十二月十六日
アパートのベランダから零れる灯り達は、闇夜の中で際立っていた。軒並み排する窓は、色取り取りのカーテンで隠されている。一階から三階まで、どこも外部から室内を覗かれないように遮っていた。ただ一つ、四階の一室を除いて……。
霧雨の残りが窓に張り付き、大きな雨粒となって滑り落ちる。表面に映し出される寝室の様子。ベッドに腰掛ける水科凛の姿が、水滴と共に重なった。
凛の住むアパートは1Kで、玄関とキッチンが同じ空間にあった。仕切りになる扉は開放していて、玄関扉が見える状態である。
年頃である以上、本当は自分だけの部屋が欲しい。しかし、シングルマザーで、ここまで育ててくれた母親の背中を見てきた。そんな我儘は言えない。今は……。四年近く過ごした、この部屋と母がいればいい。そう思えるようになった。
凛は店の片付けを済ましてから帰宅する母親を待っている。その間、先に彼女はバイトの疲れを落とす為に、シャワーを浴びた。乾かした赤茶色い髪は、まだうっすらと湿っている。起毛を施したピンクのパジャマを着て、ゆったりとした様子で、何度か足を組み直す。その間、彼女はスマホをいじっていた。
スマホの画面を見下ろして、検索エンジンに入力した情報を漁る。上下にスワイプさせ、ヒットした順番から目を通していく。
だが、凛の表情は変わらなかった。気抜けしたように、溜息をつく。そのまま後ろに倒れて、仰向けになった。室内灯の直射を避けるように、額に小手を当てる。何度か目を瞬いて、ぽつりと彼女の名を呼んだ。
「由里絵……」
藤沼由里絵。パソコン倶楽部の部活仲間であり、凛の親友である。しかし、今は彼女を思えば、庇わなかった罪の意識に苦しめられる。幾年が過ぎようと、彼女を傷つけ、裏切った事実は心に纏わりつく。重い、重い十字架を背負って引きずる従僕のように。水科凛は由里絵の存在を引きずっていた。
できることなら、心の底から謝りたい。その一心で、小町に真実を打ち明けてから、彼女は藤沼由里絵について詮索していた。もしかして、ツイッターやインスタグラムなどのSNSはしていないか? また、別の学校にいるのなら、何かの活動で表彰されてネット記事になっていないだろうか? 僅かな可能性に賭けて、凛は調べ上げた。ところが、それは悉く無駄足に終わる。由里絵の情報は、何一つ見当たらなかった。SNSで見つかるのは同姓同名の別人ばかり。ネットで名前を調べても、検索エンジンにヒットする情報は百二十二件と少なかった。打つ手がなくなり、閉口した彼女は、こうして横になっている。
「今、どうしているんだろう」
由里絵を思案しても、堂々巡りに陥るだけだった。由里絵は別の県、もしくは県内の何処かの高校に編入しているのか。はたまた、精神を病んでメンタルクリニックで治療しているのか。もう学校にも行かず、就職をして仕事をしているのか。もしくは……。
「千春の言う通り……。まさか」
呪い。それだけは認めたくなかった。もし、その恐ろしい存在を肯じてしまえば、森と三田村は由里絵によって殺されたことになる。
彼らを殺害した動機はQRコードを形作る漢字が意味するまま。藤沼由里絵が死ぬまで抱いていた、恨みや辛み。同性愛を差別された悲しみ。憎悪。それらが絡み合って、強い怨念を生み出したのだとしたら、由理絵が怨霊と化して森と三田村を呪殺した。恨みを晴らす為に。その可能性はあり得る。許せない相手を殺す為に、今、由理絵は現世に留まっているとしたら……。
「次に殺されるのは私……」
全身が総毛立つ。暖房の効いた室内でありながら悪寒と震えが止まらなかった。自分で自分を抱きしめた後、決然と、かぶりを振る。パンと膝を叩いて、早口で独り言を述べた。
「それはない。千春は呪いとか言ってたけれど、そんなオカルトあり得ない。確かに、あの二人の死因は謎だし、メールが届いてから亡くなったのも確か。でも、小町さんがQRコードを読み込んだけど、エラーだったって言ってたし。第一、呪いなら小町さんも今頃、いなくなっているはず。これは誰かの悪戯。悪趣味な悪戯なだけよ。だから、呪いの説は気にしすぎよ。千春の妄言だって。きっとそう。大丈夫よ、凛!」
一息に言い放つと、最初に探偵と出会った話を思い出す。
『まあね。過去にも幽霊にストーカーされたという相談も受けたからね』
無邪気な表情で語る小町の声音と笑みが頭を掠める。その途端、由里絵の恨めしそうな顔とLineで届いたメッセージの数々が往来した。
(怖い。本当は、怖い。でも……)
奮い立たせるべく、精悍な顔つきで彼女は言葉を続ける。
「あり得ない。あくまでも小町さんの話も、本当に幽霊だったかどうかだなんて、分からないし。依頼した私が言うのは、おかしいかもしれないけれど、これは呪いじゃない。きっと手の込んだ悪戯に違いない。二人が亡くなったのは、この悪戯を仕掛けた犯人によるものかもしれないけれど。だとしたら、それは実在する人間の仕業。そう、由理絵のせいじゃない。そうよ!」
勢いよく立ち上がった。息せき切って、僅かな雨粒でコーティングされた窓に目を遣る。隔てたベランダの先は暗色に染まり、闇が広がっていた。薄気味悪さを感じて、凛はカーテンをしめようと窓に近寄る。何気なしに瞬きを二度した、その瞬間だった。
一回目と二回目の刹那の間。違和感は窓の向こう側に見えた。白い塊。確かに白かった。それも、人の形を、していたような。
緊張が一気に高まる。見慣れたはずの窓の向こう側に、何かがいた。もちろん、四階という高所に人間が立てるはずがない。そうなると、外にいたのは、この世のものでない何か。思えば思うほど、その塊の正体が、嫌でも由里絵に思えたのだ。
暖房の音が、凄絶な鼓動の音によって遮られる。恐怖心と好奇心が交差する最中、一歩、また一歩と窓へ歩み寄った。開錠して窓を左に追いやる。ベランダ用のスリッパに素足を通すと、外気で冷え切った表面が足裏を刺激した。加えて、冷気が首元を掠め、あらゆる寝間着の隙間から空気が侵入する。闇の世界に吐き出した息が白く揺蕩い、瞬く間に消えていく。
ベランダは、大人一人が立てるほどの狭小で、両窓と同じ幅の広さしかなかった。凛は同色の黒い、手すりを掴んで辺りを見渡す。確認後、手すりから少しだけ身を乗り出して、暗夜を見下ろした。駐車場、その界隈の公園。歩道を頼りなく照らす電灯くらいしか、見受けられなかった。
「なんだ。ただの気のせいか」
これまでの緊張が一気に緩んだ。気抜けして凛は手すりに両肘を預ける。火照った身体と熱を帯びた頭を冷やすには、丁度よい夜気だった。ただの見間違えと安堵して、口元を綻ばせる。曇天を見上げ「バカみたい」と呟いた。
「気にしすぎよ、凛。それより、お腹空いたー。お母さん、まだかな?」
微笑して室内に目を向ける。踵を返そうと足元を動かした途端。
「おっ、とと」
スリッパが雨に滑って彼女は、つんのめかける。幸い、右手で手すりを掴んでいた為、転倒は免れた。体勢を戻して、胸を撫で下ろす。
(きっと疲れているんだろう。ここのところ、バイトやテストで忙しかったし)
履物を脱いで、室内灯で照らされる寝室に足を踏み入れた。温かい床上が足全体に広がる。ふと床から前方に視線を戻す。そこに、再び違和感が訪れる。
玄関と繋がる通路の真ん中に、うっすらと白い塊が映った。瞬きを繰り返すと、一瞬だけ映って、すぐに消える。頻繁に目を瞬かせると、白く発光するベールが消えていき、その姿は朦朧から少しずつ形を現した。
「えっ、うそ……」
歴々と現出したモノ。明らかに、それは人だった。それも、畸形とも異常とも受け取れる、女性の姿である。砂埃の絡む乱れた長髪。だらりと下ろす青白い両手。その手首から、ぽたぽたと滴る真っ赤な雫。血の染み付いた紺色のブレザー服。そして、恨めしそうに向ける血走った眼球……。
ぎょろりとした眼と合わさってしまう。その真っ赤な血に染まる人物は、まさしく――由里絵だった。
「あっ、ああっ、ああっ」
両手を口元に押さえ、目を瞠る。土気色した鼻から青紫の唇に視線を移すと、何かを呟いているように見えた。
『許さない。許さない。許さない。許さ……』
「いやああああ!」
狂人の如く、凛は絶叫を上げる。戦慄く彼女を尻目に、由理絵は白い素足を前へ出した。床を踏む音を立てず、徐に近づいてくる。紫の唇を動かしながら。
「由里絵! 本当にごめんなさい! ごめんなさい!」
本懐だった謝罪も虚しく、由理絵は聞き入れる様子を見せない。恨めしい表情のまま、じっと凛の目を逸らさず、近づいてくる。
「なんで、どうして。メールなんて――届いていないのに」
距離を詰めてくる由里絵に、凛は一歩ずつ後ずさりした。じりじりと、迫ってくる。遂に由里絵は、さきほど彼女が腰掛けていたベッドの真横まで歩み寄ってきた。そして、凛の背後には、開放しているベランダが。あと、二、三歩下がればベランダに身を乗り出してしまう。極限にまで凛は追い詰められていた。
正面に由里絵がいる以上、逃げ道はない。恐ろしい顔から視線を逸らしても、再び前を向けば確かにいる。歩み寄る、変わり果てた由里絵の姿が実在した。
「由里絵さん、ごめんなさい! お願い、許して!」
手を合わせて、涙を流して謝っても、死者は尚も近づいてくる。殺される。そう死を覚悟した、その時だった。玄関扉の開く音がする。奥を眺めやると帰宅したばかりの小雨の姿が目に飛び込む。しかも、どうやら一人ではない。誰かと談笑しながら玄関に入ってきた。喫茶店の閉店時間まで過ごしていたのか。探偵姿の明智小町が買い物袋を片手に入ってきた。二人の姿を由里絵の肩越しから、目視する。
「助けて! お母さん! 明智さん!」
必死で叫ぶと、二人は顔を見合わせて、急いで土間から上がった。
「凛ちゃん! どうしたの」
「明智さん、お母さん、見えないの?」
「見えないって、何が」
小町の問いかけに、彼女は後ずさりながら指をさす。
「由里絵さんが、由理絵さんが目の前にいる!」
小雨も小町も、驚嘆の声を漏らし、凛を見つめた。
「そこにいるじゃない!」
怪訝そうな表情を浮かべている母親と探偵を窺う。その時。ゆっくりと近寄る由里絵の歩みが、敏捷に変わる。勢いよく目の前に迫ってきたのだ。
「いやあっ! こないで!」
「凛ちゃん!」
「凛!」
迫りくる由里絵に凛は、後退するしかなかった。暖房で暖められた床から、寒々と冷えたスリッパを足の裏で感じる。はっとした瞬間、腰に硬い手すりの感触が伝わった。気付けば足が――浮いている。先ほど、スリッパで足を滑らせて躓きかけた出来事が、瞬時に現前と見えた。
立ち尽くす由里絵の姿から、星明かりが一つもない暗雲に視界が切り替わる。腰辺り以外、既に宙ぶらりんだった。頭で理解した時には、手すりが腰から離れ……。
「うわああああっ!」




