第六話「異世界初日」
「こういう展開は想定していなかった……」
順当に考えるのなら、先程の『白髪の少女』に召喚された3年1組の15人が魔王を討伐するために……!
クラスで地味な僕が実はものすごい才能に恵まれていて、まさしく『英雄』として祭り上げられるなんて熱い展開があったっていいじゃないか。
「はぁ、どうしよう」
溜息を吐いても、状況は一ミリも改善しない。けれど、吐き出した息が冷たい空気に混ざっていくのを見ていると、「とりあえず生きてる」という事実だけは確認できた。
焦って走り回っても仕方がない。ゲームみたいに視界の右端にマップも出てないし、「まずはこれをしろ」と指示してくれる親切なチュートリアルもない。あるのは、喉の渇きと、いずれ現れる空腹と、妙に静かな森だけだ。
「優先順位」
口に出して整理する。そうでもしないと帰りたいという無謀な願望が溢れ出るからだ。
「安全地帯。食料。水……衣服は制服のままでいいか」
押さえるべきものを押さえる。そうでないと英雄だの世界救済だの言っている場合じゃない。まず、僕がすぐ死にそうだ。
立ち上がって、近くの木々を眺める。高すぎて、幹の周長を測る気力すら萎えた。
「虫がどうのこうの言ってる暇ないな」
樹皮はゴツゴツして苔が張り付いていて、ところどころツタが絡まっている。足元には、見慣れない草花と低い灌木が広がっていた。
表面には蟻のような虫が列をなして餌を運んでいて、僕はそれらを避けながら木に登る。
「蟻の佃煮を味わうことにもなるかもしれないな……」
とはいえ、それは最終手段。
僕は見慣れぬ樹花の幹の上から異世界の森林を見渡した。
「すげぇ……全方位、森林が広がっている」
街、なし。
村、なし。
オブジェクト、なし。
その他人間の痕跡、なし。
「ケイタとマイカは――いや、クラスメイトはどこに転移したんだ?」
確かにあの光の柱の中には、高校三年間を共に過ごした十五人のクラスメイトが巻き込まれていたし、それを目撃した僕はその輪に入り込んで彼らを引き戻そうとして――。
そこまで考えて、僕は一つの閃きを得る。
――そもそも、僕は、召喚の対象外だったのではないか。
だからこそ、みんなとは別地点に降り立ったのであって。
本筋のクラスメイトはどこかの王宮で衣食住をご丁寧に担保されたぬるい異世界を味わっているのではないか。
「――なんで僕ばかり」
いや、文句を言うのならば引き戻そうとしなければよかったのか?
「考えても仕方ない。陽が落ちる前に逃げ場所を確保しないといけない」
ふと、大樹に芽吹く花を見る。紫の花弁をつけたもの、葉は薄く広くすっと伸ばしたものではあるが、紫の斑紋が広がっているやつ……毒草っぽい。
ゲーム的な直感だけは働くけれど、現実の裏付けはゼロだ。
同時に、甘そうな匂いを放つ赤い実が嗅覚と視覚を刺激した。
葉をかき分けて内部を探ってみると、小さな赤い粒がいくつもぶら下がっていた。見た目だけなら、ちょっとしたベリー類に見えなくもない。
「……どうなんだ、これ」
仮に葉に毒があるとしたら、サクランボのように果実の方には毒がないのかもしれない。
光合成のための葉には毒を入れて守り、種子を含んだ果実は甘みを持たせて捕食を促し、拡散させる――。
「――地球の論理が通じるとは限らない」
ならば、腹を括るしかないのか。
指先でひとつつまみ、鼻先に近づけた。ほんのり甘い匂いがした瞬間、腹が反射的に鳴った。
さっきまで不安でぎゅうっと縮んでいた胃袋が、「それ、食べろ」とダイレクトに訴えてくる。
「空腹感を煽る性質があるのかもしれない。僕の反射なのか、コイツの誘惑なのかわからないな」
と、そのとき。視界の端を、小さな影が横切った。
リスによく似た生き物だった。少しだけ尻尾が長くて、先端だけ白い。それが、僕のいる灌木とは別の茂みに登り、同じような赤い実を器用にかじり始める。
「……食うんだ」
リスがしばらく夢中で実を齧る様子を、じっと観察する。倒れないか、痙攣したりしないか、呼吸が乱れないか。
僕が変質者じみた集中力で見つめているのに、当の本人は気にも留めず、次から次へと実を平らげていく。
少なくとも、この種族にとっては「即死毒」ではない。
原始的だけど、今ここで使える判断基準なんて、その程度しかない。僕は一粒だけ手の平に残し、あとは目につく場所に少しだけキープしておくことにした。最悪、本当に何もなくなったら賭ける。
せっかく異世界に転移したんだ。早々にリタイアすることだけは避けたいし、母より先に逝く親不孝なんてしたくない。だからこそ、慎重に。
「おや……?」
リスが去ったあと、別の場所でシカの群れが視界をかすめた。細い脚にまだ小さな角。彼らはこの森で普通に暮らしている。人間は僕ひとり。異物は明らかに僕側だ。
そういえば――
「――わかりやすいモンスター、いないな」
口にしてみて、逆に鳥肌が立った。スライムやゴブリンがいないのは平和じゃなくて、「そういう低レベル向けのエサをわざわざ配置する必要がない世界」かもしれない。たとえば――もっと桁の違う捕食者が、この森の天井に座ってるとか。
「考えても仕方ない。水、水」
喉が焼けるように乾いてきた。唾を飲み込もうとしても、出てこない。耳を澄まし、音を拾う。風の音、枝が擦れる音、鳥の声。
「――お?」
その奥に、かすかな「さらさら」が混ざっている。
立ち位置を少し変え、もう一度耳を澄ます。方向を変えると、その音が少しだけ大きくなった。
「こっちか」
自分に言い聞かせて歩き出す。土は次第に湿り気を増し、苔の生えた岩が増えてくる。靴底に伝わる感触も、乾いたサクサクから、ぬるりとした粘りに変わる。
空気の匂いも変わった。苔と水と石の冷たい匂いが、鼻の奥にまとわりついてくる。
やがて、木々の隙間の向こうで光が跳ねた。葉の間を抜けた日差しが、揺れる何かで反射している。水面特有のあのきらめき。
胸が一段ほど軽くなる。最後の数メートルは、気づけば小走りになっていた。
枝を払い、低木を押しのけて視界が開ける。そこには、小さな沢が流れていた。岩の間を透明な水が滑り、短い段差で白い泡を立てている。本当にただの山の沢だ。それなのに、笑うくらい眩しく見えた。
「よかった……」
膝から力が抜けそうになる。あとは、近づいて手で掬って――。
そう思って一歩踏み出したところで、視界の端に、あり得ない影が映った。
沢の少し下流側、片方の前足を水に浸し、首を垂れている巨大な獣。最初はやけに白い岩か、倒木だと思った。呼吸をしていると気づくまでは。
――狼だった。
四つ足でいるのに、背の高さが僕の視線を越えるほどある。肩まで軽く二メートルはあるだろう。全身を覆う毛並みは純度の高い白色で、光の当たり方によってはほとんど光源のように見えるほど煌めいていた。
脇腹や肩のあたりには、古い傷跡が薄灰色の線になって残っていた。水に浸かった前足は太く、岩と見まごうような塊だった。
神話に出てくる怪物を、現実に引きずり出してサイズ調整だけしたみたいだ。
嫌な汗が背中を伝う。
いったん、そうだと思った。
――フェンリル
「序盤にラスボス級……?」
ふざけている余裕なんてないのに、脳が勝手に名札を貼る。北欧神話に出てくる世界を喰らう狼――フェンリル。その単語が、一瞬だけ本当にしっくりきてしまった。
いや、落ち着け。ここは北欧でもなければ神話の舞台でも――と考えて、そこで思考が止まる。
そもそも、ここはまるで神話のような世界だったか……。
日常から切り離された森、白い少女、宣誓、転移。現実の地続きにあると思い込もうとしていたけれど、冷静に考えればとっくに「お伽噺」の側に足を踏み入れている。
だったら、フェンリルみたいな狼がいても、おかしくはない。
そのフェンリルが、耳をぴくりと動かした。
ゆっくりと頭が上がる。濡れた顎から水滴が落ち、沢に小さな波紋を広げる。そのまま顔がこちらを向いた。金色の眼が、森の陰から抜け出した僕を捉える。
生き物としての序列を、視線だけで教え込んでくる眼だった。敵意や憎悪よりも先に、「ああ、これは上位捕食者だ」と体が理解する。喉が勝手に縮み、肺が呼吸を拒否した。
「……マズい」
自分でも驚くほど小さい声が漏れる。足がじり、と後ろに下がる。踏んだ枝が、ぱき、と乾いた音を立てた。
その一音で、フェンリルの体が沈む。次の瞬間には、沢の中から飛び出していた。岩が砕け、水が爆ぜる。振り上げた前足が地面に叩きつけられた衝撃で、近くの土塊がまとまって宙を飛ぶ。
「っ――!」
避ける間もなく、その土塊のひとつが僕の右手の甲に命中した。鈍い音がして、遅れて焼けるような痛みが走る。拳くらいの大きさの硬い泥だまりが、ほとんど弾丸みたいな速度で飛んできたのだ。指先から肘まで、じんじん痺れる。
「いっ……つ……」
本気で骨がいったかと思った。指を動かしてみる。痛みは鋭いが、動きはする。かろうじて折れてはいないらしい。そんな判断をしているあいだにも、フェンリルは距離を詰めてくる。
地面が揺れた。
冗談抜きで、小さな地震レベルだ。
「逃げろ――ッ!!!!」
誰かに命令されたみたいに、頭の中で言葉が鳴った。僕は反射的に背を向け、森の奥へ走り出す。喉が抗議し、肺が悲鳴を上げる。さっきまで水を欲しがっていた体が、今度は酸素を奪い取られている。
背後で、木が折れる音がした。幹がへし折られ、枝が砕け、葉が吹き飛ぶ鈍い連続音。フェンリルの巨体が、森の構造そのものを無視して突っ込んできているのが分かる。
「クソ、イベント戦とかじゃないんだからさ……!」
喉が焼けるように痛いのに、独り言のほうは妙にスラスラ出てくる。
「序盤の森にフェンリル配置するゲームなんて誰がやるんだよ!!」
「チュートリアルどこ行った……!?」
「せめてスライムからにしてくれ!!」
頭の中で愚痴が列をなす。言葉にしていないと、恐怖に押しつぶされそうだった。右手の甲がずきずき痛む。
腕を振るたび、土塊が当たった場所からジンとした痺れが広がる。バランスを崩しそうになって、何度か足がもつれた。
「転ぶな……転んだら終わりだぞ、マジで」
「ガルルルルルォォォン――!!!」
足元の根っこが蛇みたいにうねり、湿った土が靴底を滑らせる。枝が顔をかすめ、頬に細い傷が走った。
ヒリつく痛みと一緒に、血の匂いが鼻に上がる。最悪なことに、それが「餌の匂い」として背後の怪物を煽っていそうな現実感があった。
地鳴りが近づく。
一歩ごとに振動が大きくなる。背中に突き刺さる視線が、もはや物理的な圧力みたいに感じられた。
走りながら、この世界の「優しさ」の欠片のなさを、身をもって理解する。経験値もレベル制も、逃げれば勝ち判定になるスクリプトもない。死んだら多分、そのまま終わりだ。
「逃げるコマンドが無効な相手じゃないことを祈る……!」
笑えない冗談を吐いた直後、視界の先に黒い穴が見えた。
――洞窟だ。
斜面の途中、岩肌がむき出しになったところに、ぽっかりと口を開けた影。人ひとりがかがんでやっと入れるくらいの高さの洞窟だ。
「入る……か…?」
中がどうなっているかなんて分からない。別の怪物が巣にしている可能性だって十分ある。
それでも、背後にいる「確実な死」に比べれば、まだ賭ける価値がある。
「知らない……知らないけど、行くしかない!!」
半ば叫ぶようにして自分を押し出し、斜面を駆け下がる。足元の石が崩れかけるのを無理やり踏みつけ、そのまま洞窟の口へ飛び込んだ。
急な下り坂だった。靴が滑り、体が前に投げ出される。岩の床に肩をぶつけ、背中を擦り、腰を打つ。右手の甲の痛みが、一瞬視界を白くするほど膨れあがる。
「っ、あ、あああ……!」
情けない声が勝手に漏れた。けれど、止まることはできない。重力に引かれて転がり落ち、ようやく平らな場所で体が止まったとき、目の前はほとんど真っ暗だった。
入口のほうから、土が抉れるような音が一度だけ聞こえる。フェンリルが斜面の入り口で停止。そのまま洞窟の口を覗き込んだのだろう。前足を突っ込まれたら終わりだ。息を殺す。心臓の音がうるさすぎて、自分で自分に「静かにしろ」と言いたくなる。
「頼むから、洞窟の中まではゲームバランス考えてくれよ」
か細い独り言が、冷たい岩に吸い込まれて消えた。空気を支配していた緊迫感が弛緩する感覚が、僕のところまで訪れる。
魔力がある世界なのならば、あれが魔力だったのかもしれない。そんな感想を心中に浮かべつつ、僕は殺していた息を蘇らせた。
「はぁ…はぁ……死ぬかと思った……」




