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第四話「境界の融解」

 昼休みの終わり頃、教室の前の扉がコトリと開いた。ざわざわしていた空気が、一瞬だけ細くなる。


「木下。ちょっと来なさい」


 担任の声だった。


 四十代半ば、眼鏡の奥の目が常に眠そうな男――そう見えて、生活態度については妙に厳しい、うちのクラスの担任だ。


 名前を呼ばれた瞬間、胃の底が冷たくなった。何の用件か、薄々察せられるくらいには、僕は自分の立場を自覚している。教室の視線が、一斉にこちらへ向いた。


「……行ってくる」


「何もやましいことしてなければ大丈夫だろ? へーき、へーき!」


 ケイタの言葉に、内心「やましいことしかないんだよな」と返しつつ、僕は椅子から立ち上がった。扉の前まで行くと、担任が廊下を顎で示す。二人で教室を出る。扉が閉まる音が背中に落ちて、教室の喧噪が途切れた。


「お前、バイトしてるだろう」


 開口一番、それだった。


 予想通りの言葉に、心臓が跳ねる。


「……してません」


「駅前の居酒屋で、夜遅くまで若い少年が皿を運んでると聞けばな。教師というのはそういう話をすぐ耳にする」


 誰かに見られていたらしい。


 学則でアルバイトは禁止。家庭の事情で許可が出る場合もあるが、僕は申請していない。申請したところで、母のことまで表に出す勇気がなかった。


「事情があるのは、分からないでもない。だがな」


 担任は腕を組み、低い声で言う。


「ルールはルールだ。勝手な真似をする前に相談しろと言っている。どうして黙ってやる」


 どうしてと言われても、答えは黙り込むしかない。


 母に迷惑をかけたくなかったから。

 それに、教師に同情を向けられたくなかった。


 ――とは、言えない。


 こちらが言わない限り、誰も知らない。

 知らないままの方が、気楽に扱ってくれる。

 哀れみや同情で見られるのが、何よりも怖かった。


「……すみません」


 出てきたのは、それだけだった。言い訳を並べることもできた。しかし、それをしたところで、今度は嘘が積み上がる。


 見かねた僕に、担任は深いため息をつく。


「親御さんとは、きちんと話しているのか」


「……はい」


 本当は「できていない」が正しい。病室のベッドで、アルバイトの話をまともに切り出せなかった。母の「来なくていいよ」という言葉に、僕の後ろめたさが全部、飲み込まれてしまったからだ。


「木下。お前は真面目なほうだと思っていたがな」


 皮肉ではなく、本気でそう思っているような口調だった。胸のどこかで、「そういうふうに見られていたい自分」が小さく笑う。そして同時に、そんな自分を嫌悪する。


 嘘に嘘を積み重ねて八方塞がりになるとは、このことなのだろう。隠して、黙って、吃って、演出して、気取って、まるで道化師みたいだ――。


 ――そのときだった。


「ん……?」


 廊下の空気が、ほんの少しだけ変わった。風が吹いたわけでもない。気温が下がったわけでもない。ただ、耳の奥で、何かが低く鳴り始めた。


 地鳴りではない。体育館の床がきしむ音でもない。もっと、ずっと深いところで鳴っている、低いうねり。


「今の、何の音だろうか」


 担任も気づいたらしく、眉をひそめて教室の方を振り返る。


 次の瞬間、ガラス越しに見える教室の床に――光る線が走った。白と青の中間のような、不自然な色。線はすぐに増殖し、机の脚や椅子の足を縫うようにして広がっていく。幾何学的な模様が、床一面に描かれていくのが分かった。


「な、なんだあれは……」


 担任が呟く。


 教室の中でも、生徒たちがざわつき始めていた。誰かが立ち上がり、誰かが机を後ろに引きずる音がする。


 光の線は床だけに留まらず、壁や天井にも浮かび上がった。板張りの教室そのものが、巨大な魔法陣の中心になっているように見える。


 目が離せなかった。


 怖いとか危ないとか考えるより前に、「これは現実なのか」と問い直すほうが先だった。答えが出る前に、光が爆ぜる。


 耳をつんざくような音がして、視界が白く塗りつぶされた。廊下と教室が光柱によって分断される。異常のないこちらと、光に包まれた向こう。


「――っ!」


 僕が光の奥に進むと、世界はぐにゃりと歪んだ。床が液体になったような感覚が足首から這い上がり、膝、腰、胸へと達していく。自分の身体が、溶けていく。


 わけが分からない。恐怖も、怒りも、何もかもが混ざって、言葉にならない。白い光の中で、教室の輪郭だけが、かろうじて見えた。机が傾き、椅子が倒れ、生徒たちが悲鳴を上げている。誰かが床を掴もうとして、指がすり抜けていく。


 その中に。白く濁った世界の先に、マイカの顔があった。


 大きく見開かれた瞳。こちらを探すように動く視線。その隣に、ケイタの姿も見えた。いつもの皮肉っぽい表情は完全に消え、奥歯を噛み締めて何かに耐えている。


 思考より先に、身体が動いた。


 溶けかけた手を伸ばす。僕の手で、引き戻す。視界の端で、自分の指先が光に溶けていくのが見えた。僕も、力の奔流に飲み込まれる。


「ハルセくん!」


「ハルセ!」


 二人の声が、かすかに耳に届いた。ただ、それだけだ。それに加えて指が、何かを掴んだ感触もあった。


 彼女の手。

 彼の手。


 ぬるりとした光の中で、その二つの温度だけが、現実に踏みとどまっていた。


 自分でもよく分からないうちに、そうしていた。誰かに教えられたわけでもない。ただ、離したくないと思ったから。


 僕が握り込んだ瞬間、足元から上ってきた光は、完全に僕たちを飲み込んだ。世界が、白から、再び黒へと裏返る。

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