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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第103話 三つの紋



 朝の研究室は、夜の残骸をまだ片づけきれていなかった。


 仮眠台の脇には水差しが置かれている。喉の治癒に使った銀糸、首輪の熱を抑える冷却符、魂糸の揺れを記録した紙片、黒魔法陣の焦げ跡。窓の外はもう明るいのに、室内にはまだ夢の儀式場の気配が残っていた。


 白金の光。


 黒い術式。


 父王の胸元で花のように開いた、外部から差し込まれた魔法構文。


 ノア・クロウは、仮眠台の上で半身を起こしていた。


 声はほとんど出ない。


 昨夜、夢の中で叫び続けた喉は、現実に戻っても焼けつくように痛んでいた。息を吸うだけで、喉の奥に黒い灰が残っているような感覚がある。身体は重く、肩から指先まで鈍い痛みが残っていた。重度反応のあと特有の、魂と肉体のずれた感じが抜けていない。


 それでも、意識ははっきりしていた。


 ノアは、自分の掌を見下ろした。


 左の掌に、三つの紋が残っている。


 黒い花。


 灰色の帳簿印。


 白花派の古い紋。


 三つが重なり、皮膚の上ではなく、魂の表面から浮かび上がるように見えていた。黒い花は中心から細い花弁を広げ、灰色の帳簿印はその奥に封じるような枠を作っている。白花派の紋は、花弁の縁に絡みつく蔓のように重なっていた。


 掌は熱かった。


 痛みは鋭くない。


 だが、内側からじりじりと炙られるような熱がある。


 ノアは掠れた声で呟いた。


「俺の手、証拠品になりがち」


 声はひどく潰れていた。


 自分で聞いても、紙を擦ったような声だった。


 レオ・アステルレインが、すぐに顔を上げる。


「痛む?」


「ちょっとな」


 本当は、ちょっとではなかった。


 だが、少し盛って言う気力もなかった。逆に、軽く言うほうが今は楽だった。人間、苦しい時ほど表現が雑になる。魂の危機にも語彙力は課税されるらしい。理不尽。


 レオは、ノアの手を取ろうとした。


 指先が動きかけて、止まる。


 青い瞳が、ノアを見る。


「触れていい?」


 ノアは、ほんの少しだけ眉を下げた。


「いい。消すなよ」


「消さない」


 レオの手が、ノアの掌の下にそっと差し込まれる。


 握り込まない。


 覆い隠さない。


 掌に浮かぶ三つの紋へ直接触れないよう、手首と指の下だけを支えた。白金の治癒魔法も、紋を消すためではなく、周囲の熱を和らげるためだけに薄く広がる。


 レオの手は温かかった。


 けれど、その温かさの奥に、震えがあった。


 怒りではない。


 後悔だった。


 赤い糸が、静かに震えている。


 昨夜の夢の儀式場。


 父王の胸元に突き刺さった白金の光。


 だが、それは本物のルミナリア聖魔法ではなかった。


 聖魔法に偽装された外部術式。


 ノアが見た。レオも見た。


 そして今、その証拠がノアの掌に残っている。


 セドリック・バロウズは、机の前に立ち、黒魔法の解析陣を展開していた。


 彼の顔にも疲労が濃い。昨夜から一睡もしていないのだろう。もはや教師というより、魂災害対策班である。そんな役職が存在してたまるか。だが現実は今日も遠慮なく職務範囲を破壊してくる。


 セドリックは、ノアの掌を見て低く言った。


「これは証拠になる」


 ノアは目だけを向ける。


「昨日の最後に言ってたやつですね」


「そうだ」


「先生、証拠って言葉、重いですね」


「軽い証拠ならここまで厄介ではない」


「でしょうね」


 喉が痛む。


 レオがすぐに水杯を差し出した。


 ノアは受け取り、少しだけ水を含む。飲み込むたび、喉の内側がひきつる。顔をしかめると、レオの眉がわずかに寄った。


「喉、癒していい?」


「あとで。先に説明」


「無理しないで」


「喋る量は減らす」


「本当?」


「たぶん」


「信用が薄い」


「正しい判断」


 セドリックが解析陣を指先で調整した。


 ノアの掌から浮かび上がる三つの紋が、薄い光の写しとして机上の水晶へ転写される。


 黒い花。


 灰色の帳簿印。


 白花派紋。


 水晶の中で三つが重なり、さらにその上を、細い黒い構文が覆っている。


 セドリックの目が鋭くなった。


「順に整理する」


 ノアは小さく息を吐いた。


「先生の整理、だいたい嫌な棚卸し」


「聞け」


「はい」


 セドリックは水晶の中の黒い花を指した。


「この黒い花は、災厄再臨儀礼の核に近い。単なる黒魔法ではない。魂を特定の役割へ戻すための印だ。今回の場合、イリアス・ノクスヴェルトを“黒い災厄”として再定義する構文と繋がる」


 ノアの首輪が、低く熱を持った。


 レオの赤い糸がすぐに反応する。


 ノアは横目で睨んだ。


「糸、落ち着け」


「落ち着いている」


「今、研究室の空気がちょっと刺さった」


「……ごめん」


 レオは赤い糸の震えを抑えた。


 セドリックは続ける。


「灰色の帳簿印は、魂帳局の封緘印。魂記録、前世記録、死者記録を封じる際に使われる形式だ。昨夜の記録と一致する。同盟儀式記録の封鎖にも関係している」


 ノアは、掌の熱を感じながら言った。


「つまり、父王殺害術式の核に、魂帳局の封印の仕組みが混ざってる」


「そういうことだ」


「嫌な混ぜ物」


「料理なら厨房を閉鎖する」


「魂の厨房も閉鎖してほしいですね」


 セドリックは白花派の紋へ視線を移した。


「白花派紋は、英雄教会異端派の儀礼線だ。黒い災厄を再臨させ、英雄に再討伐させる思想と繋がる。だが、この紋は現在の白花派資料より古い。父王殺害当時、すでに原型が存在していた可能性がある」


 レオの顔が強張る。


「つまり、英雄教会の異端派も、同盟儀式の時点で関与していた」


「確定とは言わない。だが、儀礼線が使われている可能性は高い」


 セドリックは、最後に三つの紋の上を覆う細い黒い構文を指した。


「そして、問題はこれだ」


 ノアは、水晶の中の黒い構文を見た。


 細い。


 だが、嫌なほど見覚えがある。


 魂帳局の照合番号。


 白花派儀礼の欄外。


 封印庫の影。


 黒魔導書の囁き。


 すべてに、似た構文が混じっていた。


 セドリックは低く言った。


「三つの紋を利用している、さらに上位の構文がある。オルドレイス式だ」


 研究室の空気が沈んだ。


 ノアは、掌を見下ろす。


「黒い花、魂帳局、白花派。その上に、オルドレイス」


「現段階では、白花派と魂帳局が実行層、オルドレイス式が設計層として機能している可能性がある」


「真犯人はまだ言えない」


「言えない」


「でも」


 ノアは、喉の痛みを押して言った。


「セラフィードの国だけが犯人じゃなかったことは、ほぼ確定か」


 レオの手が震えた。


 ほんのわずかだった。


 けれど、ノアには伝わった。


 前世の同盟儀式。


 父王の死。


 白金の光。


 イリアスが見たもの。


 セラフィードへ向けた憎しみ。


 僕じゃない。


 違う。


 信じて。


 届かなかった言葉。


 今、ようやく証拠が現れた。


 セラフィードの国だけが犯人ではなかった。


 ルミナリア聖魔法ではなかった。


 あの白金の光は、偽装だった。


 それは、レオにとって救いになるはずだった。


 だが、レオの顔に安堵はなかった。


 ただ、遅すぎるという痛みだけがあった。


 証拠が今さら出ても、イリアスはもう死んでいる。


 父王も戻らない。


 黒魔導書へ伸ばした手も、世界を壊しかけた夜も、セラフィードがイリアスを討った結末も消えない。


 前世の「僕じゃない」に、証拠が追いつくのが遅すぎた。


 ノアは、それを察した。


 レオの唇が、何かを言おうと動く。


 ノアは、その前に低く言った。


「今、謝るなよ」


 レオは息を止めた。


「……うん」


「謝られたら、俺も何を返せばいいか分からない」


「うん」


「お前がやってない証拠が出てきたんだ。なのに謝るな」


 レオは、ノアの掌を支えたまま、視線を伏せる。


「でも、救えなかった」


 ノアは目を閉じた。


 その言葉は、避けられなかった。


 レオは続けない。


 言えば崩れると分かっているからだ。


 ノアも、すぐには返せなかった。


 救えなかった。


 その事実は、セラフィードの無実とは別の場所にある。


 真犯人がいても、偽装があっても、記録封鎖があっても、イリアスを救えなかった事実は残る。セラフィードが悪くなかったからといって、悲劇が軽くなるわけではない。


 むしろ、重くなる。


 誰もが仕組まれた盤面で踊らされ、それでも最後の選択だけは本人たちの手に残されていた。


 最悪だ。


 人の魂で詰将棋をするな。盤ごと燃やしたい。まあ前世のイリアスは本当に燃やしかけたので、笑えない。人生、皮肉の回収が早すぎる。


 ノアは、掠れた声で言った。


「救えなかったのは、お前だけじゃない」


 レオが顔を上げる。


「イリアスも、自分を救えなかった。父王も、戦争を止めきれなかった。俺たちの周りにいた大人も、誰も止められなかった。そこに誰かが術式を差し込んだ」


 掌の三つの紋が、じわりと熱を持つ。


「だから、お前だけが謝る話じゃない」


 レオの青い瞳が揺れた。


 赤い糸が、痛いほど静かに震えている。


 ノアは顔を逸らした。


「今ので許したとか、そういう綺麗な話にするなよ」


「しない」


「ならよし」


 セドリックが、解析水晶を封印布で覆った。


「この三つの紋は、同盟儀式に外部術式が介入した証拠になる。少なくとも、ルミナリア聖魔法単独による攻撃ではないことを示せる」


 レオの手が、またわずかに震えた。


 だが、今度はノアの掌を強く握らなかった。


 証拠を消さない。


 ノアの手を傷つけない。


 理性が働いていた。


 ノアは、それも見ていた。


「えらい」


 レオが瞬く。


「何が?」


「握り潰さなかった」


「そんなことしない」


「したい顔してた」


「……少し」


「正直でよろしい。最悪だけど」


 レオは小さく息を吐いた。


「消したくはない。でも、君の掌に残っているのが嫌だ」


「俺も嫌だ。でも証拠だ」


「分かってる」


「分かってるなら九点」


「また一点足りない」


「魂帳局へ殴り込みたい顔してるから」


「行きたい」


「やっぱり減点」


 レオは、黙ってノアの掌の熱だけを冷やした。


 それから喉へ視線を移す。


「喉、癒していい?」


「いい。今日は反論する声も残り少ない」


「喋らなくていい」


「命令すんな」


 掠れた声で返すと、レオの表情が少しだけ緩んだ。


 ほんのわずかだ。


 だが、昨夜から初めて、少しだけ呼吸が戻った顔だった。


 レオの白金の治癒魔法が、ノアの喉を包む。


 痛みが少しだけやわらぐ。


 次に、掌の熱を冷やす。


 それから首輪の周囲に残る熱を落とす。


 消さない。


 触れすぎない。


 治すのではなく、支える。


 ノアは目を閉じた。


 レオは、ノアの声が戻るまで待った。


 何かを急かすことも、問い詰めることもなかった。


 セドリックはその間、三つの紋の写しを封印紙へ移し、慎重に保管した。


「正式な証拠にするには、学院外部の魂帳局記録と照合する必要がある」


 ノアは薄く目を開ける。


「ついに役所本体ですか」


「第六段階だな」


「先生、そういう段階名いらないです」


「事実だ。魂帳局記録と照合しなければ、この紋がどの記録層に属するか断定できない」


 レオの目が冷える。


「魂帳局に行く」


 ノアは即座に言った。


「まだ行かない」


「でも」


「まだ行かない。俺が歩けるようになってから」


「抱えていく」


「そういう問題じゃない。ほら減点」


 レオは黙った。


 セドリックが淡々と告げる。


「今の状態で魂帳局記録へ接続すれば、ノアの魂糸が持たない。最低限、首輪の熱と掌の紋の反応を抑える必要がある」


「どれくらい」


「数日」


 レオは不満そうだった。


 ノアは掠れた声で笑う。


「数日待てない王子様、短気」


「君の記憶に触れた相手を数日放置するのは嫌だ」


「俺も嫌だ。でも、俺が途中で倒れたらもっと面倒だろ」


「面倒ではない」


「面倒だよ。俺が言うんだから面倒」


 レオは、ようやく小さく頷いた。


「待つ」


「よろしい」


 その日の夜。


 ノアは寮部屋へ戻された。


 研究室の匂いがまだ服に残っている。水、薬草、黒魔法陣、焦げた紙。身体は重く、声はまだ掠れている。掌の三つの紋は封印布で軽く覆われていたが、熱は完全には引いていない。


 レオは、いつものように水を置き、喉の状態を確認し、髪を梳いた。


 ノアはほとんど喋らなかった。


 喋れなかった、という方が正しい。


 レオも無理に話しかけない。


 ただ、ときどき名前を呼ぶ。


「ノア・クロウ」


 そのたびに、魂糸が少しだけ現在へ戻る。


 眠るのは怖かった。


 それでも、身体が限界だった。


 ノアは寝台に横になった。


 レオは傍にいる。


 赤い糸は静かに繋がっている。


 眠りの底へ落ちる直前、掌の紋がじわりと熱を持った。


 夢が開いた。


 そこは、戦場跡ではなかった。


 封印庫でもない。


 白い役所でもない。


 灰色の空の下、浅い墓穴のそばに、幼いイリアスが立っていた。


 土まみれの手。


 泣かない目。


 小さな身体。


 幼いイリアスは、ノアを見上げた。


 そして、静かに言った。


「それでも俺は壊した」




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