034_無責任でなければ、
無責任でなければ、創造神なんてやってられないのではないかなという感想は素直に出てくるわけではある、というか目的が違うのであるかな?
別にその世界が幸せになってほしいという感じではないのではないかなぁと、結果として幸せになるかもしれないけれどもそれは目的ではない感じ?というか明確な目的があって創造をするのだろうかな?
ただ単にそれが楽しいからやっているということなのかもしれず、いやその楽しみですら自分で設定できるのであるから、ある意味虚しい行為を繰り返しているのではという見方もできるわけであるけれども、刹那的なのでしょうかね?
悠久の時を過ごすことのできる神様というイメージがあるのであるけれども意外とその鮮度というか、活動時間は短いのじゃないかな?
特に創造神というのは、作った瞬間にしかいらないわけではあり、時間の概念以前の存在であるならば、永劫ではなく刹那しか存在し得ないある種の儚さを感じさせるような存在である可能性が高そうではあり、となると、この私の存在もまた儚いもなのであろうかな?
ようは作った後に十分責任が取れるような創造神であるならば、その世界は完璧でなければならないのであろうかな?
いやまあ、未完成であることが望まれる、その創造神の望みである場合もまたあるわけであり、そこで生きる存在の成長を促してみるのであるという見方もできるわけではあるけれども、それは結果だけを取り出してしまうのはいけないのだろうか?
最初から答えを用意しておいて、作り出すことができる、これは可能なのではなかろうか、効率という点を考えると考慮に値するのではなかろうか、ただこれは創造神自身を超えるような存在を生み出すことができないのでは、という疑問が生まれそうではあり、同時に超える存在を生み出す意義があるのか?という疑問もまた同時に存在するような気がする。
この辺りの哲学に近い思考の流れはすでに何度も誰かが論じてきた内容ではあるので、今更繰り返す必要はないわけであり、なんとすれば、その内容ごと、自由に設定できる立場ではある。
真実はいつも無数。
それが神様というものであるのであろうかなと思うのだけれども、じゃあなぜこんなに悩んでいるというか、グダグタと思考を続けているのかというと、逆説的に完璧で究極な神様では、私自身そうではない、ということの証明であるんだろうなぁと、思い至るわけであり。
いやまあ、これから設定すればそのような存在にもなれるのではあるけれども、そこになんの意味があるのであろうかという疑問が先に来るとことに、不適格なものを感じるわけであるな。




