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第三話「慈悲の棘」

 目覚ましが鳴り終わったあと、僕はしばらく布団の中で固まっていた。昨日の夜、世界が黒に塗りつぶされる感覚のあと、『幸せな夢』と『不思議な夢』を見た……気がする。けれど、内容はどれもが曖昧で輪郭をうまく捉えることができなかった。


「なんだったけ……」


 幸せの成分があるとするならば、僕はそれを著しく欠乏していた。だから僕も、餌を待ち水面に上がる魚のように、記憶の残影が顔をちらかせてくるのを待ってみることにした。


 すると、失われた光景が浮かんだ。瞼の裏でその光景を再生してみることにした。



 『ハルセ、父さんとママで旅に行こうか』

 『あらいいじゃない! ハルセはどこにいきたい……?』

 『僕は……森! キャンプしたい!!』


 男と女、そして子供が幸せそうに旅の予定を立てているシーン。


「嫌な夢だ……」


 その幕を一度振り払ってから、僕は起き上がった。その頃には、『不思議な夢』のことは完全に忘れ去っていた。


 いつも通りに顔を洗い、できるだけ少ない米を炊き、簡単な弁当を詰める。冷凍のコロッケを揚げ直したもの、昨夜の残りのきんぴら。そして、マイカが好きな卵焼きだけはやけに凝って作って――彩りは悪いが、腹は満たせる弁当が完成。


 実際には、これでも少ない。


 高校生男子としては物足りない量だと分かっている。けれど、米の残り具合と冷蔵庫の中身、母の病院代と光熱費を計算すると、もうひと回り増やす勇気は出なかった。


 蓋を閉め、輪ゴムでとめる。


 小さめの弁当箱が、今日も鞄の中でカタリと鳴った。()()の高校生は親に作ってもらっているのに、()()な僕はこうして努力しなくてはならないことに悔しく思った。


 キリのない怒りは自転車のペダルにぶつけた。

 

 登校中の道は、いつも通りだ。駅までの坂道を上り、雑居ビルを横目に商店街を抜ける。どこからともなく揚げ物の匂いがして、胃が正直に鳴った。


 ぐー。


 可愛げのない雷鳴が僕の腹を穿つ。音を起点に己の状態を理解してしまう。僕は、お腹が空いていて。最近はずっと少食生活を続けていたから、体はピークを迎えていて。そんなことを。


 信号待ちの間、無意識に空を見上げていた。


「霞を食って生きることができれば、どんなにいいことだろうか」


 雲は薄く伸びていて、天気はいい。

 ただ、それだけの空だ。


 それなのに、胸の奥には、きのうの黒が一枚、まだ貼りついている。


 いやな予感、というほど強いものではない。

 ただ、何かが終わりかけている気配だけが、淡く尾を引いていた。


 ◇


 ぐー。


「クスクス」「ハルセのやつ、腹なってやんのww」


 度々鳴る僕の腹はクラスの笑い物になっていた。そのことに気恥ずかしさを思いながらも、同情を求めている節があった。


 初等部から高等部までおおよそ十二年間、同じ学園に通っている僕ら。毎年のクラス替えで離れ離れになることは多かったけれど、教師の采配で高等部三年のクラスは初等部一年の面々と同じとなっていた。


 原点に戻ったからこその安心感があった。揶揄われていても、愛のあるイジリであることは暗黙の了解だった。


 お互いに気心が知れているという関係性だからこそ、僕は何度か『乞食』したいという欲求に駆られることがあった。


 けれど僕はそこまで落ちぶれたくはなかった。


 だから、耐えて、耐え忍ぶ。


「で、あるからして〜」


 午前中の授業が、教科書の活字を読み上げるのと同じ速度で過ぎていく。


 先生の声、黒板をこするチョークの音、隣の席でケイタがこっそりノートに描いている落書き。それらを、どこか半分外側から眺めながら、僕は板書を書き写していた。


 腹の虫が再び鳴いたのは、三時間目の終わりくらいだ。


 消しゴムを取ろうと身じろぎした拍子に、ぐう、と盛大な音が鳴る。教卓寄りの席の何人かが振り返り、笑いをこらえているのが視界の端に映った。


 チャイムが鳴り、昼休みが宣言された。


 机をくっつける音や、コンビニ袋のカサカサする音が、一斉に教室に溢れ出す。


 鞄から弁当箱を取り出そうとしたとき――僕の机の前に、影が落ちた。


「ハルセくん、今日もお弁当だよね……?」


 顔を上げると、潮舞渦がそこにいた。


 胸の前で自分の弁当袋を抱え、少しだけ首をかしげている。

 昨日と同じ、控えめな笑顔。


「ああ。まあ、いつも通りのやつ」


「……そっか。ね、今日さ、()()()()やってみたいことがあって」


 マイカはそう言いながら、自分の席から机をずるずると移動させてくる。僕の机とぴたりと合わせ、当然みたいな顔で椅子に座った。


 弁当箱を取り出した瞬間、違和感に気づく。彼女の弁当箱は、いつもよりひと回り大きかった。


「なんか、今日は豪華だね」


「うん、ちょっと作りすぎちゃって」


 彼女は照れ笑いを浮かべながら、蓋をぱかっと開ける。

 中身は、いつもの彩りのいいおかずに加えて、明らかに多めの唐揚げ、野菜の肉巻き、煮物までぎゅうぎゅうに詰まっていた。


「作りすぎってレベルじゃないよね?!」


「自分でもちょっと思った。だから――」


 マイカは僕の小さな弁当箱にちらりと視線を落とす。


「――お弁当交換、しない?」


 唐突に聞こえたが、その声はよく準備されていた感じがした。


「交換?」


「そう。私のこっちのおかずと、ハルセくんの卵焼き、交換。あと、ちょっとだけご飯も入れさせて」


「自分の分、足りなくならないか?」


「大丈夫。今日、ちょっと多めに詰めてきたから」


 最初からそのつもりで作ってきた量だと、すぐに分かった。何故ならマイカはもうひとつ、いつも使っている水色のかわいらしい箱を開けて、朝食を開始したから。


 流石に察しの悪い僕でもわかる。


 昨日、授業中に腹を鳴らした僕のことを、彼女は見ていた。今日、大きめの弁当箱で来たのも、きっと偶然じゃない。でも、僕がそれを指摘したら、この距離感の優しさを台無しにしそうで、何も言えなかった。


「……じゃあ、お言葉に甘えて」


「うん」


 マイカは嬉しそうに頷き、自分の弁当箱から唐揚げをいくつか取り出す。僕の弁当に、やりすぎにならない絶妙な量を乗せていく。


「はい、交換」


「あ、ありがとう……! じゃあ、こっち卵焼き」


「やった。ハルセくんの卵焼き、ほんと好きなんだよね〜」


 彼女は本当に、喜んでくれているように見えた。僕のほうも、唐揚げの重さと白米の増量が、胃のほうまでじんわり伝わってくる感じがして、自然と顔が緩んだ。


「……お前ら、ついに弁当まで共有し始めたの?」


 タイミングを見計らったみたいに揶揄った声が降ってくる。振り向くと、いつものようにトレーを片手に、パンと牛乳とカップスープを抱えたケイタが立っていた。


「共有じゃないもーん、ただの交換だよ?」


「ただの交換……ねえ?」


 ケイタはわざとらしく肩をすくめ、笑いながら自分の机をこちらにくっつけた。


「ほら、俺のもやる。今日、パン多めに買ってきた」


「え……! いいのか……!?」


「露骨に喜ぶな、食いしん坊。どうせ俺ひとりじゃ食いきんねーし、昨日、今日の腹の鳴りっぷり聞いたら、買わざるを得ないだろ」


「聞いてたのか」


「そりゃ聞こえるって。あれはサイレンレベルの音だった」


 からかいの言葉とは裏腹に、トレーからはみ出したコロッケパンや焼きそばパンが、確かに「二人じゃ多い」量で並んでいる。


「じゃあ、遠慮なく……」


「おう。どうせ俺も潮から野菜もらうし」


「相澤くんは、野菜不足だからね」


「実家の母親かよ」


 三人で笑う。


 唐揚げの油と、パンのソースの味と、自分の卵焼きの甘さが、同じ机の上で混ざり合う。それだけのことが、今日はやけに贅沢なものに思えた。


 昨日の怒りと黒い幕は、しばらくのあいだ、胃袋のほうへ押し戻されていった。

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