十二月二十一日 本心は闇に包まれて
北川高校の蜂の巣校舎は、薄暮の光で照らされる。教室の窓に夕日が差し込む。席に座る四十川千春の横顔は、オレンジ色に染まっていた。
隣の机に目を遣る。机上に置かれた瓶は反射して、キラキラと輝く。供えられていた花は、生前に彼女が好きだった白百合の花だった。
「凛ちゃん……。ごほっ、げほっ」
口元に手を当て、咳を抑える。
「いけない。気持ちが、後ろ向きだからかな。治りが遅いな」
凛が亡くなってから引き始めた風邪は、一向に快癒の兆しを見せない。胸の中を、思いっきり手で掻きたいほどの、痒みが蠢動する。咳き込んで、そのもどかしさを上手く誤魔化した。
(なんとなく、だるくなってきた。熱でもあるのかな。もう帰ろう)
教科書を片付けて、身支度を済ませてから、千春は教室を後にする。どこか寂寞とした校内を歩く。残っている生徒は、運動部に在籍している部員くらいだった。中央の螺旋階段を降りると、どこかの教室の窓が開放しているのか、グラウンドを走る部員の声が耳に飛び込む。威勢のいい掛け声だった。一階に到着すると、声は遠のき、廊下を歩く靴音が木霊する。
「寂しいな……」
呟いてから、強く咳をした。その時である。
「四十川さん」
ふと背後から、女性の声がした。意外にもよく聞いた声質である。気になって千春が振り向くと、そこにいたのは顧問の青山あかりだった。手を振りながら、ヒールの音を響かせて近づいてくる。彼女は仕事帰りらしく、花柄のトートバッグを肩に掛けていた。青山に目礼して、千春から話しかける。
「先生、こんばんは。今日は仕事終わりですか?」
「うん。そうだよ。因みに四十川さんは、どうしてこんな時間まで?」
「あはは。いつもなら、部活が終わったら、直ぐに帰るんですが。ちょっとだけ、凛ちゃんのいた教室に、いまして……」
探偵の真似をして少女は頭を掻いた。その様子から「そっか……」と彼女は俯き加減に呟く。
「そっ、そうだ。そろそろ日も暮れるし、せっかくだから一緒に帰ろうか?」
「いいですね! ごほっ、すみません。先生と一緒だなんて、なんだか新鮮ですね」
肩を並べて二人は玄関まで歩いた。とば口を抜けると、空は二色に分かれ、橙色と濃紺色が広がる。幻想的に見えて、少しノスタルジックに感じられた。由里絵、凛と三人で去年は、あの空を見て下校していたからだ。全ては過去の記憶。もう、彼女達に会うことはない。これまで過ごしてきた追想に駆られ、涙が溢れそうになった。追い打ちをかけるように咳が出る。その時、背中を撫でる感覚が伝わった。次いで、青山の「大丈夫?」と気遣う声が聞こえ、少女は頷く。
「先生、すみません」
「ううん。無理しないでね……」
彼女の優しい声音と対応に、嬉しさを感じた。作り笑顔を見せて、心配かけまいと、元気な様子を取り繕う。
「いえっ。普通の風邪ですから。大丈夫ですよ。ただ、凛ちゃんがいなくなってから、やっぱり心が弱くなっちゃって。大切な親友でしたから。会えなくなると、寂しいな……」
千春の言葉に青山は俯く。短く揃えた前髪は垂れ、傍から見れば、表情は読み取れない。
「四十川さん。あのっ、変なことを聞いて気を悪くしたら、ごめんなさい。四十川さんは、水科さんのこと、好きだった?」
「えっ? そんなの、当たり前に好きでしたよ。かけがえのない友達でした……。心の底から、大好きでした」
再び咳き込み、うっすらと濡れる目元を少女は指でなぞった。
「そうよね。ごめんなさい。思い出したら、すごく辛いよね。苦しいよね」
「それも、そうなんですけれど。私は、犯人が許せないんです。どうして、凛ちゃんまで、手に掛けたのか。それが、どうしても、許せなくて、ぐすっ、くやし、くて」
声を詰まらせて、ポロポロと千春は涙を流す。どうしても脳裏に由里絵と三人で過ごした去年までの時間や、小町と三人で過ごした日々。二人だけで、一緒に遊びに行った記憶など。全てが追憶の日々となって、浮かんでは消えた。
顧問と話をしている間も、彼女達の生前の姿が胸に往来する。ずっと、溢れそうな気持ちを堪えていた。
「先生。悔し、いです。どう、して、どうして。うぐっ、ううっ」
瞼を閉じれば、二度と会えない親友の元気な姿が浮かぶ。肩に青山の手の温もりが伝わり、気持ちばかり嬉しかった。なぜだか無意識に、亡き凛が肩に触れて「泣かないで」と言っているような気がしてならない。親友の姿が、はっきりと頭に浮かび、涙は止まらなかった。
「四十川さん、ごめんなさい。私からは、なんて声をかけてあげればいいのか」
「せん、せい。ぐすっ、だいじょう、ぶ、です。うぐっ、なん、とか。何とか、落ち着いて、きました」
濡れた瞼を開けて、ぼやけて見える顧問の顔を見遣る。次第に視界が開けると、彼女の心配そうに見つめる瞳が見えた。赤く充血していて、潤んでいる。どうやら、顧問も悲しみから涙が溢れ、ぐっと堪えているようだ。ふと青山が口を開いた。
「そうだ。四十川さん。今日、この後、予定とかある? 一緒にご飯でも食べよう。その際に、心にため込んでいる悲しみや苦しみを、全部、先生に教えてほしいの。私が生徒にできることって、そのくらいしかないから」
「先生、いいんですか。私って、結構、食べる方ですから」
涙声で言う千春なりの冗談に、顧問は、親指を立てる。
「全然いいよ! むしろ、そうやって元気になってくれたら、先生は嬉しいから」
青山の温かく、優しい言葉に少女は胸を打たれた。先生のお言葉に甘えて、ご飯を頂こう。次いで、この胸の中に渦巻く想いを聞いてもらいたい。そんな腹案を考えて、生徒は「うん!」と夜ご飯に行くことを決める。その決然とした笑顔に、先生も微笑みを返した。
千春は彼女の勧めで、車に乗せてもらうことになる。玄関口から抜けて、生徒達の自転車置き場の隣にある、職員専用の駐車場まで歩いた。その間、二人は凛のことや、小町のことを話す。他愛のない談柄だったが、それが少女の心を段々と軽くさせる。少しだけ元気さを取り戻しつつあった。
駐車場に到着して、青山の所有車の前で足を止める。車は黒色の軽四車だった。夕日も水平線に沈み、辺りは闇に染まり始める。空の色は黒に限りなく近い紺色だった。
助手席の扉を千春は開いて「お邪魔します」と乗り込む。車に乗ると、心地よいフラワーの香りが鼻に入った。心を落ち着かせる香りである。シートベルトを締めると同時に、青山がエンジンを回して、車が動き始めた。前方へ、ライトで照らしてから、軽自動車は発進する。
「四十川さん、それコンタクト?」
「ええ。実は、外では付けているんですよ。その、眼鏡でも良かったんですけれど、自分の眼鏡姿、なんだか好きになれなくて」
少し照れながら自身の秘密を、青山に伝えた。
「えー。でも、四十川さんなら、眼鏡でも可愛いと思うよ」
「いやいや、いいですよー。恥ずかしいですから」
そういって、鞄からコンタクトケースと目薬を取り出す。数適、目薬を差してから新しいコンタクトと交換した。レンズを目に入れる瞬間は、やはり慣れない様子で、コンタクトを持つ指先が震える。その様子を先生は、面白がって笑っていた。
小道を抜けて、車は国道八号線を走っている。目下、道路は帰宅ラッシュの渋滞で滞っていた。テールランプの列が並び、何度も赤く明滅を繰り返す。数回ほど青信号に変わっても、車は鈍重に進むばかりである。
ハンドルを握る顧問が「デルーズでも良いかな?」と千春に提案した。ファミレスが大好きな少女は「良いですよ! デルーズのハンバーグ、美味しいんですよね」と上機嫌で青山に伝える。
その時、再び千春は激しい咳を漏らす。器官が痛くなり、息苦しさを覚える。しかし、何度か咳込むと症状は治まった。
「四十川さん、本当に大丈夫?」
「えへへ。すみません。多分、精神的なものもあるんだと思います」
無理強いをして笑みを浮かべる。心配そうな表情のまま、横目で顧問は少女の様相を窺う。
「よかったら、ダッシュボードの中に私が飲んでいる風邪薬があるんだけど、それ飲んでいいよ」
彼女に催促されて千春がボードを開けると、車検証や自動車保険のファイルが入っている。その傍らに、壜に入っている錠剤を見つけた。市販の医薬品で「バンテリン」とシールが貼られている。ちょうど、白い錠剤は三つあった。成人女性の一回分である。
「先生、これ――最後の分しかないですけれど、いいんですか?」
「うん。大丈夫。先生、帰りにまた買ってくるから」
「分かりました。すみません、お言葉に甘えさせて頂きますね」
一礼してから、少女は壜の蓋を開けて、錠剤を手のひらに乗せた。口に含んでから、鞄を開けてお茶の入った茶色のステンレスボトルを取り出す。ボトルの飲み口に唇を付けて、ごくり、ごくりと錠剤を流しこんだ。
「先生、ありがとうございました」
「ううん。いいよ。それより風邪、早く治ると良いね」
「そうですね。ただ、時間、かかりそうです」
遠方に見える信号が赤に変わり、一斉にテールランプが赤く光り出す。デルーズに到着するまで、まだ時間がかかりそうだった。
屈託そうな表情で千春は、助手席の窓から街の風景を眺めている。軒並み似たような雑居ビルが建ち並び、チカチカとパネルが点灯していた。ビル前の歩道を去来する人波に目を向ける。他校の制服を着たカップルや、二十代くらいのカップルが手を繋いで、楽しそうな笑顔で歩いていた。
「いーなー」
頬杖をついて少女は一人呟く。漫然と眺めていると、突然、瞼が重たくなった。俄かに眠気が襲い始めたのだ。背もたれに背中をくっつけ、少し目をつぶる。
「四十川さん、眠たいの?」
「ええ。ちょっと、急激に、ですが」
「多分、薬の副作用じゃないかな? デルーズに着いたら起こすから、寝てていいよ。この様子だと、まだ渋滞から抜け出せようにないし」
青山に頭を向けると、顔は靄が掛かったように茫々としていた。頭が重たく、感じる。
「うん。それじゃ、寝ます」
瞼を閉じて千春は眠りについた。天使のような寝顔を見せて、寝息を立てる。
「四十川さん、ごめんなさい。本当に、ごめんね」
渋滞が動きだす。泣きそうな表情で彼女は、ビルとビルの間の脇道にハンドルを切った。鼻を啜りながら、人目のつかない道を進む。
千春の上着からスマホのメロディーが流れる。起きる素振りも、目を覚ますこともなく、少女は車に揺られていた。連れていかれる場所も知らず、千春は深い眠りの世界へ誘われたまま……。




