033_忌避感があるの?
忌避感があるの?つまりは、他の存在を好きに操ることに対しての、神様であることの対しての、そういうものに責任を取りたくないなあとうような感情というか、評価というか、そんな感じのもの。
別に責任なんて取りようもないから、好きにすれば良いのではないかという神様的な思考もないことはないけれども、自分の選択によって、悲劇も喜劇も自由自在というのはこう、感じるものがないとは言えなくもなく、どうなんでしょうね?
その辺りの罪悪感めいたものもなくすることが自由にできるわけではあるけれども、今ここでそう感じているところがあるというのは確かではあり、自由を愛するとは言い切れないけれども自分が他の存在に操られることに対する基本的な忌避感というものは常に存在しているのではという気はする。
自分の意思で決定づけたい、という欲求は普通に湧いてくるものではあるけれども、そもそもこれが自分の意思であるのかどうかとか、自意識とは何であるかという論争に入り込みそうではあり、それには多分答えが出ないとうかこれが正解というものが客観的に示されないのではなかろうかとい気がするので、キリがないような気もするわけでして。
いやそこに明確に答えを出すこともまた可能な立場ではあるわけですが、私がしろと言ったならば、黒でも白になる、というようなことなのでしょうね。
そこまでどうにでも創造することができるのであるならば、何を迷う必要があるのでしょうか?という疑問も同時に浮かんでくるけれども、私はそもそも迷っているのかなぁという根本的な疑問もあるわけで。
色々と考えているふりをして時間を稼いでいる、客観的に見れば文字数を稼いでいるだけではないかという疑いがあるわけではあり、いや、俯瞰的にみすぎているのであろうかな?
客観視することは悪いことではなく、主観による歪みを是正することができるわけではあるけれども、この客観が、それこそ神の視点が強すぎると、何かをするという欲求がかなり低くなることもまた避けられない、んじゃないかなと。
勢いが、パッションが、突き進むこう、弾みがなくなるというか、先のことをあまり考えずに楽天的に行こうという気分がなくなってしまうことが、停滞の原因じゃないかという気がする。
ブレーキが効きづらい方が、先に進めることは確かであり、失敗を恐れないやや無謀な振る舞いが、新境地というか、未開の地を開拓する原動力になる、こともまた確かではあるのよね。
つまり実のところ創造神というのは、創造することに向いていないのじゃないかという結論が出てきてしまう?
なるほど。




