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ハルシュタット王国の冬は、骨を刺すような冷気と共にやってくる。
だが、今年の第一要塞は、例年とは全く異なる熱気に包まれていた。
城下町の至る所で見られるようになった、新型の「魔導暖炉」。その内部には、エルネスタが精製した砂が供給されている。
かつての王国製暖炉は、火力が安定せず、燃料となる魔石を浪費するばかりで部屋がなかなか温まらない代物だった。だが粒子の形状を均一に整え、熱を逃がさないように設計されたエルネスタの砂は、魔石のわずかなエネルギーを数倍に増幅し、長時間にわたって家々を穏やかな熱で満たしていた。
「……随分と、穏やかな顔をするようになったな」
背後からかけられた声に、私は作業の手を止めた。
振り返ると、そこには黒い毛皮の外套を羽織ったゼノン殿下が立っていた。彼の肩にはうっすらと雪が積もっており、たった今まで街の視察に出ていたことが伺える。
「殿下……。はい、ここの冬は厳しいですが、街の人たちが凍えずに済んでいると聞いて、少し安心したのです」
「君の精製した砂のおかげだ。……だが、エルネスタ。君の瞳には、まだ遠くを見つめる姿が残っている」
ゼノンは私の机の端に腰を下ろし、鋭い、だがどこか慈しむような眼差しで私を射抜いた。
私の机の上には、ハルシュタット用の「鋼の砂」とは別に、小さな袋に分けられた、白く柔らかな砂がいくつも並んでいる。
「……これは何だ? 新たな試作の砂か?」
「これは……『土壌改良砂』です。アルカディアの、特に国境付近の痩せた土地に住む民のために、考えたものです」
私の言葉に、ゼノンはわずかに眉を寄せた。
「復讐するのではなかったのか? 君を捨て、泥の中に突き落とした国を」
「国は、滅びればいいと思っています。私を道具としてしか見なかった王族も、貴族も、すべて。……けれど、私が毎日あかぎれを作って砂を整えていた時、唯一『ありがとう』と言ってくれたのは、街道で働く牧夫達や、細々と麦を育てる農民たちでした」
私は袋の中の白い砂を指先で掬い取った。
「彼らは、砂の質がどう変わったかなんて理屈は知りません。でも、『お嬢ちゃんの砂を混ぜると、土がふかふかになる』と言って、笑ってくれた。『いつも支えてくれてありがとう』と。……アルカディアという国が崩壊しても、彼らには、生きるための土を、場所を残してあげたいのです」
ゼノンは私の言葉を遮ることなく、じっと聞き入ってくれていた。
やがて彼は低く重厚な笑い声を上げた。
「……面白い女だ。自国を滅ぼしながら、その足元で懸命に生きる者たちには手を差し伸べようというのか。少し矛盾しているが、それこそが君の『聖女』たる所以かもしれんな。その心があるが故の力か……ふむ」
ゼノンは立ち上がると、私の手からさらさらとこぼれ落ちる白い砂を、自分の掌で受け止めた。
「よかろう。我が王国の密偵を使い、この砂を『肥料』という名目で、アルカディアの辺境の村々に撒かせよう。王宮に届く前に、民の手元に直接な。……代償として、君にはさらに質の良い『兵器用の砂』を打ってもらうぞ。ハッハ」
「はい。……ありがとうございます、ゼノン様」
ゼノンは一瞬、目を見開いたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「恩に着るなら、明日の新兵器の試験を成功させろ。……行くぞ、夕食の時間だ。今日は君の好きなカトブレパスのステーキだ」
「それは貴重な品だったのでは?」
「なあに、いつかは食わねば腐る」
────
その頃、アルカディア王国の王都は、物理的な「腐敗」に蝕まれていた。
「……おい、このパン、石が混じってやがるぞ!」
市場の片隅で、男がパンを地面に叩きつけた。
パン屋の主人は、泣きそうな顔で首を振る。
「勘弁してくれ! 製粉機を動かす魔導具が、砂を噛んじまって壊れたんだ! 仕方ねえから手回しで挽いたんだが、石臼の破片が混じっちまって……。砂も、最近じゃ石すら繋ぎ止められねえんだよ!」
原因はどこでも「砂」だった。
製粉機の回転部分には、摩耗を防ぐための高品質な研磨砂が使われていた。だが、エルネスタの砂が供給されなくなった今、劣悪な砂は摩擦熱で溶け出し、機械そのものを内側から削り取っていたのだ。
そして、王宮の会議室。
アラルリック王子は、目の前に積み上げられた報告書の山に、絶望の表情を浮かべていた。
「……南部の大橋が、崩落しただと? 敵の攻撃も受けていないのに、なぜだ!」
「その……修復用の建材が問題だったようでして……つまり……砂です……」
建設卿が、震える声で答える。
「橋の基礎を固めていた『魔導砂利』が、強固な結合力を突如失いました。エルネスタ嬢がいた頃は、砂が互いの凸凹を噛み合わせることで岩盤のように固まっておりましたが……。今ある砂は、魔力を注ぐと互いに弾け合い、かえって隙間を作ってしまうのです。自重に耐えきれず、自壊しました」
「馬鹿な……。あんな砂女がいないだけで、この国は橋一本維持できないというのか!」
アラルリックは机を殴りつけた。
その隣で、豪華な宝石を散りばめたドレスを着たミラベルが、おどおどと口を開く。
「あ、アラルリック様。私が……私が祈りを捧げれば。砂なんて使わなくても、光輝魔法で橋を繋ぎ止めればいいじゃないですか……」
「黙れミラベル! 貴様の祈り如きで、何万トンの石材が、どう持ち上がるというんだ! それに、昨日の夜会の灯り、なぜ一時間で消えた!?」
「それは……その、照明の魔石が……。最近の魔石は、すぐに熱くなって爆ぜてしまうんですもの……」
ミラベルが泣きそうな顔で俯く。
魔石の精製過程で、砂のフィルターが不純物を取り除けないため、今のアルカディアの魔石はエネルギーの「ムラ」が酷い。一見輝いていても、数十分後には過負荷で自壊する。
そんな中、一人の文官が急報を持って飛び込んできた。
「王子! 大変です! 南部辺境の農村部で、謎の『商人』たちが不審な砂を配り歩いているとの情報が!」
「砂? 何の嫌がらせだ。また崩落でもさせるつもりか!」
「いいえ、それが……。その砂を混ぜた畑だけ、作物が見違えるように育ち、さらには崩れかけていた民家の壁が、その砂を使った建材だけで鉄のように硬く直ったというのです。民の間では『追放された聖女様が、自分らを見捨てずに恵みを送ってくれた』と、不穏な噂が広まっております……!」
アラルリックの顔が、怒りと屈辱で真っ赤に染まる。
「エルネスタ……! 私を差し置いて、民衆の心を掴もうというのか! 汚らわしい砂など、すべて没収しろ! 王室の許可なく砂を流通させることは絶対び許さん!」
「し、しかし王子! すでに民たちはその砂を『命の砂』と呼び、奪おうとしたりすれば、役人に暴動を起こしかねません! 現在の状況で国内で混乱を起こすのはリスクが大きすぎます」
アラルリックの怒声も、もはや崩れゆく国の足音にかき消されていた。
王族が「砂」を軽視し、贅沢に耽っている間に、エルネスタの砂は静かに、だが確実に、民の心という「土壌」を支配し始めていた。
────
ハルシュタット王国。冬の月明かりの下。
私はバルコニーでゼノン様と共に、真っ白に染まった街並みを見下ろしていた。
ハルシュタット王国の街には暖かい灯が点り、煙突からは穏やかな煙が上がっている。
「私の送った砂は……届いたでしょうか?」
「安心しろ。我が国の『運び屋』は優秀だ。今頃、アルカディアの王族が頭を抱えている間に、民たちは君の砂で安泰を得、明日への希望を繋いでいるはずだ」
ゼノン様は、そっと私の隣に歩み寄ると、冷えた私の手に彼自身の大きな手を重ねた。
「エルネスタ。いずれ……この雪が溶ける頃には、この王国の鋼と砂が、アルカディアの腐った門を打ち破るだろう」
「……その時、私はどんな顔で、あの人たちの前に立てばいいでしょうか」
「笑っていればいい。君が正しかったことを、足元の砂が証明しているのだからな」
彼の手の温もりが、冷たい空気の中で唯一の救いのように感じられた。
私は、ゼノン様の肩にそっと頭を預けた。
砂は、無機質な物質だ。
けれど、その一粒一粒には、守りたい者のための温もりと、奪われた者のための冷徹な審判が宿っている。
アルカディアの王都が、自らの重みに耐えきれず崩壊する日は、もう、すぐそこまで来ていた。




