十二月二十日
静かに雨が窓を叩く。デルーズのテーブル席に座る探偵は、雨音のする戸外に目を向けた。傘を広げて去来する歩行者を見遣ながら、スマホを耳に当てて話す。
「傳ちゃん、悪いけれど、調べておいてくれる」
電話の相手は鑑識官の傳法谷であった。
『分かりました。とりあえず、その被害者、三人の検死結果ですね。なんとか、周りの目を盗んで、調べてみますよ』
「ごめんだけれど。お願い」
そう言って、小町は切電する。そして、通話画面から先ほどまで触っていた画面に戻す。机上に置いてから両肘をついて、スマホを見下ろした。画面上にはGoogleの検索サイトが表示されている。そこで小町が検索していたものは。
「雨晴海岸」
モニターに映し出された海の画像。そこは、高玉市の西方に位置する氷見市の海岸だった。雨晴海岸の歴史は古く、一一八七年に源義経が兄の頼朝に追われ、奥州の平泉へ落ち延びていた。その行程で雨晴の場所を義経は訪れたが、どこにも休息できる場所がない。窮していたところを供人の弁慶が、或る岩を持ち上げて、雨風をしのぐ岩陰を作った。そうして雨が晴れるのを待ったことから、この海岸を雨晴海岸と名付けたという。
海岸のシンボルとして、海面にぽつんと浮かぶ、周囲約八〇メートルの孤島がある。それは女岩と呼ばれ、かなり小さな島だった。鬱蒼と樹木が生い茂り、写真家達は挙って、この孤島をフレームに入れて撮影する。
北川高校の職員室で、青山の机上に置かれた写真立ての中も、この女岩が映し出されていたのだ。恋人の近影でなく、風景だけの写真を、飾って置いていた。それが小町の感じた違和感の正体である。
昨日のこと。千春の部屋で一泊して、スマホで雨晴海岸を検索していた。その場所で何か事件が起きた過去はなかったどうか、調査していたのである。検索ワードを「雨晴海岸」「事件」と打ち込む。そして、トップに表示された或る一つの記事と逢着した。中身を開き、内容を確認して、文字を目で追っていく。その記事の中身に、探偵は息を呑んだ。
少女に「何、見てるんですか?」と質問されたが、軽いノリで言える記事ではなかったので、それとなく受け流したのである。不満げに登校する後ろ姿を見届けてから、小町はタリーズに赴き、本件を整理していた。手帖を広げて書き綴った内容は、随分と埋まっている。
「やはり、そういうことだったのか……」
得心が行ったように、探偵は頷いた。今回、見つけた記事の内容と、小町の抱えている案件は交錯している。それらの脈絡を繋げると、事件の全貌が暴けそうに思えた。
「間違いなく、犯人は青山先生だ。あのQRコードを送ったのは、彼女だろう。でも、それは――森と三田村に対して。千春ちゃんに、メールを送り、凛ちゃんを殺したのは……」
その時である。スマホから着信音が鳴った。画面に表示された相手の名前を見遣り、探偵は驚きの声を上げる。
「えっ! 小雨さん」
相手は入院中のはずの小雨だった。以前、喫茶店「AME」で連絡先を交換したのだが、彼女から連絡を受けたのは初めてである。恐る恐る受電ボタンを押し、スマホを耳に当てた。
「もしもし、こっ、小雨さんですか!」
緊張から吃ってしまう。額に汗が流れるが、それは杞憂に過ぎなかった。
『あっ、もしもし。明智さんですか?』
明るい声音が返ってくる。その声は喫茶店で聞いた時のような、快活さがあった。
「そうです。小町です。あのっ、小雨さん、大丈夫なんですか?」
『はい。なんとか、最初の頃よりは、かなり心も落ち着きました』
彼女が微笑んでいる様相を電話越しに浮かべる。声から元気そうだと判然して、安心した小町は、ほっと胸をなでおろした。
「よかったです。小雨さんが少しでも元気になれればと思っていましたから」
『いえ、私も明智さんを心配しておりましたから、こちらもよかったと思っています』
お互いに元気そうな口振りから、笑みが零れる。ふと、彼女から『明智さん』と名前を呼ばれて、探偵は「はい?」と明るく答えた。
『実は私、主治医から外出許可が下りまして。それで今、もし可能でしたら明智さんにお会いしたいと思いまして』
「そうだったんですか。ぜひぜひ、小町もお会いしたいです。今、国道八号線近くのタリーズにいまして……」
探偵が居場所を伝えると、それから十分くらいで小雨が到着する。白黒のスニーカーを履き、白いスキニーパンツ姿だった。緑色のロングシャツに茶色いダウンベストを羽織っている。喫茶店「AME」で見た黒いエプロン姿とは程遠い恰好から、驚きを顔に発露させてしまった。
「小雨さん、おはようございます。普段着、はじめて見ました。素敵ですね」
「あはっ。いつもは店内で着る服装なんですが、お店を休んでいるので、久しぶりに私服を引っ張り出してみました。一応、これ、凛のコーディネイトなんです」
病室で泣き崩れていた人物とは別人のように、明るさを取り戻している。再び探偵は安堵して、頬を綻ばせた。
小雨に「どうぞお座りください」と小町は座るように促す。お辞儀して彼女は席に座る。奇しくも、小雨が腰を下ろした場所は、凛の座っていたところだった。ここは、探偵が彼女達と初めて会ったテーブル席である。
小町の目に、凛の面影が小雨と重なって映った。親子である以上、やはり似ている。
(もし、凛ちゃんが十年先まで生きていたら、きっと、こんな感じだったんだろうな……)
感傷に浸るものの、せっかく前向きになっている小雨の前で、暗い顔をしてはいけない。胸中に抱える切なさを気取られないように、探偵は明るく演じた。笑みを絶やさないように、口元を意識する。
血色の良くなった顔を見ていると、小町の腹の虫が鳴った。お腹に両手を置くと、小雨が口に手を当てて微笑する。恥ずかしくなり「あう」と声を漏らしてから、小町は頭を掻いた。ずっと雨晴海岸の記事を、あれこれ調べていた為、朝食をとり忘れていたのだ。
腹が減ってはなんとやら。探偵はタリーズのモーニングを頼もうと呼び鈴ボタンを押す。近場にいた店員が駆けつけて、オーダーを取り始めた。品物を頼んでいると、小雨も食べたいということで、一緒に二つ分のモーニングを注文する。朝食が届くまでの間、二人は近況について話し合う。
「でも、小雨さんから電話がくるだなんて、びっくりしました。元気そうで、本当によかったです」
「いえいえ。明智さんにお会いしたかったので。ただ、いきなりで、ごめんなさい。実は、もう一つ、直接にお話ししたいことがございまして」
「えっ、お話?」
飲み差しの冷えたカフェラテに、小町は手を伸ばした。口につけて飲んでいる間、彼女の話に耳を傾ける。
「はい。あの、実はですね。今まで続けてきたお店を、畳もうかと思いまして……」
発言の内容に驚いて、探偵は咽せ返った。コーヒーが器官のどこかに入りこみ、胸が痛い。激しく咳き込んでいると、小雨が慌てて「大丈夫ですか!」と心配の声をかける。手を前に出して、小町は「はいっ」と答えた。しかし、その声音は掠れて嗄れている。落ち着きを取り戻してから、目を見開いて「どうしてですか?」と探偵は嗄れ声で尋ねた。
「あのお店は元々、うちの主人のお店だったんです。でも、凛が五歳の頃に、夫は癌で亡くなって。それで私が後を継いで、ずっと切り盛りしてきたんです。けれども、何度も、もう辞めようとも思いました。自由な時間がない。慣れない接客でストレスも溜まり、不眠になったこともありました。それでも、私が今まで頑張ってこられたのは、全部、凛のおかげなんです」
何度も相槌を打ちながら、小町は再びカップに手を伸ばす。
「凛が幼稚園にいる時から、あのお店で働いていました。疲れて帰宅してから、彼女の笑顔を見ると、辛いことや嫌なことが消し飛びました。それが唯一の生きがいでした。もちろん、彼女と一緒に働けたことも、かけがえのない幸せです。けれど、もう凛はいない。今まで、彼女と一緒に働きたくてお店を継続していたのですが、私一人で食べていくのであれば、いっそのことスーパーのパートでも行こうかと考えたり、どこかの企業の派遣で働いたりするのもいいかもと思いまして……」
カップを置いて探偵は「ふうん」と一息をつく。
「そう、でしたか。確かにそうかもしれませんね。でも、うーん。あのっ、小町が言うのは、正直どうかと思いますけれど。小町は、ずっと喫茶店を続けてほしいと思っています」
彼女の目をまっすぐに見つめて、胸の内を告げる。探偵の言葉を聞いている間、小雨は悲しげな表情を浮かべていた。小町は話を続ける。
「そのっ、確かに、もう凛ちゃんはいないです。お店を一人で続けていれば、凛ちゃんを思い出して、辛くなるとも思うんです。でも、きっと天国にいる凛ちゃんは、お店をやめてほしくないと思うんです。こんなこと、小町がいうのは恐れ多いことですけれど。凛ちゃんは、楽しそうにお店で働いていました。それは、小雨さんと一緒にいられたからだと思うんです」
探偵の言葉に、彼女は「明智さん」と潤む目を指先で拭いた。尚も小町は、気持ちを伝える。
「きっと、彼女も小雨さんと同じ気持ちだったはずです。それに、小町は、あのお店が好きになりましたし、凛ちゃんとの思い出もあります。だから、そのっ、これは小町の我儘ですが、どうか、お店をやめないでください。また、あの美味しいカフェモカを飲ませてください。どうか、お願いしまう!」
勢い余って、大事な場面で探偵は言葉尻を噛んでしまった。両手で口元を抑えて、彼女を瞠る。口元に手を添えて、小雨は「あはは」と哄笑した。
「明智さん、もう。笑わせないでくださいよ」
「あああっ、これは、大変な失礼を。すみませんでした」
手を前に振って、彼女は笑い続ける。
「いえいえ。ふふっ。でも、明智さんに言われて、嬉しかったです。確かに凛はいないけれど、明智さんが私のカフェモカを飲みたいと言ってくれるのなら、喜んでお出ししますよ。それに、凛のように歳の近い娘は四十川さんと明智さんだけですし。私も、娘に似た年頃の子とお話ししたいですもの」
「小雨さん。ありがとうございます! 必ず、また行きますからね。今度は、小町の友達二人も連れてきますから」
目を輝かせて、彼女は「あらま!」と両手を合わせた。
「とても嬉しいわー。若い常連さんが増えるわね。明智さん、楽しみにしております」
「もちろんです! 約束します」
お互いに微笑みを浮かべると、丁度、頼んでいたモーニングが到着する。小倉トーストの甘い香りが漂い、ポテトサラダとスクランブルエッグが皿に添えられていた。彼女と朝食をとりながら他の話もする。そこで、凛がどんな娘だったのか、幼少期の思い出も交えてくれた。その過去を知れば知るほど、やはり、母親想いの優しい娘だったことを痛感させられる。笑みを浮かべながら探偵は、必ずこの事件を終わらせようと誓う。
そして、犯人であろう青山と接触する心積もりをしていた。推理を突き立てて、自首を促す為に。千春の命を守る為にも。




