序章「物語の主人公」
放課後のチャイムが鳴り終わった頃、教室の空気はいつもと違う雰囲気を醸し出していた。
うるさい、というのとは少し違う。
クラス屈指の暴れん坊が机を蹴り、取り巻きである下っ端が下卑た笑い声を上げ、優等生はノートを抱えて移動し、ゴシップ魔は相変わらず誰かの熱愛報道に目を光らせている。
見慣れた風景だ。なのに最近は、その全部が一枚膜の向こう側で動いているように感じられた。
「よいしょ」
僕は自分の机の中から鞄を引き抜き、ファスナーを閉める。
その瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。
画面をつける。通知は一件だけ。差出人は母。
『今日も来なくていいよ。陽瀬の生活が一番だからね』
短い文面。
何度も見てきた類いの気遣いだ。
読み終えたあと、胸の中に小さな石がひとつ落ちる。優しい言葉のはずなのに、沈殿していく感覚だけが強かった。
来なくていい――ということは、来られない事情を、母はもう分かっている。入院費、生活費、学費。消えた父のぶんまで、全部を背負って倒れた人だ。
僕が学則を破ってアルバイトをしていることも、察しているのだろう。
「はぁ……」
思わず、ため息を吐く。
お母さんを救う英雄になる、と笑顔で言い張っていた頃の自分が、遠くでこちらを見ている。
あのときの僕は、本気でそう思っていた。母の前で胸を張って、守ると宣言した。それを母は、少し呆れたように、でも嬉しそうに聞いていた。
――今の僕はどうだ。
病室にもろくに顔を出せず。
居酒屋でのアルバイトだって、要領の悪さが露呈して何枚も皿を割ることになった。店長には客の前で怒鳴られて……。
英雄どころか、ただの「守られている側」のまま止まっているのだ。
そこまで考えて、ふっと別の顔が浮かぶ。
――父だ。
少し疲れた笑い皺。安い酒の匂い。それがある日を境に、まるごと家から消えた。
理由は、はっきりとは聞かされていない。不倫だったのか、借金だったのか、ただ逃げたのか。どれでも同じだと、今は思う。
帰ってこないという事実を理由に、母はこれまで以上に働いた。
働いて、働いて、働き尽くす。
その結果、職場で骨を折った。
これまでの過労が回復を長引かせ、長い間病室で過ごしていた母は同室の老人に疫病ををうつされ――ついこの間まで死の淵を彷徨っていた。
今は回復に向かっているけれど、根本はあの男がいなくなってからのことだ。
父のせいで、母と僕の人生は盛大に狂っていた。
怒りは、時間と一緒に薄れるどころか、形を変えて濃くなっていく。母のメッセージを読むたび、その怒りが上塗りされていく気さえした。
「……ハルセくん、帰らないの?」
ふいに声をかけられて顔を上げると、図書委員の相方である潮舞渦が鞄を抱えたまま首をかしげていた。柔らかい目。いつも通り少し控えめな笑顔。教室の中で、数少ない「素で話せる」相手だ。
「ああ、ちょっと。今、母さんから連絡きたんだ」
「そっか……」
マイカの視線が、僕のスマホの画面をちらりと掠める。事情を知っている舞渦はすぐに深くは踏み込まず、ほんの一拍置いてから、話題を変える。
「ねぇ、明日もお弁当作る?」
「作るよ。弁当買うお金ないし……」
「じゃあ、明日も一口ちょうだい? 昨日の卵焼き、ほんと美味しかったから! その代わりに私のおかずもあげるね」
「そんな大したもんじゃないけど……? まあ、せっかくだし、頑張って作ってみるよ」
「やった!」
潮は、小さくガッツポーズをする。本当に嬉しそうに見えるから、不思議だ。ただの節約飯を、ちゃんと「好き」と言ってくれる。
その一言が、最近の重たい空気を少しだけ呼吸しやすくしてくれていた。
「おーい、ハルセ。潮に惚れられてんぞ」
軽口混じりの声が飛んでくる。相澤圭太が教室の入り口からこちらへ歩いてきて、当然みたいな顔で僕の机に肘を置いた。
「ほ、惚れてないよ。ハルセくんのあまじょっぱい玉子焼きが好きなだけです〜」
「その言い方が完全にフラグなんだよなあ。なあ『主人公』、潮の胃袋は掴んでいるみたいだ。今後、どう攻略していく??」
「主人公ってなんだよ……。それに攻略って……失礼だろ」
「『主人公』ってのは、ハルセのことだな。他に説明のしようがない」
ケイタは昔からずっと一緒に居た。それこそ初等部からの仲で、一緒にゲームで遊んで交友を深めていった。高等部、それも三年の春の今は、僕もケイタも進学に備えるために忙しくてゲームはできないけれど、たまにゲームに通づるようなネタをふっかけてくる。
「あのなぁ……お前も似たようなもんだろ」
「俺が? 主人公? ないない!」
彼は要領がよくて、頭も切れるが、口は悪い。だけど、面倒なときには必ず手を貸す。本人に言えば絶対に否定されるだろうけれど、少なくとも僕にとっては「頼れる側の人間」だ。
そんなことを口に出せるわけもないから、僕は『言い淀む』に留めておいた。
「ハルセってさ、自分で自分のことどう思ってんだよ」
「どうって……普通だろ。どこにでもいる、高校生」
「ほら出た。自己評価が教科書通りの平凡高校生」
相澤は「そんなことねーのにな」と鼻で笑い、隣の席から椅子を勝手に引いて座る。
「いいかマイカ。こいつはマジで平凡なんだ。目立たないし、成績も中の上くらいだし、運動もまあ普通。だけど――」
「だけど?」
「こうやって弁当作ったり、ちゃんと家のことやったりして、家族思いのアツい男だ。しかも、つい最近なんか、段ボール箱に詰められた子猫に傘を差してたんだぜ?
誰にもわざわざ言わないで、そういうのをさらりとしちゃうわけ」
「確かに『主人公』みたい。困っている人を見逃さないのって、英雄みたいだね!」
マイカの目が、少しだけ細められた。僕は何も言えずに、鞄の持ち手を握り直す。
物語の主人公になりたいと言っていた頃の自分は、ただ敵を倒して、世界を救って、家族や最愛を笑顔にして、それで終わり。そんな単純な図しか描いていなかった。
現実はもっと地味で、もっと長い。病院と家と学校をループし続けるだけの日々のほうが、よほど消耗する。
虚勢を張って捨て猫を助けたとはいえ、それは僕の見栄を消化するために敢えてやっただけ。子猫に優しい自分に酔うためにやっているのだから、僕は英雄になんか、物語の主人公なんかには不適切に違いない。
――それでも。
心のどこかで、まだ思っている。
いつか、本当に誰かを救える場所に立てるのなら。
母に「”英雄”だね」と笑ってもらえる瞬間が来るのなら。その時だけは、子どもの頃の自分を笑わずに済むのだろう。
「ところでさ、ハルセくんって夢とか、あるの?」
マイカが、何気ないふりをして言った。
ここでの「夢」は、進路とか、将来の職業とか、そういう意味だと分かっている。けれど、頭に浮かぶのはどうしても、別の言葉だ。
――英雄。
物語の主人公。誰かにとっての「助けてくれる人」。その言葉を口に出した瞬間、全部が茶化しに変わってしまう気がした。
「たいしたものじゃないよ。このまま大学進学して、そこそこの企業に入って、って感じ」
結局、僕はいつもの答えを選ぶ。
「たいしたもんだろ。王道ルートを卑下するとか、『理想』が高すぎるんじゃねえの?」
相澤のツッコミが飛ぶ。
「でも、ハルセくんってさ。いつも濁しているけどなんかちゃんと持ってる気がするよねー」
マイカの言葉は、淡い肯定のように響いた。僕は曖昧に笑ってごまかし、その場の会話は、やがて他愛ない話に流れていく。
そのまま時間がゆっくりと進み、夕焼けが校舎の窓を赤く染める頃、全員がそれぞれの帰り道に散っていった。
暴れん坊は下っ端を連れて駅方面へ。優等生は塾の教科書を抱えて足早に。ゴシップ魔は誰かの失恋ネタを手に入れたらしく、別の女子を捕まえて盛り上がっていた。
みんな自分の物語を持っている。その列に自分も紛れているはずなのに、どこかで「エキストラ側」にいるような気分が抜けなかった。




