第十一番歌:八雲たつ アダタラマユミ(三―一)
三
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附属空満図書館に訪れた人はみな、静粛にならねばという心理が働く。足音、呼吸ひとつに配慮を強いる、厳格な利用者までいるくらいだ。
「お父様に、真意をお話しできたのですねえ」
館内でただ一か所、談話・飲食が可能である休憩室にて、日本文学国語学科の教員兼空満図書館司書・真淵丈夫は、学生を招いていた。
「はい……、久しぶりでした。反対されるんやないかとびくびくして、自信を無くしていたうちが、ばかばかしかったです」
アラベスクがついたカップを前に、日本文学国語学科二回生・本居夕陽がはにかむ。オレンジティーの甘酸っぱい香りが、湯気ととけ合っていた。
「児童文学でしたか。仕事のかたわら、物語を書く……夕陽さんにお似合いの未来ですよ」
「あはは……恐れ入りますぅ」
夕陽さん。真淵は彼女を、他の学生と同じく名字では呼ばない。入学してから、ずっと。好かれているのだろうか、たったそれだけで夕陽は恋してしまった。想っている人に会う約束をされて、夕陽はさくらんぼのように赤くなっていた。
ドラマの二枚目俳優に勝てる所作で、真淵はオレンジティーを飲まれていた。夕陽も口をつけた。今日のために淹れてくださったのだから。
「『庭の七竈』」
「ふえ」
カップに残ったリップクリームを拭くためにさっと出そうとしたハンカチを、落としかけた。
「驚かせてしまいましたか。失礼いたしました。なぜ申しましたかといいますと、夕陽さんが物語を書こうと志した作品であるからです」
『庭の七竈』は、夕陽の母が教育実習で教えた生徒作のお話である。人見知りが激しかった幼い夕陽は、読んで、主人公がナナカマドの木にかけてもらったおまじないを実践している。黄色のリボンを髪に結ぶと、心が明るくなり、良いことが重なる。さらに、結んだ者の周りも元気づけられ、幸せに包まれるのだという。
「あ……あなたの、お母様は」
胸元に片手をあてがいながら、真淵は言った。蒼天を削って研磨したかのような丸い石に、クラシカルで落ち着いた色合いのリボンが下についたブローチが、親指と人差し指との隙間からみえていた。毎日身につけている装飾品を、夕陽は素敵やなぁと感じていた。
「作者を覚えていてくださっていますか」
開かれた目は、夕陽を越えた遠くをのぞいていた。教員を覆っていた笑顔の鉄板が、外れていたのだ。
「忘れていませんよ。折に触れて話をしています。息災でいるやろうか、て」
証言台に立たされたような気分だった。図書館の厳めしさが、想像を豊かにさせるのだろう。
「『庭の七竈』の作者は、まだ命枯れていないようですねえ……」
「真淵先生…………」
閉ざされて糸みたく細くなった目が、痛々しかった。夕陽は力になりたかった。でも、具体的な術は、考えつけなかった。
「あなたの心遣いは、僕にはもったいないですよ。どうか、明るくいていただけますか。おまじないのリボンは、幸せを呼ぶ色なのですから」
真淵は自らの頭の右側を指して、夕陽の髪飾りを示した。心の声を当てるところは、彼がミステリアスたる由縁のひとつだった。
「僭越ながら、僕が夕陽さんに児童文学をお教えしましょう。知人である『庭の七竈』の作者に代わって。隔週水曜の四限はいかがです」
「はいぃ、空いています……はうう」
真淵先生がぁ、うちにぃ、個人指導をしてくれはるぅ!! あかん、あかんて、うちのお話を読まれるんやで、そんなん、官人さんが烏帽子かぶってへんのを目撃される級の恥ずかしさやんかぁ! 最高シチュエーションにウハウハしてる場合やあらへん!!
思いを寄せる人に、振り回される女子大生がいた。
「来週始めましょうか。僕の事務室にて、当日こちらで待っていてくだされば、案内いたします。筆記用具と、作品ノートがあれば構いませんよ。そうでした」
何か思い出した様子で、「少々お待ちを」と真淵は席を外した。
「お待たせして、申し訳ございません」
酢を飲んだとしてもここまでは至らぬ柔らかな物腰で、真淵が二冊の文庫本を持って来られた。
「十六時に次のご予定が入っていらっしゃいますのに、荷物を増やしてしまいますが」
「いえいえ、そんなぁ。よろしいのですかぁ?」
知らせてはいなかったが、真淵先生のことだ、把握していたのだろう。執事のように、ひざまずき、両手で、一冊ずつ手渡され、夕陽はまごついてしまった。
「谷崎潤一郎の『文章読本』と、本居宣長の『うひ山ふみ』です。あなたの前途を鮮やかにする羅針盤となりますことをお祈りして」
「大事に、読ませていただきます」
幾度も四季を観てきた二冊を抱き、夕陽は立っておじぎをした。本を託されるということは、持ち主が本にかけた時間を共有させてもらうということだから。
「書く側、読む側、いずれの立場においても本文の分析は肝要です。学びの軸を打ち、固く鋭くさせるのです」
そして知という名の刀となる。とてもイメージがしやすい。
「夕陽さん、おかけになってください。頭の体操をいたしましょう」
真淵の「頭の体操」は、答える人の思考を試すものである。夕陽以外に出題したことがあるのかは、不明だ。
「あなたは、Aさんが主人公の作品に筆を執っていらっしゃいます。Aさんには、人智を超えた能力が天に与えられていますが、Aさんは能力を有しているなどと考えもしていません」
清らか、慶び事、雪、シリウス、太陽…………。夕陽は、人物Aに連想されるものを頭に挙げていた。
「Aさんは、多くの人に愛され、慕われておりました。殊に、五人の弟子はAさんを尊んでおり、Aさんの身に何かが起こればすぐに集い、全てを尽くして助けました。弟子は、師の異能を知っていたのです。師をお助けできる者は、我々なのだと」
ノートを繰る音が、真淵の耳に入った。様々なことを「学び」として吸収する学生には、感服する。
「しかし、ふとしたはずみで、Aさんは自らの秘密を目の当たりにします。弟子を救おうとして起こした奇跡が、Aさんの能力だったのです。魂の容れ物が人間でありながら、人間ではない要素を持つ自身……。関わってきた人々に話すべきか。これをきっかけに、人は離れてゆき、避けられるかもしれない。弟子達はどうだろうか。Aさんは、ひとり、長く迷っていました。明くる日、Aさんは始めに、愛する弟子に告白することに決めたのです」
「虚構やないみたいです……」
「現実に感じられたのなら光栄ですよ。では、問いましょう。Aさんが告白した後、弟子はどのような行動をとるでしょうか。夕陽さんなら、どういった筋になさいますか」
ノートと先生を交互に見て、夕陽はくもりなき表情で判断を下した。
「弟子は、主人公の苦しみに寄り添います。これまで、知らずにいておつらかったでしょう。人と異なる存在であることを恨まれたでしょう。ですが、我々は、師匠についてまいります」
「先に能力を分かっていたことは、言わずにしておくのですか」
黄色いリボンと、栗毛の波うつ髪が揺れた。
「いいえ。いずれは主人公に打ち明けます。師と弟子の仲です、すりむきますが、修復は遅うなりません」
真淵の笑みが、本心からのものに変化していた。
「禍事があっても、善き事で結びたいのです。読者と登場人物が皆、温かい気持ちになれるように」
オレンジ色と黄色が合わさった光が、窓を通して夕陽に降り注がれた。そこそこ人生を旅してきた真淵であったが、初めて「聖なるもの」に遭遇できたのだと思う。瞳に焼きつけておこう。忘れない。忘れさせやしない。
「僕の予想を突き抜けてくださいますねえ……」
見込んだとおり、いいや、以上の学生だ。ブローチを受け継がせてくださった女性に匹敵、または高い位置に至れるかもしれない。
「あまり引き留めてはなりませんから、ここまでにいたしましょうか。ご友人に連絡をされてみてはいかがです。ひとつに集中すると、他がぼやけてしまわれるお方ですからねえ」
深々とお礼をし、夕陽はリボンと同系色のデジタル時計をつけた腕を上げて、出入り口へ歩いた。
「研究棟の屋上ですか…………。蔵書の整理が待っています僕には、関係ございませんね」
言葉と裏腹に、笑顔に期待が込められていた。
「おやおや、このお声は」
学科主任の時進先生だ。I号棟の三階にいらっしゃる。作業は後回しに、胸のブローチを小突き、休憩室から身を消した。
声はおろか、声なき声をも聞き取る奇跡と、任意の空間に任意のタイミングで移動できる奇跡。真淵もまた、呪いを行使可能な者であった。物に寄せる呪いではない、別の手段を用いる術なのだが、詳しくは、行使者と、継承したブローチのほかに知るものは無く、いたづらに公表することは無いだろう。けれども、夕陽の答えを拝聴して「いずれは打ち明けたい相手」ができた。この呪いを、正式に伝えるために。




