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十二月十七日 一輪の凋落

凍てつく冷気が漂う高玉病院の地下の一室。薄暗い室内に蝋燭の炎が揺らめく。部屋の隅で小町は自身の右手を見つめていた。その手の甲には、幾重に包帯が巻かれている。赤い灯りを映す瞳で、じっと、血の滲む包帯姿の手を眺めていた。徐に、視線を手から隣に向ける。眼前に映るもの。それは、白い布で覆いかぶされた人の姿だった。室内に、線香の香りが漂う。それを吸い込むことで、今、目の前で起きていることは現実なのだと探偵は何度も認識させられた。

背後から、ドアを隔てて、誰かの駆ける靴音が飛んでくる。次第に音は厚みを増して、大きくなった。突如、ぴたりと鳴り止む。次いで、ドアが蹴破られた。

「凛ちゃん!」

 切迫した声に探偵が振り向く。そこに、見開いた目から大粒の涙を落とす、千春がいた。

「凛、ちゃん……」

 呆然と立ち尽くす少女の視線を、小町は追いかける。ベッドの上に横たわる、赤茶色い髪の持ち主を、千春は捉えていた。

身体には白い布団がかけられ、顔には一枚の布切れが敷かれている。室内に充満する御香の匂い。それらが全て、水科凛の死を暗示していた。

一歩。亡き彼女の名を呼んで、千春は一歩、室内に踏み込む。そして、足早で亡骸に近づき、白い塊を揺らした。

「凛ちゃん! 凛ちゃん! 凛ちゃん!」

 少女の狂騒する声が室内に木霊する。くしゃくしゃの顔のまま、掠れる声音で泣き叫んでいた。膝が崩れ落ち、凛のお腹の上に凭れる。何度も、何度も、彼女の名前を呼んでいた。ふと、頭を上げて、凛の顔に掛けられた白い布を見つめる。それに手を伸ばそうと……。

「見るな!」

 小町の怒号が飛ぶ。精悍した面持ちで、千春を睨みつけた。

「見たら、きっと後悔する……」

 言下、少女は細い肩を揺らして、喉を鳴らして再び泣き崩れる。子供のように声を上げ「凛ちゃん、凛ちゃん」と繰り返す千春の姿に、探偵は酷く心痛した。そして、自分自身の運命を烈々に恨んだ。

あの時、アパートに到着する時間が、もう少しだけ早ければ……。目の前で起きた変事を食い止められたかもしれない。煩悶とする小町の胸の中で、生前の凛の姿が去来する。デルーズで初めて会ったことや、小雨と一緒に喫茶店「AME」で働いていたこと、恥ずかしそうにコーヒーを出してくれたことも。彼女と過ごした楽しい思い出や記憶が、ありありと蘇る。

(もっと、小町が、しっかりしていれば)

探偵は以前から、凛の動向を見守っていた。彼女の身の周りで不審な人物が現れないか。また例のメールが届いていないか。凛の身を案じて行動していたのである。彼女は大切な友達。絶対に危険な目に遭わせたくない、死んでほしくない、もっと一緒に過ごしたい。その気持ちを一番に、注意を払っていたのに……。

予予、次に狙われるのは凛ではないか? そう小町は憶測をしていた。森と三田村が亡くなり、犯行動機が復讐であるならば、次の犠牲者は凛か千春しかいない。そうして恐れていた探偵の予想が、捗々しくない形で当たってしまったのだ。

小町にとって、凛と千春と三人で過ごした時間は、かけがえのない宝物だった。ほとんどが相談内容と関係のない、稚気でバカらしい会話やスキンシップばかりである。でも、それが探偵の幸せだった。

依頼の話以外でも一緒に過ごす時間が増えて、凛の知らない一面を知ることが、たくさんできたのだ。鹿爪らしい彼女だったが、千春につっこむときは容赦なく、また時折くだけた様相を見せてくれる。喫茶店では母親と二人でお客さんを笑顔にしてきた。そして、母親に頭を撫でられて嬉しそうに頬を緩ませた姿が、本当に愛おしかったのだ。何もかも、全てが思い出となる。喫茶店「AME」に行っても、彼女はいない。凛の笑顔と声が、走馬灯のように浮かんだ。

「千春ちゃん」

 白いシーツに顔を伏せる千春まで近寄り、膝を折った。小刻みに揺れる少女の肩に瞼を押し当て、声を詰まらせて詫び続ける。

「ごめんなさい。凛ちゃんを、守れなかった。小町のせいだ……」

 悲痛な面持ちを千春に向け、再び「本当に、ごめんなさい」と頭を下げた。当然、謝って済む問題ではない。探偵も頭では分かっていた。しかし、現地にいた以上、救えた可能性は十分にある。小町の言葉は、少女と、亡き親友に向けた謝罪だった。

「小町さん……」

 嗚咽を漏らして千春は、探偵に抱きつく。

「小町さん、私、悔しい、です。どうして、凛ちゃんが、どうして……」

 探偵の腕の中で千春は絶叫した。声にならない声が狭い霊安室に反響する。胸に降り注ぐ少女の雨に、小町は感情を我慢できなかった。

潺湲たる涙を探偵は流す。千春の、つむじ周りに小町の想いが落ちていく。少女ほどの号泣はしなかった。けれど、鼻をすすり、自然と嗚咽が漏れてくる。

悔しい気持ちは同じだった。もし目の前に犯人がいたら、この手で殺めてしまうかもしれない。けれども、手に掛けたところで、凛は戻らないのだ。常世に行った死者は、この現世に戻ることはない。やりきれない想いと、自身の罪悪感で胸がいっぱいだった。

目下、震える千春を抱きしめるくらいでしか、今の少女を救えない。そう考えていた時である。小町の背後から、誰かの足音が聞こえ、室内にドアを開く音が轟いた。加えて、女性の声が背中から降りかかる。

「小町さん! あっ……」

 千春を抱きしめたまま、声の主を確認しようと振り返った。ドアノブに手をかける紺色の作業着姿が目に入る。

 紐の付いた黒いブーツを履き、腰回りは黒い二穴の開いた作業ベルトで固定されていた。四角い黒革のベルトポーチと、スマホケースを装着している。右手側から見て、上着の胸辺りに高玉県警の文字、加えて左腕に付いた鑑識の腕章が目に映った。

「ああっ、傳ちゃん」

 探偵の親友「傳法谷(でんぽうや)七未(なみ)」である。彼女は平成三十一年の十一月に高玉警察に配属された。鑑識官になって、まだ一年半だが、これまで交通事故や殺傷事件に携わってきた実績がある。

傳法谷は、小町から水科凛の依頼を聞かされ、警察内部の情報収集の要請をされた。彼女は肯じて、肩入れすることを約束する。そうして、森と三田村のスマホの所在を調べたり、鑑識の結果では自殺説に趨勢していると探偵に口伝したり、何くれと無く協力してくれた。

 鑑識官の翡翠色の瞳は、少女を抱きしめる探偵を捉える。心配そうな眼差しを送っていた。鬱然とした空気が未だに重々しく漂う。その最中、意を決して、小町は涙を拭って立ち上がった。

「ごめんね。仕事中なのに……」

 傳法谷は耳元まで被る水色の天然パーマを左右に揺らす。

「いえいえ。自分のことは気にしないでください。それより、亡くなられた娘さんの、お母様ですが」

「小雨さん?」

「はい。先ほど意識が戻ったらしく、目を開けられたそうです。ただ、精神的に危うい状態は続いているようでして……。無理もありませんよ」

 鑑識官の説明通り、小雨は凛の死の直前を目の当たりにしている。事件当時、居合わせた探偵が警察に連絡しようとした時だった。突如、小雨は狂乱したように、慟哭する。娘の名前を叫び続け、その場に頽れた。それから、凛の後を追おうとベランダから飛び降りようとしたのである。

 必死に小町が止めに入り、後追い自殺を抑制した。二人の絶叫する口論が室内で繰り広げられる。娘の待つ黄泉の世界へ小雨は、急いでいたのだろう。何が何でも離すものかと堅固に掴む探偵の手を、彼女は引っ掻いていた。何度も小町の皮膚を掻き毟り、小雨の指先が赤く染まる。

そして、二人の声を耳にした近隣住民が現地に駆けつけ、警察を呼ぶ。同時に、アパートの軒先で鳴った落下音を確認した住民が、救急センターに連絡を入れた。現場は騒然とし、凛の死体に関心を持つ野次馬達が参集する。まさに、煉獄とも言える変事だった。

 傳法谷の話を聞いて小町の胸中は、小雨に謝りたい一心でいる。しかし、彼女自身も精神的に危うい状態だった。もし、小雨と対面して探偵が平身低頭に謝罪をしたとしても、その声が彼女の心に届くかどうかは分からない。気の狂れたように喚きながら暴れ回ったり、小町に対して殺意を向けて襲ったりする可能性も、少なからずあった。そもそも、小雨はまともに会話できるほどの精神状態なのかも定かでない。しかし、例え彼女に許してもらえなくても良いから、探偵は謝りたかった。心から、小雨に……。


 高玉病院の玄関先まで、小町と傳法谷は千春を見送った。少女の母親が車で迎えに来たのである。終始、千春は生気の失った表情をしていた。この世の終わり。まさに絶望しきった心が、顔に発露していた。

「千春ちゃん、本当に、ごめん」

 小町は瞑目する。瞼の裏に、凛、小雨が浮かぶ。探偵のごめんという言葉は、みんなに対する謝罪だった。今の小町には、謝ることしかできない。

「小町さん……」

 か細い声で呟いてから、千春は探偵の右手を掴み、胸元の高さまで持ち上げた。そして、そっと両手で握りしめて。

「私、怖い。死にたくない……」

 少女の言葉が重くのしかかった。怯え切った瞳を見つめて、小町は千春の両手に反対の手を上から重ねる。

「当たり前だよ。大事な人、もう失いたくないから」

 二人の様子を傍観していた傳法谷は、悲しげな表情を浮かべていた。彼女の目顔を小町が横目で窺い、瞳を潤ませる。

「ほんとに、ごめん」

 言葉を交わさずに、千春は俯き加減で停車する車まで向かった。濡れるステンレスの手すりに触れながら階段を降りていく。細い後ろ姿が、より一層ほっそりとした背中のように見えた。


「小町さん、無責任な言葉かもしれませんが、元気出してください。はい、どうぞ」

 差し出さす傳法谷の右手に手を伸ばす。

「傳ちゃん、ありがとう」

 指先に缶コーヒーの温もりが伝う。高玉警察署内のロビーから少し離れた廊下に、二人は居た。大人二人が通れるほどの手狭な廊下で、制服姿の警察官が疎らに通り過ぎる。自販機前の正面に置かれた黒張りのベンチソファで、小町達は腰掛けていた。

(傳ちゃんには、ホント色んな面で助けてもらってる……)

探偵が依頼の事で精神的に疲弊している時は、彼女が話を聞いたり、相談に乗ったりと手広くサポートしてくれる。お互い酒は飲めないが、たまに居酒屋に誘ってくれることもあるし、傳法谷の部屋でささやかな女子会が開かれたこともある。彼女は小町の良き理解者であり、大親友だった。


二人の出会いは去年の秋口まで遡る。当時、高玉市内ではタイヤの盗難被害が頻発していた。乗用車、軽自動車と車種を問わずタイヤが盗まれ、被害件数は一ヵ月間に八件も起きていた。

このタイヤ盗難事件が市民の間で話題になっていた頃、既に探偵は相談を受けていたのである。依頼者は四人家族の大黒柱で、自身の車の夏タイヤと妻のタイヤと合計八本が盗まれたと聞かされた。警察にも相談をして犯人逮捕の依頼はしたが、依然として事件の被害者は増え、犯罪の勢いは一向に衰えない。そこで探偵の小町に白羽の矢が立った。これまで自身が所属している「ライト・ウィズドム探偵事務所」では、警察との捜査協力で実績を多数上げてきている。

高玉市内にいた小町に犯人を特定してもらい、なんとかタイヤを返してもらいたい。遂には高玉警察署からも肩入れを依頼されたのだ。このまま事件を野放しにしておけないと、探偵は依頼を承諾した。

最初に、依頼者の盗難被害場所である自宅に赴く。住宅街で、不動産会社が管理している賃貸物件であった。家の軒先には車が三台ばかり停められるスペースがある。盗まれたタイヤは、寝かせて四つ積んだ後、黄色いプラチェーンで何重にも堅固に巻いていたそうだ。しかし、翌朝になって気付くと、切断されたチェーンだけが残っていたらしい。

依頼主から聞いた情報を元に、現場を見て回る。そこで初めて、現場検証をしていた傳法谷と知り合った。

 いの一番に話かけたのは小町である。同年代で話しかけやすいという理由から、彼女に状況を問いかけたのだ。当初、唐突に話しかけられた傳法谷は、頗る困惑したという。いかにも探偵という風采で、自身は探偵をしていると名乗ったからである。

この人物を信用して良いのだろうか。最初は半信半疑だった。その日に高玉署に戻った傳法谷が刑事課の人間に小町の事を話す。すると、事件の協力を正式に要請したと聞かされた際は、耳を疑ったという。いくら実績があるとはいえ、二つも年下の女の子が事件を解決させられようか。その疑問から、小さな探偵を信じられなかった。

しかし、何度か現場で一緒になると、鑑識官は探偵を信頼するようになる。決して小町が性根の腐った探偵気取りではないと確信するようになったのは、彼女の誠実な行動にあった。

例えば、或る炎天下の日のこと。現場で作業をしていた時、小町は「お疲れ様です」と大声で挨拶をした後「これ差し入れです! 皆さんで飲んでください!」と袋に入ったアイスコーヒーを手渡していた。その行動に傳法谷は衝撃を受ける。この人は、こんなに気を配る人だったのかと。

また、タイヤを盗まれた被害者に情報聴取していた際は「酷いですよね。タイヤだって安くないのに……」と心情を汲み取っていたこともあった。この探偵さんは他の人とは違う。いつしか、小町の優しい人柄に傳法谷は惹かれ始める。

探偵が調査に関与してから二週間後、盗難事件は意外な形で終息した。解決のカギは、明智小町の得意とする英語である。街中で聞き込みをしていた際、探偵は外国人カップルを目撃した。彼らに英会話で事件の事を質問すると、以前、タイヤを盗まれたことがあるという。しかも、一度だけではない。二度も盗まれたのだ。この時に小町は「二度あることは三度ある。もしかすると、彼らのよく知る人物が犯人で、この高玉市内のタイヤ盗難事件と同一犯かもしれない」と推理した。

理由としては、目下、被害者からの報告だけで二十件以上も盗難が起きている。ただし、盗みに入った家に、犯人が再び訪れることは全くなかった。しかし、先ほどの外国人カップルの家にだけ、犯人は二回も侵入している。探偵は、この点が不審に思えてならなかったという。そこで、カップルに頭を下げて、捜査の協力を頼み込んだ。

快く引き受けてくれた外国人カップルのことを、小町は傳法谷に説明した。そして、探偵は、彼らに、おとり捜査をしてもらうことを考えたのである。犯人はカップルの知り合いで、少なからずの怨恨を持つ。それ故、必ず三回目のタイヤ盗難を図るに違いない。そこで小町は、彼らの住む賃貸住宅にダミーのタイヤを用意することを提案した。そのタイヤのゴム内にGPSを内蔵させ、犯人が掠めて運び出した際に、追跡するという妙計である。この妙策を探偵は刑事課に持ち込み、力説した。すると、小町の計略は採用され、実際に警察内部でタイヤを手配する動きが起きる。後日、犯人は探偵の策に陥穽し、逮捕された。犯人は外国人で、二人組である。その内の一人は、あの外国人カップルの彼女の元カレだったのだ。逮捕された男は無職で、盗んだタイヤを転売して食いつないでいた。しかし、元カノの幸せそうな姿や未練から、三回もタイヤを盗んだという。こうして、高玉市を騒然とさせた盗難事件は、小さな探偵の奇策によって、解決したのだ。


事件が解決してから小町と飲みに行った際、傳法谷は当初の衷心をありのまま告げた。もちろん、当の本人は真面目に探偵業を行っているので、ご機嫌斜めになったのだが。それから、仕事仲間の垣根を越えて、親友となる。傳法谷が探偵と友達になり、一番に驚いたのは、住まいが同じマンションだった。その為、今回のQRコードの読み取りは、鑑識官の部屋で行われたのである。突然「お邪魔しまーす」と夜に来訪してきた探偵のせいで……。

 兎角、そんな彼女との出会いを思い出し、探偵は懐古に浸っていた。

「なんだか、懐かしいねー。でも、不思議だね。あの事件の後も、傳ちゃんとの関係が続いて、友達になれたんだもん。今だって、小町に協力してくれている……。本当に、いつも支えてくれて、ありがとう」

 濡れた瞳を傳法谷に向ける。彼女は足を組んで缶コーヒーを飲んでいたが、視線が合わさると飲み口から唇を離して、顔を少し赤くした。ぶんぶんと手を左右に振って「いえいえ」と謙遜する。

「そのっ、あははっ。照れますね。自分としては、当たり前のことをしているだけですから。気にしないでください」

 前かがみになって傳法谷は微笑む。その後、少しばかり口を噤み両手で持つ缶を眺めた。そのまま「でも」と話を続ける。

「小町さんに話しかけられていなかったら、自分は、今の自分ではなかったと思います」

「そうかな。小町は、むしろ傳ちゃんに助けられてばかりで」

 かぶりを振って傳法谷は「そんなことないです」と告げて、自身の過去を語りだす。

「思えばなんですが、自分は小学生の頃から高校生の時まで、ずっと風紀委員をやっていたんです。七未ちゃんは真面目だから、風紀委員がお似合いだよって、担任の先生に言われまして。それで委員になったんですね」

 身振り手振りを交えて話す彼女に、探偵は優しい眼差しを向けて頷く。

「特に高校生の時が一番、楽しかったですね。地元住民の方や生徒達の為に、交通ルールの呼びかけや交通マナーの体験活動に取り組んでいました。気が付いたら、それが報われて、金山警察署から表彰を受けたんです。いやあ、嬉しかったですよ。それがきっかけで警察官に憧れて、大学を卒業したら、絶対に警察になろうと決意したんです。自分は交通警察で頑張るぞって。交通の秩序を乱す奴らは許さないって」

 意気揚々と話す傳法谷であったが、突然、翡翠色の瞳を床に伏す。ひとつ小さな溜息を吐いた。

「でも、自分は子供のころから、人とのコミュニケーションがうまく取れない、という欠点があったんです。風紀委員会の活動中は大声で注意喚起できるんですが、いざ、対面で人と話すとなると、しどろもどろになっちゃいまして。恥ずかしくて顔は赤くなるし、それが大人になっても直らないし。そんな自分が嫌でした。でも」

 言葉を途中にして、小町の方向へ頭を擡げる。

「小町さんが、最初の親友と言いますか。今まで、まともに人とお話しできなかった自分を、普通に話せるようにまでしてくれたと言いますか……。本当に、一人で孤立していた自分に優しくしてくれた恩人なんです」

「そんなオーバーだよ」

 彼女の大仰な表現に恥ずかしさを感じて、探偵は頭を掻いた。

「本当ですよ。幼少期から、会話が下手というだけで、避けられて。大人になっても、どう人と接したらいいのか悩んでいたんですから。そんな時に小町さんと知り合って、あれこれお互いのことを話したり、一緒に映画やご飯を楽しんだりと、過ごしていくうちに、気付いたら人と話すことに抵抗がなくなったんです。気楽で、自然に、話せるようになったんです。自分は、小町さんのおかげだと思って感謝しています」

 小町は「恥ずかしいなー」と掻いた髪を撫でつける。

「ですから、今回の件で小町さんの気持ちを推し量ると、胸が張り裂ける想いだと推察します。いやっ、自分なら張り裂ける想いを抱くに決まっています。大事な友達を失った。その辛さは、得も言えない苦しみです。でも、それは小町さんのせいだと、自分は思いません。小町さんは彼女に目を配っていました。だから、あの日は、お母様のことも気にかけて、心配で一緒にアパートに向かったんですよね」

 問いかけられ、小町は「うん」と首を振る。優しく微笑んだ傳法谷は、話を続けた。

「こんなこと、自分が言うのは無責任かもしれませんが、小町さんは世界一、優しい探偵さんだと思います。だって、探偵というのは職業の一つであって、あくまでも依頼主とは金銭的な信頼でしか繋がってないと思うんです。それでも、小町さんは、どんな依頼でも話を聞いて受け入れますし。以前、相手さんがシングルマザーで貧困だった時は、喉が渇いたからジュースが欲しいと言って、それで代金を済ませたじゃないですか」

「あはは。よく覚えてたね」

「とても他人想いで、優しい方なんだと思います。自分は、そんな小町さんの人格に惹かれて、優しさに惚れて協力しているんです。自分は小町さんの為に、頑張りたいんです」

 えへへっ、と小町は笑みを零しながら目元に溜まる涙を拭う。凛を死なせてしまった罪に苦しむ探偵にとって、彼女の言葉は救いであった。

「傳ちゃん、ありがとう。なんだか、少し元気が出てきた」

「いえ。不躾で申し訳ありません。ただ、小町さんの為、そして亡くなった水科さんの為にも、協力させてください」

「うん。本当に、ありがとう」

 カフェラテを小町は、ぐびぐびと飲み干す。少しだけ元気を取り戻した探偵の様子を見て、安堵したように傳法谷は微笑む。彼女も缶コーヒーを飲み終えて、自販機の右横の分別かごに入れた。

 脇に畳んで置いた赤いコートを小町は携える。次いで、ソファから二人は腰を上げ、警察署の正面出入口に向かって歩く。総合受付を通り過ぎて、戸外に繋がる自動ドアの前に立つ。扉を潜り抜けると、雨よけの設けられた軒先に出た。寒風に吹かれ身震いした探偵は、脇に抱えていた赤色のコートを羽織る。小町の心模様とは相反して、天候は青々とした空が広がっていた。

「それじゃあ、小町さん。自分はここらで」

 正面入り口の前で親友は立ち止まる。

「うん、分かった。傳ちゃん、ありがとう」

 傳法谷は、にっこりと微笑して頷いた。

「はい。また、なにか分かり次第、連絡致しますね」

 そう告げて、探偵に手を振って親友は署内に戻る。小町も手を振り返し、正面を向いた。コンクリート素材の階段を六段ほど降りて、青空の下まで歩く。

「ひとまず、今の状況を整理しよう。そして、この事件を解決させる為の手立てを見つけないと。千春ちゃんが危ない」

 往来で一人、呟いてから探偵は市街へ歩みを進める。トレンチコートのポケットに両手を入れて、吹きすさぶ風に耐え忍んでいた。

「さっぶ。スカート履いてくるんじゃなかった」

 薄っすらと赤い地肌に空風が触れていく。かまいたちに太ももを切られたと思うほど、鋭い痛みが走る。小町はコートのボタンを留めて、急ぎ足で街中まで向かった。


 凛と千春と、よく訪れたデルーズに探偵は足を運ぶ。三人してお茶を過ごした窓際の席に座り、手帖を広げていた。ふと、誰もいない空席に目を遣る。いないはずの元気な姿の凛や、彼女に、ちょっかいを出す千春の映像が掠めた。もう、三人で時間を過ごすことは、できない。思えば思うと、胸が押しつぶされそうになる。

(絶対に、小町が全てを解決させてみせる。そして、凛ちゃんを殺した犯人を見つけてやる。それが、凛ちゃんに対して小町ができること)

千々に乱れそうな心を、精一杯の理性で抑えた。そして、ふと或る言葉を探偵は思い出す。真実を見定めるのに、感情はいらない。涙目でものを見れば、視界がぼやけて見えなくなる。名探偵「明智小五郎」のモデルとなった、祖父の言葉を小町は思い出していた。

(泣いている場合じゃない。千春ちゃんの命を犯人は狙っている。それならば、彼女の命を守る為にも、真実に繋がる道を切り開かなくちゃ)

 注文してから、すっかりと冷え切ったコーヒーを口付けて、見開かれた手帖を覗き込む。以前、間宮クリニックで記入したきり、進捗は全く進展していない。正直、捗々しくない内容だった。それどころか、むしろ、謎ばかりが累々と連なる。

 凛が亡くなる直前、前方の虚空に指をさして「由里絵さんが、由理絵さんが目の前にいる!」と叫んでいた。亡くなる直前、本当に彼女は、由里絵の姿が見えていたのだろうか。もしそうならば、藤沼由理絵は既にこの世からいなくなり、幽霊となって現れたことになる。

「本当に、由理絵さんは幽霊になって、凛ちゃんを殺したのだろうか?」

 小町は由里絵の気持ちになって、当時の心境を推し量ってみた。確かに、自身が同性愛だと吹聴されれば、胸に針が刺さるようにチクチクと痛む。だが。

「三人一緒で、たくさんの時間を過ごしたのに、何の躊躇いもなく手を下せるだろうか?」

 仮に藤沼由里絵が幽霊となり現世に留まっていたとしても、凛に烈々とした憎悪を持たなければ殺めることは難しい。人間には、少なからず感情が働く。もし凛を殺そうとするならば、一緒に過ごした記憶が心に歯止めを効かせるはず。

「凛ちゃんを突き落とせるのは、彼女と過ごした時間の少ない第三者なら可能かも」

 言下、小町は電気が走ったように一閃した。

「つまり、由理絵さんより強い憎しみを持った人物? それこそ、彼女の恋人とか……。いやっ、それもそうだけれど。もしも、由理絵さんの家庭が、小雨さんと同じ家庭状況だとしたら?」

 何かが見えそうになる。一連の出来事を解決する為の、糸目が繋げそうだった。森、三田村、凛を殺害した理由は激しい憎しみ。由里絵を失った憎悪から、犯人は殺害に至った。その犯人は何も恋人だけに限らない。彼女の家族が犯行に及んだ可能性もあった。それこそ、小雨のように女手一つで育ててきたシングルマザーならば、失った憎しみも一入だろう。小町の中で犯行動機の理由が固まってくる。これはやはり、怨恨による他殺だと。しかし、殺害方法だけが分からない。

「動機は怨恨だと仮定できる。問題は、犯人は、どうやって三田村、森の二人を自殺に追い込んだのか? それに、凛ちゃんが転落した理由も不可解だし。どうして凛ちゃんだけ、二人と違う死に方をしたのか? でも、これは本当に由里絵さんが悪霊と化して……」

 その時だった。鞄の中からiPhoneの音が鳴る。身体がビクッと反応するが、すぐに蓋を開けて震えるスマホを手にした。画面を見下ろすと、相手先は傳法谷である。

「もっしー。傳ちゃん?」

『あっ、小町さん! 傳法谷です。すみません。只今、お時間、よろしいでしょうか?』

「もちろん。もしかして何か分かったの?」

 息せき切るような声で「はい」と彼女は返答した。どうやら、人目のつかないところまで移動したらしく、息遣いが荒い。

『すっ、すみません。今、さっきの自販機のところまで来まして。ちょっと小声でお話しします。実は、水科凛さんの遺体から押収したスマホを調べまして。以前、小町さんと一緒に調べたQRコードのメールが届いているか、メールボックスを確認したんです』

「やっぱり、届いてた?」

『いえ、それが。ないんですよ。メールが』

 予期せぬ傳法谷の言葉に、探偵は驚嘆を漏らす。先ほどまで聞こえていた店内の喧噪が片耳に入らなくなった。

『削除したとは考えられないんです。もし、メールが届いたのなら、きっと、すぐグループLineに連絡するはずなんですよ。でも、その痕跡も見受けられないんです』

「じゃあ、どうして、凛ちゃんは?」

『ただ、押収した際の記録資料によると、水科さんが亡くなる直前まで見ていたと思われる画像が、写真で記載されていまして……』

 頁の余白部分に親友の言葉を、小町は走り書きする。

「画像。一体、何の?」

『それが、亡くなる直前に三田村さんがグループLineに送った――QRコードが表示されていたんです』

「ええっ、あのQRコード?」

 探偵の驚愕する声が店内に轟き、周囲から一斉に集まる視線を浴びた。目されたことに、小町は赤面して身を縮める。居住まいを正して傳法谷に「ごめん」と伝えると、親友は話を続けた。

『はい。どうも、亡くなる前に彼女は例の画像を見ていたようでして。ただ、おかしいですよね。以前に、お亡くなりになった男性二人は、メールが届いてから自殺しています。しかし、今回はメールが届いていない状態で水科さんは亡くなった』

「うん。そうだよね。ただね、傳ちゃん。今の話を聞いて気付いたことがあって。凛ちゃんと二人の死には共通点がある。一つ目は、被害者達は、そのQRコードを見てから死去している。二つ目は、全員が自宅のベランダから転落しているということ」

 情報を口伝すると、傳法谷は「ええ」と相槌を打つ。

「そして、あからさまな相違点が二つ。一つ目は、QRコード付きのメールが凛ちゃんのスマホにだけ届いていないこと。二つ目は、凛ちゃんは自殺でなく転落死ということ。ここにきて大きな謎は、どうして凛ちゃんだけ、他の二人と全く違う状況だったのか?」

『確かに、森さん達と比べて、明らかに違いますよね。それに、北川高校のパソコン倶楽部の部員三人が立て続けに亡くなっているなんて、やっぱりおかしいですよ。たまたま同時期に二人は自殺、水科さんは事故死だなんて、そんな偶然、考えにくいですし』

「うん。それでね。もしこの事件が意図的な殺人だと考えたら、犯人が凛ちゃんに手をかけるなら、きっと同じ手法で行うと思うんだ」

 親友の『なるほど』と驚嘆する声を耳にして、小町は冷めたカプチーノを啜る。そこで、すかさず傳法谷が『しかし』と言葉を続けた。

『それなら何故、犯人は水科さんだけ、そんな違う方法で手をかけたのでしょうか? 彼女を一番に恨んでいたから? それだと、ちょっと矛盾すると思います。猛烈に恨むとすれば、直接に同性愛を馬鹿にした彼らを一番に恨むはず。それに水科さんを強烈に恨んでいたのなら、転落死させる方法を取るのではなく、もっと酸鼻を極める方法を取るでしょうに』

「そこだよ、傳ちゃん。小町が引っ掛かったのは。それでね。あえて、全く別の見方をすると、こうも考えられると小町は思ったんだ」

 探偵の言葉に親友は、意表を突かれたような声を漏らす。

『ええっ。なっ、なんですか?』

「それはね。もともと犯人は、凛ちゃんを手にかけるつもりはなかった」

 傳法谷の『はい?』と聞き返す声が耳に届く。どうも小町の言葉の意味が理解できていないらしい。それっきり口を噤む。探偵が続けて話す。

「つまり、凛ちゃんの死は、犯人にとって――予想外の出来事だった。とは考えられない?」

 小町の言葉に、親友は困惑した声を上げる。狼狽える姿が想像できるほどに、周章を極めているらしかった。

『まっ、えっ? どういうことですか、小町さん。手をかけるつもりはなかったって?』

「さっきの由里絵さんの話に戻るけど、もし犯人が由里絵さんだとしたら、彼女が凛ちゃんを殺めるとは考えにくい。傳ちゃんの言う通り、一番に恨むのは直接馬鹿にした彼らだと思う。それに凛ちゃんと一緒にいた時間が長かったのだから、きっと良心が働いて直ぐに手を下すとは考えにくいよ。そして、もう一つ。犯人が由里絵さんとは異なる全くの別の人物ならば、同じ手法で凛ちゃんに手を下すと思う。けれど、凛ちゃんだけ違う状況で亡くなった。犯人が凛ちゃんだけ、特段に転落させる方法で殺めたとは、どうしても考えられない。恨みからの犯行なら、由理絵さんを揶揄った二人だけを殺害すると思う。同性愛を吹聴した人物より、同性愛を馬鹿にした人物のほうが、許せないはずだよ」

 力説する探偵の推理を傳法谷は『確かにそうですね』と納得した様相を声で表す。ところが、ここで親友から反論が返ってきた。

『しかしですよ、小町さん。もし、犯人が由里絵さんの秘密をばらした恨みが強くて、たまらずに水科さんを殺めた可能性も否定できません。良心の欠片もない性格の持ち主なら、由理絵さんを悲しませた人物を皆殺しにしようと思い至って、凶行に及んだ。その点もあり得るのでは?』

 彼女の言葉に耳を傾けながら、小町はカプチーノのカップを空にした。

「もちろん。あり得るよ。ただ、それだとさっき話した通り、特段に凛ちゃんだけ転落死させるとは思えない。そんな手間をかける必要性がないもの」

『別のパターンを用意する必要性がないということですか。ふうん。あと、もしですよ。もし、犯人が由里絵さんだとしたら、どうやって彼女は犯行に及んだのでしょうか? あんなメールを送って、どうやってベランダから飛び降りるように仕向けたのか。何か催眠とか、自己暗示とか』

 飲み干したカップを取り下げにきた店員さんに頭を下げて、探偵は質問に返答する。

「うーん。それはないと思う。仮に由里絵さんが良心の欠片もない人物だったとする。それなら、凛ちゃんを殺める際、彼女は自らの手で殺害を行うはずだよ」

『それって、どういう?』

「つまり、由理絵さんが生きていようと、例え幽霊となって現れようと、復讐の為に三人を殺めるなら、こんなQRコードを用意したり、ベランダから飛び降りるように仕向けたり、転落させるように襲ったりはしないはずだよ。全てが迂遠で、回りくどいもん」

 小町が言いきると、傳法谷は『あっ!」と勘付いたように声を漏らす。

『ということはですよ。もし犯人が由里絵さんなら、間接的な方法を取るのではなく、自らの手で三人を殺めるということですね! 直接、自分の手で首を絞めたり、ベランダから突き落としたり』

「そう。まあ仮に由里絵さんがこの世を彷徨う霊体であるならベランダでなくても、就寝時に寝込みを襲うことだってできる。これは、裏を返すとね。犯人は生身の人間で、由理絵さんじゃない人物だからこそ、こんな回りくどい方法でしか、凛ちゃん達を殺めることができなかった。犯行に及んだ自分の足が付かないように」

 探偵の推理に親友は『まさにエクセレントです!』と礼賛した。そして、最大の謎。

「問題は、その殺害方法とQRコードの関連性だね。三人とも、コードを見てから亡くなっている。コードが死因と無関係ですとは、言い難いよね。あの気色悪いコードが見せかけの漢字の意味ではなくて、本来は何を意味しているのか? あるいは、何かに見立てているのか?」

『うーん。それも調べる必要性がありますね。あの漢字の集合体ですと、やはり怖がらせることや私は恨んでいますという暗示を意味しているのかもしれませんね』

「だね。コードの謎を解くことができれば、かなり進展すると思うよ。小町としては、三人とも由里絵さんに関与する第三者の殺人だと思ってる。そうなると、殺人鬼の正体が、由理絵さんの恋人なのか。それとも、独り身のご家族の方なのか」

 電話越しから傳法谷の唸る声が鳴り続く。

『うむむ。分かりませんが、自分も殺人ではないかと捉えています。その第三者説は有力だと思いますが、一応、由里絵さんが犯人の可能性も否めないので、身辺調査も必要でしょうね。やはり彼女の存在が鍵となりそうですね。犯人が由里絵さんでないと判明すれば、特定する人物の数も絞れますし』

「そうだね。ただ……」

『ただ?』

 小町は口ごもった。実は、由理絵に関する身元調査を探偵は進めていたのだ。十二月十五日に凛から由里絵の情報を得て、小町は二日間の間、彼女の情報を収集していた。

「由里絵さんに関する情報が、全然、見つからないんだ。ネットで調べても、凛ちゃんからもらった写真を見せて街の中を周っても、悉くダメで」

『そうなんですね。ちなみに、名前は何という?』

 彼女の質問に、小町は「ううん?」と訝しむ。

「名前は由里絵さんだよ」

『いえ、そうではなくて、苗字のほうです』

「苗字? 苗字は藤沼由里絵……。ああっ!」

 全身の産毛に電気が走った。その衝撃から敏捷に腰を浮かせる。驚喜に満ちる表情は辺りにいる客達から注目の的にされた。密やかに何かを囁かれる。しかし、我関せずに探偵は「それだよ!」と言い放った。

『えっ? 小町さん、それとは、苗字のことですか?』

「そうか。どうして今まで気づかなかったんだろう。傳ちゃん、ありがとう!」

『あっ、ええっ? 小町さ……』

 傳法谷の言葉を遮り、小町は急ぎ足で会計レジに向かう。支払いを済ませ、ドアの把手を押し出して戸外に抜ける。晴れ渡る青空の下、軒先の歩道を歩きながら独り言を呟いた。

「由里絵さんの――今の苗字を調べなきゃ」


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