10
飛空艇のハッチが開くと、冬の終わりの湿った風が、王都の異臭を運んできた。
かつて私が毎日歩いた石畳は、もはやどこにもない。そこにあるのは、自重を支えきれずに液状化した、無機質な泥の海だ。
私はゼノン様の差し出してくれた手を取り、ゆっくりとタラップを降りる。
一歩、踏み出す。
私の意識が砂の粒子に溶け込み、一瞬で「形」を規定する。私の足元だけは、砂たちが互いに楔を打ち込み、鋼鉄以上の硬度を持って私を支えてくれた。
「……ひどい有様ね」
思わず、独り言が漏れた。
目の前には瓦礫の山から這い出してきたアラルリック王子が立っている。泥にまみれたその姿には、かつての傲慢な輝きはなく、ただ追い詰められた獣のような醜悪さだけがあった。
「エルネスタ……! おのれ、ハルシュタットの狗に成り下がって、この国を壊しに来たか!」
「壊したのは、あなたたちよ、殿下。……私はただ、『支える』のをやめただけ」
私は足元の泥をそっと掬い上げた。
ドロドロと指の間からこぼれ落ちるそれは私がいた頃には、美しい幾何学模様を描いて街を支えていたはずの砂だ。
「この砂たちはね、ただ魔法をかければ固まるわけじゃない。粒子のエッジを整え、摩擦係数を計算し、魔力の流れを逃がさないように配置しなければ、ただの『動く石の粉』なの。……あなたたちが『汚い』と蔑んだその工夫がなければ、この国は自重で沈むしかなかった」
「黙れ! 詭弁を弄するな! 衛兵、何をしている! その反逆者を捕らえろ! 殺しても構わん!」
アラルリックが絶叫する。
周囲を取り囲んでいた衛兵たちが、一斉に抜刀した。
だが。
彼らの足が、止まった。
「……どうした!? 行け! 命令だぞ!」
アラルリックの怒声が響く。しかし、衛兵たちは困惑したように互いの顔を見合わせ、そして、自分たちの足元と、彼らが持つ「剣」を見つめていた。
「王子……無理です」
指揮官が震える声で言った。
「……このお方は、私の故郷の村に砂を送ってくださったお方だ。……この砂があったからこそ、私の祖父達は冬を越せた。崩れかけた実家の壁を直せたんだ」
「な何を言っている! 敵に寝返るというのか!」
「寝返るも何も……王子。私たちが立っているこの地面を見てください」
指揮官が指し示したのは、アラルリックの足元だった。
彼が激昂して足を踏み鳴らすたびに、砂はさらに流動化し、底なし沼のように彼を飲み込んでいく。対して、指揮官ら兵士達の周囲には、砂の加護を受けた民たちが集まり、誰一人として泥に沈むことなく、毅然とエルネスタを見上げている。
「私たちが守るべきは、泥に沈みゆく玉座なのか……。それとも、私たちの民を国を整えてくれる、あのお方なのか。……答えは、もう出ている」
指揮官が剣を捨てた。それを合図に、次々と兵士達の武器が泥の中に沈んでいく。
それは魔法による無効化などという生易しいものではない。権力という名の砂上の楼閣が、物理的、そして精神的に「崩壊」した瞬間だった。
「……な!? ミ、ミラベル! お前の光だ! 光でこいつらを跪かせろ!」
アラルリックが背後で震えるミラベルを突き出した。
彼女は泥で汚れた杖を掲げ、必死に光の魔法を放とうとする。
「あ、ああああ……! お姉様なんて、大嫌い! 消えて、消えてよ!」
眩いばかりの光が放たれる。だが、その光は誰を傷つけることもなく、虚しく大気を滑るだけだった。
世界をなに一つ制御する繊細さを持たない彼女の魔法は、ただの「現象」に過ぎないものにまで堕ちていた。
「ミラベル。……光は、闇を照らすことはできても、崩れゆく光を繋ぎ止めることはできないのよ」
私は静かに歩み寄り、彼女の手から杖を取り上げた。
私の指先が触れた瞬間、杖の結合部に使われていた砂が意志を取り戻し、複雑に噛み合う。……そして、ミラベルが必死に扱おうとしても動かなかった魔導具が、私の手の中で、本来の、静かで深い脈動を始めた。
「……嘘。どうして……私の方が、光の適性は高いはずなのに……! 神に愛されているはずなのに!」
「現実を無視した奇跡なんて、この世には存在しない。……さようなら、ミラベル。そして、アラルリック殿下」
私が合図を送ると、ゼノン様が静かに一歩前へ出た。
彼の背後には、完璧に整備されたハルシュタット王国の魔導重装甲兵たちが、地響きを立てて進軍してくる。
「エルネスタ。……掃除の時間だな」
ゼノン様の低い声が、王都の終焉を告げる鐘のように響いた。
泥にまみれ、自分の足元すら制御できずに喚き散らす王子。
そして、そんな彼らを見放し、私を――「砂の聖女」を求めて手を伸ばす民衆や兵士たち。
私は彼らの手を取る。
あかぎれだらけだった私のこの手は、今や新しい国を築くための、最も強固な礎となっていた。




