拠が追いつくのが遅すぎた。
ノアは、それを察した。
レオの唇が、何かを言おうと動く。
ノアは、その前に低く言った。
「今、謝るなよ」
レオは息を止めた。
「……うん」
「謝られたら、俺も何を返せばいいか分からない」
「うん」
「お前がやってない証拠が出てきたんだ。なのに謝るな」
レオは、ノアの掌を支えたまま、視線を伏せる。
「でも、救えなかった」
ノアは目を閉じた。
その言葉は、避けられなかった。
レオは続けない。
言えば崩れると分かっているからだ。
ノアも、すぐには返せなかった。
救えなかった。
その事実は、セラフィードの無実とは別の場所にある。
真犯人がいても、偽装があっても、記録封鎖があっても、イリアスを救えなかった事実は残る。セラフィードが悪くなかったからといって、悲劇が軽くなるわけではない。
むしろ、重くなる。
誰もが仕組まれた盤面で踊らされ、それでも最後の選択だけは本人たちの手に残されていた。
最悪だ。
人の魂で詰将棋をするな。盤ごと燃やしたい。まあ前世のイリアスは本当に燃やしかけたので、笑えない。人生、皮肉の回収が早すぎる。
ノアは、掠れた声で言った。
「救えなかったのは、お前だけじゃない」
レオが顔を上げる。
「イリアスも、自分を救えなかった。父王も、戦争を止めきれなかった。俺たちの周りにいた大人も、誰も止められなかった。そこに誰かが術式を差し込んだ」
掌の三つの紋が、じわりと熱を持つ。
「だから、お前だけが謝る話じゃない」
レオの青い瞳が揺れた。
赤い糸が、痛いほど静かに震えている。
ノアは顔を逸らした。
「今ので許したとか、そういう綺麗な話にするなよ」
「しない」
「ならよし」
セドリックが、解析水晶を封印布で覆った。
「この三つの紋は、同盟儀式に外部術式が介入した証拠になる。少なくとも、ルミナリア聖魔法単独による攻撃ではないことを示せる」
レオの手が、またわずかに震えた。
だが、今度はノアの掌を強く握らなかった。
証拠を消さない。
ノアの手を傷つけない。
理性が働いていた。
ノアは、それも見ていた。
「えらい」
レオが瞬く。
「何が?」
「握り潰さなかった」
「そんなことしない」
「したい顔してた」
「……少し」
「正直でよろしい。最悪だけど」
レオは小さく息を吐いた。
「消したくはない。でも、君の掌に残っているのが嫌だ」
「俺も嫌だ。でも証拠だ」
「分かってる」
「分かってるなら九点」
「また一点足りない」
「魂帳局へ殴り込みたい顔してるから」
「行きたい」
「やっぱり減点」
レオは、黙ってノアの掌の熱だけを冷やした。
それから喉へ視線を移す。
「喉、癒していい?」
「いい。今日は反論する声も残り少ない」
「喋らなくていい」
「命令すんな」
掠れた声で返すと、レオの表情が少しだけ緩んだ。
ほんのわずかだ。
だが、昨夜から初めて、少しだけ呼吸が戻った顔だった。
レオの白金の治癒魔法が、ノアの喉を包む。
痛みが少しだけやわらぐ。
次に、掌の熱を冷やす。
それから首輪の周囲に残る熱を落とす。
消さない。
触れすぎない。
治すのではなく、支える。
ノアは目を閉じた。
レオは、ノアの声が戻るまで待った。
何かを急かすことも、問い詰めることもなかった。
セドリックはその間、三つの紋の写しを封印紙へ移し、慎重に保管した。
「正式な証拠にするには、学院外部の魂帳局記録と照合する必要がある」
ノアは薄く目を開ける。
「ついに役所本体ですか」
「第六段階だな」
「先生、そういう段階名いらないです」
「事実だ。魂帳局記録と照合しなければ、この紋がどの記録層に属するか断定できない」
レオの目が冷える。
「魂帳局に行く」
ノアは即座に言った。
「まだ行かない」
「でも」
「まだ行かない。俺が歩けるようになってから」
「抱えていく」
「そういう問題じゃない。ほら減点」
レオは黙った。
セドリックが淡々と告げる。
「今の状態で魂帳局記録へ接続すれば、ノアの魂糸が持たない。最低限、首輪の熱と掌の紋の反応を抑える必要がある」
「どれくらい」
「数日」
レオは不満そうだった。
ノアは掠れた声で笑う。
「数日待てない王子様、短気」
「君の記憶に触れた相手を数日放置するのは嫌だ」
「俺も嫌だ。でも、俺が途中で倒れたらもっと面倒だろ」
「面倒ではない」
「面倒だよ。俺が言うんだから面倒」
レオは、ようやく小さく頷いた。
「待つ」
「よろしい」
その日の夜。
ノアは寮部屋へ戻された。
研究室の匂いがまだ服に残っている。水、薬草、黒魔法陣、焦げた紙。身体は重く、声はまだ掠れている。掌の三つの紋は封印布で軽く覆われていたが、熱は完全には引いていない。
レオは、いつものように水を置き、喉の状態を確認し、髪を梳いた。
ノアはほとんど喋らなかった。
喋れなかった、という方が正しい。
レオも無理に話しかけない。
ただ、ときどき名前を呼ぶ。
「ノア・クロウ」
そのたびに、魂糸が少しだけ現在へ戻る。
眠るのは怖かった。
それでも、身体が限界だった。
ノアは寝台に横になった。
レオは傍にいる。
赤い糸は静かに繋がっている。
眠りの底へ落ちる直前、掌の紋がじわりと熱を持った。
夢が開いた。
そこは、戦場跡ではなかった。
封印庫でもない。
白い役所でもない。
灰色の空の下、浅い墓穴のそばに、幼いイリアスが立っていた。
土まみれの手。
泣かない目。
小さな身体。
幼いイリアスは、ノアを見上げた。
そして、静かに言った。
「それでも俺は壊した」




