十二月二十一日 約束を前に白百合は
警察や鑑識官、救急隊員が入り乱れて、現場は雑然を極めていた。既に死亡した間宮を救急隊員が担架で担ぎ、搬送しようとしている。小町から状況を説明された刑事達は青山に手錠をかけて、高玉署まで連行しようとしていた。小雨との約束通り、犯人を逮捕させることを探偵は叶える。しかし、パトカーまで連れていかれる青山の後ろ姿を、小町は寂しく見つめていた。その時。
「明智さん」
青山が振り返り、探偵の名前を呼ぶ。気持ちばかりの微笑みを浮かべる犯人に、小町は近づいた。
「青山さん……」
「ごめんなさい。どうしても、明智さんに、どうしてもお願いしたいことがあるんです」
切実な表情で訴える青山に、探偵は「お願い……」と内容を尋ねる。
「明日……。明日は、十七回目の、由理絵の誕生日なんです。だから、私の代わりに雨晴海岸に、彼女の大好きだった百合の花束を、お供えしてほしいんです。どうか後生です。お願いします」
彼女の言葉を聞いた瞬間、小町は喫茶店「AME」で見た青山のナンバープレートを思い出した。番号は、高玉な一、二、二、二。由里絵が誕生日だという明日は、十二月二十二日である。探偵は、彼女が、どれだけ由里絵を愛していたのかを悟った。涙を浮かべて青山は頭を下げる。いたたまれない想いから、小町は頷いた。
「分かりました。必ず、明日、由理絵さんにお渡しします。あなたの代わりに……」
目を濡らしたまま、青山は笑顔を探偵に向ける。そして、ドアの開いたパトカーの後部座席に、足をかけた。同乗した刑事がドアを閉める。小町が耳にした中で、一番切ないドアの音だった。
パトカーを見送った後、探偵は現場に戻る。そこでは鑑識姿の傳法谷が、間宮の倒れていた箇所をカメラで撮影していた。彼女に近づく。
「傳ちゃん、犯人は話していた通りだったよ」
フレームから顔を離して、鑑識官は小町を見上げた。
「やはり、そうでしたか。ただ、なんでしょう。悲しい事件ですよね。もし、被害者達が由里絵さんに理解を示していれば、こんな結末にならなかったでしょうに……」
「うん……」
しんみりとした雰囲気が漂う。しかし、それを打ち消すように快活な声音が飛んできた。「小町さん!」
彼女の背後から、目を覚ました千春が抱きつく。
「あっ、千春ちゃん!」
驚くほどに元気な少女を見て、探偵は驚きを隠せないでいた。尻目で千春を確認しながら、身体の具合を尋ねる。
「大丈夫! 具合悪くないの?」
「何を言っているんですか? 誰かさんがいきなり、もう……。にひっ、恥ずかしい」
少女の発言に鑑識官は動揺して「えっ!」と高価なカメラを滑り落した。慌てて拾い上げて矯めつ眇めつ筐体を確認する。
傳法谷をそっちのけに、千春と小町は二人だけの世界で、話を進めていた。探偵に抱きついて甘える少女が「あっ!」と何かを思い出したように問いかける。
「あっ、あの。青山先生がいたと思うんですが、何があったんですか?」
「えっ、青山先生?」
咄嗟に何と言えば良いのか答えられず、小町は固まってしまい屹立していた。
「そうです。青山先生と一緒にデルーズでご飯を食べるはずだったんです。なのに、どうして、私はここにいたのでしょう。小町さん達もいますし。うーん。青山先生がここに連れてきたと思うんですが、先生から何か聞いていますか?」
青山が犯人で、逮捕されたことを千春は知らない。探偵は真実に辿り着くことができた。しかし、その真実を少女に伝えるべきかどうか、悩んでいた。もし、それを伝えることで、千春の心に苦しみを植え付けてしまうのであれば、言わないほうが少女の為ではないだろうか? そう考えると、小町は本当のことを言えないでいた。だから。
「千春ちゃん、大丈夫だよ」
嘘をついた。
「犯人は無事に見つかって、逮捕されたよ。実はね、由里絵さんのお父さんが、全ての犯人だったんだ」
「えっ! 由里絵ちゃんのお父さんが……」
昔に読んだ推理小説を思い起こして、話を作り上げる。
「うん。青山先生は……。犯人に生徒を殺されたくなかったら、つまり千春ちゃんのことね。ここに連れて来いと言われたんだって。それで、小町もこっそり先生から話を聞いて、ここに来たんだ。それで、全てが明らかになったんだよ。やっぱり、由理絵さんの復讐の為だったんだ。でもね、千春ちゃん。事件は終わった。もう、誰も死ぬことなんてないし、メールだって来ない! だから、もう心配しなくていいよ。凛ちゃんとの約束を、小雨さんとの約束を果たせたんだ」
少女は「そうだったんですね!」と嬉々とした笑みを浮かべた。精一杯の偽りの笑みで、探偵は応える。
遠目から傳法谷は、小町の無理した作り笑顔を眺めていた。悲痛な表情を浮かべて目を背ける。そのまま現場を撮影していた。
全て終わったのだ。そう胸の中で探偵が呟くと、今まで背負い続けていた肩の荷が下りた。安心して、今日から眠ることができる。千春ちゃんも死なない。凛や小雨との約束を果たせたことに、小町の中で頗る充実感と達成感が満ち溢れていた。安堵していた時である。少女が激しく咳込みながら、探偵に話しかける。
「でも、げほっ、ごほっ。良かったです。犯人が捕まって。これで、凛ちゃんも、きっと安心していると思います。小町さん、本当にありがとうございました」
頭を下げる千春を見て、小町は浮かない目顔を晒す。少女を悲しませたくない。大好きだった先生が、犯人だったとは口が裂けても言えないでいた。しかし、いつか真実を知る時がくる。それがネットや新聞、メディアを通じて、嫌でも知る日がくるのだ。そう考えると、複雑な感情から心が千々に乱れ、顔に発露する。
それでも、事件は解決した。今は、ゆっくり休む時だろう。そう考えて小町は。
「千春ちゃん、帰ろう」
平生な生活に戻ろうと考える。事件のことを考えず、思う存分に好きな人と過ごす時間を手に入れたくて。
「そうですね。あっ、小町さん。デートの約束。せっかくだし、今からお食事デートでもしましょう! 私、お腹空きました」
そう少女が告げると、お腹の虫が「腹減った」と言わんばかりにグーっと鳴った。恥ずかしそうに「やだっ」と千春が呟くと、小町も傳法谷も哄笑する。それにつられたように、少女も声を出して笑った。
まだ仕事で残るという鑑識官に別れを済ませて、探偵達はガレージの扉を抜ける。外は目を奪われるほど、綺麗な星空だった。満月の光が闇を消し去り、すべてを照らす。隣を歩く千春の横顔が歴々と照らされた。あどけなさを残した、少女の綺麗な横顔だ。
「千春ちゃん」
小町は微笑み、少女の手を繋ぐ。嬉々として声を漏らす千春は「もうっ! どうしたんですか」とご機嫌な様子だった。探偵は少し意地悪そうに「べっつにー」と子供じみた口振りで答える。
手を繋いで歩いている最中、小町は少女と、これから過ごす将来を考えていた。千春が高校を卒業するまでは、友達のような付き合いをして、卒業したら賃貸マンションか家を借りて同棲しよう。子供はできないけれど、代わりに犬か猫を飼おうか。愛している誓いの指輪も買って、老後は……。そんな前途洋々とした未来を思い描いていた。すると。
「もうっ。小町さん、さっきからにやにやして、怖いですよー」
心の充足感が止まらず、探偵は、にこやかな表情で少女に尋ねる。
「ふふっ。千春ちゃん?」
「なんですか?」
「大好き!」
青山と由里絵も、こんな風に愛を伝えていたのだろうか。そう考えながら、大好きな人に愛を伝えた。少女は、まんざらでない様子で。
「小町さん。私も、ごほっ。好きです。いやっ、違いますね。愛していま……」
足が止まる。
「千春ちゃん?」
探偵を尻目に激しく咳き込む千春。突然、少女は前かがみになり、口元に手を当てた。明らかに、普通の状態ではない。
「千春ちゃん! あっ」
口元を押さえる手は月明りで、はっきりと分かった。指の間から黒い何かが垂れている……。きらきらと光り、粘り気のある液体だった。千春は目を曝して、じっとする。再び、静寂をかき消すように、少女の咳込む声が木霊した。小町の身体から血の気が引く。
「なんで……。どうして、だって」
頭の中を疑問符の群れが巡りに巡る。今、目の前で起きている光景の、糸目が見つからない。QRコードは千春に届いた。しかし、彼女は映像を見ていない。それにコンタクトだって付けていなかったのだ。
「こっ、ま……さん」
力なく、少女の身体が崩れる。
「そんな。えっ……」
小町の全身の力が抜けていく。膝が折れ、千春に手を差し伸べる。少女の体勢を、うつぶせから、仰向けに変えてあげた。目を疑うような、千春の姿を月光は、まざまざと探偵
に見せつける。少女の口元から、赤黒い血が流れていた。
「千春ちゃん……」
少女の名前を呼ぶと、息苦しそうな様子で、小町に応える。
「こまち、さん。わたし、なんで」
「分からない……。分からないよ!」
コンタクトレンズは、していない。それなら、こんなことは起きないはずだ。パニックのまま、探偵は鞄からスマホを取り出す。緊急連絡先に架電して救急車の要請をした。電話を切り、目をつぶって苦しそうに呼吸する千春を見つめる。
(なんで。なんで、なんで。千春ちゃんは、間宮さんの病院に行った。そこで、コンタクトを渡されて外では付けていた。でも、今は付けていないし、映像だって見ていない……。それなら、どうして? あと、何がある。メールアドレスを問診票に書いていたくらいしか……)
震えの止まらない両手で少女を抱きかかえていた。その間、小町は必死に今の状況に至った原因を模索する。
(待って。千春ちゃんは、以前から風邪で咳が止まらないと言っていた。でも、明らかにこれは、風邪なんかじゃない。だとしたら……。さっきの、間宮さんが服用した毒?)
一瞬、毒物を服用されたのではないかと一考したが、それはあり得なかった。もし、毒を飲まされたのであれば、探偵の身体にも反応が現れる。先ほど、少女と接吻を交えた際、小町は流れ込んできた千春の唾液を飲み込んでいた。そうなれば、探偵の身体にも少なからず毒物の影響が出るはずである。息苦しさや、頭痛も悪心も全くの皆無だった。原因不明の現象に頭を抱える。
(間宮さんと同じ毒なら、口から泡が出るはず。小町は正常な状態だし、それなら毒じゃない。それなら、なんで? 何が原因?)
過去の出来事を振り返った。凄まじい速さで脳は記憶を呼び起こす。ふと、間宮クリニックで千春の汚い文字を思い出した。あそこには何を書いていただろうか? ひとつひとつ思い出していくと、ある項目の存在が、頭を掠める。激しい咳が出る原因。その頭に浮かんだ項目と、咳の原因を掛け合わせると、探偵の身体に烈々な電気が走った。
「問診票! あそこの項目は確か、住所、電話番号、過去の疾病、アレルギー、持病があったはず。そして、千春ちゃんは――蕎麦アレルギー」
もし、この咳がアレルギーによる咳で、千春がアレルギー症状を起こしているのだとしたら。侵入経路は一つしかなかった。口ではない。
(目だ! 目から蕎麦の成分が入り込んだんだ。千春ちゃんを含めて、皆はコンタクトレンズと目薬を処方されていた。そうか。この事件の凶器は一つだけじゃない。二つあったんだ)
少女が蕎麦アレルギーだということを、況や間宮は知っている。それを仮定すると、小町の中で、もう一つの間宮氏の思い描いていたシナリオが浮かび上がった。
青山が用意したコンタクトレンズ以外にも、凶器は存在していたのだ。もしベランダから転落しなかった場合や、彼らがQRコードを見ていなかった場合の保険を、彼は用意していた。それが目薬である。
基本的に眼科医で処方される目薬は、薬局で購入しなければならない。そうなると、アレルギー反応を引き起こす為の目薬を、間宮が混入させることは不可能だった。ところが、唯一、直接的に手渡せるチャンスが存在している。それが――初心者に向けてのコンタクトレンズの説明時だった。間宮クリニックで、千春はコンタクトレンズの手入れや使用後の処置を受ける。その際に、この目薬を使ってくださいと、彼から手渡しされた。それが、凶器だったのだ。
間宮が用意した目薬は、アレルギー反応を起こさせる為に手を加えた別物だった。本来、アレルギーであれば、目に蕎麦の成分が反応し、痒みが発生するかもしれない。しかし、反応する箇所が外側ではなく、内側のみであれば、目に影響は出ないだろう。アレルギー反応には個人差がある。それも佳味して、最初から間宮はQRコードで彼らが死ねなかった場合を目算していた。それが目薬を使った殺害方法である。
そして、小町はもう一つの考えに至った。それは、三田村、森の自殺の原因である。彼らは端末に映し出された由里絵に逃げ道を阻まれて、やむを得ずベランダから飛び降りた。それが探偵の導きだした推理である。しかし、実際は違う。彼らは由里絵から逃れたかったのではない。アレルギー反応の――苦しみから、逃れたかったのである。
どれだけの苦痛だったのかは、皮肉にも目前の千春が具現化していた。未だに咳が止まらず、身体が震えている。咳が続くと、その衝撃に身体が耐えられなくなり、肋骨を骨折する場合もあった。少女の場合。蕎麦のアナフィラキシー反応と、それに伴う過度な咳で、器官が傷つき出血を起こしていた。ここ数日の千春は、咳込んでいたものの元気そうな姿を見せている。だが、外見は問題がなさそうでも、内部では既に五臓六腑が悲鳴を上げていた。少女自身も知らないうちに、身体は限界を迎えていたのである。
「千春ちゃん、しっかり! もう少しで、救急車が来るから!」
小町の腕の中で、千春は虫の息でいた。虚空を眺めながら探偵の名を呼んだ。
「こまち、さん。ごめん。デート、できそうに、ないね」
「そんなことない! 大丈夫だから」
「にひひ。ああ。ゆりえちゃんを、かばわなかった。罰かな」
冗談を交えたのだろうが、探偵は笑えなかった。少女の口の端から血が溢れ、咳をすると赤い飛沫が飛んだ。小町の頬に、赤い斑点が浮かぶ。
「しゃべらなくていいから!」
「ああ。わたし、こまちさんと、であえて、よかった。わたし……」
――変じゃないよね?
千春は探偵の顔に指先を伸ばし、涙と血で濡れた頬を撫でた。小町は少女の指に触れる。既に、その手は冷え切っていて、危険な状態を示していた。外気のせいばかりではない、手の冷たさだったのだ。
「変じゃない! 千春ちゃんは、変じゃないよ。優しくて、温かくて、甘えん坊さんで。小町の大好きな人だもん」
「へへっ。あまえんぼう、さんか。あっ」
濡れた指先を星空に千春が伸ばす。奇しくも無邪気な微笑みを浮かべて。
「凛ちゃん、由理絵ちゃん。ひさしぶり。あいたかったよ」
「なに言ってるの。千春ちゃん。誰もいないよ。ねえ、千春ちゃん!」
低体温症によって、幻覚が見え始めたのだろうか。あるいは、本当に天国で過ごしていた彼女達が、千春を迎えにきたのだろうか。探偵が泣き叫び、身体を揺らす。その声が少女に届いている様子は見受けられない。小町に見向きもせず、独り言をずっと喋っていた。
「あは。凛ちゃん、あっちでおいしいものばかり、たべてたんでしょう。また、ふとったよね。由里絵ちゃん、ごめんなさい。あのときは、かばってあげられなくて、ごめんね」
探偵は必死で少女の名前を叫んだ。このままでは、千春が死ぬ。祈るように名前を呼んだ。少女は、天に伸ばした腕を下ろし、探偵の手を弱々しく掴む。
「こまちさん。ほんとうに、ありがとう。私、あなたを――あいしています」
「千春ちゃん! 小町も! 小町も千春ちゃんのことが……」
愛を伝えられなかった。小町を握る手の力は失われ、だらりと腕が地に落ちる。すっと閉ざした瞼は、二度と覚ますことがなかった。
「えっ。千春、ちゃん」
探偵の言葉に何も答えない。
「よしてよ。そんな、笑えない冗談やめてよ。もういいから。本当に、耐えられなくなるから。千春ちゃん、目を覚ましてよ」
月明りに照らされる顔は、安らかに眠るように、穏やかな表情だった。
「うそだよ。こんなの……。千春ちゃん。ねえ!」
乱暴に肩を揺らす。それでも、少女は目を覚まさない。凍り付いたような冷たい身体。苦し気な呼吸も聞こえなくなった。ようやく、小町は現実を認め始める。
「いや……。いやっ! いやああああああああぁっ!」
眠りつく千春の骨が軋むほど、探偵は強く抱きしめた。
「ちはるちゃん! ちはるちゃん! うわああああぁ。ああああっ……」
制服の胸元から覗くワイシャツに、激しい雨が降り注いだ。小町の悲鳴が轟く。探偵は再び守れなかったのだ。大切な命を。それは凛を失った以上の、後悔と絶望だった。
喉をひいひいと鳴らして、嗚咽を漏らす。微かにサイレンの音が聞こえた。しかし、全くの無駄足に過ぎない。小町が抱いているのは、千春の魂が抜けた美しい亡骸である。
「ちはる、ちゃん。デート、デートするって、約束したじゃない! なんで! なんで!」
月に照られる綺麗な頬に、小町は手を添えた。氷のように冷たい。探偵が少女に触れたのは、これが最後だった。小町は千春の死を受け入れる。残ったのは、守れなかったこの笑顔だけだった。




