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第五話「虜囚の少女」


 黒の中に声があった。


【……助けて、英雄さん】


 そこで僕は完全に思い出した。昨日、『不思議な夢』の中で聞いた声と同じ響き。吐き出された声に、血の味が混じっている。そんな感覚だけが、鮮明に伝わってくる。


 黒がひび割れ、白が覗く。


 僕は、また、あの空間に立っていた。


 真っ白な世界。上下の分からない空間。足元に何かを踏んでいる感触だけが、かろうじてある。その中心で、少女が膝をついていた。


 前よりも、はっきり見えた。


 髪は雪のように白く、肌は透けるほど薄い。唇の端から赤いものが溢れ、白いワンピースの裾を染めていた。


 少女は胸元を押さえ、震えている。その顔には涙が伝い、頬と顎を濡らしていた。


世界(ワタシ)を……助けて……】


 声が割れている。肺の奥から無理やり絞り出すたびに、喉に血が絡んでいるのが分かった。世界を――という単語だけが、やけに鮮明に耳に残る。


 ――世界を助けて。


 夢で見たあの場面だ。あの時、僕はゲームの主人公を憑依させたように気取った言葉を、吐いた。浮ついた気持ちで吐露した。けれど、今は夢の中特有の、浮遊感がない。


 やけにリアル。やけに鮮明。やけに切迫している。


 彼女の呼吸の一つ一つが精密に耳を擽ぐる。

 彼女の吐く細かな呼気が風を生じさせ、僕の肌を撫でる。

 彼女が垂らす鉄分の匂いが鼻を突き刺す。


 ――あまりにもリアルだから、僕は躊躇った。


【助けて、くれ、ないの……?】


「…………」


 自分でも驚くほど綺麗に吃った。


 少女の瞳が、こちらを見た。反射する僕の顔はいやに醜悪だった。単に強がって『英雄』を志す『愚者』が映っているだけ。だが、その事実が嫌だった。


 ただ、虚勢を張るのも、もう疲れた。


「疲れてるんだ……」


【どうして……?】


 僕の呟きはご丁寧に彼女が掬い上げる。自然な形で会話が始まった。


「矛盾してるんだ。矛盾してるから疲れている」


【どこが食い違っているの……?】


「弱い自分を覆い隠すように強い自分を演出していること、かな」


【――それって、悪いことなの?】


「悪いことでは――」


 ――ない。


 ただ、大人になりきれない自分が嫌いなのだ。


【昨日の約束は、ウソだったの……?】


 確かに昨日の夢の中では理想を追い求めて英雄を気取っていた。夢の中だったら、理想に酔える。理想に酔っていると、僕は演出を本気として捉えることができる。まるで英雄になったかのような万能感が得られる。


 だが、


 ――それはいつも、現実によって破壊される。


 理想と現実のギャップが障害となって、僕は子供と大人の境界線を反復横跳びしているのだ。


【理想を追うのが子供、現実を見るのが大人なの?】


 そんな僕の内省を見透かしたように、少女は告げた。


【目標を持つのが子供、目標を諦めるのが大人なの?】


 少女の発する圧が増す。それは、叱咤を帯びていた。


【『英雄』って、とんでもなく『愚か者』なんだよ】


 あの英雄も、愚かなまでに『助けること』に注力した。言うまでもなく納得できることだった。


【ね、助けに来てよ……私、寂しいよ。ここは、どこなの?】


 やはり少女は僕に助けを求めてくる。見ず知らずの場所に居て、見ず知らずの少年に助けを求める、見ず知らずの少女。三つの不知が重なり合う。


 ――つくづく、わからない空間だ。


 僕はなぜここに居て。

 彼女はなぜここに居て。

 ここはどこなのか。

 僕にもわからない。


 もっとわからないのは、少女のこと。なぜ、僕を叱咤激励するのか。救ってもらいたいことはわかった。わかったけれど、わからない。


 ここは夢の中なのか。それとも、あの青白い魔法陣に巻き込まれて神話と接続してしまったのか。そんな与太話が浮かんで、それがあながち間違っていないのではないかと無理解の納得が生じた。


【助けてよ、英雄さん。あなたにしか、世界は救えない……!!】


 耳障りのいい言葉が放たれる。僕が彼女を助けるか、見捨てて目を覚ますか。あの魔法陣がドッキリでないとしたら、僕は異世界に行くということは、すでに予想できている。


 ――異世界のどこかにいる彼女を探し出し、解放する?


 こんなにゲームとして綺麗にまとまっていることはない。


 間違いなく、王道シナリオ。

 僕が好んできた作品の好きな部分をかいつまんでまとめたみたいな、最高に好ましいスタート。


 ――僕というモラトリアム真っ只中のモブが、世界を救う?


「僕は――愚か者になったって構わないのかもしれない」


【世界を救って、真の英雄になって……!】

 

「ああ。僕が、君を助ける。世界も、できるだけ守ろう――母に誓って、僕は君の元へ辿り着いて見せよう。確証はないけど」


 誓う。


 その一語を、自分で選んで、口に乗せた。約束でも、目標でも、夢でもない。誓いだ。それが、この空間にふさわしい言葉だと、本能が選ばせた。


 少女の表情が、わずかに揺れる。安心と、恐れと、期待と、罪悪感がごちゃまぜになったような、複雑な揺らぎだった。


 その瞬間、白い世界の空気が変わる。見えない天井のどこかで、何かがカチリと噛み合った感触があった。世界が、また割れる。今度は白が黒に、黒が緑に変わる順番で、視界が忙しく入れ替わっていった。床が遠ざかり、空が近づき、重力が方向を変える。


 そして――僕は、ふたたび匂いで現実に引き戻された。


 ◇


 湿った土と、青い葉の匂い。


 ゆっくりと目を開ける。目の前には、見たこともない樹木が立ち並んでいる。


 幹は人の何倍も太く、枝は絡まり合いながら空に伸び、葉は深い緑と翡翠色のあいだを揺れていた。風が吹くたび、光の粒がこぼれるように揺れる。


 耳には、虫の羽音と、聞き慣れない鳥の鳴き声。遠くのほうで、どこかの獣が草を踏む音も聞こえる。


 土に手をついた。


 指先にまとわりつく湿気。その冷たさが、ゆっくりと腕を伝ってくる。


 夢ではない。少なくとも、今まで生きてきたどの夢よりも、ここは「現実」の手触りに近かった。


 喉がひどく渇いている。さっきまでいつになく明確な声を発したせいか、喉が痛む。


「……ここ、どこなんだ」


 かすれた問いが、森の静寂に溶けていくだけで――。


 ――返事は、ない。


 世界を助けてと泣いていた白い少女も、教室で僕の手を握り返したマイカとケイタも、この視界にはいなかった。いるのは、ただ、ひどく大きな木々と、重い緑の空気だけ。


 僕は知らない世界の真ん中で、ひとり、息を吐いた。


「異世界転移か――」


 夢を見ているわけではないことは痛む喉が示した。半ば夢だと処理した上でした誓いを、真っ先に手のひら返ししたくなる。母は――大丈夫なんだろうか。


 重荷が外れて楽になった、なんて思わないでほしい。


「はぁ……どうしよう、これから」


 まだ、現実だと信じたくなかった。吐息が風に流れる。

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