第二話「世界/ワタシ」
黒の中に、声があった。
【……助けて】
吐き出された声に、血の味が混じっている。そんな感覚だけが、鮮明に伝わってくる。
黒がひび割れ、白が覗く。
僕は、距離感の掴めない空間に立っていた。
真っ白な世界。上下の分からない空間。足元に何かを踏んでいる感触だけが、かろうじてある。それは透明な板だった。
透明?
いや、わからない。
色も、空間も、認識も、境界も、現実も虚構も一切が無理解となる空間。まるで眠っているのに意識だけ覚醒した時に見る夢のような、空間だった。
「あ……」
手を伸ばそうとすると、これまた範疇を超えた空間の『断絶』によって動きが阻止される。
壁、壁、壁、壁、壁、壁。
六方が、仮称『透明な板』によって封じられている。
「あれ、あの子は……?」
――壁の奥。
中心で、少女が膝をついていた。
髪は雪のように白く、肌は透けるほど薄い。唇の端から赤いものが溢れ、白いワンピースの裾を染めていた。
血だと理解するのに、一拍かかった。
さらに、『虜囚』だと解釈するのに、もう一拍かかった。
少女は胸元を押さえ、震えている。その顔には涙が伝い、頬と顎を濡らしていた。そして足元には足枷と鉄球が取り付けられており、綺麗な脚はその部分だけ擦り傷を露わにさせていた。
――痛々しい。
「誰がこんなことを……って、夢で怒ってもしょうがないか」
僕の夢の中なんだから、僕が念じれば事象を捻じ曲げることができるはず――
切り替えようとした時、少女がこちらを明確に見つめてくる。その目は間違いなく僕を捉えている。
そして、その黄金の双眸は泣きそうなくらい震えていた。
「え……っと」
『悲しい』という感情を瞳に籠めている彼女の眼光に、僕も面食らって同じくらい悲しくなった。
少女が痛めつけられていて、泣いていて、その様を見て同情しない人なんていない。
子猫を救う自分に酔っている『主人公』志望の『負け犬』でさえ、駆け出して助けたいと思ってしまった。
いや、だからこそ助けたいと思うのだろう。
それくらいに彼女は悲壮感を漂わせていた。悲しさに後押しされた僕は、思うがままに言葉を紡いだ。
「だ、大丈夫だよ。僕がここにいる」
【あなたは……?】
綺麗な声だ。
率直な感想を隠しながら、僕は返事を送る。
「僕は木下陽瀬。何の取り柄もないけど、君は一人じゃないよ。僕が、ここにいる」
臭い台詞を言っている自覚はある。
でも、英雄を演出してきた人生だからこそ臆せず言えた。
母親をほったらかして文字の中の英雄や、画面の奥の勇者を摂取してきた僕だから言えた。
自己嫌悪がどんどん膨らむのを我慢しながら、三の言葉を紡ごうとした時――
――少女が大きく泣いた。
【――お願い……世界を……助けて!!】
声が割れている。肺の奥から無理やり絞り出すたびに、喉に血が絡んでいるのが分かった。世界を――という単語だけが、やけに鮮明に耳に残る。
――世界を助けて。
その言葉に、ケイタとやったゲームを思い出す。
平和な街の船乗りの少年が、実は勇者の血を引いていて――。
攫われた姫を助けるために、弱い船乗りは絶え間のない研鑽を積み、個性豊かな仲間と海を超えた旅をして――。
ありきたりな設定だけれど、船乗りは魔王を撃ち倒し勇者となる――王道ストーリーだった。
僕が一番好きな設定は、主人公が”助けて”という声を聞けば、プレイヤーの操作を超え、勝手にイベントに踏み込んでいくことで物語が進行していく、というもの。
その強引なシナリオが好きだった。
例えば仲間が喧嘩をすれば身を挺して仲裁して、村で事件が起こればすぐさま駆けつけて解決していき、少女が盗賊に攫われれば、単身で盗賊団を破壊しにいく、あの主人公が好きだった――!
思い返せば船乗りの少年に憧れて『英雄』になりたいなんて嘯いていたのかもしれない。
――夢の中でくらい、かっこつけたい。
「そうじゃん、これ夢なんだ」
だから僕は言った。
「助けるよ」
ただそう言っただけ。それだけで、白い世界は崩れていった。




