第一話「負け犬の遠吠え」
高校から去った後、僕は母と二人で暮らしていたアパートの一室に帰り着いていた。
「ただいまー」
そういったところで帰ってくるのは木でできた壁面が返す空虚な残響だけ。なんら暖かみのない一室に、物寂しさを抱いてしまう。
こういう時、僕は玄関先に飾ってある家族写真を眺めて落ち着かせることにしていた。水族館で撮った、父と母と僕の三人が映った写真。
視野に入った瞬間、過去が想起される。
巨大なサメを見た。
穏やかな海亀を見た。
美しい構造のアクアリウムを見た。
右手には母がいて、左手には父がいた。
父への不満は存在するけれど、こうして過去を振り返ってみると悪い人ではなかったと錯覚できた。……実際は夜逃げをしたのだけれど。
「母さん……早く治るといいんだけど」
現在の母の容態はぼちぼちだと、医者からメールが来ていた。というのも、骨折は殆ど完治に近い状態になったのだけれど、軽度の栄養失調状態を引き起こしており、リハビリがうまく進まない状態らしい。
「僕がもっと家のことを考えていれば……」
思い返せば母が僕に手料理を振る舞う横で、カップ麺で軽く済ませて夜勤の仕事に勤しんでいた。
「よくあれで働けたよな……」
アルバイトを始めてから初めてわかるようになった大変さというものが、最近になってようやくわかってきた。働きながら家事をするまではいい。今の僕ではそれだけで手一杯だけれど、母さんはそれに追加で僕を育ててくれていた。
家事、育児、仕事。
「いつ壊れてもおかしくなかったんだ」
母の稼ぎに甘えてゲームに取り組んだり、読書に耽ったりする時間は、明らかに『重荷』になっていた。
帰宅後、すぐに横になって弁当箱を返却しなかった自分。
弁当の見栄えを求めて理不尽にキレたことも、ある。
読書は大切という甘言に載って、読書に耽ったこともある。
気がつけば家計は火の車で。間違いなく、僕は重荷だった。
母の残した貯金を切り崩せば、少なくとも母が復帰するまでは不自由せずに暮らせる。
――でも、それじゃだめだ。
この貯金は老後のためのもの。切り崩してはならない。働ける僕が、しっかり働いて、それで自立していったら何事も解決する。
だから、働いて、働いて、働いて――。
その次は勉強して、勉強して、学んで、覚えて、理解して――。
並行して切って、焼いて、炒めて、片付けて、畳んで、しまって――。
「ああ、僕は、僕は自分のことしか見ていなかった。母の苦労も知らずに呑気に生きていて――!!」
『ああ――僕は――母の苦労も知らずに――生きていて――!!』
反響する声を聞いて、僕は冷静さを取り戻した。
「哀れなもんだ。どこが『主人公』だよ」
どちらかというと『負け犬』でしかない。
だからこそ――
「――とりあえず、やることをやらないと」
それが『負け犬』が唯一、できることだから。
すぐに簡単な夕飯を作り、茶碗を洗い、明日の弁当の下ごしらえを済ませる。単調な作業だが、手を動かしている間だけ、余計なことを考えずに済んだ。
◇
その後、風呂から上がり、布団に潜り込む。
「もう、夜か。勉強する時間、ないな……」
一日はあっという間に終了して、また明日も変わり映えのない日常が続く。部屋の天井は暗い。そこに母のメッセージの文章が、焼き付いているように見えた。
「母さんが僕に賭けた分以上に、僕は母さんにリターンしないといけない」
来なくていい。自分の生活を大事にして。アルバイトも無理しないで。私に人生を賭けないで、と。母はきっと、本心からそう思っている。僕が負担に感じないように、言葉を選んで送ってきている。
その優しさに、何度救われたか分からない。同じだけ、何度も深く沈んだ。英雄になるんだ、と昔の自分は言った。
今の自分はどう答えられる。
「馬鹿だ、としか言いようがないな」
だって――
「もう、寝よう」
――僕はいつも自分本位だから。
不貞寝を決め込んでから、まぶたはだんだん重くなっていく。意識の輪郭が、静かに崩れていく。そして世界が、黒に塗り替えられた。
その先には――




