第十一番歌:八雲たつ アダタラマユミ(三―二)
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替えたばかりのタッチパネル式携帯に、初めてのメールが届いた。
《臨時連絡。今日、午後四時、日本文学課外研究部隊は研究棟屋上に集合。空満神道のアレで、応接不暇だろうからあたしが直々に送ってやった。一言芳恩しろい!》
「んふふんふー、ふふふんふー♪」
研究棟中庭で、与謝野・コスフィオレ・萌子は、大好きなアニメのテーマを鼻歌にし、画面をずっと表示させていた。
「こーいうトコロ、義理堅イっスよね☆ だカラ、憎めナイんデス」
溜め池の縁に腰かけて、足をぶらぶらさせていると、
「与謝野、帰っていたのか」
「ふにゃっは、森センセ☆」
シュシュでまとめたシナモン色の巻き髪が麗しい、日本文学国語学科の森エリス准教授に会った。
「人助けは、捗ったのだろうか」
「ハイ☆ オばあサン、ひとりぼっちデ寂シクて、生キルのガつらカッたそうダッタんデス。家事手伝イして、オ祈リしタラ、熱下ガリまシター」
「殊勝である」
萌子は、てへへーと無邪気に笑った。本日は、空満神道の黒い法被を着ていた。襟には彼女の実家「するが大教会」の名入りだ。
「普段着であるか。たいそう似合っている」
「にょほ、センセのファッションチェックとハ、萌子感激マックス☆」
萌子の普段着は、意味の通り「日常で身につける服」ではない。むしろ、珍しい格好なのだ。萌子はコスフィオレ(萌子用語で『コスプレ』をこのようにいう)で全日過ごしている。コスフィオレは変化に富んでおり、アニメ・ゲーム・職業、多岐にわたる。その筋をかじっている者は、萌子のコスフィオレに狂い踊り、泣いてうずくまり、写真に残そうとする。中には、コスフィオレの法則を考察する集まりができているのだとか。法則を発見したのは、こちらにいらっしゃるエリスだったりする。
「プルオーバ、サロペット、ピンクの同系色で揃えている。なおかつ、信者の務めに望ましい清潔感のある装いである」
萌子が、長からむ黒髪を振り乱し、悶えた。先生フリークの彼女は、教員との「からみイベント」が発生するだけでも興奮してしまう。さらに褒められるとなると……奇声をあげることは免れない。今宵はセンセ記録の更新祭だ。携帯のボイスレコーダーをONにしておけば、完璧だったかもしれないが、脳内再生できる程度に覚えている。ぐひひ。
「与謝野」
凜々しく、西洋人形のような顔がぶれずに萌子に定まっていた。基本データによれば、お父サマが本朝人、お母サマが独国人。両国の良いトコ取りのクールビューティ。萌子はつい反射的によだれを垂らしていた。
「与謝野、気は確かなのだろうか」
「は、はひ!」
「日本文学課外研究部隊での活動は、どうであろうか」
加入しているサークルについて訊かれ、萌子の背筋が伸びた。
「満たされてマス。エブリデイ・充実☆」
指先をきちんと揃えた敬礼で答えたかと思えば、すぐさま八の字眉になる。素の与謝野・コスフィオレ・萌子、否、本名・与謝野明子が表にでた証拠であった。
「日文選ンデなカっタラ、まゆみセンセに会エテなカッたっス……ヒロイン仲間ニモ……。萌子のセレクト、大正解ダッたんデスよ」
猫のように愛くるしい瞳をやや潤ませて、エリスに無茶な笑いを向けた。
「両親ニハ、宗教学科ヘ行ッテくれルト嬉シイ、ト、オ願イさレテたんデス。高校、伝教科デシたカラ。実家継グ必要nothingデモ、萌子ノお助けニ、明ルクなレタ人ガいる、萌子ハ伝教ノ道ガ合ッテいル、ト」
襟の「するが大教会」が、つかまれて歪になっていた。
「ハッピーだッタんスよ、誇ラシかッタんスよ!? 末ッ子デ、平凡デ、存在感薄イカラ、褒メラれテ、激アツ天国でシタ。しかしbutしカシ、萌子、もやもやシテたんデス。ホントウニソレデイイノ? ソノルートガホントウニシアワセ? 魔ガ差シタのカ、萌子、日文ニ願書出シタんスよ。両親ハ驚愕シテまシタ。デモ、空大だカラ合格シテくれレバ御ノ字ヨ、ト……。萌子、初メテ、親ヲ裏切ッテしマッたんデス……」
萌子の肩に、磁器のように繊細な手が置かれた。エリスが、抱き寄せていたのだ。スカーフより漂っているらしき花の香りが、教員に母の偶像を与えていた。
「続けてもらいたい」
「…………萌子、詩ト童話ガ『スキ』なんデス。作るサイドというヨリ読むサイドでイタいんスよ。イロいろ読ンデいタラ、ドウして読ンデみタクなるノカ、コノ詩ト童話ニある面白サは何でショウ、突キ詰メテみタクなッタんデス。『スキ』ガ萌子ヲ動シタたっス。済ンダこトなノニ、結果オーライだッたノニ、萌子、タマに罪ノ意識ニうなサレるんスよ」
「―母と父 詩と童話 みな御大切に想ふ為 蜜に悦び 毒にのたうつ」
エリスが急に詠ったので、黒髪の少女はまばたきを繰り返した。
「貴方は、無償の、無限の愛を注ぐ。其は、貴方を輝かせ、貴方を翳らせる」
「萌子ノ『スキ』ガ、萌子ヲ生かスシ縊らセルっスか?」
西洋人形の眉が、わずかに弾む。萌子は、適切に意味を汲めていたようだ。
「日本文学の門を開いた者は、貴方。深きに棲む『真の貴方』が、善き方角に針を示した。背負う罪なし。夜は明けた」
「センセ……!!」
「月陰」の美称は、伊達ではなかった。萌子は、命茂れる限り、幾多とさしかかる闇を照らされた。森エリス先生は、日文の聖母だ。
「つかぬコト、オ聞キしてヨロしイっスか?」
なりゆきで膝枕をお借りしちゃう萌子。拒否されなかったので、合意と(独断で)みなした。
「可能な範囲で、応答する」
「センセは、恋シタ人、いマ……スよネうきゃーバカバカなンテご無礼ナぴぎゃー失礼致しまシタサーブレシーブいきマス四人カット三人連続ローテ一セットデスすみまセン」
最後のあたりはつぶやきのため、エリスの耳を害せずに済んだ。
「先にも後にも、ひとり」
「……………………………………ほにょ」
古語「はづかし」の使い時が、だいたい理解できた。萌子、専攻科目は、近現代文学の講義のみ「優」なのだった。
「その人は、自分に、『新たな自分』との邂逅をさせてくださる。二度と逢えないと思われる、失ってはならない人」
エリスは首をもたげて言った。空の果てを「その人」のよすがにしているようだった。黄昏が、甘い色味の髪を神秘的につやめかせている。
「新タナ『ワタシ』っスか。誰カをスキにナルと、世界ガ広ガルんスね☆」
猫のまねをして、萌子は丸めた両手で、エリスのひざを踏んでいた。頗る人懐っこい学生だ、寛容になろう。
「リアルの恋ハ、戦歴ナシなんデス……」
「いずれ与謝野にも、熱と光が胸を駆けめぐる瞬間が来るだろう」
「来マスかネ?」
「どこかに隠れて与謝野を思慕する者が、いる可能性は否定できない」
「ひょー、ソレ、ストーカーじゃナイっスか! 寒気しマスな」
「恋と犯罪は紙一重である」
「迷言っスよー!! トリあエズ語録ニ加えマス」
溜め池に落ちた葉を、冬の風がくすぐってゆく。水面が千鳥格子に編まれた。
萌子が屋上に向かって十二分後に、ようやく待ち人がいらした。ダークブルーのスーツを着こなした屈強な壮年の男が、悠々と歩いてきた。
「やあ、すまないね」
エリスは、時間通りに来なかったことを怒らず、また、道中何かあったのか心配もせず、凜として立っていた。
「……近松先生」
「冷えただろう、どれ、私が温めてあげよう」
広く厚い胸を張り、太い腕を放り出して迫るも、先読みされていたらしく鮮やかに避けられる。
「断固として、拒否する」
「つれないなあ……」
エリスの上司、近松初徳教授は戯れに笑った。エリスだからこそ、とんでもない行為に付き合ってくれるのだ。他の女性教員(例えば、日文の腕章を佩用している眼鏡の娘)にやろうものなら、性的な嫌がらせで告発されてしまうだろう。
「…………」
「何だね」
近松の左手首を、華奢な腕がつかまえた。シャツごとまくられて、頑丈そうな肌をあらわにされた。
「打撲と、擦過傷。原因は」
上司は情けなさそうな表情をした。親に喧嘩がばれてしまった少年と同類のものだった。
「……かばったのだよ」
「貴方は、嘆かわしい人」
かばった、の隻語で、部下は十を識った。この世に「女性」の概念が在る限り、近松の癖は治らない。行きずりの縁の女性を、不意に物が落下したか飛来したかで守ったのだ。過度なまでに異性を可愛がる点は、命取りになると諫言したというのに。
「自分が傷を癒やす」
髪を束ねていたシュシュを外すと、それはエリスの掌で金属の百合の花に早変わりした。百合の蕊を近松の患部にかざし、修道士が聖典を朗読するごとく詠んだ。
「Ich(我は) trinke(受ける) aus meiner(我が) Tasse(杯で).」
彼の咎、彼の悲劇、彼の苦痛…………純粋・無垢・威厳を冠する堅固な花が、対象者の傷に流るる体液を泣き止ませ、傷をなだめてふさぎ、再び健やかな容態を取り戻させた。
「森君、いつも……」
上司の唇に、白磁の指が押しつけられる。
「その言葉は、禁ずると誓っている」
「……そうだったね」
世話をかけた礼に、近松は部下の髪を慈しむように撫でた。
「士族の私には、呪いが効かぬ。君とはどこまでも相性が好い」
少数だが、呪いを無効にする人間がいる。神仏、人智の及ばぬ不思議をことごとく信じない者、呪いに抗うための訓練を積んだ士族が当てはまる。
「この奇跡の源流は、本朝の術である」
「ははは、国を越えた術は別さ。先の戦に独国の軍医が奪い、西洋魔術に組み込んだものを一族の秘術にした。音に聞いていたけれど、君があの秘術を受け継いでいたのだからね。君との縁こそ、奇跡だよ」
色男の流し目は、有能で妖艶な部下を陥落できなかった。しかたなく、武家仕込みの険のある顔を作った。
「この最上階が、殺気で澱んでいるのだよ。かばった時と同じものだ」
シュシュで髪をくくりなおしたエリスが、目を閉じる。
「紅の硝子 乙女の柔肌を穿たんとす―」
「なに、乙女? もしやお嬢さん達がいるのかい」
この頃、近松が「お嬢さん達」と呼んでいるもの。彼の研究室の隣、二〇三教室でわいわいやっている「日本文学課外研究部隊」だった。
「例の件に関わり、呪いのものを討てる五人が狙われているというのかね」
「乙女らには 白き弓の加護あり 清い矢は射貫く 鉛をも硝子をも」
「安達太良さんかい……。なおさらでないか! 真淵さんの仮説が真ならば、呪いのものまで寄せられてくるのだよ? 私が殺気を斬る!」
ベルトに結んでいる短い鞘(面倒な申請が通れば、士族は厳しい制約のもと帯刀を許された)にかけようとした手を、エリスが制し、自身の頬に持っていった。
「信じて、安達太良先生を、五人の乙女を」
「森君…………」
力を抜き、近松はエリスに身を預ける。わがままを聞いてもらえなくてぐずる坊やをなぐさめるように、エリスは広い背中をさすった。
「白き弓よ 乙女らの厄を弾いて―」
溜め池には、落ち葉が渦巻きを描いていた。




