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ハルシュタット王国の空を巨大な影が横切った。
それは王国の悲願であった「新型魔導飛空艇」の試験飛行だった。
これまでの飛空艇は、浮揚機関が高熱を持ちすぎるため、数時間の飛行が限界だった。しかし、機関の冷却系にエルネスタが精製した「高比熱導熱砂」を組み込んだことで、熱の問題は飛躍的に克服された。
砂の一粒一粒が熱を吸い込み、魔力の揺らぎを一定に保つ。その結果、飛空艇はかつてない安定感で、冬の重い空気を切り裂いて進んでいく。
「……美しいな」
展望台で並んで空を見上げるゼノンが、短く、だが実心のこもった声を漏らした。
彼の視線の先にあるのは、単なる兵器ではない。ハルシュタットという国が、砂という最小の単位から作り直された証だ。
「この翼があれば、春を待たずともアルカディアの心臓部にも届く。……エルネスタ、君はこの国の重力さえも変えてしまったようだな」
「私は砂に正しい秩序を与えただけですわ、ゼノン様。……でも、あちらの空は、もっと暗くなっているようですね」
私が指差した南の空は、どんよりとした灰色の雲に覆われていた。それは天候のせいだけではない。
王国のあちこちで、劣化し、不純物を吐き出し始めた魔導装置が黒い煙を上げているのだ。
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アルカディア王国、王都近郊の農村。
そこには王宮の華やかさとは無縁の、泥と汗にまみれた静かな戦いがあった。
「おい隠せ! 役人が来るぞ!」
一人の農夫が叫び、白い砂の入った袋を急いで床下に隠した。
アラルリック王子の命により、各地で「無許可の砂」の没収が始まっていた。だが一度この砂の恩恵を知った民にとって、それは文字通り「命の砂」だった。
「この砂を混ぜただけで、去年の冬に枯れかけた麦が、こんなに青々と立ち上がったんだ……。聖女様は、俺たちを見捨ててなんかいなかったんだよ」
農婦の一人が掌に残ったわずかな砂を愛おしそうに眺めた。
この「救済の砂」は、土壌の保水性を高めるだけでなく、地中に残留していた過去の魔導汚染を吸着し、浄化する働きを持っていた。
かつてエルネスタが「汚い砂仕事」と蔑まれていた陰で、どれほどこの地の土を健やかに保っていたか。その事実が、砂が消えた今、逆説的に民の心に染み渡っていた。
「役人どもは『危険な呪いの砂だ』なんて言うが、嘘だ。本当の呪いは、橋が落ちても、道がぐにゃぐにゃになっても、宝石ばかり買い漁っている王宮の方にある」
不満の種火は、砂という触媒を通じて、急速に王国の隅々まで燃え広がっていた。
────
同刻、アルカディア王宮。
パニックは、もっとも不名誉な形で頂点に達しようとしていた。
アラルリック王子の誕生を祝う祝賀祭。国内外の賓客を招いたその舞台で、アルカディアの「土台」が悲鳴を上げたのだ。
「……な、何だ、この異音は?」
王座に座るアラルリックが、床から伝わる微かな振動に眉を寄せた。
王宮の地下には、建物の巨大な重量を魔法的に支える「防護障壁」の基盤がある。その基盤の隙間には当然、衝撃を吸収し、魔導回路を保護するための砂由来の建材が敷き詰められていた。
しかし、その砂はもう、エルネスタが維持していた「噛み合う形状」を保てなくなっていた。
不純物が交じり、エルネスタの支えすら失った粒子は、建物の重圧を受けて「液状化」を引き起こし始めたのだ。
――ズズッ、ズズズ……。
「き、キャアアアア!」
ミラベルが悲鳴を上げた。
彼女の足元の、美しい大理石の床が、目に見えて沈み込み始めたのだ。
壁のあちこちに、蛇のような亀裂が走り、天井の豪華なシャンデリアが不気味に揺れる。
「報告します! 王宮東塔の基礎が沈下! 結合建材が泥状になり、壁を支えきれません!」
「ば、馬鹿な! す、すぐに魔法で固めろ! 聖女ミラベル、何をしている! 貴様の光で修復しろ!」
アラルリックが怒鳴るが、ミラベルは震える手で光を放つことしかできない。
しかし、砂が物理的な支持力を失った今の状態では、光の魔法など、ただの空虚な照明に過ぎなかった。
「無理です……! 支えが、支えがどこにもないんですもの!」
祝賀祭の会場は、阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わった。
賓客たちは我先にと出口へ殺到し、その混乱の中で、王室の権威を象徴していた巨大な柱が、音を立てて崩れ落ちた。
砂上の楼閣。
その言葉がこれほどまでに残酷な現実となって、彼らを襲う。
アラルリックは、砂煙の中で立ち尽くしていた。
自分の足元にある、ただの塵だと思っていた砂が、実は自分を王座に押し上げていた「骨組み」だったのだと。
────
その夜、ハルシュタット王国。
ゼノン様が私の作業室を訪れた。
彼はアルカディア王宮での崩落の報を聞いても、驚く様子はなかった。
「エルネスタ。君の蒔いた『善意の砂』に惹かれた民たちが、国境付近の村々で、我が王国の密偵に接触してきているぞ」
「……彼らは、何と言っているのですか?」
「『聖女様に、この地へ戻ってきてほしい』とな。……だが、彼らが求めているのは『クロム公爵令嬢』ではない。自分達の家族を見捨てず、麦を実らせ、家の壁を直してくれた、『あの砂の聖女』だ」
ゼノン様は私の手をそっと取り、その指先を見つめた。
「どうする。……彼らが望むなら、君をこの王国の『守護者』としてではなく、あちらの『真の救世主』として送り出してやってもいい」
それは、彼なりの試しのようにも、あるいは深い献身のようにも聞こえた。
私はゆっくりと首を振った。
「いいえ。……私はもう、あの国を支える『道具』には戻りません。……けれど、砂は、それを必要とする者のためにあります。私の砂が民を救い、その民が私のために道を開くというのなら……私は、ゼノン様と共に、その道を進みたいのです」
復讐は破壊だけではない。
古い土台を崩し、新しくより強固な礎を築くこと。
「……ゼノン様。春が来たら、私たちの『砂』で、あの国を塗り替えに行きましょう」
「ああ。……君の望むままに」
ゼノン様は私の腰を抱き寄せ、その広い胸に私を閉じ込めた。
彼の鼓動は、私が精製した動力炉の音のように、力強く、そして一定の信頼を持って刻まれていた。
外では、新型飛空艇のエンジンが、静かに、だが鋭く夜気を震わせている。
砂が導き、鉄が飛ぶ。
歴史の歯車が、一粒の砂の重みによって、決定的な回転を始めた。




