第十一番歌:八雲たつ アダタラマユミ(一)
一
霜月三十日、つつがなき一日を送り、つつがなく師走を迎えられると思っていた。
○
空満大学国原キャンパスのI号棟は、世界でも有名な「附属空満図書館」の分館である。貴重な書物を収めている本館に対し、公立図書館でも読める本を扱っているI号棟は「図書室」と便宜上呼ばれているのだ。
大和ふみかは、授業が入っていない四限目を図書室で過ごすことにした。いつもなら、友人の本居夕陽も一緒なのだが、今日は用事があって別々に行動となった。「愛しの」真淵先生に附属図書館で会うらしい。あんな若作りしたおじさんのどこに魅せられるのだろう。ちょっとしたやきもちを焼きながら、ふみかは図書室の三階へ登った。
図書室の三階は、参考図書コーナーだ。一般書の一階と、文庫と映像・音楽資料の二階は学生がたまっている。人混みがいやで、集中して本を読みたいふみかは、三階でゆっくりするのが好きであった。めったに人が踏み入れないこの場所は、いわば安全地帯だった。
「こんにちは、大和ふみかさん」
先客がいらしていて、ふみかは面食らった。彼女が所属する日本文学国語学科の教員で、学科主任の時進誠先生が、朗らかに座っていらっしゃった。日本語・日本文学の参考図書が並んだ棚を背に、どうぞ、と対面の席をすすめられた。
「誠五が、世話になっています」
「誠五さん?」
首をかしげたふみかに、時進はおかしさをこらえられなかった。
「図書館の、です」
「あ、あの司書の。すみません」
時進は、読んでいた『本朝神祇事典』を閉じ、ふみかを温かく見つめた。
「末っ子の誠五はめずらしく、すらりとした体型と優しいところは妻に似ました。しかし、私の短所をすべて受け継いでしまいました」
五人の男を食べさせてきた父親の姿が、一瞬だけあらわれた。
「本の世界に入り浸り、人との関わりを極端に避け、ひとりよがりである。誠五は、大和ふみかさんに、一方的に話してはいませんか」
「え、いや、そんなことないですよ……」
内心でのふみかは、汗でびっしょりだった。同世代に対してあまり話せないのに、目上の人とだなんて、もっと難しくて、失礼なことがあったらどうしようと、神経を酷使していた。
「これでも、日本文学国語学科を卒業していますので、共感できるところがあると思います」
「…………せ」
赤いパーカーの女子学生が、膝の上で両のこぶしを作って、言葉を絞り出した。時進は、彼女が、人と話をすることを厭っているわけではないことを充分に理解していた。
「せ、誠五さんは……、楽しそうに、本の話をしてくださいます」
「そうなんですか」
「そ、その、おすすめの本を、貸してくださって、わ、私は……感想をちゃんと、伝えたいな、って思っているんです。どれも、面白いから」
もしも娘がいたならば。時進は、ふみかに「夢だった女の子」を重ねていた。
「これからも、誠五と仲良くしてやってください。誠五は、なかなか気の合う人とめぐり会えないんです。親の私にも喜ばしいことですので」
「は……はい」
参考図書コーナーは、ふみかと時進の二人だけだった。職員の執務室が併設されているのだが、なぜか人の気配はしていない。
「十一日は、安達太良先生のお誕生日をお祝いしていたと聞きました。いかがでしたか」
「あの、私、二回生になって、初耳だったんですよね……。額田先輩が、教えてくださって。ゼミでやったけど、私たちでも誕生会してみたら? と言われて。大盛りあがりでしたよ」
「霜月十一日、いわゆるぞろ目です。私も、そうなんですよ。長月九日、重陽です」
「えっと、菊でしたっけ。五節句のひとつですよね」
老眼鏡の奥で、目が細められた。日文の先輩、同級生が「還暦過ぎているんだって」と噂していたけれども、まだ髪が黒い。染めているわけではなさそうだ。
「安達太良先生は、学生のために精魂尽くしています。特に、二回生に思い入れが深いようです。初めて持たれた学級のためでしょう」
時進の事典に、つい視線がいってしまう。脇に抱えていない日は無い、大きくて頁が多い本。持病の貧血でいつ倒れても枕にできるように持ち歩いている説がささやかれているが、真相はどうなのだろう。
「学生の相談を親身になって聞いているともいわれています。大和ふみかさんは、ありますか」
投げかけられると、助かる。ふみかの肩の力が、抜けていく。
「この間、卒業した後のことについて、相談してみたんです」
頭の中で、二〇二教室―まゆみ先生の研究室がよみがえった。
「周りの人みたいに、なりたい自分をうまく描けなくて、というか、全然、定まっていなくて……。まゆみ先生に、半ばやつあたりになっちゃったんです」
感情を飼い慣らせなかった、あの日の私に淹れてくださったお茶の味が、舌に復元される。おでんのだしのような……ごぼう茶だったか。
「でも、先生は、気を悪くされずに最後まで受け止めてくださったんですよね。私なんかのために。ひとこと、いただいたんです。『大いに悩めば良し!』って。親指をびしっと立てて、ですよ。ずるいなあ、まゆみ先生。あなたはこれが向いているんじゃないか、や、進路を見つける手がかりを示すんじゃなくて、悩め、なんて。まったくもって、ずるすぎるよ…………」
時進先生と、司書の五男さんは、やっぱり似ている。親子なのだから、然りなのだけれども。ふみかは、普段の、時進誠五としているように、時進誠に、思いを表に現した。
「たった一回ぽっきりの人生よ、自分が納得した道を行きなさい。いくつになっても、悩む時間が許されている。ほんと、言ってくれますよね。私、開き直ったんです。悩んで、悩みぬいて、まだ決めたわけじゃないんですけど、なりたいなあってもの、できました」
「ぜひ、聞かせてください」
「まゆみ先生、です。大学で、上代文学の面白さを、学問が楽しいんだってことを、教えられたらいいなあって、思ったんです。なるための方法は、分からないんですけれど、今からでも、遅くないのかな……」
時進は、ゆったりとしてうなずいた。
「志があれば、道は開けます。まるで、四十年もの昔の私に再会した心地です。大和さん、できることを、ひとつずつ、成し遂げてゆくことです」
学生と教員の、目と目が合った。未来に漕ぎ出でようとするきらめきに、過去を積み重ねて磨かれてきた輝きが応える。
「大和さんには、膨大な読書量という財産があります。これからも貯められることでしょう。さらにもうひとつ、人との結びつきを絶たないでください。昔の私は、独りで生きようとしたことで、弊害が起きました。大和さん、手をのばすんですよ。大和さんが思うより、人は手を取ってくれます」
ふみかが手を持ち上げている様を、家庭にいる時の面で笑った。なるほど、誠五が寄ってみたくなるものだ。
「人付き合いは得意じゃないですけれど、できることから、やってみます」
電子音が鳴りだした。発信源は、ふみかの腕時計らしい。あわてる彼女に、時進は構いません、の意思表示をする。腕時計には、黄色のランプが点灯していた。
階段の踊り場に早歩きで隠れ、ほどなくして、急いで閲覧席に戻ってきた。
「すみません、待ち合わせしていて。お先に、失礼します!」
水飲み鳥よりせわしなく頭を下げ下げして、肩掛け鞄をやや乱雑に取って走り去ってしまった。学生生活は、慌ただしいぐらいがよろしい。
時進は、『本朝神祇事典』を開きなおした。
「真淵先生」
「はい」
教え子だった部下は、呼べば直ちに来てくれる。忍者あるいは超能力者のごとく、瞬時に移動できるのだ。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
部下は、不平を唱えることなく、にこやかにしていた。
「主任として、命じます……」
情の温度を一定に保てる時進は、かえって「底の知れない人物」だと他人に認識されてきた。気心の知れた同僚に「ひだまり外交」と嫌味をいわれもしたが、争いごとに不利な己が、空満神道大教会の長をしながら、教授、学科主任へと登れたのは、温厚さを武器にしてきたからである。
ゆえに、己の後ろに、人が続いてくれる。
「貝おほひ弐の壇は、安達太良まゆみ先生を尾行してください。手が空きしだい、速やかに、です」
「承知致しました」
部下が消えたのを頃合いに、時進は事典の頁をめくる。
「寄物陳呪・『本朝神祇事典』、本に【入る】態度」
印刷された字の列が次々に光り、紙を越えて、各本棚、執務室に光が散らばった。光は人の形に変わり、図書室の利用者・職員になった。
「……人払いをするだけで、疲れてしまいました。老いたものです」
時進は、本朝に伝わる、奇跡を叶える術・呪いを行使できる者だった。文学部と宗教学部の専任教員は、業務において、呪いを知っている。信仰が薄らいでいる現代では、呪いを使える人間が稀少になった。
寄物陳呪は呪いの一種、「物に寄せて呪いを陳べる」術である。時進は、本に寄せて、人や物を出し入れする奇跡を、実現させたのだ。
「大和さんは、安達太良先生の手をつないでいられますか…………」
蒼白になった顔に、冷や汗がだらだら垂れてゆく。時進は、しばらく図書室で養生することとした。




