035_価値観の押し付けではある
価値観の押し付けではあるのではないかな?とは思う、菓子缶の押し付けなら実は喜ばれそうではある。お歳暮とかお中元とかかな?入学祝いかもしれない。
傲慢に、その登場人物の人生を決定しなければならないとなるのだろうかな?
いやその後には干渉しないというスタンスで創造神をして仕舞えば良いのではあるけれども、それは可能なのであろうかという話ではあり、いやそこも含めてあらかじめ決められた道を設定しているかどうかということなのかな?
意識的にはしていないというか物語が始まった時には覚えていないだけで、実際のところ干渉をしまくっているということもありそうではあり、監督であるならば、演技の指導やらもすることは自然ではあるであろうし、映画とかであるならば、不必要なカットも含めて撮影しておいて、どこを切り出すのかを、考えることも普通ではあるわけであり、やはりどうしても途中で干渉することになる手を出すことになるわけではあり。
そもそもそれは誰のものであるのかという話ではあるのか、作品ということであるならば、世界は創造神のものであるというわけではあるけれども、それをフィクションであるということを知らないまま生きる登場人物にとっては世界はというか自分は自分自身のものであるという認識が強いのではないかな?
じゃあその認識もまた造られたものであるという可能性もあるわけではあり、いやまあ、自我とか自意識とかなどというテーマで話し始めると終わりが見えないというか、延々と楽しく語りそうな気がするわけではあるけれども。
実際に語っていたような気もするし、そもそも創造神には自我があるのかどうかという話にも繋がりそうではある、もちろんあることにすればあるし、無いということにすればない、そこは設定の範囲内であるわけではあり。
埒外ではあるのでしょうね、大きく俯瞰しているような視点で全てを見ているので、実のところ創造神のさらに上のところに視点をおいているような塩梅ではあるわけで、もしくはぐるりと一周回って、自分自身を俯瞰して見ている、相互に見ているという感覚であるのでは無いかなとか。
神様を見ている神様がいてその神様を見ている神様がいて、と連なっていって、それが湾曲していって、ぐるりと輪を描いているようになっていて、閉じてしまっているような図形を、さらに別の方向から見て観察しているような感覚、かもしれないですね、無限に観察するモノが連なっているような、ループしているのであるならば、実は有限である可能性も高そうではあり。
特別ではなくしかし特別だらけである、という矛盾した存在が創造神というものなのかもしれないですね。




